高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

札幌オリンピック誘致に思う

2022-03-03 16:47:20 | 主義・主張

2030年?開催の冬季オリンピックを札幌へ誘致しようとの動きが加速して、市民道民にそれについて大規模なアンケート調査を札幌市がするそうだ。 そもそも前市長の上田さんが中心的な言いだしっぺだと記憶しています。

物事を考えることは、老化防止にもなるなとも(よけいな魂胆もあり・・)、今の感想をしたためておくかいな・・・と。

前の札幌オリンピックはもう50年前のことだったらしい。私は高校生で千葉県に住んでTV観戦をした記憶がありますが、ジャネットリンくらいしか鮮明な記憶は残っていないなあ・・・。 そして、札幌に大学で移住したのはオリンピックが終わった昭和49年で、なので、札幌の街はには、大通地下街も地下鉄も開通し、その前の札幌は知りません。 地下鉄の自動改札口に驚いたなあ、 (大学入試の当日に地下鉄12条駅の自動改札でなぜか、扉がしまって、暗雲気分を味わった・・・)。 当時を知る札幌市民に今インタビューすると、テーマ曲だったトワエモアの楽曲の歌詞にあるように ♫街がかわるぅ~~♫と感じ、本当にインフラが変わっていったそうだ。  確かに高校時代に住んでいた船橋市に比べても洗練された大都市感が札幌にはあると、二十歳前のアタシもワクワクと感じたものだった。 札幌はオリンピックを契機に大きく変貌をしたのであった。ということにおいては、当時のオリンピックは町づくりの観点からも大成功であったと思えるな。

しかし、今の時代において、冬季オリンピックの開催意義はなんだろう・・・??

札幌市は開催経費の大幅な圧縮も計画しているらしいが、それにしても多大な税金が投入されることは間違いがない。オリンピックそのものの商業化も批判されるような時代でもある。 たんなるスポーツ観戦好きのアタシにおいては、ないよりあった方が楽しみがあるというような、消極的な賛成側であるかな・・・。

では・・、どうしたらBetterになるのでしょうかね・・。

札幌という都市の冬の開催なのだから、市民にも歓迎されるように除排雪の機能・システムの改善。

札幌集中の競技開催ではなくて、地方でも開催することによる地域の活性化への寄与。

海外からの来訪者との交流事業づくり

北海道新聞の関連デジタル記事はこちら ⇒

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/650793?bdad=MTQ5NTlfNA--&bdactcd=MTQ5NTlfMzI2ODI5MTkz

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冬期オリンピック

2022-02-06 13:14:11 | 主義・主張

北京冬期オリンピックがはじまりました。コロナ禍で北京は厳重な感染対策がしかれているそうだが、春節の帰省大移動は始まっていて何億人も移動する事態も・・なんでもありぃだなあ・・・。 スノーボードの競技はスピードと体操曲芸な大ジャンプと回転技に、解説者がさまざまなカタカナ言葉を使っているが、ほぼ全部わからない。 実況するアナウンサーは元々はその競技の素人なんだろが、早口で技を言い続けるのもすごいもんだと感心しております。

次の次?? 札幌は冬期オリンピック開催誘致へエントリーする気があるようだ。 膨大な開催費用を結果国民が負担することには納得がつくれないけれど、競技を見ていると地元開催もまた良いなぁとも思ってしまう・・・。

高田渡さんが気になってCDを手に入れた。高田さんは私より兄貴世代にファンが多いのだと思う。 その世代の社会の葛藤と個人に落としてのとぼけたような楽曲がなんだか心地良い。 ウィスキー片手に静かに聞いてみたい・・・、が、CDを持っていなかったので、車の中で聞いています。

卓上の小さな機械を買うかなあ・・・。 ゲストハウスにでも設置するか・・・。

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コロナウィルスと人類

2022-01-25 15:18:06 | 主義・主張

知り合いにも陽性者がでて、ニュース内のことではなく、身近にコロナウィルスが迫ってきているように感じています。 一昨年でしたっけ(いつの頃からコロナの猛威がやってきたのか記憶も曖昧だ・・)、中国で広がりだした頃に、日中市民ネットワークのFancyに頼まれて、中国の自然学校の子ども達にメッセージ動画を送りました。(日本語で話して翻訳キャプションをつけてくれました) その原稿を抜粋改編投稿を・・・

****

 中国のみなさん、こんにちは。日本北海道の黒松内ぶなの森自然学校のJettです。 今、新型コロナウィルスの感染でたいへんな不安の中にあると思います。みんなは元気にしているかな。 日本でも感染者が増えつつあり、今や全世界の人類に対する危機にもなって来ています。あんなにも小さなウィルスが人類にこんなにも影響を与えるなんて、凄いことだなあ、不思議だなあと思います。 ウィルスは細菌のような生物ではないという科学的な考え方があって、生物と無生物の間にある存在らしいです。 であっても、我らヒトという生物にも多大な影響を与えている存在なのね。

 私はどんな存在であっても地球上にあるものは、お互いに良きにも悪きにもつながりあっていると考えているので、彼ら(ウィルス)も地球の一員だと思っています。であると、彼らにも何か「存在」の意味・役割があると思うのですが・・、それは何だろうと考えていました。

 でね・・・、 私は、彼ら(新型コロナウィルス)は、人類に今、「生きる、いのち、って何だろう?」と考える機会を与えているんだと思うんだ。さらには、人類はその生き方・暮らし方を変えなさいと警告をしていると思うのです。

ところで・・・、あなたはいくつ命を持っていると思うかな? ひとつ? もっとたくさん?

カラダの中には何億何兆という数の細菌や白血球やらが居ます。それらは自分の体内にいるのですが、ワタシの意思とは関係がなくひとつひとつがうごめいて存在をしています。それもひとつひとつが命とすると自分の命は無限大にあることになります。しかし、それらはお互いに存在(そこにいること)には理由があってお互いに関係し合っています。体内の臓器(内蔵)について考えてみます。そのひとつである肝臓は肝臓だけでは存在の意味がありません。カラダの中のいろいろな他の器官と繋がってはじめて、肝臓が肝臓としての存在が意味を持ちます。それを取り出して、他のヒトに移植すると、肝臓を提供した人は死んでしまいますが、肝臓をもらった人の命は助かることがあります。 肝臓は他の異なる臓器とつながっていないと肝臓の働きをしません。

 だからね、命って、ひとつふたつと数えられるものではないんだね。 何かと何か、違うもの同士が「つながり合う」性質、仕組み(システム)なんだと思うんだね。そう考えてゆくと、自然・地球そのものも命であって、宇宙全体も命だという考え方になってきます。

 だとすると・・、何かが何かに対して、一方的に悪さをするのであれば、結果的に両方ともダメになってしまう・・。つながりがあるから、次々とみんなダメになっちゃうからね。 命というシステムは自らを破壊することはない・・。だからさ、コロナウィルスにも何か役割がきっとあるのだと思うんだなあ。

それが、人間がその暮らし方・生き方を見直して、変えなさいということだと警告しているのだと思う。 三密を避けるなんてことは、単なる直接対処であって、根本は我らの生き方・暮らし方を変えないことにはウィルスは攻撃をやめないね、きっと。  生命の地球史では、ウィルスは太古から存在していて、生物の進化に大きな影響を与えてきたという学説もある。 まさしく、コロナは人類の生態変化!進化を促していると私は思う。

今は、たいへんな時だけど、まずは、自分の命を元気にしてあげること、そして自分の回りの家族や知り合いを大事に思いやるしかないんだとおもうよ。 人間の知恵と科学と思いやりをもって、さらには人間が生き方・暮らし方を変えることに思い至れば・・、きっとコロナウィルスの猛威は静まるよ。

今は自由にみんなと遊びぶことはできないだろうけれど、まずは、よく栄養をとって、寝て、家の中でも楽しいことを考えて、自分で自分を遊ばせて、自分を楽しませる、そして、周りの人たちにも思いやりをもってハッピーにして欲しいな(自分を元気にする⇒これを免疫力を高めるという)。

がんばってください。

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陽光

2022-01-18 11:43:34 | 主義・主張

昨日のブログ投稿写真と同じような写真ですが、最大に違うことは「ひさしぶりに、青空を仰いで陽光を浴びれたこと」です。 この時期は、雪が降ろうが振るまいが、曇天が多いので、陽光を浴びると、とても嬉しいものです。

オミクロン・コロナウィルスは急速に感染を広げています。昨日は、山村留学をしていた人や親戚の中にも陽性者が出て(幸いごく軽症のようですが)、自宅待機を始めたという連絡が来ました。 これまで知り合いで陽性になったという人はいなかったので、なんだか身近にもジワジワと迫ってきたなあ感があります。

コロナウィルスは、ついに人類の社会生活そのものに影響を与えるようになりました。エッセンシャルワーカーというのですか、社会の公共性ある仕事に従事する人々(医療、交通、衛生、消防など)にも陽性者が増え自宅待機療養者が増えニューヨークなどでは混乱が起こり始めているとの報道もあります。 日本でもこのような状況になることが危惧されています。

ウィルスは生物と共に太古の時代から共に存在し、生物の身体・生態に影響を与え、進化にも貢献してきた存在らしい。人類は地球そのものを破壊してゆくような存在になってしまい、その活動を押さえるために、地球にとっての白血球のゆな存在になっていると思う。 人類が生き延びるためには「!進化」が必要なのだ。 それは科学技術の進歩ではない、人類の生態そのものを変化させることができるかが、つきつけられている課題なのだ。

森林破壊、海洋汚染、地球温暖化問題・・、これらは、現生人類によるものだ。地球は悲鳴をあげている。 我々の生き方、暮らし方を変えるようにコロナは迫っているのだと思う。

 

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続 なぜ山に登るのか・・

2022-01-15 10:32:25 | 主義・主張

昨日のFacebookにブログと同じ文章をアップしたところ、色々とコメントを頂き、さらに思い出すことあったので、続けます。

私が山登りを始めたのは、子どもの頃に両親がたまにハイキングに連れ出してくれたことにあります。覚えている最初の思い出は京都の鞍馬山です。大阪に住んでいた頃ですから小学5年生くらいだったかな。 天狗が出てきそうな恐ろしさを感じた深淵な大木の茂る急な登山道で、かなりキツかった。 その後、中学の担任が近所の低山歩きにも連れて行ってくれて、中2で地元千葉に戻ると、高尾山やらひとりででかけるようにもなりました。人がいない場所に地図を頼りに知らない場所に出かけるのが性にあっていたんでしょうな。 そして、高校では山岳部に入りました。高校山岳部というと夏山合宿に北アルプスをめざすというのが定番でしたが、うちの山岳部は大学のワンダーフォーゲル部が行くような関東北部の県境の藪山歩きを伝統的に続けているちょっと他とは毛色の異なる部でした。そこでますます登山にのめり込み、大学では毎週の山登りのためにアルバイトをして山へ行くというような学生でした。 なぜ、山に登るのかなんて、あまり考えなかったなあ・・、が、無心になれることは感じていたと思う。

雪山は雪崩に慄きながら渓谷をゆき、日高の稜線で吹かれ、実際に利尻では雪崩にもあったし、岩壁から滑落して大怪我をしたこともありました。 連れが長男を身ごもっていた年末年始にも冬山芦別岳に山行し、雨に打たれてビショビショになり、その後の寒冷前線通過で猛烈に気温が下がった細い稜線(たしか、本谷の第3稜だったかな・・)で暴風でテントポールが折れた中でビバークして凍傷になったこともあった。 なんであんなことをしていたんだろうと今振り返ると思うなあ・・。 厳しい山登りは、芦別から帰った直後に長男が産まれたことが契機になって、その春山合宿から岩壁登りはやめて、翌冬山も行かなくなりました・・。 あれから・・、もう40数年もたつのだなあ・・と感慨。生きていてよかったなどとの深い感慨ではないけれど、しなくてもいいことをして、切り抜けて来たもんだとは思うな。

で、昨日の続きで・・「悟り」のことなのですが、思えば悟った時が一度だけありました。(以下、ここからも長いです・・)

大学に入り、山スキー部という学生団体に入部したのですが、その五月にオフクロガくも膜下出血で倒れました。今ほど医療も進んでいませんでしたから、一度の開頭手術の後は意識のないまま人工呼吸をつけることになり、看病が必要となり私は休学することになりました。しかし、8ヶ月後には帰らぬ人となりました。 その焦燥感はとても大きくて復学する気持ちも失せてしまいましたが、周りの説得もありなんとか北海道に戻りました。が、部の同期新人連中は1年間、山にもまれてみなたくましく成長しており、ふたたび1年目からやり直す気がおこりませんでした。で、岩登りにも興味があったので、当時社会人山岳会として、名のある札幌山岳会に入会しました。しかし、私の挫折感はなかなか回復できないままでした。 そんな時、ネパールの山のことを知りました。知り合い友人学生がけっこう東南アジア、インド、ネパールに旅をしておりそれに触発されました。 アルバイトに精を出し資金をためて、翌年のポストモンスーン(秋から初冬)に友人とふたりでネパールトレッキングを敢行しました。 これはこれで、いろいろな気づきや今の人生に影響を受けたことが多々あるのですが・・、悟りというのは・・

ともかくも山が想像以上にでかかった。8000m峰ダウラギリの北壁に対峙する小さな峠(5000m台)で、見た壁の大きさ・・「世の中にはこんなにも大きなものがあるのだ!」と驚愕し、カリガンダキ川の川原横断では正面にそびえるニルギル峰の大岸壁を目指して一日歩いても、はるか遠くに大きいままで、その大きさはちっとも変わらなかった!!

目標は、カリガンダキの源流、チベット高原に近いティリッツオ湖という幻の湖だったのですが、そこは予想以上に遠く、重装備をポーターなしで担いで登っていたので、力尽きて結局断念をしたのでしたが・・、 その折も5000mを超えるくらいまで登山をしました。息も絶え絶えになり、1000位登っては降りてキャンプするという高度順化しながら数日を山中で過ごしました。 眼前にはもう平たくなったチベット高原も見渡せました。

風もなく無音の世界、ただただ大きくて広い世界・・。その時に悟ったのです・・・

なんて、俺はちっぽけなことで悩んでいるんだぁ!!

人の生き死にやひとりの人生なんて、この地球にくらべたら、宇宙に比べたら、なんと小さなものなんだ。その小さなものものが幾重にも重なりつながりあって、いのちというものがある。色即是空 空即是色な概念がわかり、オフクロの死をすんなりと受け入れることができたのです。

これは、瞬間的な悟りであったな・・、

今でも私の人生観、生命観は、色即是空 空即是色 であります。

 

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なぜ山にのぼるのか?

2022-01-15 02:04:52 | 主義・主張

「なぜ、山に登るのか」という質問に、高名な登山家マロリーは、「そこに山があるから」と答えたというのは有名な話しです。 大学を卒業して最初の就職先でも休暇に山登りにでかける新人社員に社長が、ワタシに同じことを聞きました。そして、そんなもの止めちまえというような説教が続きました・・。 今は、吹雪の雪稜や岩壁クライムをすることはなくなり、長い距離を歩くこともなくなりましたが、今でも山岳小説やノンフィクション物語を読んだりはしています。 今振り返ると、どうして、あんな危険な登山をしていたんだろうと思うこともあります。

とある山岳小説というか、山岳信仰を題材とした小説を読んでいて、この問いの応えとして、ちょっとしっくりとした文章をみつけたので、写し書きしTおこうと、深夜二時過ぎなので起きてきて、キーボードを打っています。

そのくだりは・・こうです。

「山に登ることは瞑想に(精神統一に)近づくことができる、もっとも容易な道のように思われました。山の頂に向かって汗を流しながら一歩一歩を踏みしめていくときには、ただ山へ登ること以外は考えなくなります。心が澄み切って参ります。登山と禅定とは同じようなものです。それは高い山に登ってみれば自然と分かってくることです。なにかしら、自分というものが山の気に解け込んでいって、自分が何であるか、人間がなんであるか、なぜ人間は死なねばならないのか、そういう難しい問題さえ自然と山の気が教えてくれるようにさえ思えて来るのです。そのような境地は登山によって身を苦しめられて得られるのではありません、登山はけっして苦行ではなく、それは悟りへの道程だと思います。」

なんも悟ってはいないけどさ・・・。

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風車林立か・・・

2021-11-10 15:27:57 | 主義・主張

自然学校の道路をはさんだ向かいの丸山に風車計画が持ち上がった!!   その向こう側の月越峠にも別会社の建設計画があり、合計で40基近い計画が黒松内町にあるのだ!!

今日、自然学校近くで計画している会社が来て、決まったわけではないが、建設するとしたらこの辺りという地図に落とした写真と、ここに建設したら・・、こう見えるようになるという合成写真を持ってきた。もちろん、風景が変わるし、山の中には建設道路もできるので、私としては反対である・・が、反対運動をするほどのエネルギーは持ち合わせてはいない・・。

お二人の若い社員が来て説明をされた。「地域の人の理解を得て、地域の人と一緒に・・」などと誠意を持って真摯に対応し、「会社の立場を離れれば、ここに風車を林立させるのは、景観を変えてしまうなあと個人的には危惧している・・」ようなことも言うし姿には好感が持てましたが・・、結局、建設するために社命を持って来ている人たちなんだしな・・。

実は、自然学校の裏手の山麓の使われていない広大な農場(牧草地)には、メガソーラー基地の話も来ているらしい・・。いったい20年後のこのあたりはどういう風景になってしまうのだろう。

それらの発電で得られた電力は売電されてそのほとんどは本州送りとなり、直接的な電力の地域還元はない。社命を持ってお仕事として地域住民と対峙する若いおふたりには、いろいろ個人的な心痛もあろうが・・。

地域へも徐々に説明範囲を広げてゆくのだろうが・・、推測するに大きな反対はないだろう・・。「いやだけれど、仕方がない・・」という大方であろう・・。 電源問題は日本国民的問題であるのに、その開発はすべて都会ではなく田舎で行われる。この構造は変えられんもんか・・。

「地域とともに・・」とは、例えばどういうこと?と、聞いても回答はない。 若いおふたりにを前にして、例えば・・というようなことを応えてしまうアタシ・・。

・地域と共にというのならば、もっと電力の地産地消をして欲しい。 地域へ発電された電力をお安く供給する。電気自動車社会に移行するのだから、充電スタンドくらいを無償か安価に設置する。

・小水力発電もしてらっしゃる会社だということなので、この地域には川の小さな支流がたくさんあるので、小水力発電を地元に設置することに補助する。

・ウィンドパークみたいに、風車立地地域を公園開発する。 管理道路を自転車で巡れる、スケートボードパーク設置、展望休憩所・・

・動植物のアセス調査を市民参加で実施する・・

・町内の公共移動手段として、電気バス(ワゴン車くらいでよい)事業を提案する

とかね・・。

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人新世の「資本論」

2021-06-27 05:34:58 | 主義・主張

SDGsは大衆のアヘンだ!という衝撃的な一文で始まる斎藤幸平氏の経済論。脱経済成長をしっかりと論じる若手経済学者がやっと現れた!!と、思う。

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いまこそ心に自然をとりもどそう。

2021-03-19 15:22:34 | 主義・主張

せんだってに開催された 日本環境教育学会北海道支部と北海道自然体験活動推進協議会による合同フォーラムにおいて、次のような宣言をしました。

*****

コロナ禍の自然体験の推進について
〜いまこそ心に自然をとりもどそう!〜


2020 年は、新型コロナウィルスによるパンデミックにより私たちの日常が一変しました。この間被害を受けた皆様には謹んでお見舞いと哀悼の意を表します。
私たちは環境教育や自然体験をベースに、自然と人が共生する持続可能な未来を作るべく研究や実践に取り組んでまいりました。今般のパンデミックも一種の自然災害かと思われますが、このような自然の脅威の前では、私たちの持つ力が蟷螂の斧であることを感じざるを得ません。「3密を避ける」「マスクを着用する」「不要不急の外出の自粛」「殺菌消毒」などを徹底することは、これまで普通に行ってきた人や自然とのコミュニケーションを非常にやりづらいものにしました。そして、学校での遠隔授業や企業のリモートワークなどを始めとする多くの取り組みが「新しい日常」としてあわただしく実施されてきました。その中には、むしろ従前より効果の高いものも散見され、このコロナ禍の経験は私たちの社会から全てを奪い去ったわけではなく、いくつかは得られたものもあると感じさせます。


一方で、緊急事態宣言中の“総引きこもり状態”時には多くの場から様々なストレス症状が報告されました。自然と人とのコミュニケーションが希薄化することによって発生するこのようなマイナス面は、今や私たちのような専門家集団以外にも共有されるようになってきています。廃業の危機に瀕した全国の多くの自然学校(こどもたちなどに自然体験活動を提供する社会教育事業を行っている団体)の支援のためのクラウドファウンディングが短期間で 1000 万円を超える支援を集めたことも、この問題の社会的な関心の高さを表しているといえるでしょう。

人は自然とのコミュニケーションにより多くのことを学ぶことができます。身近なものとして自然を感じることができないままでは、自然を大切に思う心を持ったり、自分が自然の一部であることに気づいたりすることは難しいでしょう。そして、自然から切り離された状況が生み出すストレス状態は、誰しもが持っていた「人が自然と切り離された生活をすることの“不自然さ”」や「実は心の中で少なからず自然を求めていること」を私たちに改めて気づかせてくれました。このように、はからずも今回のパンデミックは、「人は自然の一部である(もともと自然の中で生きてきた生物である)」ということを私たちに実感させることとなりました。


私たちは、特にこどもたちがこのような“不自然さ”のなかで、自然に対する気づきを失ったままで成長していくことについてとても憂慮しています。みなさまにおかれましては、以下の提言などをご参考にされ、ぜひ自然とのコミュニケーションを取り戻す機会を作ることで、こどもたちの重要な育ちの場を提供することにお力をお貸しいただけるようお願いいたします。


1. 自然の中での活動は「3密」を容易に回避できます。
たくさんの人が集まる場所での活動を除き、野外での活動は密閉・密集・密接のいずれにもなりづらく、ソーシャルディスタンスも確保しやすいため安心して楽しめます。


2. 遠くの大自然に出かけなくても自然体験できます。
ウィルスは人が媒介するので、感染を広げないために人の移動がある程度制限されるのはやむを得ません。しかし、「人との接触を避ける」「居住する地域から離れた場所に移動しない」など、感染や拡散のリスクが高まる行為を避けることができれば、自然と触れ合うことに関して問題は発生しません。遠くに出かけなくても、季節を感じたり、鳥の声に耳を澄ませてみたり、雪や氷で遊んでみたりすることで、ヒトが本来持っている感覚器(いわゆる五官)を使って自然と触れ合うことは十分に促進されます。環境教育や自然体験教育の視座からは、むしろ身近な自然への気づきを高めることが重要だといわれています。人工的な公園でも季節は巡りますし虫や鳥は寄ってきます。遠くの大自然に出かけるチャンスがあればなおいいかもしれませんが、そういう状況にない時でもあなたの周りにはかならず自然(現象)があるのです。
遠くに行けない時は、こどもたちと一緒にふだん見過ごしがちな身近な自然に目を向けるチャンスです。


3. プログラムよりもまず気持ちから。
登山や川下りなど、ガイドと一緒の活動はとても充実した時間を過ごせますし、自然学校や自然ガイドでの活動は安全なだけでなく、ほとんどの団体は3密防止の中での活動に留意していますので、そういった活動に参加することについては問題ないと思われます。
しかし、そうした活動に行けなかったとしても大丈夫。近所の散歩でもいいのです。あなたの周りにも自然はたくさんあります。ガイドしてくれる人がいなくても、まずは自然と付き合ってみる気持ちを形にしてみるところから始めてみませんか?雨の日や雪の日など、普段は家にこもりがちな天気の時のお散歩は、ただ歩くだけでも新しい発見があることで
しょう。普段はあまりしないことでしょうから。


4. 遊びのヒントがたくさんの団体から出されています。
たとえば、日本シェアリングネイチャー協会は外遊びの様子を動画で紹介するなど、人と自然をつな ぐプロジ ェクトを行っています
( https://www.naturegame.or.jp/about_us/action/happylucky/ )。日本環境教育学会は、あちこちの団体が公開している自然体験・自然観察・自然遊びのヒントをホームページ上でまとめて紹介しています(https://www.jsfee.jp/general/145-covid-19/411-inforesponse-covid-19-ee)。これらの情報を活用するなどして、「コロナ禍だからなにもできない」ではなく、「今だからできる素敵なこともある」という発想で、楽しみながら心の中に
自然を取り戻していただけたらと思います。


2021 年 3 月 7 日現在
日本環境教育学会 北海道支部 支部長 能條 歩
(北海道教育大学岩見沢校 教授)
北海道自然体験活動推進協議会 代 表 高木晴光
(NPO 法人黒松内ぶなの森自然学校 代表)
賛同者 田中邦明(北海道教育大学 名誉教授)・
野村 卓(北海道教育大学 釧路校)・
田中住幸(NPO 法人あそベンチャースクール 代表)・中本貴規・
居崎時江・酒井史明・峯岸由美子(一般社団法人遊心 代表)・
河村幸子(東京農工大学)・鈴木敏正(北海道大学 名誉教授)・
山中康裕(北海道大学 教授)・三木 昇(北ノ森自然伝習所)
受付順

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コロナワクチンは安全なのか???

2021-03-16 16:23:23 | 主義・主張

 

 

コロナワクチンは安全なのか??  以下のような情報があるジャーナリストから送られて来ました。 私のFacebookに投稿してしまうと、フェイクであった場合でも拡散されてしまいかねないので、私の備忘録を兼ねて、ブログに貼り付けておきます。 インフルエンザワクチンとは異なる手法で製造されているもので、人間の遺伝子そのモノに影響を与えると推測?している研究者もいるようです。 その情報抜粋ですが、読まれる方は ご自身でその真偽をご判断ください。

*****(以下、転載情報)*****

「このワクチンは、人間の遺伝子に影響を与えるかもしれない」

「それは自分の身体に数年後、数十年後に現れるかもしれない」

「あるいは世代を超えて、子供や孫の代で影響が出るかもしれない」



つまり、一言で言えば、
新型コロナワクチンは
私たちの遺伝子を壊す可能性が
あるというのです。
これは一体どういうことなのでしょうか?

そもそも、
インフルエンザワクチンのような従来品と
新型コロナワクチンでは、
どんな違いがあるかご存知ですか?

まず、インフルエンザワクチンのような従来品は、
「ワクチンの遺伝子情報」をもとに、研究所で育成。

最終的にワクチンとして
完成体になったものを
ヒトの身体に打っています。

一方、今回の新型コロナワクチンは、
研究所では育成をしません。

「ワクチンの遺伝子情報」そのものを、
直接ヒトの体に打ち込み、
身体の中でワクチンを
完成体にしているのです。

専門的な話なので、
まだ分かりにくいとは思いますが、

言い換えるのであれば、
調理したきのこを食べるのか、
きのこになる前の種菌を食べるのか
くらいの違いがあります。

コロナという未知の遺伝子
人間の身体に接種することで、
理論上は上手く免疫ができるそうですが、、

場合によっては、「人間の遺伝子組み換え」が
行われてしまう可能性もあるそうなのです。

徳島大学医学部の
大橋真名誉教授(免疫生物学)はこう言います。

「新型コロナウイルスのDNAの代謝経路は不明です。摂取したワクチンのDNAが長期間、
体内に残留したら何が起こるか?というのは、やってみないとわからないのです。」

自然にないDNAを
人間の細胞に入れ込むことは、
自然の摂理を超えています。

こんな危険なもの(DNAワクチン)を使わないといけないほど、
コロナは有害なのでしょうか」

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