goo blog サービス終了のお知らせ 

熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

トランプ次期大統領:ペンシルバニアの攻防が象徴

2016年11月11日 | 政治・経済・社会
   今回の大統領選挙で、勝敗を分けたのは、フロリダなどの激戦州とラストベルトの結果だと思うが、最も衝撃的であったのは、本来民主党の大地盤であったペンシルバニアが、共和党支持州に変ってしまったことである。
   ペンシルバニアとほかのラストベルトを維持しておれば、或いは、僅差で敗れたフロリダを確保していれば、クリントンは勝利した。
   しかし、アメリカ国民は、僅差とは言え、現在の政府や政治、エスタブリッシュメントにノーを突き付けた。
   国民投票と言う民主主義の選挙が、機能したと言うべきか、メディアやエスタブリッシュメントなど大方の予想を完全に覆したのである。
   残念ながら、アメリカは、ハンチントンの言ではないが、完全に分断されてしまった。
   
   
   
   

   アメリカの資本主義が、弱肉強食の市場原理主義をむき出しにして驀進し、深刻な経済格差の拡大を惹起し、アメリカの良心であり、政治経済社会の良き地盤であり基礎であった筈の中間層を崩壊し、更に、2007年の世界金融危機によって、一層窮地に陥った。
  2011年に展開された”We are the 99% ウォール街を占拠せよ”運動こそ、まさに、そのプロテストの断末魔の叫びであったのだが、2012年大統領選挙では、表面化しなかったものの、今回の大統領選挙では、サンダース現象の勃発で、国民の足掻きが表面化し、更に、トランプが指摘した、何の進展も変化もない現状のエスタブリッシュメントの支配する政治経済社会に対する痛烈な批難・糾弾によって、国民は目覚めた。
   特に、グローバル化で雇用や生活を脅かされてきた労働者階級のプア―ホワイトが、Yes we canで期待したオバマ治世に失望して、雪崩を打って、トランプ支持に回った。
   長い間アメリカの経済を支えてきた東部の工業地帯であるラストベルトの民主党地盤が完全に崩れ去って、トランプ支持に回ったのである。
   この現象が象徴的に選挙結果に表れたのが、ペンシルバニア州だと思っている。

   もう、8年前になるが、母校ウォートンスクールを訪ねた時に、アムトラックで、ニューヨークとフィラデルフィアを往復したが、フィラデルフィアに近づくと、車窓から見えるのは、延々と続く放置された廃墟のような工場跡地で、目を覆うばかりの惨状であった。
   恐らく、フィラデルフィアからウイスコンシン東部に広がる、アメリカ合衆国経済の重工業と製造業の重要な拠点であったラストベルト(rustbelt)の工業地帯も、そうなのであろうと思う。
   実質賃金が半世紀近くも上がらず、更に、失業の恐怖で生活基盤を突き崩された地方の人々にとっては、とにかく、この世を、そして、政治経済を変えてくれる大統領なら、誰でも良い、どん底の今よりはましになるであろうと考えた。
   クリントンは、エスタブリッシュの権化とも言うべき体制派で、変化は望み得ないので、拒否の対象となり、多少、無茶苦茶でも、トランプなら、世の中を変えてくれるであろうと考えたのであろう。

   さて、奇しくも、ドナルド・トランプは、このペンシルバニア大学のウォートンスクールで不動産を勉強しており、既に、在学中に、父の不動産業に参画していたと言う。
   このウォートンスクールは、全米屈指の最古のビジネススクールであり、トランプは、金融界を筆頭として多くの経済界や全米の有力者に知己を持っており、強力なサポーター集団を糾合することが出来る。
   これまでは、大統領府や政府は、ハーバードマフィアの牙城であったが、今度の新政府は、大きくビジネスおよび経済オリエンテッドな色彩の強い、これまでのエスタブリッシュメントと一味違った毛色の変わった政府が形成されるのではないかと思う。

   トランプは、あれ程糾弾していたヒラリーを、掌を返したように、勝利宣言で褒め上げた。
   私は、これまで、トランプが選挙戦中に述べていた政策や信条などについては、必ずしも、そのまま、トランプ政権の治政に反映実行されるとは思っていない。
   トランプは、政治については全くの素人であり、十分な現状認識なり政治哲学があるわけではないであろうから、実際に、ホワイトハウスに入れば、どう変わり、どのような政治を行うのか、全く未知数だと思っている。

   これは、全く善意な希望的観測だが、このブログのTOP口絵に、自由の鐘越しに見えるインディペンデンスホールの写真を使ったが、ウォートンで学んだトランプなら、この自由の鐘も、ジョージ・ワシントンや母校ペンシルバニア大学の創立者ベンジャミン・フランクリンたちが侃々諤々アメリカの未来を口角泡を飛ばして議論した議事堂・独立記念ホールを訪れたはずで、アメリカが、何たる国であるべきか、理想的な憲法を戴した建国の精神を体現している筈だと思っている。
   Make America Great Again とは、原点に戻ることだと、思う。
   
   
   
   

   トランプが、真の共和党の大統領かどうかは、分からないが、共和党は、本来、市場原理主義を推進する大企業や富裕層などの強者優遇政策を取る政党で、リベラルで国民の民生を重視し福祉社会を目指す民主党とは違って、今回プワーホワイトが期待したような政策を取る政党ではない筈。
   トランプは、公共投資を拡大すると言っているが、疲弊した公共財の修復は緊急必要事としても、本来共和党は、小さな政府を志向する政党であり、財源によっては、教育、科学技術など貴重な先行投資を犠牲にすることとなろう。
   また、リベラルな厚生福祉経済政策を打って、経済社会のセイフティネットの構築に努力しない限り、共和党の経済政策では、益々、経済格差の拡大を惹起するだけで、アメリカの分断化を加速するだけとなろう。
  中国やメキシコに奪われた雇用を取り戻すなど、 Make America Great Again 政策を実施すると言うのだが、もう既に、決着がついていて後戻りなど不可能であり、
  TPPに反対するなど、自由貿易を国是とするアメリカを、保護貿易に導けば、経済成長の芽を摘みかねない。
  また、外交政策においても軍事政策においても、内向き志向が強くなるので、トランプのMake America Great Again とは逆に、外国との自由貿易とオープンな外交政策で栄えてきたアメリカを、益々衰退に追い込む可能性が高くなる。
   熱に浮かれたように現体制を否定してBrexitに走って、後悔している英国人の轍を、アメリカのプワーホワイトが、踏むのかどうかは分からないが、少なくとも、今までの政策を考える限り、共和党は、強者には優しいが、弱者には馴染まない厳しい政党であることは、間違いなく、期待が費える可能性が高いと言えよう。

   これまでにも、アメリカについて、何度も書いたので、論述は避けるが、アメリカの資本主義のみならず、民主主義そのものも危機に瀕している。
   トランプの登場によって、益々、先行き不透明になってきたアメリカの行く末が、グローバル化した世界全体の秩序を大きく変えて行くであろう
   地響きをたてて激動する震源地が、唯一の覇権国家アメリカである以上、大変な波及嵐をグローバルに伝播する。
   

   
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡の旅・・・(4)次郎長生家、清水港クルーズ

2016年11月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   三保の松原からバスに乗って、港橋で下車して、次郎長生家を目指した。
   清水の街を南北に横切って、清水港に流れ込む巴川にかかる港橋を渡るのだが、その手前に、明治19年に次郎長が清水波止場に開業した船宿を復元したと言う「清水港船宿記念館末廣」が立っている。
   この橋から下流の岸には、船泊がところどころにあって、数百メートル先には波止場がある。
   次郎長は、明治維新後、清水港振興や三保の塩田開発などに尽力し、英語塾を開くなど、晩年は、子供も好きな「波止場のおじいさん」として親しまれたと静岡市の観光案内に書いてあるのだが、明治26年まで生きていたのであるから、幕末と明治維新を駆け抜けた侠客であると同時に事業家でもあったのであろう。
   私の次郎長のイメージは、すべて、映画からなので、切った張ったの世界ばかりであり、博打を止めた後のこのような裏面史は全く知らないので、維新の変革の凄まじさを感じて面白かった。
   月曜日で、休館のため、船宿の中には入れなかった。
   
   

   橋を渡って、川に並行した一筋奥に入った商店街が、次郎長通りで、この通りに沿って奥まったところに、次郎長生家がある。
   昔は、繁華で賑やかな商家や店の並んだ大通りであったのであろうが、今や、時代の流れに逆らえないのであろうか、シャッター通りとなっていて、開いている店が少ないので寂しい。
   三保の松原への道路沿いに、かなり大きな整備されたショッピングセンターが出来ていたので、商店街としては、必須な店だけしか残っていないのであろう。
   
   
   

   次郎長生家は、間口三間弱くらいであろうか、次郎長ののれんが掛かっているので、それと分かるのだが、小さな商家か蕎麦屋の雰囲気である。
   昭和の初期まで、次郎長の子孫が住んで居たと言うのだが、京都の町家のように奥に長く、坪庭のような中庭もあって、昔の住居の面影が残っていて、それに、古い日本を感じたくて訪れたので興味深かった。
   尤も、昔懐かしい雰囲気は、この次郎長生家だけで、清水も、静岡市の清水区で都会の一角であった。
   
   
   
   
   

   波止場に出た。
   天気も良かった所為もあろうが、非常に、よく整備された奇麗な港であった。
   大きな船は、貨物船一隻くらいなのだが、横浜へ向かう巨大な観光客船が立ち寄るのだと言う。
   湾の奥に、ヨットハーバーがあったり、商業施設があったり、多目的の港湾なのであろう。
   
   
   
   日の出桟橋から、清水港クルーズ船に乗って、清水湾を一周して、清水港などを船上から展望した。
   晴天だったが、風が強くて、船は航路を安全ルートに変更したので、外洋の方へはあまり出なかった。
   富士山は、ガス模様の空に霞んで、殆ど見えなかったので、3階のデッキからの展望は、湾を取り巻く港や工場の風景や、興津のコンテナ埠頭から清水市方向、それに、三保の松原方面なのだが、湾の周りには、色々な生活空間が広がっていて非常に興味深かった。
   昼食時間をセーブするために、駅弁クルーズにしたのだが、結構、遠足気分で面白かった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   特に、他に目的もなかったので、清水駅に行ったのだが、改札に入った瞬間に、隣の駅との間の踏切で列車と人が接触したので、運休すると言う放送が入った。
   上りも下りも列車は、少なくとも2時間くらいは動かないであろうと言う。
   こう言う時は、危機管理の常として、素早く代替手段をとることだが、バス便は駄目なので、静岡鉄道で、新清水から新静岡に出て、新幹線に乗る以外に方法はない。
   結局、タクシーを乗り継いて新幹線こだまに乗って小田原経由で、鎌倉に帰ったのだが、両方の駅は大分離れていたけれど、並行して走っている電車があったから助かったのである。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡の旅・・・(3)三保の松原

2016年11月09日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   朝、JRで、清水駅に行き、路線バスで、三保の松原に向かった。
   世界遺産に登録されたのも、富士山との風景の妙故だと思うのだが、この日は、猛烈な寒風が吹きすさむ晴れた日ではあったが、空気がクリアではなく、霊峰富士の姿は、目を凝らさなければわからない程、霞んでいた。

   三保の松原入り口でバスを降りて、住宅街を海岸の方へ歩いて行くと、御穂神社の境内に入る。
   平安の古書にも記録のある夫婦和合・縁結びの神だと言うのだが、興味深いのは、正面の鳥居を潜ると、三保の松原に向かって一直線に500メートルも松並木が続いていることである。
   樹齢200年と言う古木の松で、中々雰囲気があり、夜にライトアップされると三保の松原への道を歩く二人連れにはたまらないのだと言う。
   いわば、海側からの参道のように思われるのだが、神の道だと言うことである。
   
   

   神の道を抜けると、茶店などがあるのだが、海に向かってかなり密集した松林が広がっており、これが、三保の松原である。
   黒松一色で、殆どが、堂々たる大木で、樹齢何百年の古木なのであろう。
   海岸へ出る途中に、木の柵で囲われた「羽衣の松」があり、羽衣伝説の松だと言うから、能「羽衣」をイメージするのだが、全く、雰囲気が馴染まない。

   駿河風土記の羽衣伝説では、天女が天から降りて来て、羽衣を松にかけていたら、漁師に奪われて返してくれないので、天に帰れなくなり、仕方なく漁師の妻となる。その後、天女が羽衣を見つけて天に帰り、漁師も仙人となって天に昇った。と言う話になっている。
   この噺は、能「羽衣」を脚色した沖縄の組踊「銘苅子」の方に近く、能「羽衣」では、漁師は可哀そうになって羽衣を返し、天女は、そのお返しに天女の舞を舞って天上に帰って行く。
   この能で面白いのは、羽衣がなければ舞えないので返してくれと天女が言ったら、先に返したら舞わずに逃げて行くのではないかと漁師が言うと、「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」と言われて、恥じ入ると言うシーンである。

   霊峰富士をバックにして、美しい白砂清松の三保の松原で、天女が天の舞を舞いながら天上に上って行く光景を想像するだけでも素晴らしいが、以前に、人間国宝の友枝昭世のシテ/天人を観て、その優雅さ美しさに感激したのを思い出す。
   
   
   
   

   風が強く、時間の余裕もなかったので、松林の遊歩道を東に歩いて、鐘ヶ崎まで出て、海岸沿いの砂の道を歩いて、引き返した。
   富士がうっすらと見えていた。
   
   
   
   
   
   

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡の旅・・・(2)登呂遺跡、日本平、久能山東照宮

2016年11月08日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   静岡駅南口から、路線バスに乗って、登呂遺跡に向かった。
   登呂遺跡と言う公園直結の停留所があるのだが、バスサービスが限られているので、 路線バスで登呂遺跡入り口で下りたのだが、下りた乗客は、我々だけだった。
   いずれにしても、住居跡や復元建物のある登呂遺跡公園は、完全に出入り口のないオープンスペースの公園で、そこに、茅葺の住居や祭殿や倉庫が点在している。
   訪れる人は殆ど居らず、閑散としている。
   一つずつ建物の中に入って、住み心地がどうか確かめてみたが、極めて堅固に構築されていたのに驚いた。
   この登呂遺跡だが、弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定されると言うことであるから、キリスト以降であるし、それ以前はるか昔に、メソポタミアや中国、インドなどでは、壮大な宮殿が築かれていたのであるから、非常にプリミティブで驚くこともないのかも知れない。
   勿論、本物は現存していないので実際のものか確認のしようがないのだが、学者や専門家が十分に考証した結果であろうから、そうだろうと思うことにした。
   結局、立派な博物館が併設されているのだが、あっちこっちで、古代遺跡を見ており、それ程関心もなかったので、パスして、日本平に向かうことにした。
   
   
   
   
   
   
   
   久能山東照宮に行くには、登呂からそれ程遠くない久能山下までバスで行くのが一番簡単なのだが、1時間半以上待たないとバスが来ない。
   それに、海岸線から山上の久能山へ直行するためには、石段を1159段上がらなければならないこともあって、結局、旅程を変更して、タクシーを呼んで、日本平のロープウェイ口まで行くことにした。
   昔、有料道路だったと言うから、静岡駅から日本平へは、この一本道しかなかったと言うことであろうか。
   とにかく、富士の見える高い日本平に出て、そこからロープウェイで下りて、久能山東照宮に参拝すると言う手筈である。
   運転手に、ロープウェイの駅から小山を上れば、展望台に出て、清水の街越しに、はるか富士山を遠望できると教えて貰った。
   晴天ながら、少し、大気が霞んでいて、富士の姿は、影絵のようにうっすらとしか見えなかったが、日頃富士とは縁のない人間にとっては感激であった。
   清水から興津、はるか遠くに、富士市が、白く光っていて、うっすらと、伊豆半島が霞んでいる。
   反対側には、静岡の街並みが見える。
   
   
   
   
   

   さて、ロープウェイだが、かなり小さく、乗客は、皆立って乗るのでキャパシティは50人だと言う。
   乗る時間は僅かだが、観光バスなどがやってくると、駅は長い行列で、パンクするのではなかろうか。
   静岡から近いし、階段は大変だが、久能山下からの正規の参道である登山路を活用すべきであろうと思う。

   久能山東照宮は、晩年を駿府で過ごした徳川家康が1616年に死去した後、遺命によってこの地に埋葬されたので、境内の高台に、墓所がある。
   建物は、50年に一度、社殿など建造物が、漆の塗り替えが行われており、最も最近2006年に社殿の塗り替えられたと言うのだが、それに、”平成28年8月より実施しておりました、社殿・唐門漆塗修復工事がこのほど無事竣工し漆塗特有の艶やかな姿によみがえりました。”と言うのであるから、金ぴかで光り輝いている。
   本殿、石の間、拝殿が国宝に指定されていると言うことだが、この一連の建物は、私の知っている日光の東照宮に匹敵する荘厳さ美しさである。
   尤も、これをゲテモノ趣味だと言う人もいるようだが、歌舞伎の極彩色の美と相通じる日本の美意識の一つの象徴だと思っている。
   奈良や京都の古社寺も、元は、金ぴかの仏像を頂き、朱塗りの柱や極彩色の仏画などで荘厳された壮大な建造物であって、現存する国宝仏や国宝建造物等のわびさびの姿は、いわば、風雪に耐えてきた古色蒼然たるなれの果てと言うことなのである。
   随分前にNHKで、欧米のバロック美術の番組で、日光東照宮が紹介されていたが、興味深く見ており、その後ヨーロッパで、実際のバロック美術に触れて思い出していた。
   以下の写真は、一枚目の一の門と二枚目の唐門以外は、国宝の本殿・石の間・拝殿であり、最後が、家康の神廟である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   東照宮を出て、日本平に戻った時には、夕日が傾いていた。
   ロープウェイで上る途中に、西方向の海岸線に沿って、イチゴの栽培温室群が、夕日に光っていた。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡の旅・・・(1)はじめに思ったこと

2016年11月07日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに、東西に分かれて住んで居る親しい大学の同窓生が、一泊旅の集いを持って旧交を温めようと話し合った。
   結局、同窓会にあまり行かない一番付き合いの悪い私が、幹事と言うことで企画したのだが、真ん中あたりと考えて、大体、誰もが何時も素通りするだけの静岡を候補に挙げた。   
   駅近辺を動いただけだが、立派な都市の佇まいに、正直なところ、びっくりした。
   
   

   さて、静岡については、私の頭には、一つ、三保の松原と久能山東照宮、清水港、登呂遺跡くらいの認識はあったので、観光ガイドを見て計画を立てようとして、本屋に行ったのだが、全く、静岡を掲載した観光ガイドや観光案内書は、一冊もなく、るるぶが一冊だけあったものの、2ページくらいで、全く役に立たない。
   静岡県東京観光案内所を検索したら、静岡県東京観光案内所(Shizuoka Mt.Fuji Green-tea Plaza )が出たので、出かけたら、一寸した喫茶空間があるだけで、観光案内資料が欲しいと言ったら、棚状のキャビネットから、何組かの地図や小冊子やビラ状の資料を示されたので、ないよりはましだと思って頂いて帰ったが、折角、世界遺産や国宝建造物を持ちながらの、このお粗末さに、びっくりした。

   ところで、今回は、正午位に静岡駅に集合して、翌日午後適当な時間に解散と言うことであるから、観光としては、それ程時間が取れない。
   結局、一日目は、登呂遺跡、日本平、久能山東照宮。
   二日目は、三保の松原、清水港船弁クルーズ、清水観光。
   そして、静岡駅直近のセンチュリー福岡で、宿泊と会食と言うことにして、時間をセーブした。
   移動は、JRとバスとタクシーで対処したのだが、一日目の静岡市内でのバスの便などは、目も当てられない程悪く、タクシーの運転手に聞いたら、タクシーさえ、観光シフトの考え方は、全くないと言う。
   登呂の遺跡までは、路線バスでもまずまずだが、日本平・久能山に行こうと思えば、静岡駅からでも、バスは1時間に1本くらいしかなく路線バスなので時間はかかるし、登呂遺跡から久能山下へは、昼に1本あるだけで、殆ど役に立たず、結局、タクシーで日本平に向かったのだが、団体バスか自分で車を運転するかでないと、静岡の観光は大変なことが分かった。
   尤も、あまり沢山観光客が来ると、久能山東照宮へのロープウェイが、ピストン運転でも、待ち時間が長くなり、パンクするかも知れないのだが。
   
   
   

   さて、静岡の旅だが、2日とも天気が良くて、結構、楽しめた。
   目的の一つは、やはり、霊峰富士を仰ぐことだったが、残念ながら、空気がクリアではなかったので、霞んでボーっとした感じで、日本平からは、まずまずだったが、三保の松原からは、殆ど霞んで見えなかった。 
   帰りの新幹線の車窓からは、墨絵の雰囲気であった。
   
   
   
   

   清水は、何となく、清水次郎長の雰囲気を訪ねたくて訪れたのだが、完全に都会化された雰囲気で、京都や鎌倉以上に、古い昔懐かしい佇まいなど皆無であった。
   三保の松原も、能「羽衣」とは結び付かなかったが、豊かな松林と白砂とは言えないが砂浜の豊かさを見て、ほっとした。
   清水港の船弁クルーズも面白かった。
   次に、もう少し、詳しく、旅の思い出を書いてみたい。
   
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉便り・・・円覚寺の秋の気配

2016年11月05日 | 鎌倉・湘南日記
   宝物風入展示は、流石に円覚寺で、歴史的な文書資料や仏画などが多かった。
   仏画など、かなり変色していて、近づいてじっくり見ないと分かり難いのだが、結構、当時の風物や習慣などが垣間見えて面白かった。
   大方丈が会場になっていて、唐門前に受付があり、巨大な柏槇ビャクシンの古木の庭まではいつも入れるのだが、大方丈に上がるのは初めてである。
   展示の様子は、写真に撮れなかったので、円覚寺のHPから借用する。
   大方丈裏の日本庭園が美しい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   大方丈から出て、少し下って、洪鐘おおがねを目指して、急な石段を上った。
   この国宝の釣鐘は、関東一の大きさだと言うことで、非常に美しい。
   国家安泰ということで、家康の言いがかりの前とは言え、国家安康となっていないのが面白い。
   ここからは、谷を隔てた東慶寺が見える。
   かなり、天気は良かったが、富士は仰げなかった。
   
   

   さて、私が古社寺を訪ねる一つの目的は、季節の移り変わりを教えてくれる花木や草花の風情を感じることである。
   懐かしい花や良く知らない花もあって、木陰にひっそりと咲いている花に情趣を覚えたりするのだが、詩を読めないところが、残念でもある。
   万両や千両や南天やヤブランなどの実が面白かった。
   
   
    
   
   
   
   
   
   
   

   紅葉は、まだ早くて、殆どの落葉樹は、緑のままだったが、山手のイチョウが一本、そして、山門前のもみじ(元々紅いのかも知れない)が、一本、色づいていた。
   もうひと月もすれば、鎌倉も一気に寒くなって、紅葉に輝き、そして、気の遠くなるような冬が訪れる。
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉便り・・・円覚寺舎利殿を拝観す

2016年11月04日 | 鎌倉・湘南日記
   円覚寺では、11月3日から5日まで、宝物風入(円覚寺が所蔵する宝物の虫干しを
兼ねた展示会)を開催、と言うことで、広い大方丈が、宝物風入(特別展示会)会場となっていて、沢山の宝物が展示されている。
   その風入期間中に、普段は、一般開放していない、鎌倉で唯一の国宝建築である舎利殿が特別公開されると言うことで、楽しみに出かけた。
   円覚寺には、何度も訪れているのだが、いつも、門の外から、遠く、舎利殿の屋根を望むだけだったので、今回は、舎利殿の直近までアプローチできると言うことであるから、千載一遇のチャンスである。
   
   
   

   この建物には、源実朝公が宋の能仁寺から請来した「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られていることから「舎利殿」と呼ばれる。
   13世紀に建てられた当初の舎利殿は焼失して、1573年に、北条氏康によって西御門にあった尼寺太平寺の仏殿が移築されたと言うことで、日本最古の唐様(禅宗様)建築物である。
   サワラ木葺の屋根の勾配や軒の反りの美しさが特徴で、特に屋根の軒下から出ている上の段の垂木は、扇子の骨のように広がっており、「扇垂木」とよばれ、これが屋根を一層大きく、建物全体を小さいながらも壮大に見せている。と言うのだが、尼寺であった所為もあろう、実に優雅で美しいのである。
    興味深いのは弓欄間で、火焔欄間とも言われるようだが、この欄間が、空調の機能を果たしているようで、この空間を通して入る日の光が独特の雰囲気をかもし出していると言うから美意識も大したものである。
   弓欄間の中央にある、シンプルな宝珠形の飾りが面白い。
   また、江戸時代の花頭窓は下部が広がっていくのに対し、この舎利殿の外枠は縦の線が真っ直ぐで、その質素な形は鎌倉時代後期の花頭窓の特徴だと言う。
   
    
   
   
   
   
   正面の扉が開いているので、中が暗いのだけれど、微かに厨子と仏像が見える。
   肉眼では定かではないのだが、露光を調節して望遠で撮って見ると、かなり、はっきりと見える。
   仏舎利を安置した厨子を真中にして、その左右には地蔵菩薩像と観音菩薩像が立っているのが、良く分かる。
   
   
   
   

   ところで、舎利殿の正面に立つと、舎利殿の歴史や建物の特徴など、テープで流されているので、小一時間もいたので、非常に勉強になった。
   当日は、昨夜のNHKニュースを聞いた所為か、結構拝観者が沢山来ていて、混雑していたが、ほんの束の間、建物の前の人影が途切れる瞬間があるので、それを待って写真を撮ったので、この掲載写真には、人が写っていない。

   普通、舎利殿が公開されていない時には、この写真の唐門しか見えないので、これが舎利殿のような錯覚を覚えるのだが、舎利殿は、その後ろの建物なのである。   
   また、気付かなかったのだが、舎利殿の左肩の山側は、切り立った崖になっている。
   
   
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿御苑・・・菊花壇展がオープン

2016年11月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりの秋晴れの清々しい日、秋風も実に心地よい。  
   午後の都響のプロムナードコンサートまで時間があったので、新宿御苑に行った。
   1時間一寸過ごしただけで御苑を出て、サントリーホールに向かったのだが、メトロを、銀座線、半蔵門線、東西線を乗り継ぐので、少し忙しくて、菊見物の雰囲気ではなかったのが、残念ではあった。
   新宿御苑では、私の歩くルートは決まっていて、まず、日本庭園を一回りするので、菊花壇の展示場は、この近辺にあり、便利であった。
   その後、一番奥にあるばら園とプラタナス並木のあるフランス式整形庭園に行き、中の池や下の池の方へ回るのだが、今日は、真っすぐ、オープンスペースが広がるイギリス風景式庭園を突き抜けて新宿門を出た。   
   このフランス式とかイギリス式とか、命名されているが、実際には、大分雰囲気が違っていて、少なくとも、イギリスには5年住んで、各地の名園を歩いてきているので、そう思っている。
   御苑の今の風景は、下記の通りで、紅葉には、1か月ほど、まだ、間がある。
   
   
   
   

   林間を通り抜けて、茶室楽羽亭に出ることが多いので、その順路で歩いた菊花壇の写真は、次のとおりである。
   大作り花壇の花は、満開には少し早い感じで、
   懸崖作り花壇と肥後菊花壇は、まだ、殆ど咲いていなかった。
   
   
   一文字菊・管物菊花壇
   
   
   

   江戸菊花壇
   
   
   
   
   
   

   大作り花壇
   
   

   伊勢菊・丁字菊・嵯峨菊花壇
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   懸崖作り花壇
   
   

   肥後菊花壇
   
   

   菊花壇入り口と路地花壇
   
   
   

   ほかの花木や草花をじっくり見る機会はなかったが、ホトトギスが満開で、
   何故か、ツツジとボケが咲いていた。
   
   
   

   ばら園は、まだ、秋ばらシーズンなので咲いていたが、春ほどの華やかさはなかった。
   
   
   
   
   
   

   プラタナス並木は、まだ、少し、紅葉には早い感じだが、しかし、落ちた枯れ葉が地面に敷き詰められていた。
   逆光を浴びると、プラタナス並木の木陰は雰囲気があって良く、若い二人ずれが、ベンチや芝生の片隅で憩っていた。
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立能楽堂・・・組踊「雪払い(ゆちばれー)」

2016年11月01日 | 能・狂言
   今日の国立能楽堂の「◎古典の日記念2<雪舞う里に>」は、
   組踊  雪払い(ゆちばれー) 眞境名 正憲、親泊 興照  
   能  鉢木 坂井 音重(観世流)

   沖縄の組踊は、これまでに、能を本歌取りしたと言うか、能「羽衣」からの「銘苅子(めかるしー)」と能「道成寺」からの「執心鐘入」を見たのだが、非常に興味深かった。
   能に近い、動きを最小限に抑えた非常にシンプルな舞踊を伴った舞台劇と言った感じで、舞台も極めて単純化されているのだが、非常に優雅で素晴らしい古典芸能である。
   登場人物が、台詞を、非常に抑揚の利いたリズム感豊かに歌うように喋るのだが、これが、大変、美しく聞こえて心地よい。
   それに、バックの、能における地謡と囃子に相当するのが、謡を兼ねた3人の三線と、琴、笛、胡弓、太鼓の伴奏楽器による音楽だが、組踊や古典舞踊とともに、発展してきたと言い、非常に素晴らしくて、これを聴くだけでも値打ちがある。

   そして、衣装がカラフルで非常に美しい。
   私には、首里織と言うのか、びんがたと言うのか、良く分からないのだが、それに、古い時代の舞台を現出する所為もあるのであろうが、中国風と日本風を折衷しながら独自のスタイルを創り出したエキゾチックで美しい舞台衣装が、印象的である。

   組踊の役者は、男優で、歌舞伎と同じなのかどうかは分からないが、びっくりするほど、女形は女性的で美しく、今回、思鶴を演じた新垣悟は、仲間由紀恵に似た雰囲気で、実に優雅に品良く振舞い踊る姿は、特筆ものである。

   さて、この組踊「雪払い」は、能「竹雪」を脚色したもの。
   能「竹雪」は、喜多流と宝生流にしかない稀曲のようだが、組踊と違って、主の留守中に、姉弟の内、弟の方が継母に虐げられて、竹の雪を払われて極寒の中で死に絶え、竹林の七賢人の声で蘇ると言う話のようである。
   国立劇場おきなわのパンフレットによると、
   ”「雪払い」は、仇討物が多数を占める組踊のなかで、人間の愛情の機微を描いた数少ない世話物の作品です。姉弟がお互いに気遣いあう姿、継母にいじめられている子供が継母の窮地を救うそのいじらしさは、今も昔も人々の心を打ちます。また、物語の中で雪が降る設定も琉球芸能では珍しく、舞台上で幻想的に舞い散る雪もお楽しみください。”
   雰囲気を示すために、ポスターを借用する。
    

   最低でも、10℃くらいだと言う温かい沖縄で、雪が降る筈はないと思うのだが、口絵写真の能舞台のシテ柱後方の垣根が雰囲気を出している。
   地謡座に、まず、奥から太鼓、琴、三線3、胡弓、笛の順に音楽方が並ぶ。
   

   ところで、組踊は、古い言葉かどうかは分からないのだが、当然、沖縄言葉で演じられるので、少し分かる程度で、殆ど理解できないし、それに、能よりは動きがあるものの、舞台演劇とは違って、役者も能の直面のように表情を表さずに、非常に切り詰めて様式化された舞踊劇なので、ストーリーを知らずに舞台を見ているだけでは、中々、微妙なところまでは十分には楽しめない。
   国立能楽堂では、詞章がディスプレイされるのだが、これだけではダメで、私は、プログラムの訳を対照しながら鑑賞した。
   国立劇場おきなわで、琉球舞踊と組踊を、一度観たいと思っているのだが、上演される機会は、かなり、少ないようである。

   とにかく、私には、優雅で美しい組踊の雰囲気が好きで、それに、能に触発されて生まれた古典芸能でもあり、能を題材にしてストーリーを展開して、新しい古典芸能を生み出すと言う、文楽や歌舞伎とは、一味違ったエキゾチックな変容が、魅力である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする