この「御浜御殿綱豊卿」の舞台だが、私の記録では、2007年と2009年に、仁左衛門の綱豊卿、染五郎の富森助右衛門で、観ていることになっているのだが、仁左衛門の非常に格調の高いお殿様ぶりと能衣装を着けた素晴らしい姿が、印象に残っている。
吉右衛門や梅玉の綱豊卿を、国立劇場でも見ているのだが、仮名手本忠臣蔵とは趣の違った正攻法で赤穂事件に対峙したこの舞台は、いつ見ても感動する。
「御浜御殿綱豊卿」では、綱豊卿が、勘解由(新井白石)に向かって吐露しているのだが、大石達に仇討ちを成功させて武士道が廃れた軟弱な元禄の世直しをしたいと言う思いが、重要なテーマとなっている。
「勘解由、討たせたいのう。」「は、は。」「躯にかかわりなき事ながら、いささか世道人心のためにも、討たせたいのう。目出とう浪人たちに、本望を遂げさせてやりたいのう。」と言う言葉がすべてを語っている。
綱豊お気に入りの中臈お喜世への瑶泉院筋からや、綱豊の奥方の関白近衛家からの督促で、浅野家お家再興願いが、綱豊に来ており、将軍に願い出れば、認められるはずなのだが、大儀を通すべきか、綱豊は、逡巡しており、勘解由を呼んで確認したのである。
吉良の面体を見たくて御殿に入り込んだ赤穂浪士の富森助右衛門を呼びつけて挑発して、仇討ちの意思ありやなしやを詰問しながら、誤って大学の跡目相続を願うと言う失策を犯しながら、これと相矛盾する仇討ちをしようと決意して、内蔵助は、その葛藤と苦悶に苦しんでおり、そのことが内蔵助を遊興に走らせているのだと、綱豊卿に言わしめている。
綱豊が将軍に、大学の跡目相続を言上されて許されると、仇討ちの目的が消えてしまうのだが、明日、将軍に会うと言われて、切羽詰まった助右衛門が、
場面代わって、お喜世の導きで、御殿に来て能の舞台に登場する吉良上野介を闇討ちしようとする。
しかし、襲ったのは吉良ではなく綱豊で、取り押さえられて、「義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、本分をつくし至誠を致すことだ」と一喝される。
この最後のシーンは、原作では、能「船弁慶」と重なって演じられるようになっていて、綱豊は、知盛の出じゃと言って舞台に向かうが、この能には知盛は出ないし、また、お喜世が、助右衛門に、吉良がシテで出るので、それを襲えと示唆するも、吉良が、静御前を舞うと言うのも面白い。
とにかく、豪華で奇麗な舞台が展開されていて素晴らしい。
さて、この歌舞伎の舞台は、実際の真山青果の原作とは、少し違っていて、綱豊と助右衛門との対面部分は、殆ど、同じだが、茶亭のシーンや綱豊と勘解由との興味深い会話など、ところどころ、面白い、あるいは、冗長な部分が省略されている。
例えば、原作では、冒頭に、助右衛門が、妹のお喜世を訪ねて来て、お喜世に、無礼講の「お浜遊び」を見たいので庭番に頼んでくれと押し問答するシーンがあって、それを御年寄上臈浦尾に見つけられて、手紙を見せろと詰問される歌舞伎の舞台につながる。
どこから得た情報か、助右衛門だけが、主客上杉とともに吉良がやってくることを知っていて、顔を見たくてお喜世に頼むのだが、それを知らない他人は頓珍漢な会話を交わす。
この冒頭の舞台となる東屋風の茶亭に、綱豊がやって来て、中臈江島から、助右衛門のことを聞いて、お喜世から、助右衛門が赤穂の浪士だと知っているので、上野介の面体を見たいと言うのは当然で、侍心が失せぬ証拠と喜んで、生垣の間からなら大事ないと許し、勘解由との面談後、呼び寄せて、恐縮して逃げ腰の助右衛門に大義を説くのである。
散々嘲弄され、内蔵助の放蕩を責められて頭にきた助右衛門が、綱豊に、「あなた様には、六代の征夷大将軍のお望みゆえ、それでわざと世を欺いて、作り阿呆の真似をあそばすのでござりまするか!」と胸のすくような啖呵を切るのが、興味深い。
もう一つ、元々、大石家は、綱豊の奥方のさとの関白近衛家の重臣であり、名望高い内蔵助を是非に仕官させたいと思っており、浅野家の帰趨が決まらない限り首を縦に振らないので、浅野家再興を将軍から許しを得てくれと連日矢の催促で、奥方からも責められ、
それに、お喜世からも、寝物語で再興の願いを聞いており、
勘解由の母も元は浅野家の奥方つきの小女郎であった上に、
浅野内匠頭の切腹について御所から不興を買っているなど、早く、再興問題を処理せねばならないのだが、
「もし大石内蔵助はじめ赤穂浪人ら、かねて辛苦の本望遂げ、目出とう内蔵助臨終の鬱憤を晴らせしと、雲の上まできこえ上げなば、その時の御満足は大学頭が二万三万の瘦せ大名に取り立てられた時より、百層倍ご機嫌にかなうと思われるが、如何に?」と勘解由に、大学頭再興を将軍家に願い出たくはないと心情を吐露する。
これが、この舞台のテーマで、大石内蔵助の放蕩を、内蔵助が誤って先に大学頭の浅野家再興を願い出て、その為に、仇討の名目が立たなくなっている苦悶ゆえだと、綱豊の苦しい胸の内と重ねて、描き出しているところが面白い。
結果としては、大石内蔵助は吉良を討ち、
1709年に、将軍綱吉死去による大赦で許され、1710年に、大学は、新将軍徳川家宣に拝謁して改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を賜り旗本に復したのだが、果たして、それでよかったのかどうか、忠臣蔵ストーリーだけが、脚光を浴び続けている。
とにかく、仁左衛門の綱豊、染五郎の助右衛門は、絶品の出来で、私など、最初から最後まで感激して観ていた。
左團次の勘解由、時蔵の江島の脂の乗り切った貫禄と風格、
梅枝の初々しくて上品な佇まいなど、忘れられない。
