今日の国立能楽堂の普及公演は、次のプログラムであった。
解説・能楽あんない 仙境への憧憬―能「三笑」を巡って 林 望(作家)
狂言 二人袴 大藏 教義(大蔵流)
能 三笑 松山 隆雄(観世流)
女子高校の生徒が沢山鑑賞していたが、林望が、能「三笑」は、初めて能を観る人には、どうであろうかと言って笑わせていた。
しかし、中国の賢人隠者の佇まいや風光明媚な廬山の情景などを彷彿とさせるこの一寸エキゾチックな能は、日頃慣れ親しんでいる夢幻能とは違った面白さがあって良かった。
前半は、作りものの庵から出た慧遠禅師と、訪れてきた陶淵明と陸修静が、床几に掛けて対坐し酒を汲み語り合い、後半は、子方/舞童(松山絢美)が舞い、3人の賢者が、相舞いすると言う、60分のシンプルな(?)舞台なのだが、台湾の故宮博物館の絵画や中国で見た風物を思い出しながら、観ていて、結構面白かった。
この能だが、「廬山記」の故事「虎渓三笑」を題材にした唐能で、銕仙会によると、
”俗世を離れた山の中で、心おきなく語り合う三人の隠者。瀑布の音を背景に、三人が舞う酔狂の舞。薫り高い、中国絵画の世界。”
晋の慧遠 禅師(松山隆雄)は、廬山の東林精舎に隠棲して二度と虎渓の石橋を越えないと誓っていたのだが、訪ねてきた詩人の陶淵明 (会田昇)と 道士の陸修静(梅若紀彰)と酒を酌み交わし肝胆相照らす至福の時を過ごして、見送っていく途中、話に夢中になって不覚にも石橋を渡ってしまったので、三人で大笑いする。と言う話で、東洋画の画題として有名である。
儒教・仏教・道教における三人の賢者が、会って話しに夢中になって時を過ごすなどと言う異教間の交流が、一寸意外だが、今、李白の本を読んでいると、李白は、結構、高名な道士や隠者と交流して知識の涵養や精神形成に資したと言うことであるから、特に変わったことでもないのであろう。
尤も、この故事は、話に夢中になって虎渓を越えてしまったことを、虎の吠える声を聞いて気づいた三人が、大笑をしたと言うことなのであろうが、何かに夢中になって大切なことを忘れてしまうと言うことは、よくあることで、ほっとしている。
ところで、この能の舞台の虎渓にある廬山だが、3賢人の仰ぎ見たのもこのような風景なのであろうか。
インターネットから借用した写真を使わせてもらうと、


同時に上演された狂言は、大蔵流「二人袴」。
聟入り狂言の一つなのだが、ファザコンで、親離れ出来ない息子と子離れのできない親の物語で、一人で舅宅へ聟入りできない息子が、親について行ってもらい、用意した袴が、息子の分だけであったので、二人が舅に対面せざるを得なくなり、袴を取り合っている間に二つに裂けて、夫々、半分ずつ身につけて舅の前に出て、必死に後を見せずに押し通すのだが、舞を舞うはめになって後を見せて、大恥をかくと言う話である。
聟入りとは、 「結婚後,夫が初めて妻の生家を訪れ挨拶に行く儀式」と言うことで、この狂言でも、お初にお目にかかりますと言って相互に挨拶を交わすのだが、娘の親と全く会わずに妻を娶っていたのか、いまだに、不思議に思っている。
しかし、ダダをこねて聟入りを嫌がる息子に、弁慶の人形を買ってくれたらと行くと言われて、喜んで応じる親が、あの時代に居たのかと思うと、今の大学の卒業式への参加者が、学生より親の方が多くて、学校によっては、二回に分けて行うと言う現象も、異常でないのかも知れないと思っている。
解説・能楽あんない 仙境への憧憬―能「三笑」を巡って 林 望(作家)
狂言 二人袴 大藏 教義(大蔵流)
能 三笑 松山 隆雄(観世流)
女子高校の生徒が沢山鑑賞していたが、林望が、能「三笑」は、初めて能を観る人には、どうであろうかと言って笑わせていた。
しかし、中国の賢人隠者の佇まいや風光明媚な廬山の情景などを彷彿とさせるこの一寸エキゾチックな能は、日頃慣れ親しんでいる夢幻能とは違った面白さがあって良かった。
前半は、作りものの庵から出た慧遠禅師と、訪れてきた陶淵明と陸修静が、床几に掛けて対坐し酒を汲み語り合い、後半は、子方/舞童(松山絢美)が舞い、3人の賢者が、相舞いすると言う、60分のシンプルな(?)舞台なのだが、台湾の故宮博物館の絵画や中国で見た風物を思い出しながら、観ていて、結構面白かった。
この能だが、「廬山記」の故事「虎渓三笑」を題材にした唐能で、銕仙会によると、
”俗世を離れた山の中で、心おきなく語り合う三人の隠者。瀑布の音を背景に、三人が舞う酔狂の舞。薫り高い、中国絵画の世界。”
晋の慧遠 禅師(松山隆雄)は、廬山の東林精舎に隠棲して二度と虎渓の石橋を越えないと誓っていたのだが、訪ねてきた詩人の陶淵明 (会田昇)と 道士の陸修静(梅若紀彰)と酒を酌み交わし肝胆相照らす至福の時を過ごして、見送っていく途中、話に夢中になって不覚にも石橋を渡ってしまったので、三人で大笑いする。と言う話で、東洋画の画題として有名である。
儒教・仏教・道教における三人の賢者が、会って話しに夢中になって時を過ごすなどと言う異教間の交流が、一寸意外だが、今、李白の本を読んでいると、李白は、結構、高名な道士や隠者と交流して知識の涵養や精神形成に資したと言うことであるから、特に変わったことでもないのであろう。
尤も、この故事は、話に夢中になって虎渓を越えてしまったことを、虎の吠える声を聞いて気づいた三人が、大笑をしたと言うことなのであろうが、何かに夢中になって大切なことを忘れてしまうと言うことは、よくあることで、ほっとしている。
ところで、この能の舞台の虎渓にある廬山だが、3賢人の仰ぎ見たのもこのような風景なのであろうか。
インターネットから借用した写真を使わせてもらうと、


同時に上演された狂言は、大蔵流「二人袴」。
聟入り狂言の一つなのだが、ファザコンで、親離れ出来ない息子と子離れのできない親の物語で、一人で舅宅へ聟入りできない息子が、親について行ってもらい、用意した袴が、息子の分だけであったので、二人が舅に対面せざるを得なくなり、袴を取り合っている間に二つに裂けて、夫々、半分ずつ身につけて舅の前に出て、必死に後を見せずに押し通すのだが、舞を舞うはめになって後を見せて、大恥をかくと言う話である。
聟入りとは、 「結婚後,夫が初めて妻の生家を訪れ挨拶に行く儀式」と言うことで、この狂言でも、お初にお目にかかりますと言って相互に挨拶を交わすのだが、娘の親と全く会わずに妻を娶っていたのか、いまだに、不思議に思っている。
しかし、ダダをこねて聟入りを嫌がる息子に、弁慶の人形を買ってくれたらと行くと言われて、喜んで応じる親が、あの時代に居たのかと思うと、今の大学の卒業式への参加者が、学生より親の方が多くて、学校によっては、二回に分けて行うと言う現象も、異常でないのかも知れないと思っている。