三保の松原からバスに乗って、港橋で下車して、次郎長生家を目指した。
清水の街を南北に横切って、清水港に流れ込む巴川にかかる港橋を渡るのだが、その手前に、明治19年に次郎長が清水波止場に開業した船宿を復元したと言う「清水港船宿記念館末廣」が立っている。
この橋から下流の岸には、船泊がところどころにあって、数百メートル先には波止場がある。
次郎長は、明治維新後、清水港振興や三保の塩田開発などに尽力し、英語塾を開くなど、晩年は、子供も好きな「波止場のおじいさん」として親しまれたと静岡市の観光案内に書いてあるのだが、明治26年まで生きていたのであるから、幕末と明治維新を駆け抜けた侠客であると同時に事業家でもあったのであろう。
私の次郎長のイメージは、すべて、映画からなので、切った張ったの世界ばかりであり、博打を止めた後のこのような裏面史は全く知らないので、維新の変革の凄まじさを感じて面白かった。
月曜日で、休館のため、船宿の中には入れなかった。


橋を渡って、川に並行した一筋奥に入った商店街が、次郎長通りで、この通りに沿って奥まったところに、次郎長生家がある。
昔は、繁華で賑やかな商家や店の並んだ大通りであったのであろうが、今や、時代の流れに逆らえないのであろうか、シャッター通りとなっていて、開いている店が少ないので寂しい。
三保の松原への道路沿いに、かなり大きな整備されたショッピングセンターが出来ていたので、商店街としては、必須な店だけしか残っていないのであろう。



次郎長生家は、間口三間弱くらいであろうか、次郎長ののれんが掛かっているので、それと分かるのだが、小さな商家か蕎麦屋の雰囲気である。
昭和の初期まで、次郎長の子孫が住んで居たと言うのだが、京都の町家のように奥に長く、坪庭のような中庭もあって、昔の住居の面影が残っていて、それに、古い日本を感じたくて訪れたので興味深かった。
尤も、昔懐かしい雰囲気は、この次郎長生家だけで、清水も、静岡市の清水区で都会の一角であった。





波止場に出た。
天気も良かった所為もあろうが、非常に、よく整備された奇麗な港であった。
大きな船は、貨物船一隻くらいなのだが、横浜へ向かう巨大な観光客船が立ち寄るのだと言う。
湾の奥に、ヨットハーバーがあったり、商業施設があったり、多目的の港湾なのであろう。


日の出桟橋から、清水港クルーズ船に乗って、清水湾を一周して、清水港などを船上から展望した。
晴天だったが、風が強くて、船は航路を安全ルートに変更したので、外洋の方へはあまり出なかった。
富士山は、ガス模様の空に霞んで、殆ど見えなかったので、3階のデッキからの展望は、湾を取り巻く港や工場の風景や、興津のコンテナ埠頭から清水市方向、それに、三保の松原方面なのだが、湾の周りには、色々な生活空間が広がっていて非常に興味深かった。
昼食時間をセーブするために、駅弁クルーズにしたのだが、結構、遠足気分で面白かった。












特に、他に目的もなかったので、清水駅に行ったのだが、改札に入った瞬間に、隣の駅との間の踏切で列車と人が接触したので、運休すると言う放送が入った。
上りも下りも列車は、少なくとも2時間くらいは動かないであろうと言う。
こう言う時は、危機管理の常として、素早く代替手段をとることだが、バス便は駄目なので、静岡鉄道で、新清水から新静岡に出て、新幹線に乗る以外に方法はない。
結局、タクシーを乗り継いて新幹線こだまに乗って小田原経由で、鎌倉に帰ったのだが、両方の駅は大分離れていたけれど、並行して走っている電車があったから助かったのである。
清水の街を南北に横切って、清水港に流れ込む巴川にかかる港橋を渡るのだが、その手前に、明治19年に次郎長が清水波止場に開業した船宿を復元したと言う「清水港船宿記念館末廣」が立っている。
この橋から下流の岸には、船泊がところどころにあって、数百メートル先には波止場がある。
次郎長は、明治維新後、清水港振興や三保の塩田開発などに尽力し、英語塾を開くなど、晩年は、子供も好きな「波止場のおじいさん」として親しまれたと静岡市の観光案内に書いてあるのだが、明治26年まで生きていたのであるから、幕末と明治維新を駆け抜けた侠客であると同時に事業家でもあったのであろう。
私の次郎長のイメージは、すべて、映画からなので、切った張ったの世界ばかりであり、博打を止めた後のこのような裏面史は全く知らないので、維新の変革の凄まじさを感じて面白かった。
月曜日で、休館のため、船宿の中には入れなかった。


橋を渡って、川に並行した一筋奥に入った商店街が、次郎長通りで、この通りに沿って奥まったところに、次郎長生家がある。
昔は、繁華で賑やかな商家や店の並んだ大通りであったのであろうが、今や、時代の流れに逆らえないのであろうか、シャッター通りとなっていて、開いている店が少ないので寂しい。
三保の松原への道路沿いに、かなり大きな整備されたショッピングセンターが出来ていたので、商店街としては、必須な店だけしか残っていないのであろう。



次郎長生家は、間口三間弱くらいであろうか、次郎長ののれんが掛かっているので、それと分かるのだが、小さな商家か蕎麦屋の雰囲気である。
昭和の初期まで、次郎長の子孫が住んで居たと言うのだが、京都の町家のように奥に長く、坪庭のような中庭もあって、昔の住居の面影が残っていて、それに、古い日本を感じたくて訪れたので興味深かった。
尤も、昔懐かしい雰囲気は、この次郎長生家だけで、清水も、静岡市の清水区で都会の一角であった。





波止場に出た。
天気も良かった所為もあろうが、非常に、よく整備された奇麗な港であった。
大きな船は、貨物船一隻くらいなのだが、横浜へ向かう巨大な観光客船が立ち寄るのだと言う。
湾の奥に、ヨットハーバーがあったり、商業施設があったり、多目的の港湾なのであろう。


日の出桟橋から、清水港クルーズ船に乗って、清水湾を一周して、清水港などを船上から展望した。
晴天だったが、風が強くて、船は航路を安全ルートに変更したので、外洋の方へはあまり出なかった。
富士山は、ガス模様の空に霞んで、殆ど見えなかったので、3階のデッキからの展望は、湾を取り巻く港や工場の風景や、興津のコンテナ埠頭から清水市方向、それに、三保の松原方面なのだが、湾の周りには、色々な生活空間が広がっていて非常に興味深かった。
昼食時間をセーブするために、駅弁クルーズにしたのだが、結構、遠足気分で面白かった。












特に、他に目的もなかったので、清水駅に行ったのだが、改札に入った瞬間に、隣の駅との間の踏切で列車と人が接触したので、運休すると言う放送が入った。
上りも下りも列車は、少なくとも2時間くらいは動かないであろうと言う。
こう言う時は、危機管理の常として、素早く代替手段をとることだが、バス便は駄目なので、静岡鉄道で、新清水から新静岡に出て、新幹線に乗る以外に方法はない。
結局、タクシーを乗り継いて新幹線こだまに乗って小田原経由で、鎌倉に帰ったのだが、両方の駅は大分離れていたけれど、並行して走っている電車があったから助かったのである。