熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

(24)ロンドンでシェイクスピア戯曲を鑑賞する その2

2021年06月11日 | 欧米クラシック漫歩
   私が、ロンドンで最初に観たRSCのシェイクスピア戯曲は、「ヘンリー4世 第1部」で、この舞台の印象が強烈であった。シェイクスピアは、決して大劇場で演じられるような華麗な芝居だけではないことを思い知らされたのである。
   この当時は、テームズ河対岸のグローブ座は、まだ姿を現していなかったので雰囲気は良くは分からないのだが、バービカンのこじんまりとした小劇場では、色と欲に突っ張った無頼漢たちの生き様を活写するためには最適で、酒気がムンムン漂った下町の雑踏が似つかわしい。日本の能や歌舞伎の舞台は、虚実皮膜と言うべきか、舞台は美しいし観客に不快感を与えることは少ないが、このシェイクスピアの場合には、写実もいいところで、生身の人間の姿がそのまま演出されており、タイム・スリップして、16世紀のイギリスの田舎町のうらぶれた居酒屋で、教養の欠片もないファルスタッフたちと一緒に酔い潰れて居るような錯覚に陥るほどリアルであった。必要なら、腸を曝け出すこともあると言う実にリアルな舞台に洗礼を受けて、私のシェイクスピア行脚が始まったということである。

   尤も、演出にも依るであろうし、シェイクスピアは、戯曲だけでも、史劇、悲劇、喜劇等バリエーションに富んだ36有余の作品を残している。その後、シェイクスピアの舞台は少なくとも24~5くらいは鑑賞したので、エイドリアン・ノーブルの「冬物語」などメルヘンチックの美しい叙情的な舞台や起承転結の激しいドラマチックな舞台など、流石にシェイクスピアで、奥行きと幅の広さ、戯曲の豊かさに感激し続けたのは、勿論である。

   1980年代の後半であるから、もう、30年以上も前の青臭いシェイクスピア戯曲観劇初期のロンドンでの独白だが、幼稚は幼稚として、懐かしいので、以下に転記しておきたいと思う。

    これまで、日本でもそれほど芝居を観たわけでもないが、ここにきて、芝居をする、演技をすると言うことがどう言うことか、観劇に少し馴染んできたような気がする。舞台では、丁度歌舞伎のように、大きな声で少し大仰な演技をする。台詞にしても、何千人かの総ての客に分かるように喋らなければならないので当然無理が出る。これは、映画やテレビのように、きわめて自然な演技に比べて、全く違っており地で行くわけには行かない。映画やテレビは、沢山の映像の集合でありその編集であるので、やり直しが効き、どの方向からも撮影が可能であるが、芝居は、観客一人一人の個の一方向からの視点でしか見せられない一回限りの一瞬で消えてしまう演技である。その一瞬が勝負で、極論すれば、表情に万感の思いを込めて、時には思想や哲学をも込めて、この芝居がかった演技で、観客を引き摺り込まなければならない。全身をはっての真剣勝負なのである。
   少し後になって、ケネス・ブラナーの「ハムレット」をバービカン劇場へ聴きに行ったが、「To be or not to be, that is the question.」心して聴き入った。
   ブラナー監督主演の映画「ハムレット」を観たのは、その後のことである。

   余談だが、サー・アントニー・シャー(「恋に落ちたシェイクスピア」に出ていた変な腕輪を売りつけた占い師)が、RSCの「マクベス」で来日した時に、正に絶品のイアゴーを演じていたが、終演後のレセプションで会って色々話を聞きながら、次の大役は「オセロー」ですねと言ったら、あの役は黒人など有色人の役者がやることになっていて白人の自分はやれないのだと言っていた。(オリビエのオテロは映像で残ってはいる。)ついでながら、真田広之が道化で出演しナイジェル・ホーソーンなどイギリス人ばかりで演じたRSCのニナガワ「リア王」は、何故だったのか理由は聞けなかったが、一寸納得できないと言っていた。

   舞台俳優出身の役者が、映画やテレビに出ることが多いが、実に上手いと思う。映画出身の俳優との差は、このような藝の積み重ねの差のように感じている。栗原小巻はファンだったので、「肝っ玉おっ母とその子どもたち」など劇場にも行ったし、ロンドンで蜷川幸雄のマクベス夫人も観たが、あのような舞台での演技があって、寅さんの小巻があるような気がする。第36作の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」で、マドンナの小巻が、平凡なロシア語学者と結婚すると決心したときに、空を仰いで、「もう、身を焦がすような恋とも・・・」と独白するシーンがあるが、これは、舞台女優としての小巻の演技であって、なぜか、妙に忘れられなくて印象に残っている。

   イギリスでは、ローレンス・オリビエやリチャード・バートンなど多くの名優がシェイクスピア役者からスタートしている。また、このようなバックグラウンドの英国人が、ハリウッドの映画俳優のかなりを占めている。
   RSCの公演に通い詰めていて、シェイクスピア役者が、芝居は勿論、歌も歌えて踊りも踊れる、芸達者であることを知って驚いた。
   このイギリスに於いて、シェイクスピア劇が、オペラやミュージカル、バレエ、あるいは、その他の劇場での演劇や映画やテレビに与えた影響は計り知れず、沢山の素晴らしいパーフォーマンス・アーツのみならず、文化芸術への貢献には著しいものがある。特に感じ入っているのは、イギリス出身のオペラ歌手が、総じて、演技が秀逸で、役者顔負けであることである。

   あのヴェルディでさえ、晩年になって、シェイクスピアに挑戦した。シェイクスピアの戯曲で、オペラやバレエになっている例がかなりある。オテロ、マクベス、リア王、ロメオとジュリエット等々、とにかく、シェイクスピアは、人間にとって永遠のテーマを提供しているのであるから、オペラ作家など芸術家をインスパイアするのは、当然なのであろう。ダンテの「神曲」や、ゲーテの「ファウスト」が、文化芸術に多大の影響を与えたのと同様である。
   観劇記は、次の項にしたい。
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