熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

(25)ロンドンでシェイクスピア戯曲を鑑賞する その3

2021年06月16日 | 欧米クラシック漫歩
   シェイクスピアのオペラやバレエについて書いたが、やはり、興味深い大作は、ベルディで、それも最晩年に挑戦したという「マクベス」、「オテロ」、それに、「ウインザーの陽気な女房たち」を改題した「ファルスタッフ」である。私は、主に、ロイヤル・オペラとイングリッシュ・ナショナル・オペラでだが、それぞれ、複数回は劇場で観ているのだが、何故か、最も印象に残っているのは、ウィーン国立歌劇場の幻想的で美しい「ファルスタッフ」の舞台である。戯曲の舞台の方は、RSCだが、その度毎に演出が変っていたが、ウィンザーの方は喜劇なので、ファルスタッフのキャラクターや振り付けのバリエーションが面白かった。

   晩年のヴェルディが、悲劇ではなく喜劇に興味を示して、シェイクスピアのタイトルの陽気な女房たちの代わりに、無頼漢のファルスタッフを題名にして、主役を入れ替えて作曲までしたのが興味深い。ここに出てくるサー・ジョン・ファルスタッフやサー・フォードも、紳士のジャンルからは程遠い俗物で、フォード夫人もページ夫人も、いわゆるレイディではさらさらなく、これらの泥臭い生身の人間たちが、恋と欲のドタバタを演じて、最後は笑い飛ばして幕となる。
   エリザベス女王が、ファルスタッフが恋をする芝居が観たいとご所望になったのでシェイクスピアが書いた芝居だと言われているが、徹底的に虚仮にされているのだが、ヘンリー4世やヘンリー5世に登場するファルスタッフよりは、随分血の通った人間的と言おうか、好意的に描かれているのが面白い。
   いずれにしろ、まだ、ところどころ中世の面影が残っているウィンザーの街を歩きながら、どの辺りで、ファルスタッフが陽気な女房たちを口説いたのか、どの河畔で、ファルスタッフがテームズ河に投げ込まれたのか等と考えてみるのも散策の楽しみである。

   さて、観劇記だが、「ロメオとジュリエット」、
   RSCの舞台は、どの場面にも使える大きな幕を壁にしたシンプルなものであった。
   ロメオとジュリエット、乳母、そして、牧師の演技に注目してみていた。ロメオは、ヘンリー4世の舞台で、ハル王子を演じていたマイケル・マロニーで、少し小柄でドスの効いたしわがれ声ながら、若くて溌剌としたロメオを骨太に演じていた、クレア・ホールマンのジュリエットは、美人ではないのだが初々しくて可愛くてイメージ通りの仕草が印象的であった。乳母のシエラ・リードは、そこはベテラン、どこか間の抜けたワンテンポずれた演技が、この悲しい悲劇の救いであった。
  それから、大分経ってから、この戯曲の舞台となったベローナを訪れて、ジュリエットの家と称される館などを訪れて、戯曲の雰囲気を楽しんだのだが、二度訪れていて、一度は、アレーナ・ディ・ヴェローナ、すなわち、ローマ時代の壮大な野外劇場でのグランド・オペラの鑑賞で、「アイーダ」と「トーランドット」を楽しんだ。

   バレエの「ロメオとジュリエット」は、プロコフィエフの作品。
   ロイヤル・バレーで、ジュリエットは、実質的には引退していたナタリア・マカロワだったが、信じられないほど初々しい感動的な公演であった。
   この日の公演は、ロイヤル・ガラで、ダイアナ妃が、グランド・ティアの中央右寄りに座っていて、ブルーのワンピースが映えていた。舞台がはねてもオペラハウスの正面は立錐の余地もないほどの人だかりで、動けないのを幸いに仲間に入って待っていると、ダイアナ妃が出てきて、微笑みながら、ほんの数メートル先でジャガーに乗り込んだ。
   もう一度、ロンドン交響楽団の定期でベートーヴェンの第九のコンサートの時、開演前に少し遅れて劇場に行ったら、ロビーにロープが張られて通路を人が遠巻きにしており、誰が来るのだと聞くとダイアナ妃だと言う。偶々、私の隣に、彼女の親戚がいて「マム」と呼びかけると、ダイアナ妃が近づいてきて、小さな花束を受け取り二言三言。上が銀鼠色で下が黒のツートンカラーの裾の長いワンピースが優雅で、実に美しい。
   実は、この少し前に、ある建設プロジェクトのレセプションで、会場入り口で、お出迎え4人の内の1人で列に並んで握手をして、お話申し上げる機会を得て、儀式中ずっと、ダイアナ妃の真横に立っていたと言う貴重な経験をしている。大きなブロマイドにサインされている間、許されると思って、ご尊顔を拝したが、しとやかで凄い美人であったのを強烈に覚えている。

   ところで、オペラは、ベルリーニのタイトルを替えた、「キャプレッティとモンテッキ」。
   これは、ロイヤル・オペラの公演で、メゾソプラノのアンネ・ゾフィー・フォン・オッターのロメオと、英国の若いソプラノのアマンダ・ロークロフトのジュリエットであった。ズボンもので人気絶頂のフォン・オッターが、実に壮快なロメオを演じて、スターの居ないキャストながら素晴らしい舞台であった。悲劇そのものであるRSCの舞台とは違って、リアルさにはかけるが、音楽で表現する分、それだけ想像と雰囲気で補うので、オペラの場合は、どうしても情緒的で美しく終ってしまう。

   もう一つ、新年になって、バービカン劇場に行って観たのは、RSCのシェイクスピアの「間違いの喜劇」。
   この戯曲は、船の難破で別れ別れになった二組の双子が成人してから出くわして、取り違えられて巻き起こすドタバタ喜劇である。
   ドイツ語圏では、年末年始に、シュトラウスの喜歌劇「こうもり」が、上演されるのが恒例となっているようだが、(私は、ウィーン国立歌劇場で観る機会を得たが、)シェイクスピアの方も、喜劇で笑い飛ばして、新年を迎えるのも趣向であろう。
   この舞台は、サルバトール・ダリの振り付けで、とにかく派手な、しかし、きわめてシンプルであった。三面の壁面は、長屋形式のドアだけで、正面だけメインドアになっていて、これが、邸宅の入り口になったり、教会の入り口になったりして、二幕の芝居が展開される。衣装は、派手な現代風のセビロ、スーツ姿であり、非常にエロチックな娼婦まで登場する。
   シェイクスピア戯曲の場合、舞台が僅かなシーンの展開で、場所や時間が次々と飛んで進行するので、舞台を、オペラや普通の芝居のように固定できないので、とにかく、それに適応した瞬時に舞台転換が可能な、シンプルで多様性のあるセットが必要となる。
   蜷川シェイクスピアは、それを意図して、非常に素晴らしい舞台展開をしているが、やはり、日本の多くの舞台は、大劇場で演じられることが多いので、固定式の派手な舞台セットが多いような気がする。
   私は、初めて、イギリスで、RSCのシンプルで簡素な舞台で、照明やスポットの移動等で展開されるシェイクスピアを観て、やはり、シェイクスピアは聴きに行く戯曲なのだと言うことが分かったような気がしたのである。
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