熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ジャック・アタリ:コロナで観光は富裕層だけのものになる

2021年06月10日 | 政治・経済・社会
   ジャック・アタリが、日経朝刊の”「観光」でうらなう産業の未来”というコラムで、
   我々はコロナ危機から得た教訓を忘れてはならない。新たな疫病のまん延を防ぎ、化石燃料の消費を減らし、文化遺産や自然環境を保護するには特に外国旅行を規制する必要があるということだろう。誰もが気軽に外国旅行に出かけるような以前の観光スタイルは、疾病のまん延や地球温暖化、自然環境の破壊などの原因の一つといえる。いままでの観光スタイルを改めなければ、問題解決のための取り組みは徒労に終わる可能性がある。
   と、述べている。
   さらに、コロナ危機後の観光について考えられるのはまず、「観光を楽しむのは富裕層だけ」という政策になる。正規運賃の航空券を購入可能で、(国や自治体は自然環境や景観などを保護するため、ホテルの部屋を供給制限するので)高額な宿泊費を負担できる人々だけが観光する。ほかには、毎年の上限の人数を設定し、抽選や割り当てによって観光客を受け入れるという民主的な政策がある。例えばパリのルーヴル美術館はこうした政策を選択するかもしれない。ルーヴルが(長期的に)選択すれば、フランス全体の外国人旅行者の人数にも大きな影響をおよぼすに違いない。
   と、畳みかけて、観光は、富裕層のみが楽しむものになるという。
   アタリの論文趣旨は、ホスピタリティの活用についてだが、この観光の大衆化からの後退について考えてみたい。

   私の場合、旅行と現地生活を通じて、特に、ヨーロッパで、1973年くらいから今世紀初め頃までに経験しているのだが、急速に、観光が大衆化したのを覚えている。
   一番顕著なのは、有名な観光スポットで、例えば、グラナダのアルハンブラ宮殿など、1970年代には、いつでも好きなときに行けば、スイスイ入れたし、何時行っても存分に旅情と静寂を楽しめたが、世紀末には、チケット売り場から長い行列が出来て、中に入っても部屋ごとに誘導されて短時間で移動させられた。ウフィッツィ美術館なども同様で、入館自体が至難のわざとなり、イタリアの観光地など、特に、混雑が激しく、予定通り移動など出来なくなってしまった。
   Japan as No.1から凋落して不況下にあった日本とは逆に、中国が台頭しアジアの虎:香港・台湾などが成長を謳歌していた時期で、中国系の観光客がワンサと押しかけていったのだが、ヨーロッパの文化や芸術を鑑賞して愛でると言った雰囲気には程遠かったので、大衆化が極に達したのである。

   ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドメニコ会修道院の食堂にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画『最後の晩餐』だが、今でも全く幸運だったと思うのは、廃墟の状態下にあった1970年代と、その後の修復期、そして、完全に修復を終えて綺麗になった状態の三回に亘って鑑賞出来たことである。
   そして、今世紀初めに、それまでのローマやナポリ、ミラノ、ヴェニス、ヴェローナなどとは違って、アッシジ、シエナ、ピサに足を伸ばして、田園地帯を電車とバスで歩いたのだが、中世にタイムスリップしたような、懐かしいイタリアを感じて幸せであったが、もう、そんな経験は出来ないであろう。

   いずれにしろ、ヨーロッパに8年間住んでいて、そのクリスマス休暇と夏休み休暇(休まないと秩序を乱すことになる)中に、自分自身の計画とアレンジで、ヨーロッパ各地を気ままに行脚したのだが、随分荒削りの旅だったが、若かったから強行出来たのであろう。写真を見ながら、望郷の思いである。
   やはり、異国の旅は、足腰がしっかりしていて頭が冴えている若い元気なときにこそ、やるべきだと思っていて、今なら、こんなヨーロッパ旅行は無理であろう。孫娘の幼稚園への送り迎えが終って自由になった来年春に、せめても、ニューヨークへ行って、METでオペラに通って、メトロポリタン美術館などに沈没して芸術鑑賞に明け暮れて、できれば、我が学び舎フィラデルフィアへのセンチメンタル・ジャーニーをしたいと思っているのだが、体力次第であろうか。
   
   ところで、アタリの言う観光の大衆化と、観光を楽しむのは富裕層だけと言う見解だが、既に、観光は思い出の彼方にある私にとっては、どっちでも良いことで、時代の流れで推移することである。
   米アマゾン・ドット・コムCEOのジェフ・ベゾスが、自らが創業した宇宙開発企業ブルーオリジン初の有人宇宙船「ニューシェパード」に搭乗して宇宙旅行に出発すると言うことだが、同時に宇宙船のチケットは1枚だけ、オークションで取引されており、現時点で入札価格は350万ドルだと報じられている。
   観光もカネだというアタリの見解には、嫌な予感がするが、昔の旅が懐かしい、
   京都での学生時代には、詩仙堂の3階の狭い小部屋にも入れて庭を鑑賞出来たし、嵯峨野の祇王寺も滝口寺も、鬱蒼とした森の中を踏み分けて訪れた。詩情豊かな世界が濃厚に残っていたのである。

   さて、話は関係なく飛ぶが、
   国立能楽堂で7月27日から8月3日にかけて公演される”東京2020オリンピック・パラリンピック能楽祭 ~喜びを明日へ~”は、能狂言の各流派の宗家や人間国宝などトップ能楽師が出演する、翁や道成寺など極めつきの記念公演なのだが、本来なら、今日の予約解禁日の10時には、瞬時にソールドアウトになってしかるべきチケットが、夜になっても、全公演でかなり残っている。
   これも、アタリ現象であろうか。
   昨年の2月から東京の劇場へは、一度も行っていないし、行けるかどうかも分からないのだが、コロナのワクチンも打ち終わった後だしと思って、一演目だけ予約を入れた。
   9月頃から、観劇を少しずつ初めてみたいと思っている。
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