熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春大歌舞伎・・・幸四郎の「俊寛」

2009年01月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   一昨年の初春歌舞伎も「俊寛」が舞台に掛かったが、俊寛が吉右衛門から幸四郎に代わったのみならず役者が全部代わって、舞台設定は同じだが、雰囲気ががらりと変わった。
   同じ吉右衛門や幸四郎の芸を継承している筈の兄弟だが、例えば、赦免状に俊寛一人が抜け落ちていることを知った時の対応にしても、確か、吉右衛門は、手足を刷り合わせて地面をのた打ち回って哀切の限りを演じていたが、幸四郎は腑に落ちないと言った理知的で冷めた演技を優先するなど差があり、印象が大分違っていたのが面白い。

    この作品は、近松の晩年の作で自筆原稿が残っているようだが、実際に読んだわけではないので分からないが、平家物語の中の俊寛の方が自然な感じがするので、何故、近松が、この浄瑠璃のような話に脚色したのか、興味を持っている。

   平家物語の俊寛は、心も猛々しい無骨な男で、喜界が島に島流しにあったあとの二人(丹波少将成経・染五郎、平判康頼・歌六)は、信心深く、島に熊野権現を祀って毎日帰還を祈り、歌を添えて流した千本の卒塔婆のうち一つが厳島に流れ着き清盛を感激させるなどそれなりの努力はしているが、俊寛は全く無関心。
   赦免が許されないと知ると、少将の袂に縋り付き、お前の親父がつまらぬ謀反を企んだからこんなことになったのだと毒づく始末で、自分勝手に帰り支度をして船に乗り込もうとする。
   艫綱が解かれると、綱に取りついて、足が立たなくなると船端にしがみ付いて九州まで連れて行ってくれと口説くが使いの者に手を引き離される。
   仕方なく渚に上がり倒れ伏して、子供のように足摺りして「連れて行け。乗せて行け。」と喚き叫ぶ。
   まだ遠くに行っていないが、高いところに上って、涙にくれて見えなくなった船に手招きする哀れさ悲しさは、松浦小夜姫の比ではなかろうと琵琶法師は語る。

   この近松本で、大きく平家物語を脚色した点は、最愛の妻あづまやが、清盛に迫られて拒絶したので殺されてしまったことを聞かされて、生きて都へ帰る意味がなくなったと思って、少将の現地妻である海女千鳥(芝雀)を代わりに乗船させて、自分ひとり島に残ると言う設定にして、俊寛を義の人として主人公にしたことであろうか。
   そうなると、島に一人取り残されて、子供のように喚き泣き叫ぶ俊寛ではなく、強い義侠心と決意の結果から生まれ出た別れの悲しさ寂寥感である筈で、平家物語の俊寛とは全く違った幕切れであるべきであろう。

   ところで、平家物語によると、俊寛の北の方は、命を懸けて操を守り抜いたのではなく、鞍馬の奥に移り住み、鬼界が島に連れて行けと俊寛に纏わりついた幼女を亡くして悲嘆にくれて亡くなった。
   「有王島下り」の章で、俊寛が可愛がって使っていた童・有王が、鬼界が島を訪れて、俊寛にこの話をすると、妻子にもう一度会いたいばっかりに生きながらえて来たのだが、一人12歳の娘を残すのは不憫だけれど、これ以上苦労をかけるのも身勝手であろうと絶食して死んでしまう。
   歌舞伎では、妻あづまやが清盛に殺されてこの世に居ないと使いの瀬尾太郎兼康(彦三郎)に憎憎しく毒づかれ、一挙に、千鳥乗船の決意が固まり瀬尾を殺して罪人となるのだが、平家物語でも、妻への思いのみが俊寛の生きがいであったことを語っており、
   それだけに、この舞台で唯一明るい少将と千鳥の祝いの杯と、俊寛のふたりの門出を祝うひとさしの舞が、あづまやへの愛を象徴していて大きな意味を持つ。

   この歌舞伎で、最初からよろよろしながら藻屑をぶら下げて俊寛が登場するが、このように憔悴しきった俊寛の姿は、二人が京へ帰った翌年の有王下りの時で、三人揃っていた頃には、二人が夜具や法華経を形見に残しているので、もう少しましな生活をしていたのであろう。
   いずれにしろ、俊寛をどのような姿で演じるかが歌舞伎役者の力量だが、近松が、架空の人物千鳥を登場させて、登場しない筈の妻を前面に押し出して、赦免状に洩れた悲哀を犠牲的正義感に変えて行くところから、大きく俊寛の心の展開が開けて行き、最後の、高みに上って船陰を、声も枯れて茫然自失の空ろな目で見送る俊寛の孤独が生きて来る。

   理屈が長くなってしまって、実際の芝居の感想が書けなくなったが、やはり、幸四郎は千両役者で、お家の芸と言うだけではなく、計算し尽くした緻密に積み重ねた芸を披露しながら、俊寛の人間的な悲しさ孤独感、それに、腐っても鯛である法勝寺の執行としての風格を滲ませていて、実に上手い。
   唯一の女形の芝雀の千鳥だが、吉右衛門の「日向嶋景清」の糸滝の芝雀を思い出して見ていたが、初々しさと健気さ、それに、癖のない素直な演技が実に良く、祝いの杯で、嶋の湧き水を「酒と思う心が酒」と粋なことを言う。
   颯爽とした梅玉の丹左衛門尉基康も良いが、彦三郎の憎々しい赤面の瀬尾も正に適役である。
   俊寛の引き立て役のような染五郎と歌六の二人も、夫々存在感のある充実した演技で、初春歌舞伎に華を添えていて素晴らしい。
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