7月22日東海道新幹線で、保守用車両の衝突事故で、一部運休した。
NHKテレビでは、海外からの旅行者の苦衷を放映していた。安心だと全幅の信頼を置いていた日本で、旅行初日にこの事故に遭遇したブラジル人は深刻であった。
傘寿越えまで生きていると、交通事故などで、旅行が無茶苦茶になって困った経験がいくらでもあるのだが、もっと、困るのは、先のブラジル人のケースのように、外国での事故やアクシデントとの遭遇による難儀である。
私の場合、海外生活や外国旅行が、比較的多くて、海外生活に慣れている人間でも、外国での旅の困難は嫌である。
海外生活が12年、それに、出張や個人旅行などを含めて、30年以上も海外での行き来があって、訪問した国が30か国をゆうに超えていることを考えれば、事故などのトラブルは少なかったし深刻な思いをしなくて済んだように思う。
しかし、それでも思い出したくないことも結構ある。
最初のトラブルは、スペインのマドリードからグラナダへ行く飛行機で、朝早くから夜遅くまで飛行機が飛ばずに空港で待たされたことである。
丁度その日が、冬時間から夏時間への移行日で、1時間の時刻調整をイベリア航空がミスって、航空機の発着がマヒしてしまったのである。
グラナダに着いたのは、深夜をはるかに過ぎていて、空港は殆ど消灯して閉鎖状態で、ホテルだけは予約していたのだが、タクシーもなければどうしてホテルに行けばよいのか困ってしまった。
幼い娘との家族旅行であったので、一人二人残っていた人に拝み倒して車を手配して這う這うの体で宿に着いた。
翌朝のアルハンブラ宮殿の思い出は強烈で忘れられない。
もう、40年以上も前の話である。
南米では、ボリビアのラパス空港が停電で着陸できずに、隣のペルーのリマ空港に深夜に着いて、翌日引き返したのだが、商談がおかしくなったことがある。
もう一つ南米だが、飛行機が飛ばなくて、困った思い出は、アルゼンチンのバリローチェでのこと。ここは、ディズニーの「バンビ」の舞台となった美しい保養地なのだが、田舎空港で、この便しかなく、悪天候で運休となって、1日足止めとなって、その後の旅行に齟齬を来した。
遅延、運休、キャンセル、飛行機のトラブルは随分経験したが、とにかく、乗り切ってきた。
これは、事故でもトラブルでもないが、今思い出しても冷や汗が出るのは、ハンガリーのブダペストのこと。
丁度、ベルリンの壁の崩壊前後で、真っ先に門戸を開いたハンガリーに、取引先のT代表に招待されて訪れたのだが、当時外貨規制か、外国人が宿泊できる真面な外資系ホテルは、特別な外国人しか宿泊させず、ハンガリー人による予約を一切拒否していたので、Tは仕方なく、休暇で空いている知人の家を宿にしてくれていた。
鬱蒼とした森の中の一軒家で、荷物を置いてから、T宅に行き、商談と会食で有意義な時を過ごし、深夜過ぎに、タクシーを呼んで宿に帰ることにした。
ところが、その宿が昼の雰囲気と違う。何んとなく嫌な予感がして、門の外で運転手を待たせていたので、ハンガリー語でしか通じないのだが、僅かに分かるドイツ語などを交えて四苦八苦して、運転手に元に帰ることを納得させた。
再びTの指示で宿に引き返した、門灯の明かりを頼りにカギを差し込むと幸いに空いた。
家に入ると、リビングに誰か人が寝ている。聞いていないので気になったが、疲れてヘトヘトなので、自分の部屋に入って寝てしまった。
朝起きたら人が居なくなっていて、Tが迎えに来たので事情を話したが、黙っていたので、そのままに終わった。
考えてみれば、
助かったのは、最初の時に良くも運転手を待たせておいて引き返したことで、この時、運転手を返してしまっておれば、この森の中で一夜を野宿しなければならなかったことである。住所も聞いていなかったし、分かっていても、深夜で殆ど民家もない森で人に聞くすべもない。
これに懲りて、翌日、英国人エージェントと宿泊した米系ホテルに宿替えした。
この時期、東ドイツやチェコなど開国間際の東欧にも時々出かけたが、時代の激動期、言葉も違えば相手は未経験の共産主義国家、
良く危険も弁えずに動いたものだと若気の至りに反省しきりであったが、とにかく、異国行脚が多かったので、カルチャーショックには多少は慣れていた。
もう、何十年も前のこと、パソコンもなければインターネットもない時代、クックの時刻表やミシュランのガイドブックや地図などを頼りにして、
出張も個人旅行も、海外旅行のすべてを、自分で計画して手配していたので、ぶっつけ本番の対応には慣れていたということもあろうか。