熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

野村萬斎の「釣針」・・・市川狂言の夕べ

2011年09月15日 | 能・狂言
   野村萬斎が、「釣針」の太郎冠者を演じると言うので、東京からの帰り道、市川での「市川狂言の夕べ」に出かけた。
   同じ伝統芸術でも、歌舞伎や文楽には行くが、能楽堂へは、殆ど出かけることはないのだが、あの独特な雰囲気には、何となく憧れもある。

   今回の「釣針」は、私の生まれ故郷西宮のえびす神社だと言うから、興味津々でもあった。
   子供の頃、すぐそばに住んでいたので、えびす神社は、私たちの遊び場でもあり、えびっさん、えびっさんと言って毎日のように遊んでいたので、微かに、思い出として残っている。
   右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿がえびすのトレード・マークだが、日本の神で古来から漁業の神として親しまれているが、この西宮神社は総本社とかで、ここへ、独り身の主人(高野和憲)が、妻を得ようと太郎冠者を連れて参詣したのだから、当然、えびすさまは、釣竿を貸すから、妻を釣れとお告げをする。
   この口絵写真のように、太郎冠者が、釣針を揚幕の外に投げ出すと、女人が、架かってついて出てくる。

   面白いのは、主人が自分の妻を釣るのが恥ずかしいと言って、太郎冠者に御名代を命じるのだが、どんな女が良いかと注文を聞く、大見目(十人並み)が良いか見目良いのが良いか、歳はいくつくらいが良いかなどとかけ合うところだが、結局、太郎冠者は、「釣ろうよ、釣ろうよ、見目のよい、17~8歳の奥様を釣ろうよ・・・」と、大張り切り。
   主人の妻を釣った後に、不自由だろうと腰元と女中を求めて針を投げれば、4人の女人がついて出てくるのだが、太郎冠者も独身であるから、当然自分も妻が欲しいと言うと、主人は、すぐに釣れと命じる。

   釣られた女人たちは、被り物を被ったままで、主人の妻だけがちらりと太郎冠者に顔を見せるだけで、全く顔を見せずに主人と一緒に先に退場するのだが、見目良き女人たちと言う想定であろう。
   問題は、太郎冠者の釣った自分の妻だが、諧謔とウイットの喜劇である狂言であるから、当然、ハッピーで終わる訳がない。
   妻を得た喜びで、千年も万年もと誓うのだが、中々、顔を見せない。
   被り物をはねて全体が現れると、乙の面をつけた醜女で、その意外さにびっくり。
   萬斎太郎冠者は、顔を背けて大口を開いて恐怖と驚愕の入り混じったびっくり・ムンク版の表情で、大手を左右に大きく張り出してフリーズ。
   ここの驚きの表情は、大蔵流の茂山家では、腰を抜かすのだと言う。
   太郎冠者は、当然、逃げ惑うのだが、乙(岡 聡史)が後を追う。抱きつかれてびっくり仰天、逃げて追っかけて揚幕に消えて行く。
   狂言師としての萬斎の舞台より、異業種の舞台での萬斎を見ることの方が多いのだが、やはり、流石に萬斎で、この大勢ものの釣針を気に入った曲だと言うので、今日の決定版だと思って楽しませて貰った。

   ところで、昔は、ろくすっぽ、見も知らずに、親や親族たちが決めた相手と結婚したと言うし、この場合も、いわば神意であるから、運命なのであろうが、やはり、一目惚れであっても、自分がこれだと感じた異性が一番良いのだろうと思う。
   先日、某大学の調査で、男は、一目惚れと言うか、直覚で女性を選ぶことが多く、道を通る女性の10人に一人の確率で魅力的な女性を選ぶようであるが、女性の場合には、100人でも無理で、1000人に一人くらいの確率でしか満足できる男性を選べないのだと言う。
   と言うことは、女性の場合には、仕方なく、妥協して結婚をしているのであろうか。

   男女の仲は、本当に複雑だが、大概の場合、色々な障害や運命の悪戯、或いは、気が弱くて踏み出せなかったとか、いろいろな要因があって、思うように行かない方が多いのではないかと思っている。
   ドラマやオペラなどで、恋物語が、あれほど激しく強烈に演じられているのは、その1000分の1が実った結果の物語だからなのであろうかと思っている。

   もう一つの演目は、「腰祈」。
   修行を終えてた新米の山伏が、帰途、祖父を訪ねるのだが、年老いて腰の曲がった祖父が気の毒で、修行の成果を発揮するのはここぞとばかりに、腰を伸ばそうと懸命に祈るのだが、そこは、修行未熟の悲しさで、伸ばし過ぎたり立ち上がれなくなったり散々で、怒った祖父に「やるまいぞやるまいぞ」と追っかけられて幕。
   あのディズニーの「ファンタジア」の魔法使いの弟子の雰囲気である。
   山伏が登場するのは、狂言では数少ないようだが、高徳な阿闍梨として登場する能と違って、大概はエセモノで、偉そうに祈祷するのだが、このように下手くそで失敗するのだと言う。

   バカで人の良い太郎冠者を主役に、このような山伏のほかに、理不尽で威張り散らす主人や、居丈高な大名や、いい加減な坊さんや、「わわしい」女たちが登場する狂言は、どこか、寅さん映画の世界のような気がしている。
   余談だが、グローバル文化経済学を論じている「創造的破壊」のなかで、タイラー・コーエンが、映画の世界では、誰でも分かるアクション映画を作れば儲かるが、コメディ映画は、海外での販売は難しいと言っている。
   会話のニュアンスや特定の文化圏でしか通じないネタがあるためで、巧妙な言葉遊びは翻訳が困難だし、洗練されたコメディよりも、アクション映画やドタバタが珍重されるグローバリゼーションは、良いのか悪いのかと言うことでもある。
   そうならば、伝統的固有文化である典型的な狂言こそ、日本の誇るべき文化遺産であるから、グローバリゼーションの安易な荒波に駆逐されないように、大切に死守しなければならないと言うことであろうか。
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