熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ダンテにとってのベアトリーチェ

2018年08月13日 | 学問・文化・芸術
   ダンテにとっては、やはり、ベアトリーチェ。
   まず、口絵の絵だが、ヘンリー・ホリディが、1883年に描いた「聖トリニータ橋でのダンテとベアトリーチェの邂逅 Dante meets Beatrice at Ponte Santa Trinità」(リバープール国立博物館蔵)
   ヴェッキオ橋の近くのアルーノ川河畔で、ダンテが、18歳の時、2回目に、愛するベアトリーチェに会った運命的な出会いの瞬間を描いたものである。
   ホリディは、時代考証のために、1881年に現地へ出向いて調査して、ヴェッキオ橋とトリニータ橋との間はレンガ舗装されており、左右に店舗が並んでいたこと、そして、水害で崩落したヴェッキオ橋が、13世紀末には再建されていたことなどを調べて、絵に描いている。
   アルーノ川の聖トリニータ橋のたもとで、二人の女友達にはさまれて歩いているベアトリーチェに再び逢ったが、その時彼女は、ダンテを意識して優しく優美に会釈した。と言うのだが、この絵で見る限り、魅力的な女性像ではあるものの、じっと見つめるダンテに目もくれず、つんとすまして通り過ぎて行こうとする雰囲気である。

   さて、「神曲」でのベアトリーチェだが、
   前述のベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴する象徴論があるようだが、難しい話は別として、前者では、ベアトリーチェを、ダンテは「永遠の淑女」として象徴化しており、後者では、ダンテとベアトリーチェが出会ったのは、2人が9歳の時で、再会したのは9年の時を経て、18歳になった時であり、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が現われているので、ベアトリーチェも神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として象徴化したという。

   ところで、他の記述は分からないが、野上素一教授の「ダンテ」と「ダンテ その華麗なる生涯」を読んで得たベアトリーチェの記事を纏めて興味深いベアトリーチェ像が浮かび上がってきたので、それを考えてみたい。
   
   ダンテが、最初にベアトリーチェに会ったのは、1274年、フィレンツェの少年少女の祭りの日で、真っ白な服を着て色白の美少女ベアトリーチェを一目見るや、雷に打たれたように我を忘れて彼女に執心し、その愛は一生変わらなかったと言う。
   神秘的な婦人ベアトリーチェは、じつに清新体の詩の女主人公としてはふさわしい人物で、ダンテは、彼女を主題として詩を書き、熱愛していたが、プラトニック・ラブに終わったのは、同じ貴族なので身分上の差からではなく、フィレンツェ第一の銀行家大富豪と貧しい両替業との経済的な落差の大きさだったのだと言う。

   さて、18歳のアルーノ川河畔での邂逅以降、ダンテのプラトニック・ラブはつのる一方で、面白いのは、それを他人に気づかれるのが嫌で、彼女を教会で発見した時に、自分が彼女を凝視しているのを隠すために、二人を結ぶ直線状に座っていた一人の貴婦人に関心がある様に装い、そのスケルモ(隠れみの)の婦人が居なくなると、別の貴婦人をスケルモにして凝視し続ける、それを知ったベアトリーチェが、その夫人に迷惑をかけたと言ってダンテを非難して、それ以降は路上で会っても会釈を拒否したと言うのである。

   ピサへの従軍から帰ったダンテに、ベアトリーチェの父フィルコ・ポルティナーリが病没したと言う知らせが入り、その後、それを追うように、ベアトリーチェも、心労と産褥熱で、25歳の生涯を閉じる。
   ダンテは、ベアトリーチェの死去のニュースに、愕然として、この重大ニュースを世界中の人に知らせる必要があると思って、「地上の君主たちに告げる」と言う詩を書いて発表したと言うのである。
   この部分での、次の野上教授の文章が面白い。
   ”ベアトリーチェは、それ程美人ではなかったが、見る人に好感を抱かせるような姿をしており、当時、フィレンツェでは、珍しく有徳な婦人であった。
   だが、ダンテが彼女の行為を記録したものを読んだ限りでは、死後天堂界に昇天し聖母マリアの傍らに行ける程聖性に富んだことは一つもしていない。また、詩人ダンテに対して彼女が与えたインスピレーションとしては、ダンテが彼女の信頼を裏切ったことの復讐として、彼のした挨拶に対して挨拶をするのを拒んだことくらいである。そして、「神曲」の中での彼女は、ダンテが地上の楽園で逢った時も未だ冷淡に振舞っている。これは女性らしい意地悪い行為である。”と書いている。
   あばたもエクボとも言わんばかりの表現だが、そうであっても、私は、ダンテの気持ちは、理解できる。直覚の愛を信じているので、理屈抜きなのである。
   ベアトリーチェが、素晴らしい美人であって、聖女のような清らかな婦人であったと言うのは、ダンテを読む読者が考えればよいことである。
   
   悲嘆に暮れるダンテを同情的な眼差しで凝視していた隣の家の窓辺の婦人に慰められ、ダンテは、心を癒すために、哲学書に没頭したと言う。
   その後、ダンテは、意気消沈して病人のように窶れ果て、それを心配した家人の手配で、子供の時からのフィアンセであった、フィレンツェの名家ドナーティ家の娘ジェンマと持参金200リラ付きで結婚した。
   女嫌いの独身者であるボッカチオが言うのだから割り引いて考えないといけないのだが、ジェンマは、利己的で、平凡で、面白みのない、年中めそめそしている婦人で、ソクラテスの妻クサンティペに似ていると言ったと言うことだが、実際には、何処にでも居る平凡な女性だったが、ダンテが少しも面倒を見なかった息子たちの養育に励み、主婦としてやるべきことは立派にやっており、ダンテが真剣に彼女を愛したならばそれに応えたであろうと言う。
   そのダンテは、ベアトリーチェの死がショックだとは言え、生活はひどく乱れて、家を顧みずに、下等な女たちとの交際に入れ込み、低俗な生活に溺れて、ジェンマの従弟のピッチの悪行にも関わったりしていたと言うから、一時的とは言え、モラル最低のグータラ詩人であったと言うことであろうか。

   煉獄篇の第三十歌と第三十一歌で、エデンの園で、再開したベアトリーチェが、ダンテに、正道を踏み外した過去十年間の行状を攻め立て、恋焦がれたのは美しい姿態であって、亡くなると、至上の喜びも脆くも失せて、現世の他のものに惹き付けられたとして、激しく糾弾したので、ダンテは、目をベアトリーチェへの愛から逸らせたことへの罪を悟って激しい悔恨の情に苛まれ卒倒したと言うストーリーは、このあたりのダンテの反省をも反映しているのであろうか。

   ダンテが、「神曲」を書き始めたのは、1307年頃だが、「神曲」でダンテが、暗い森に迷い込んで地獄に入ったのは、西暦1300年の聖金曜日(復活祭直前の金曜日)で、人生半ばの35歳の時である。
   やっと、地獄篇と煉獄篇を読み終えたところなので、天国篇は、どうなるのか、楽しみに読み進めたいと思っている。
   
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