熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

市川右近・安寿ミラの「シラノ・ド・ベルジュラック」

2011年02月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   有名なエドモンド・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」に最初に接したのは、もう、随分前のTVの映画で、バルコニーの下から、シラノが、クリスチャンの代わりになって、ロクサーヌに愛の告白を行っているシーンであった。
   パリに行った時に、コメディー・フランセーズの舞台を見る機会があったのだが、ホテルのマスターに、フランス語が分からないと面白くないと言われて諦めたことがあり、その後、ヨーロッパのあっちこっちで、劇場行脚を続けたので、今でも残念に思っている。
   確かに、右近も言っていたように、シラノの台詞の膨大さとその台詞の値打ちは格別で、あのシラノの献身的で一途の愛の独白を噛みしめて観なければ、この戯曲の魅力は半減するほどである。
   シェイクスピア戯曲の台詞も、随分、膨大だが、どちらかと言えば、頓智機知知識が勝って理屈っぽいので、雰囲気が違っており、このロスタンのシラノは、正に、愛の豊かさ、その奥深さを、流れるような修辞を鏤めて歌い上げた愛の讃歌であるから、この感動を味わえなければ意味がないのである。

   今回の舞台の脚本は、もう、半世紀上も前の岩波の辰野隆・鈴木信太郎訳のようだったが、私は、最近翻訳された渡辺守章訳の光文社版を読んで劇場に出かけた。
   それに、全く知らなくて観るのも何なので、前に、NHKで録画したニューヨークのブロードウェイのリチャード・ロジャース劇場での舞台を見た。
   シラノをケビン・クライン、ロクサーヌをジェニファー・ガーナーが演じた、かなり、クラシックな舞台設定の重厚な芝居である。

   さて、この物語だが    
   人並み外れて大きな鼻を持ったシラノ(右近)が、教養豊かな絶世の美女で従妹のロクサーヌ(安寿ミラ)に恋焦がれるだが、自分の醜さ故に諦めて悶々としている。そこへ、ロクサーヌに呼び出されて、いそいそと出かけるのだが、自分の属するガスコン青年隊に入ってきた新人のクリスチャン(小林十市)に恋をして仲立ちを頼まれる。
   クリスチャンもロクサーヌを愛しており相思相愛だが、クリスチャンは、愛を語るには武骨で文才に乏しく相手にされないので、暗闇のバルコニー下から、シラノがクリスチャンに代わって愛の告白の代理として苦しい胸の内を滔々と語り続けて、この独白に陶酔したロクサーヌが、クリスチャンに口づけを許す。
   ロクサーヌに思いを寄せる恋敵の上官・ド・ギッシュ伯爵(石橋正次)を出し抜いて、ロクサーヌはクリスチャンと結婚式を挙げるのだが、それを知ったド・ギッシュは、即刻その場で、シラノとクリスチャンをアラスの戦場へ送る。
   ロクサーヌが、日に二回、クリスチャンに内緒でシラノが書いて送り続けた恋文に感激して、危険を冒して戦場を訪れる。ロクサーヌが、最初は美貌に魅かれた恋がこれらの手紙を読んで感動して本当の愛に目覚め、どんなに醜くなっても心から愛すると告白したので、クリスチャンは、ロクサーヌが愛しているのは、自分ではなく、シラノの心だと知って、絶望して戦場に飛び込んで戦死してしまう。
   シラノは、修道院に入ったロクサーヌを毎土曜日に訪れて世間話を伝え続けているのだが、15年後のある土曜日に、政敵の陰謀で重傷を負って瀕死の状態で訪れたシラノに、ロクサーヌは、戦場死でクリスチャンが握りしめていた最後の手紙を読ませる。真っ暗になって字が読めなくなってしまっているのに、シラノが滔々と読み続けるのに気付いて、バルコニー下から燃えるような愛を告白したのも、膨大な燃える激しい愛の手紙を書き続けたのもシラノ、すべてを知ったロクサーヌは、茫然自失。否定し続けるシラノに、限りなき愛を告白。シラノは、ロクサーヌの接吻を受けて息を引き取る。

   このシラノは、17世紀前半の自由思想家で詩人であり実在の人物だが、この芝居では、詩人であり理学者であり音楽家であり、100人の敵を相手にする剣客であり、文武両道の達人なのだが、顔の醜さ故に切ない恋心を押し潰して生きている。
   ところが、幸か不幸か、クリスチャンの美貌に恋をしたロクサーヌに、愛する思いの丈を上手く語れないクリスチャンの体を借りて黒衣になって、自分の切ない恋心を語り続けるチャンスが与えられる。
   代理だと言うことを忘れて、自分自身の思いの丈を吐露して混乱することもあるのだが、ロクサーヌに戦場からクリスチャンに手紙を書かせるようにと頼まれて二つ返事で約束して、クリスチャンに隠し続けて、危ない敵陣を潜り抜けて毎日2回も手紙を出しに行ったのも、ロクサーヌを愛するが故の恋心の成せる業である。
   戦場で、ロクサーヌに宛てて書いた自分の遺書、それも、涙が染みついた手紙をクリスチャンに遺書として差し出すよう渡すのだが、この遺書が、ラストシーンですべてを語る。
   
   私は、猿之助が元気な頃の右近の舞台は、それ程覚えていないが、その後、能楽堂でも「マクベス」や、「ヤマトタケル」「當世流小栗判官」「獨道中五十三驛」などを見ていて、非常に芸域の広い素晴らしい役者だと思って注目しているのだが、今回、緩急自在で、非常にメリハリの利いた面白い舞台を見せて楽しませてくれた。
   演出の栗田芳宏が、三枚目の味を見せてくれたので舞台が豊かに展開したと言ったようなことを語っていたが、この芝居は、非常にシリアスで、ある意味では深刻な舞台なのだが、ブロードウェイの舞台でも観客の笑いが絶えなかったように、まじめな台詞でも、傍目八目で観客から見ると結構コミカルタッチであったり、流石にフランスの戯曲だけあって、エスプリとウイットに富んだ味のある面白い戯曲なのである。
   右近の芝居としての舞台運びの勘の良さは流石だが、しかし、あのバルコニー下での愛の告白も、ラストの遺書を読む一連の感動的な心情の独白も、その情感豊かなセリフ回しは抜群であり、実に感動的である。

   余談ながら、劇場ロビーで、場違いなところで近所の知人夫妻に会ったと思ったら、お嬢さんが右近丈と結婚しているとかで、終演後に、可愛い10か月の右近二世を乳母車に乗せた明子夫人に会った。元々評判だったが、素晴らしく魅力的で、一寸、エキゾチックな雰囲気のある美人である。
   このあっこちゃんだが、可愛い頃しか会ってなくて、その後、マニッシュでTVを見ただけだが、非常に心の優しい良い子で、迷子になった子猫が可哀そうだと言って近所の家を一軒一軒すべて回って飼い主を捜していたのが印象に残っている。
   右近二世は、非常に目の大きくてしっかりした顔つきの可愛い男の子で、10か月だと言うのに、バイバイと手を振って声を出していたし、非常に表情が豊かなので、素晴らしい歌舞伎役者になるであろうと、勝手ながら、初舞台を楽しみにしている。

   最後になったが、安寿ミラの美しさとその魅力は格別で、じっと、双眼鏡で見続けていたが、実にチャーミングである。
   あのブロードウェイの舞台のガーナ―は、かなり、パンチの利いたオーバーアクションの舞台を披露していたが、安寿ミラは、実に自然体で流れるように、大きな舞台を優雅に飛翔し切った感じで好感が持てた。
   舞台設定は、壁面中央に窓を開け、舞台正面に4段の階段がある両側に手すりのついた台状の小さな舞台が設えられていて、左右に椅子を並べただけのシンプルな設定だが、左手のヴァイオリン(氏川美恵子)と右手のアコーディオン(太田智美)が実に効果的なサウンドを奏でて素晴らしかった。
   クリスチャンを演じた小林十市は、元ダンサーだったようで、死から起き上がって、ラヴェルのボレロが奏されるとジョルジョ・ドンよろしくボレロを踊って退場するところなど、芸の細かさも面白かった。
   もう一つ余談だが、この劇で、ロクサーヌが馬車の中からにっこりとほほ笑んだだけで、粋人の敵兵が、造作もなく敵陣の通行を許してくれたと語っているが、私のパリの事務所の美人秘書は、同じように、ほほ笑むだけで、いつも車の交通違反を許してもらっていたと言っていたので、フランスやスペインは、今も昔も、美人には弱いのである。
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