熟年の文化徒然雑記帳

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江里康慧 著「仏師から見た日本仏像史:一刀三礼」仏像の誕生

2022年02月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   江里康慧 著「仏師から見た日本仏像史:一刀三礼」だが、話題が豊かで面白い。
   仏像を見慣れているので、何故、いつ頃、仏像が生まれたのか全く知らなかったのだが、宗教によって違うと言うことで、イスラム教は偶像崇拝やアッラーやムハンマドの擬人化を禁じているので、像などあるはずもないし、キリスト教もユダヤ教も偶像崇拝を禁止しているとのことなので、おおらかに仏像が許されているのは、三大宗教では、仏教くらいのようである。
   ところが、その仏教でも、仏像は、紀元前の教団ではあり得なかったことで、仏像が製作され始めたのは、釈尊入滅後約500年を経た西暦一世紀末からだという。
   仏像以前には、仏伝図という表現で、仏塔などの浮き彫りに、釈尊の姿はなく、釈尊を法輪や菩提樹、仏塔、足跡などのゆかりの象徴物に置き換えて表現されていた、「無仏像」「仏像不表現」であった。

   ところが、インドを支配したクシャーン朝のカニシカ王が、仏陀を人の姿で表してこの世に再来させる仏像の造顯を奨励し、仏像の製作が本格化した。この仏像の造顯が、分舎利と等しい功徳があるとされ、仏教は文化を伴って国境を越えて、中央アジアから東アジアへ伝わり、やがて、世界宗教として発展していった。
   仏陀は 仏像で人の姿を持ったが、常人と同じではなく、常人には見られない三十二相の瑞相を付加することによって、仏像不表現の清新は受継がれた。
   原初は、釈尊のみを仏陀として礼拝したが、釈尊の悟りは、出家され厳しい苦行の結果、得られただけではなく、当世に於ける出家前のゴータマ・シッダールタの頃からの堅固な求道心とともに、何代もの過去世において、忘我自他を実践してきたことから生まれており、
   輪廻転生が信じられるインドにおいて、釈尊の菩提心を尊ぶ中から菩薩の資格が生まれた。
   その後、大乗仏教から、仏陀釈尊以外に、数々の如来が生まれ、ヒンズー教と仏教が融合した密教が興って、明王という尊格が生まれるなど、仏像の幅が広がっていった。 

   仏陀の再来を願った人々には、仏像を拝顔して、おそらく、生きた仏陀が眼前に映り、説かれる法が聞こえたことであろう。
   しかし、本尊が安置されている金堂(本堂)には、僧侶以外は入れず、人々は、堂の前の礼堂か灯籠や礼拝石にの位置から礼拝したと考えられ、後に、御堂は内陣と外陣とに分けられたが、いずれにしろ、仏の世界と衆生とが厳しく結界されていた。
   いまだに、本尊を秘仏として、厨子の扉を固く閉ざす寺院は多い。
   余談だが、東大寺の三月堂で、不空羂索観音立像の背後に安置されている執金剛紳像(秘仏)を拝観できたときには感激した。
   

   さて、日本の仏像だが、著者は、609年に完成した飛鳥寺の止利仏師作の丈六釈迦如来坐像(飛鳥大仏)から説き起こしている。
   法隆寺金堂の釈迦三尊像も止利仏師の作だが、細長の顔の表情のエキゾチックな尊像である。
   この当時は、金銅仏が主体で、塑像、乾漆像と入れ替わり、鑑真和上の来朝の影響もあって、木彫像が復活して、日本の仏像は殆ど木造へと変化を見せた。
   現役の高名な仏師なので、木彫仏について、一本造、内刳り(背刳り)、割矧造、寄木造等について詳述し、実際の仏像について説明していて、非常に興味深い。
   朝鮮半島や中国から受容した仏教とその文化は、その後目覚ましい発展を遂げて、仏像においては、それまでの大陸風、異国風から徐々に離れて、日本人の美意識、感性に沿った親しみやすい様式に変化して、平安時代に至ると定朝によって極められた和様の仏像は、日本の芸術文化を体現した最高の水準に達した。
   しかし、定朝様式の継承が表面の模倣に終止し始め、マンネリに陥りかけていたのを改革したのが、運慶快慶などの慶派の仏師達。南都奈良の東大寺の復興を通して、前時代の様式を打ち壊し、はるか天平彫刻に迫ろうとした古典の再生と、新たに宋の仏教文化を摂取するという、来たるべき新時代を見据えた改革をして、鎌倉彫刻と評価される力強い写実的な新様式を生み出した。

   口絵写真仏像は、薬師寺東院堂本尊の聖観音立像(銅造観音菩薩立像)である。
   もう、半世紀以上も前に、はじめて薬師寺を訪れたときに、その素晴らしさに感動した最初の仏像である。
   当時、薬師寺の国宝の建物は、この東院堂と東塔だけで、現在威容を誇る金堂も再建前で、西塔などもその後の再建であり、今のように整った伽藍を仰ぎ見るのは今昔の感である。築地は破れて一部穴が開いていたし、西塔の心柱の穴の水溜まりに映る東塔の姿をカメラに収めた記憶がある。
   教養部の上野照夫教授の美学の授業で、薬師寺を訪れて、教えを受けた師弟だという若かりし頃の高田好胤師の美学談義、
   天武天皇が鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願し建立を発願したのが薬師寺であり、裳階を備えた美しい三重塔は、二人の天皇の愛の結晶であるからかくも美しい、と言う話と、私は美男なので罪が深いのだ、と言う話だけ、何故か鮮明に覚えている。
   学生時代へのセンチメンタルジャーニーで京都は頻繁に訪れてきたが、奈良の御仏を訪ねて、斑鳩の法隆寺、西ノ京の薬師寺・唐招提寺、そして、東大寺・興福寺、室生などの大和の古寺へも、随分歩いてきた。
   本を読みながら、懐かしい昔の思い出を懐古する、
   また、楽しからずやである。
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