熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

立原正秋の旅随筆・・・松江の女と倉敷の女

2009年06月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   神田神保町の古書店で、立原正秋の随筆集「萩へ津和野へ」を見つけて、帰りの電車の中でページを繰った。
   旅の随筆集と言う感じで、私自身、立原のファンでもないし作品を読んだわけではないのだが、ページを繰っていると、私が歩いた懐かしい日本の地方の旅について書かれているので興味を持ったのである。
   それに、私が、若い時に散策した頃とほぼ似通った時代の描写なので、読み進めるうちに、何となくしみじみとした感慨を覚えたのも事実である。
   
   立原は、29年も前に亡くなっているのだが、ここに掲載の旅紀行は、昭和40年代に「旅」などに寄稿したものが多く、雑誌社の依頼による取材旅行のようである。
   京都や奈良、その近辺は当然としても、萩・長門、津和野、倉敷、近江路、高山、若狭路、金沢、信州塩田、大分、伊賀と言った趣のある日本の伝統的な地方旅で、正に、旅情を誘う旅紀行集である。
   私が行っていない所は、角館だけだったのだが、大部分は、自分の旅を反芻しながら読んでみた。
   
   私の場合には、京都や奈良など近畿地方の旅は、京都での学生時代とその後数年間関西に居た若い頃の旅だが、その他の地方の旅は、ビジネスマンとして、大分キャリアを積んでからの旅で、海外からの出張や一時帰国した時の休日や、海外赴任から帰って来てからの旅だが、殆ど、気ままな一人旅であった。
   欧米の文化にどっぷりと浸かってからの、古い地方都市に残っている日本のふるさとのような素晴らしい伝統文化や生活空間などの印象は、やはり、強烈であったし、思い出深いものであった。

   現在の日本の政治経済の悲劇と言うべきか、幕藩体制で培われてきた地方の豊かで質の高い伝統文化が、どんどん消えて行っている。
   この立原の随筆集でも、たった一年半後に訪れた京都の変わりようにびっくりしたと書いているが、当時は、神武景気等と言って、貧しかった日本が経済的に飛躍する上り調子の頃であった。
   私の歩いていた京都や奈良には、まだ、亀井勝一郎や和辻哲郎の世界が色濃く残っていたし、懐かしくて胸を締め付けられるような感動的な入江泰吉の写真風景が、ここかしこに残っていた。
   
   ところで、立原の紀行文を読んでいて面白かったのは、萩・津和野の次に興味を持ったと言う松江と倉敷の紀行で、夫々に、街角で非常に心引かれた女性に会って、その思い出を書きながら、表と裏の日本の風土を紐解きながら、文明論を展開していることである。
   さすがに、文筆家で、若くて魅力的な女性に出会って心を時めかせるなどと言うのはロマンチックで中々良い。

   しかし、この「萩へ津和野へ」を読む限り、年度は前後していて合わないのだが、出あったのは松江と倉敷の女だからと言っており、街角で出会った女の印象を語っているのは、「暗い風景の金沢」と言う紀行文での金沢の女であって、松江の女ではないので、立原の誤解のような気がしている。
   金沢の女については、
   霙の降る寒々とした暗い闇のような武家屋敷街を歩いていた時、向こうから歩いてくる三十位の若い女と目があって、はっとした。渋い着物に白い顔がぬけるようにあざやかで、虚をつかれた。通りすがりに出あったそのひとが、美しい人であったかどうかおぼえていないが、あんな瞬間はめったにないことで、つめたく暗い風景のなかで、かっと燃えるような一輪の花に出あった一瞬であった。

   倉敷の女については、もう少し、物語がある。
   美観地区の倉敷川畔の石段に腰を下ろして対岸の民芸館あたりを眺めていた時、渋い紬の着物を着て、手には藺草編みの袋をさげて、美人ではないが、生活の美しさがにじみでた三十女が歩いているのが目にとまった。古い建物が生きている、この一角に溶け込んだ、正に、待っていた風景である。
   この時、立原は、立ち上がって橋の上で、その顔につやのある目にはりのある女に近づいて、この辺におすまいですか、まいにち、この道を通りますか、と聞いて警戒され、二度頭を下げて対岸に渡っている。
   あのう、なんでしょうかと聞かれた時に、訳を説明してやれば良かったと悔やんだと立原は言っているが、そんなことを、見ず知らずの女性に言えるであろうか。

   この時、立原は、松江の女と倉敷の女、山陰の女と山陽の女とを比べていたと言う。(話は、立原自身の心象風景を交えて象徴的な女性観を綴っているので、金沢ではなく松江の女に置き換える。)
   松江の女は、素朴だが折り目正しく、着物一枚にしても城下町の文化を象徴する古い伝統的な柄が多く、それだけ野暮ったい箇所がある。住民が保守的で城下町に棲んでいる者として当然かもしれない。
   倉敷の女は、商家の内儀と言う感じがして、洗練されている。
   その目に女が息づいていて、松江の女にははにかみがあり、倉敷の女にはつやがあったが、どんよりとした山蔭の風土で育った女と、あかるい瀬戸内海を前にして育った山陽の女の違いを見たが、武士の妻と商人の妻との違いと見ても良い。と書いている。

   ここまでは良いのだが、立原は、余程腹に据え兼ねたのであろうか、
   街で買い物をすれば歴然とする。松江の人は正直で商売が下手だが、倉敷の人は商売が上手である。として、
   スコッチの壜に日本の安いウイスキを入れて売るバーや、百グラム90円の安牛肉をヒレ肉ステーキと称して280円で出している店があり、倉敷ではうまい食物にあったことがなく、倉敷市民が、これらを賞味し舌鼓を打っているのなら何をか況やである。と、酷評している。
   昔、何かの本で、岡山人は日本のユダヤ人であると書いた本を読んだ記憶があるが、食品偽装はともかくも、近江商人もそうだろうが、謂わば、これは企業家精神の発露であって、それを育んだ風土ゆえに、多くの卓越した実業家や偉人を生み出したのだと言えないこともない。

   雑誌「旅」が、そのまま、記事にしたようだが、大らかな時代だった。
   旅に明け暮れたような人生を送った私にも、立原のような旅で出あった人々との思い出が沢山あるが、もう少し年を経てから書いてみようかと思っている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« トマト栽培日記・・・(8)... | トップ | グローバル・ガバナンスと企... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行」カテゴリの最新記事