熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

春の京都の旅(6)北野天神、大原:三千院から寂光院

2013年04月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   三日目は、東京が満開にも拘わらず、京都の桜がまだ蕾なので、それでは、梅だと思って、北野天満宮に行くことにした。
   しかし、残念ながら、境内の梅は多少残ってはいたが、梅園の梅は殆ど散っていた。
   随分前に来たのだが、その頃は、本殿の修復工事が行われていたが、今は、綺麗になっている。
   本殿や三光門と呼ばれる極彩色の中門に、濃淡のピンクの八重梅が映えてコントラストが美しい。

   菅原道真の怨霊調伏のために建てられた神社と言うことである。
   政争の失脚者や戦乱での敗北者の霊、いうならば恨みを残して非業の死をとげた者の怨霊・亡霊が、災いを齎すので、復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えると言う怨霊信仰の現れの典型が、この菅原道真のケースだが、理屈で考えるとおかしくなるが、このような伝統はいくらでもあって日本の文化文明を形成しているのだから興味深い。
   いずれにしろ、天満宮は学問の神様でもあり、境内のあっちこっちにつるされている絵馬を、見るとはなしに読んでみると面白い。
   私など、神頼みとは全く縁のない生活、と言うよりも、自分自身で努力する以外にないと思って来たので、いわば、人ごとだが、その気持ちは何となく分かるような気がする。

   私には、菅原道真の故事や、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」の方に興味があって、大宰府の天満宮を訪れた時にも、飛び梅を見て、何となく、懐かしい思いをしたことがある。
   この北野天満宮の楼門に、道真の有名な歌 ”東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘るな”の立て看板がつられている。
   残り梅を鑑賞しながら、境内を足早に散策して、境内を離れた。
   
   
   

   嵐電に乗って嵐山に行く予定であったが、行き先を大原に変えた。
   北大路を真っ直ぐ東に向かへば、出町柳に出るので、そこから、京都バスに乗って大原を目指せば一直線である。
   大原へは一本道なので、ハイシーズンには、異常に混む。
   昔、紅葉が最盛期の頃に、人様の動く前の朝早く、タクシーで大原に行き、昼頃に、市内へ帰ると言うコースを取ったことがあるが、さもなければ、逆に、遅く市内を出て夕刻に市内に帰ると言うような人の移動の逆を行かないと、中々、大原の観光は大変である。
   幸い、この日は、桜の季節前の春だったので、バスも空いていて普通の路線バスの雰囲気であった。
   驚いたのは、随分、奥深くまで開けて住宅街が広がっており、私の学生の頃には、平家物語の大原御幸に描かれた世界のように全く鄙びた田舎だったので、正に、今昔の感しきりである。

   大原のバス停から三千院は、川沿いに土産物屋が並ぶ坂道を登ればすぐなので雑作はないが、何となく、観光ずれがしていて、こんな遠くまで、市内の観光地なみに俗世が纏わりついてくるのかと言う気持ちで、正直なところ、いたく感興が削がれる。
   私の記憶では、外国の教会前街だが、頂上の教会まで、参道の左右にびっしり店や食事処、ホテルなどが並んでいたのは、モンサンミシェルだけだったような気がする。
   
   春の観光シーズンであるにも拘わらず、三千院の中には、殆ど観光客が居なくて、全く静かであった。
   花っ気が殆どないので、全く緑一色の世界であるが、堂々と落ち着き払った重厚な境内の雰囲気が、爽やかで心静かにしてくれて心地よい。
   学生時代には、季節に拘わらず、気が向いたら大原に来ていたので、殆ど静かな田舎の大原しか知らなかったのだが、それ以降は、機会が限られてハイシーズンしか来なくなったので、観光客で溢れかえる三千院に慣れてしまい、こんなに静寂で荘厳な境内の雰囲気は久しぶりであった。

   私は、季節の花が咲く広い境内の庭園を散策するのが好きなのだが、また、非常にシンプルではあるが、境内南側の庭園内にある往生極楽院の阿弥陀堂に上がって、国宝の阿弥陀三尊像を見上げるのを楽しみにしている。
   堂内に安置されている、12世紀に建立されたと言う阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が、西方極楽浄土から死者を迎えに来る姿を体現した来迎形式の像で、特に、両脇侍が、やや前かがみの姿勢で日本式の正座をしている姿が実に優雅で、日本人の美意識の素晴らしさに感激している。
   平等院の鳳凰堂の仏師定朝作の本尊阿弥陀如来像と、兵庫県の浄土寺阿弥陀堂の快慶作の阿弥陀三尊を思い出して、当時の人々の浄土への希いが如何ほどであったかと思うと、何故か、日本の歴史文化に言いようもないほどの懐かしさを感じるのである。
   宝物館に、この阿弥陀堂の天井画の復元図が展示されていたが、その極楽世界の片鱗が見えて興味深い。
   この阿弥陀堂の前方の苔むす庭園内に、可愛くて茶目っ気たっぷりの子供の石仏が置かれていて面白い。
   
   
   

   三千院を出て、大原のバス停まで引き返して、高野川の河畔に下って寂光院を目指して歩くことにした。
   ほんの15分くらいの散策だが、こちらの方は、三千院と違って、もう少し、大原の田舎の雰囲気を楽しめる。
   昔は、藁葺の農家もあったが、もう、そんな雰囲気は全く消えてしまって、普通の農村風景に変わってしまっているが、それでも、まだ、少しは田舎の佇まいは残っている。
   
      

   寂光院には、聖徳太子開基説や、空海開基説などが言われているのだが、私には、清盛の娘・建礼門院が、壇ノ浦で平家が滅亡した後、義経に助けられて、侍女の阿波内侍とともに尼となって平家一門の菩提を弔って余生を送った尼寺の印象が総てである。
   古語の「平家物語」は、学生時代の私の愛読書であり、平家物語の最後が、「平家断絶」で、その直前の句が、「小原御幸」であり、後白河法皇が、建礼門院の侘び住まいであるこの大原の寂光院を訪れる。
   源氏に院宣を発して平家追討を命じて平家を滅ぼし、自分の孫である安徳天皇を壇ノ浦で崩御させた憎んでも憎み切れない法皇が、国母であった清盛の娘である建礼門院徳子を訪ねるとは何たることか、尤も、この小原御幸が、史実であるかどうかは不明であるのだが、ずっと私の疑問であった。
   歌右衛門の最晩年の舞台である「建礼門院」や、二人は熱烈な愛情を抱きながらも門院が拒絶し続けたとする鳥越碧の小説「建礼門院 徳子」などについて、このブログでも書いて来たが、門院の語る「六道語り」は、この平家物語の総括とも言うべき叙述で、これを、門院自ら法皇に吐露させているところが、実に感慨深い。

   淀君の命を受けて片桐且元が17世紀初頭に再興した本堂は、平成12年5月9日の放火で焼失し、現在の本堂は平成17年6月に再建されたものである。
   本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像も焼けてしまって、総て新しくなっている。
   像内にあった3,000体以上の地蔵菩薩の小像は、黒焦げ状態ながら「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、他の像内納入品とともに重要文化財として、収蔵庫に安置されているが哀れである。

   この本堂は、建礼門院自体が過ごした建物ではなくても、実に小さな建物で、寂光院自体も非常に小規模の寺院でありながら、建礼門院の最後の侘び住まいとしては実に印象ぴったりの故地であったのだが、今眼前にある真新しい本堂と地蔵菩薩立像では、最早、平家物語の世界は遠い夢として消えてしまった思いである。

   孫には、後で、平家物語を読んでみたらと薦めて置いたが、収蔵庫に掲示されている放火事件の顛末を掲載した京都新聞の記事など、資料を熱心に見ていた。
   大原には、門跡寺院であった豪壮な三千院と、建礼門院の隠棲した侘び住まいと言う全く印象の違った雰囲気の名所が存在するのだが、季節夫々に趣があって面白い。
   「額縁庭園」のある宝泉院や天台声明の根本道場である「勝林院」などもそばにあるのだが、今回は行けずに帰って来た。
   
   
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