日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「感染者責め」の背景にある「自己責任と村社会」

2020-08-25 18:59:32 | 徒然

新聞各社が、萩生田文科相の「(新型コロナウイルス)感染者」に対して誹謗中傷やいじめなどをしないように、と声明を出した、と報じている。
朝日新聞:「感染者責めないで」文科省、いじめや誹謗中傷に声明

毎年この時期になると問題となるのが、「夏休み明けの子どもたちの自殺」だ。
夏休み明けの2学期初日に、命を絶つ子供たちが一番多い、といわれている。
その背景にあるのが、学校内での直接ないじめだけではなく、SNSを介した「いじめや誹謗中傷」だと言われている。
そこに今年は「新型コロナウイルス感染」という、誰もが感染リスクがある感染症に対する「いじめや誹謗中傷」が加わった、ということになる。

お盆休み前、我が家の菩提寺がある松江で高校のサッカー部の生徒たちがクラスターが、判明した。
元々この高校は、県外出身者が多く寮で生活している生徒たちが多かったことが、集団感染の要因となった。
ただだからといって松江市内に「新型コロナウイルス感染者」があふれていたのか?といえば、そうではない。
県外出身者が多い高校というだけではなく、高校そのものが松江市郊外にあり、周辺地域の方たちの主な移動手段が自家用車であったため、高校以外の関係者の感染は認められなかった(と記憶している)。
しかし、そのような事情を知らない人たちからは、相当厳しい誹謗中傷が学校に向けられ、クラスターとなったサッカー部の生徒たちの顔写真がネットにさらされたようだった。

何故これほどまでに、関係のない人が我ことのように、騒ぎたててしまうのだろうか?
その理由として考えられるのが「自己責任と村社会」なのでは?という、気がしている。
「自己責任」と「村社会」、一見すると正反対に思える言葉だが「個人に責任を負わせる」ことで「村全体の安全が保たれる」ということなのだ。
それが、社会全体の「同調圧力」となって、「誹謗中傷」ではなく「正しいことをしている」と、思い込んでしまうのではないだろうか?

過去、中東で日本人3人が誘拐され身代金を要求されるという事件があった。
この時盛んに言われたのが、「自己責任」だった。
「自分の考えで危険なところに行ったのだから、自分で責任を取るべきだ」というのが、その主張だった。
確かにその通りかもしれないが、誘拐された3人と面識も何もない人たちが、ここぞとばかりに3人を叩いたのも事実だ。
家族が「自己責任なので、政府の援助はいりません。本人たちもその覚悟で出かけました」というのであれば、「自己責任」の意味は十分通じる。
全く面識のない人たちが「自己責任」という理由で、誘拐された3人とその家族を叩いた状況は、まさに「誹謗中傷の嵐」だった。

逆に言えば、自分と関係のない人達だからこそ、安心して「自己責任」という言葉を使い、「誹謗中傷」をすることができたのでは?と、考えている。
何故ならこの3人は、自分たちと違う考えを持つ「異質な存在」だからだ。
その「異質な存在」を自分たちの社会(=村)から排除する為に「自己責任」という言葉をたてに、「誹謗中傷」することができたのではないだろうか?

今回の「新型コロナウイルス感染者」に対しても、「憎むべきは新型コロナ」だと頭でわかっていても、「ウイルスに感染したのが悪い(=「自己責任」)」と「誹謗中傷」してしまうのも「新型コロナ」という正体不明な存在に対する不安と、「感染者」という「異質な存在」となってしまった人を排除し、社会を安定させたい(=安心したい)、という潜在的な気持ちがあるからなのではないだろうか?

「村社会」というと、昔の「村八分」のようなイメージがあるかもしれないが、「自分の生活の安心」を脅かす具体的な人に対して向けられるものである、と考えれば今も昔も変わらず私たちの中に存在しているモノである、ということがわかる。
そのような「異質な存在」を排除することで、「自分が安心したい」と心のどこかで思っている、ということを知るだけでも、「誹謗中傷」を考えるという行動に変わって欲しいと思っている。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。