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「いのちの教育」って何?

2014-07-31 19:27:24 | 徒然

佐世保で起きた、女子高校生による同級生への殺人事件。
事件発生直後から、犯人である女子高校生について、雑誌などがいろいろ取り上げている。
おかげで(?)、犯人家族の家族構成などを知るコトになってしまった。

このような事件が起きる度に「いのちの教育」というコトが言われる。
私自身「いのちの教育」なるモノを受けたコトが無いので、その内容を知るよしも無いのだが「いのちの教育=生る教育」をしているのだろうか?と、疑問に感じたのだ。
と言うのも、断片的にメディアに登場してきている犯人の言葉で、興味があったのは「生きること」ではなく「死」であったのでは?と言う気がするからだ。

何故なら、同様の「頭の良い子の殺人事件」では、「家族など身近な人の死」を切っ掛けに犯行に走る傾向がある、と言うこと。
雑誌などでも、著名な方が言われていることなので、おそらく同質の傾向を持った「頭の良い子」だったのかも知れないのだが、「家族などの身近な人の死」というコトに関して、今の社会はとても受け入れ難い社会となっているのでは?と言う気がしている。

と言うのも、「日々、自分の死と向き合っている人」を知る機会が出来たからだ。
「自分の死と向き合っている人」というのは、それなりに「がんが進行している人」のコト。
医療の進歩によって、「がん」と言う病気は「慢性疾患」のようになってきた。
しかしながら、転移をしていれば「完治」を望むコトはできない。
「余命宣告」を受けない代わりに、日々がんと言う病気と向き合い、いつかやってくるであろう死の瞬間を考えて生活をしているのだ。
「死の科学者」と呼ばれたキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を読むと、「人は死を受け入れるまで」に、相当な葛藤があるとういう。
その葛藤というのは患者本人だけの問題では無く、家族にとっても同じ様な葛藤があると思う。
その様な葛藤をし、がんと言う病気を受け入れるだけではなく、いつかくるであろう自分の死すらも受け止めている人というのは、実に強く、人生を達観している。
それだけでは無く、例え余命が宣告されていても宣告期間以上に、ご自身の人生を生き切る傾向がある。

一方今の社会は、人が避けて通れない「死」を見ない様にし、なるべく遠くへと追いやってしまったために、「身近な人の死」そのものとの対峙や、死への恐怖や理不尽さに蓋を閉めてしまっている様に思うのだ。
「いのちの大切さ」を教えるのであれば、「死」ということは避けて通れないと思う。
「死に対する葛藤や恐怖、理不尽さに震える姿」を見せことで、「人の死」を理解する機会となるのでは。
だからこそ「生の視点」ではなく、「死の視点」での教育が必要なのでは?と言う気がするのだ。

ただ、メディアが言う「僕」と自分のことを呼んでいた、と言うことを「変な子」と書いている記事を目にするが、私が中高校生の頃でも、自分のことを「僕」という女の子はいたし、今でもいるのではないだろうか?
だからそのことで「変な子」と決めつけるメディアには、違和感がある。