日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

地方からの反旗、東京はどう考えるのか?

2021-02-17 19:28:45 | スポーツ

今朝Yahoo!のトピックスに「島根県知事、聖火リレー中止を検討」という、見出しが出た。
毎日新聞:島根県知事が聖火リレーの中止検討 政府や東京都のコロナ対策に不信

何となくだが、地方の中でも人口そのものが少なく、人口構成も高齢者が多い自治体などでは「新型コロナ対策」が最優先で、オリンピックの聖火ランナーの為の予算を「新型コロナ対策」に回したい位だろう。
まして「東京オリンピック」という名の通り、オリンピックは「都市開催」であって、国開催ではない。
自治体として、メリットが感じられないイベントに付き合わされる感が、あっても当然かもしれない。

確かに1964年の時は、日本そのものが高度成長期の時で、日本全体が「戦後からの復興」という大きな目標に向かう社会的雰囲気があった。
実際、新幹線や高速道路などが整備され、人・物の移動が大きく変った時代でもあった。

ところが今回の「2020東京オリンピック」は、「東日本大震災からの復興」と位置付ける方もいらっしゃったが、被災地の復興が進んでいるのか?と言えば、オリンピック開催の為に人をとられ進んでいる、とは言い難い地域もある、と聞く。
何より、拙ブログでも何度か指摘させていただいている通り、「福島第一原子力発電所事故」は10年経過しようとしている今でも、排水処理の問題や焼け落ちたウラン材料など、ほとんど手つかずの状態、と言っても過言ではないと思う。
誘致の時点で、そのような状況が十分考えられたにもかかわらず、誘致の際「コントロール下にある」と大見えを切ったのだ。
このような状況で「東日本大震災からの復興オリンピック」と言って良いのか?という、疑問がわいてきても当然だろう。

このような要因がありながら、つい先日にはオリンピックの総責任者ともいえる森さんが、辞任した。
世界各国からの批難の嵐では、辞任せざる得なかったとは思うのだが、その後のドタバタ劇を見ても、「火中の栗を拾う」覚悟を持っている人材が、東京オリンピック関係者にいるとは思えない。

政府が打ち出した「新型コロナ対策」にしても、今日やっと医療者を対象にワクチン接種が始まったばかりだ。
島根県下を走る聖火ランナーが、ワクチン接種できるようになるまでのロードマップも見えない状態では、不安が増すばかりだろう。
当然聖火ランナーが走るとなれば、人は集まってくるだろう。
累計でも300人にも満たず死亡者も出ていない島根県としては、何とか今の状態を保って「新型コロナ」を乗り切りたい、という気持ちもあるだろう。
まして、島根県のように県財政そのものが豊かとは言い難い自治体で、9000万円の負担は余りにも多すぎる。

「2020東京オリンピック」の開催でインバウンドが期待できるのは、東京周辺の地域に限られるコトを考えれば、東京から離れた地域になればなるほど、「負担ばかりでメリットが無い」と感じられるようになっても仕方ないかもしれない。

「島根県はオリンピックに協力的ではない」と見る向きもあるが、上述したようにオリンピックは「都市開催」であって「国開催」ではない。
地方にメリットが無いばかりか、リスクを負ってまでオリンピック開催を喜べる財政も気持ちも無くなり始めているのは、島根県だけではないと思うのだ。



崇高な理念と利権。森氏の発言で露わになったオリンピックの裏側

2021-02-10 20:30:33 | スポーツ

これまで森喜朗氏の発言を容認していたはずのIOCが、一転批判を始めた。
「謝るよりも、批判をする側についた方が、都合が良い」と考えたのが、IOCということになるだろうか?
朝日新聞:「得意の手のひら返し」IOCに恨み節も 森氏発言巡り

IOCが「手のひら返し」が得意だったとは知らなかったが、「手のひらを返した」理由はスポンサー企業からの声があったからだろう。
その一つが、最大スポンサーの1社であるトヨタの豊田章夫社長の「遺憾である」というコメントだろう。
スポニチ:【コメント全文】トヨタ社長、森会長女性蔑視発言は誠に「遺憾」五輪・パラ最高位スポンサー

1984年のロサンゼルスオリンピック以来、オリンピックはスポーツの祭典だけではなく、様々な利権が絡むスポーツビジネスと化した、と言われている。
例えば、オリンピックの聖火ランナーなどは、スポンサー企業がランナーを募集したり、ランナーそのものを有料参加募集をしたりするようになった。
一番大きな収入源となったのは、「放送権料」だ。
しかも、大会ごとにその「放送権料」は高騰するだけではなく、複数大会を一括購入するようなシステムになっているはずだ。
そうすれば、IOC側は将来的な「放送権料」を、確実に獲得することができる。
同様にスポンサー企業との契約も、複数大会の契約だったと、記憶している。
開催都市からすれば、開催期間中海外からの観光客も増え、ホテルや交通機関などの利用が増えることで、都市全体の収益アップも期待できる、と目論見もできた。

何故これほどまでに、ビジネス中心のオリンピックになったのか?と言えば、オリンピックを開催すると開催都市が大幅な赤字を抱えるようになったからだ。
競技種目が増え、当然のように参加者が増えれば、それだけ会場整備や選手が宿泊する施設の建設などが必要になる。
施設の建設ラッシュは、大会終了後の「負の遺産」として残ってしまうのが、それまでのオリンピックだったのだ。
そのため、開催都市に手を挙げる都市がほとんどない、ということまで言われていたはずだ。
その状況を打開し、「儲かるオリンピック」というビジネスモデルを創り上げ、成功したのが、1984年のロサンゼルスオリンピックだったのだ。

「儲かるオリンピック」となると、当然のことながらそこには「利権」が発生する。
それまでの「利権」は、施設建設など分かりやすい(というべきか?)だけだったが、今ではスポンサー企業との契約金やテレビの「放送権料」等、目に見えない「巨額な利権」が絡むスポーツビジネスと化したのだ。
おそらくそのような「スポーツビジネス」において、森喜朗という人はIOCにとっても使いやすい人物だったのかもしれない。
まして日本は、「オリンピック大好き」という傾向が強い。
「新型コロナ」の感染拡大が無ければ、昨年の7月~8月ごろはIOC側に支払われる「巨額な放送権料」等のことなどは気にせずに、日本人選手の活躍に一喜一憂しながらテレビ観戦をしていただろう。

ところが今回は「新型コロナ」の世界的感染拡大により、オリンピックそのものが延期となった。
延期決定までに関しても、相当な時間が必要だったこともあり「JOCとIOC、そして各国のスポーツ選手たちの受け止め方のズレ」のようなモノが、露わになった。
そこへ森氏の発言が加わり、ご本人は「何故こんなに世界から、自分が批難されなければならないのだろう?」という思いがあっただろうし、IOC側も「日本国内のことだから、上手におさめてくれよ」と、高をくくっていたら、今度はIOCにも矛先が回ってきたことで、慌てて批難声明のようなことになったのだろう。

これまで殿様商売のようにスポンサー料を吊り上げてきたIOCにとって、スポンサー企業が下りるということになれば、IOCという組織そのものが、立ち行かなくなるほどのことだからだろう。
1984年から続く「スポーツビジネス・オリンピック」が、今回のことでリセットされることになるかもしれない。
とすれば、オリンピック憲章が掲げる崇高に近づく可能性は「0ではない」気がしている。

 


WIN-WINの関係を模索するパラスポーツサポート企業

2019-12-24 21:29:21 | スポーツ

新聞各社のチェックをしていたら、F1のクルマのような美しい流線形の車いすに目が留まった。
中日新聞:日本企業の車いす、東京パラでサポート ホンダ、ヤマハ発など

F1のクルマというのは、大げさかもしれないが、トップに掲載されているホンダのマラソン用の車いすのデザインは、これまで私が見てきた車いすマラソンのものとは、印象が随分違っていた。
見るからに速さを競う為につくられた「乗り物」という印象を受けたのだ。

1960年のローマ大会が、パラリンピックの第1回大会だとすれば、60年という時を経てパラスポーツを支える道具も、大きな進化を遂げている、ということなのだろう。
進化を遂げるだけではなく、その時代を印象付けるようなデザインのサポート器具へと変化を遂げている、ということがホンダの車いすマラソン用の競技用車いすを見ると感じることができる。

記事を読むと、このデザインや素材など提供する企業側の本気度が、「障害者用の道具だから」という気持ちではない、ということが良く分かる。
素材にしても、アルミからカーボンへと変化していることを考えると、研究の成果として四輪車や二輪車への応用などがされているのでは?という気がしてくる。
またそれは逆に四輪車や二輪車の技術が、車いすの開発へと繋がっているような気もしてくるのだ。
どちらか一方の技術ではなく、互いに良い影響をしあい、研究・開発の種となっているような「本気度」が、感じられるのだ。

企業側からすれば、パラスポーツの機器開発は、分かりやすい利益を生み出すものではない。
だからこそ、一般技術として商品開発などに組み込まれた時には、他の企業では考えられない「使う人にとっての心地よさや利便性」というものとなるのでは?という気がするのだ。
何故なら、障害を持つ人にとって「心地よく使えるもの・こと」は、健常者にとっても「心地よく使えるもの・こと」だからだ。

もちろん、上述したようなF1のクルマかと見間違うようなデザインが、直接製品に反映されるワケではない。
その「エッセンス」となる発想や思考、アイディアが「直観」として生きてくるのだと思う。
企業にとって、利益採算という視点だけでは、赤字となるような障害者向け製品であっても、利用する障害者からの情報のフィールドバックによって、見落とされがちな問題点を指摘され、それが新たな商品開発や設計に取り込まれているのではないだろうか?

それが企業とパラスポーツ選手、そして社会の三者が「WIN-WIN-WINの関係」となる商品や市場づくりの基盤となっていくのではないだろうか?




「スポ根」は、「感動ポルノ」かも知れない

2019-07-30 12:07:41 | スポーツ

夏の選抜高校野球の地方予選が、全国で行われ続々と出場校が決まっている。
その中で注目を浴びた高校がある。
ご存じの方も多い、岩手県の大船渡高校だ。
岩手県の決勝戦で、エース投手を登板させなかったことで、試合に負けてしまった。
そのことで「何故、エース投手を登板させなかったのか?」と、高校へ批判抗議をした方が多く、学校側がその対応に追われた、というニュースもあった。

確かに高校野球ファンでなくても、エース投手の活躍が見たかった、ということもわかる。
わかるのだが、抗議をするほどなのだろうか?
日曜日の朝のワイドショー番組の名物コーナー(?)でも、コメンテーターが「喝!」と、言ったようだ。
日刊スポーツ:張本氏、佐々木の回避一番残念「絶対投げさせるべき」

今回の大船渡のエース投手は、プロ野球でも活躍できると期待されている逸材だという。
選手本人もプロ野球で活躍をしたい!という、希望があるとすれば、連投連投で選手人生を潰すことは、プロ野球への道を閉ざすことにもなる。
そう考えれば、怪我をする前、疲労で彼らしい投球ができない、と監督が判断をすれば、その判断は正しかったのではないだろうか?

昭和の頃、テレビドラマで人気があった番組の一つに、「スポ根」と呼ばれる分野があった。
ストーリーそのものは、やる気のない部員に熱血指導者、厳しい練習に耐え、苦難を乗り越え最期は大団円、感動の嵐という内容だった。
何故感動するのか?と言えば、それは視聴者が感情移入ができるからだが、視聴者はあくまでも第三者であり当事者ではない。
ドラマでは役者さんが演じていられることだが、これが本当の高校生だとしたらどうなのだろう?
まして、昭和の頃定番だった「うさぎ跳び」は、膝を痛める為やらせない。
練習中の水分補給も、ダメと言われていたが、今では熱中症予防の為にも上手な水分補給を指導しなくてはならない、と言われている。
それほど、昭和の頃の「スポ根」時代とは全く違うのが、今の指導法になってきているのだ。
「ベストパフォーマンスができる状況ではない」と、監督が判断せず、決勝戦で思うような結果とならなかったら、それはそれで監督は批判を浴び、投げた投手には同情が集まるという「感動ドラマ+α」の話が出来上がるだけだと思う。

高校球児の多くは、一生懸命練習をし甲子園を目指しているだろう。
だからと言って、彼らの人生は高校で終了するわけではない。
選手の中には、プロを目指す生徒もいるだろう。
あるいは、指導者を目指す生徒もいるかもしれないし、まったく違う選択をする生徒もいるはずだ。
とすれば、高校生たちの今後の人生を切り開く道を決めるのは、生徒たち自身だ。
彼らは、高校野球を見て感動する人達の為に、野球をしているのではない。
今回のような批判は、昭和の頃のような「スポ根ドラマで、感動したい」という、一種の「感動ポルノ」のような気がしている。




時代の変化と共に変えていくのは、スポーツも同じ

2019-01-18 20:25:30 | スポーツ

横綱稀勢の里が、引退を発表した。
横綱となってから、怪我による休場が続いたうえの連敗では、辞めざる得なかったような気がする。
それだけ「横綱」という地位は相撲の世界では、厳しくも期待される力士だといえる。
ただ、一部では「日本人横綱」にこだわった相撲協会に潰された(といっては失礼だが)のでは?という、話も聞く。
相撲ファンではないので、なんとも言えないが、確かに今の横綱という地位にいる力士の出身地は日本ではない。
「国技」といわれながら、日本人横綱がいないという事実は相撲協会の焦りがあったのかもしれない。

横綱という地位にある日本人力士が活躍した時代は、いつの頃だっただろう?
ここ数年の相撲界の話題は、「暴力事件」ばかりが目立っていた。
それは時には「かわいがり」という名前で呼ばれることもあったが、傍から見れば「可愛がっている」のではなく「鉄拳制裁」のようにしか見えなかった。
同じようなことが、何度も繰り返され問題視されてきたにもかかわらず、変わることが無かった。

何故変わることが無かったのか?と考えると、「強くなるためには、暴力も必要」というような意識が、スポーツ界のあちらこちらにあったからではないだろうか?
確かに私が中学・高校の頃は、「炎天下でも水を飲むな」などという指導法が、一般的だった。
同様に「精神と肉体を鍛える為には、選手を追い込む必要がある」などという精神論的、指導も当たり前のようにされてきた。
その名残が、今でも大手を振って通用している、というのが現状なのかもしれない。
その顕著なスポーツが、相撲ということになるのかもしれない、と稀勢の里の引退のニュースを見て感じたのだ。

一方、世界を舞台に活躍する選手たちの多くは、上述したような「精神論」のトレーニングはしていないのでは?という、気がしている。
例えばサッカーなどは、プロのフィジカルトレーナーがついて、ポジションごとに必要なトレーニングをしているはずだ。
食事にしても、スポーツ専門の管理栄養士さんがついて、食事のメニューを作成したりしているし、既婚選手の奥さんなどを対象とした「料理教室」を開いているチームもあると聞く。
おそらく、テニスの錦織選手なども単身米国へ行った頃から、そのようなトレーニングのプロが技術面だけではなく、トレーニング全般のサポートをしてきたのではないだろうか?
そのような体制ができていなければ、世界のトップクラスの選手として活躍すること自体、難しくなっているというのが今のスポーツ界なのでは?

そう考えると、相撲界も部屋ごとの親方が指導するだけではなく、トレーニングや食事のプロのサポート体制を組む必要があるのでは?
それは「怪我をしにくい体づくり」にもつながっていくのでは?という、気がするのだ。

海外出身の力士と比べると、日本人力士の体は一昔前のお相撲さん(体形)という印象がある。
日本人力士・海外出身の力士と分け隔てなく、力士を育成するにしても日本人力士の足りない部分を補うようなトレーニングは、差別ではなく必要だと思うのだ。
今までの「稽古」を否定しているのではない。
「国技」であっても、時代の変化と共に「稽古」そのものを変え、食事などを含めたサポート体制を変えていかなくては、相撲そのもの魅力が無くなってしまうような気がするのだ。


スポーツ界の騒動で、知りたいことは「真実」

2018-09-26 16:39:53 | スポーツ

昨日、貴乃花親方が日本相撲協会に「退職届」を提出した。
退職理由は、「日本相撲協会からの重圧」ということのようだ。
日刊スポーツ:貴乃花親方、退職届の理由「協会の有形無形の重圧」

相撲については、ここ数年親方や力士による暴行事件などが毎年のように報道され、場所の話題よりも暴行事件の話題のほうが世間の注目を浴びているのでは?と、感じるほどだった。
もちろん、本場所中は取り組みの結果などがスポーツニュースや全国紙のスポーツ面で大きく取り上げられるのだが、それよりも話題として取り上げられるのが、一連の不祥事?なのだ。

今回の貴乃花親方の引退には、相撲協会が今年7月に決めた「親方は必ず一門に所属しなくてはならない」という、約束事があったからだという。
一部からは「相撲協会による貴乃花親方締め出し」の為の約束事なのでは?という、指摘がある。
それにしても、何故これほどまでに相撲協会と貴乃花親方と対立をするのだろう?
何より、貴乃花親方は退職し、引退をすると会見まで開いているのに、相撲協会側は「書類不備」ということで、受理をしていない。
傍で見ていると「蛇の生殺し」のような、印象を受ける対応だ。

と同時に、今年に入ってから相次いでスポーツ界で起きている騒動と、根っこの部分では同じなのでは?という、気もしている。
日大ラグビー部のラフプレー、レスリング、体操、ウェイトリフティングなど、一連の騒動の指導者たちの多くは「昭和のスター選手」だった。特に体操とウェイトリフティングに関しては、かつての名選手でありお子さんたちも同じスポーツで実績を残されている、いわゆる「親子鷹」のような関係にある。
そのため、親子ともども注目を浴び、スポーツ指導などについても、話題になってきたはずだ。
にもかかわらず、何故今頃これほどまでに問題が発覚するのだろう?
そして、いつまでたっても解決した、というよりもグダグダとうやむやになっている(ような気がしている)。
その最たるものが、今回の「貴乃花親方VS日本相撲協会」かもしれない。

貴乃花親方と日本相撲協会との軋轢(?)は、今回の一連の事件が発端ではない(と思っている)。
随分前から、貴乃花親方と日本相撲協会との間には、相撲に対しての考えの食い違いがあり、今回の事件がその溝をより大きくさせた、という印象がある。
その結果、貴乃花親方が退職→引退ということに追い込まれたのだと思うのだが、相撲協会側の説明も貴乃花親方の説明も、何だか釈然としない。
ここまでくると、相撲ファンではない私などは、何が何だか訳が分からなくなってしまう。
おそらく多くの人たちは「それぞれの言いたいコト」を知りたいのではなく、「何があったのか?」ということが知りたいのではないだろうか?

今回の「貴乃花親方VS相撲協会」という問題だけではなく、今年起きた一連のスポーツ界を揺るがしている問題全てに共通することは、多くのスポーツファンが知りたがっている、「事実と真実」を明らかにすることだと思う。
それが、問題解決の糸口となり多くのスポーツファンを再び呼び戻すことになるのでは?



スポーツトレーニングも、変化する

2018-07-16 07:22:59 | スポーツ
梅雨明け直後から、真夏の暑さが襲っている。
大雨の次は「殺暑(勝手に名付けました)」のような、暑さだ。
くれぐれも、体調管理には気を付けたいところだが、この体調管理が難しい人たちがいる。
子どもやお年寄りは当然だが、この炎天下部活などをしている生徒たちだ。

先日、部活動中の態度に問題があると、生徒を「罰走」として校舎周辺を80周(常識的な距離とは思えないが)走らせ、走らさせた生徒が熱中症で倒れ救急搬送される、というニュースも報じられている。
讀賣新聞:校舎80周走、市側は「体罰の範囲さえ超える」

この罰走を課した顧問の先生が、なぜ80周という常識を超える距離を走らせたのかは不明だが、そもそも炎天下でスポーツのトレーニングをする必要があるのだろうか?
罰走はもちろんだが、通常のトレーニングにしても、尋常ではない暑さの中でトレーニングをして、成果が上がるのだろうか?
確かに、高校生のスポーツ大会である「インターハイ」などは、炎天下の中で行われることも多い。
その暑さに慣れる、ということも必要かもしれないが、年々「猛暑」とか「酷暑」といわれる日が多くなりつつあると考えれば、「インターハイ」などの開催時期をずらすなどをして、参加する生徒たちの体調管理をしやすい環境で行うことを考える必要があるのでは?
その最たるものが、「高校野球」かもしれない。

その「高校野球」でも、指導方法を変えることで成果を上げている学校もある。
Huffpost:投手「走り込み」もう古い? 長距離走、禁じて愛知で春4強

どうやら「走れば体力がつく」というわけではないようだ。
確かに、野球は長距離を走るスポーツではない。
「打つ・出塁する・ボールを(走りながら)キャッチする」という一連の動作をスムーズに行う為には、罰走のような長距離を走らせるよりも、必要な筋力アップのほうが効果的だろうし、生徒も理解し・納得して取り組みやすいだろう。
実際、野球よりも試合でも走る距離が長いと言われているサッカーにしても、1試合で走る距離は想像よりも短いと言われている。

サッカーも、トレーニングに関して意識が随分変わってきているようだ。
西日本を襲った豪雨で、広島の高校生たちが自主的に被災民家の片づけや清掃を行った、と話題になったが、その高校生たちを指導している先生からは「日ごろから、自主的に行動する」ということを重要視している、という話があった。
BusinessInsider:【豪雨被害】安芸南高校サッカー部員が結成した「掃除隊」。自立心と思いやりを育てた監督の教え

見出しの部分だけを読むと、サッカーというスポーツの前に自立心と思いやりを育てる指導をしている、と読み取れる気がするのだが、本分を読むと、サッカーというスポーツを指導するうえで、自主的に考え行動する、という指導を日ごろからされている、ということが分かる。何より、全体練習そのものは週のうち2日だけ。後は選手それぞれがトレーニングメニューを決めるという。
選手個人がトレーニングメニューをつくること自体、なかなか難しいと思うのだが、そのような場合は監督からのアドバイスがあるのでは?と、想像している。

今年のGW明けから問題になった「日大ラグビー部」とは、随分違う指導方針で、成果を出している高校の部活がある、ということを知ると、ますます、日大ラグビー部の指導は前近代的で、効果の薄いものだった、ということが分かる気がする。
精神論や気力でスポーツをする時代ではなくなってきている、ということだろう。

炎天下、熱中症寸前になるまでスポーツをする時代ではない、ということだろう。

 

 





もう少し、緩めに応援しませんか?メディアの皆さん。FIFA W杯ロシア大会

2018-06-12 18:05:45 | スポーツ

今週に入り、RADWIMPSの「HINOMARU」という楽曲が、話題になっている。
話題というか、この楽曲を随分不快と思っている方々が多い、という。
そのため、楽曲を作ったRADWIMPSの野田洋次郎さんが、コメントを出した。
exciteMuisc:RAD野田「HINOMARU」歌詞について謝罪「軍歌だという意図は1ミリもない」

この楽曲はフジテレビ系のFIFA W杯ロシア大会の番組応援ソングとして、使われる予定のようだ。
前回のブラジル大会の時も、NHKのW杯の番組応援ソング・椎名林檎さんの「NIPPON」も、お隣の国々から不快感を表明するようなことがあったように思う。

日本が初めてFIFA W杯に出場したのは20年前のフランス大会だった。
初出場ということもあり、異様なほどの盛り上がりを見せたように思う。
次の大会は、日韓合同での開催となったが、この時は「日本」だけではなく、サッカーというスポーツそのものに対しての盛り上がりだったように思う。
世界中の一番上手い選手が、一同に会して試合をするのだ、サッカーファンでなくても盛り上がったのは、当然かもしれない。
予選を突破した直後の渋谷の交差点は、人があふれかえり「ニッポン」コールが遅くまで響き渡っていた。
その後も、サッカー日本代表男子はW杯に出場し続けることができるようになってきたこともあってか?初出場のフランス大会や日韓大会ほどの熱狂さは、やや薄らいでいるのでは?という気がしている。

それに反するように、試合を放送するテレビ局は随分力が入るようになってきたように感じるのだ。
その象徴が、応援ソングのような気がしている。
椎名林檎さんの「NIPPON」や今回のRADWIMPSの「HINOMARU」が、悪いわけではない。
各テレビ局がオーダーするときに、そのような趣旨で作ってください、とお願いをしていると思うからだ。
その結果、なんとなく必要以上に力が入った歌詞が、出来上がってしまっているのでは?という、気がしているのだ。

テレビ局が、力を入れるのには、放送権料などの大幅な高騰があり(おそらく、日本の場合はNHKと民放各社連合体としての放送契約をしているはずだ。しかも複数大会契約でFIFA側の言い値に近い契約金を支払っているはずだ)、そのためには時差などとは関係なく視聴率を上げる必要があるのかもしれない。
その力の入り具合が、このような力の入り過ぎた応援ソングのオーダーになってしまっているのでは?という気さえしている。

今回のロシア大会は、直前で監督交代があり、その後の試合でも良い成績が残せていない。
そのため、世間的にはあまり盛り上がっていないのでは?という気さえしている。
応援ソングというのであれば、日本代表だけではなく世界のトップクラスの選手のプレーが見られる、というワクワク感やドキドキ感を歌詞に反映してもらったほうが良かったのでは?
何より、サッカーの楽しさや嬉しさのようなものが詰まった歌詞のほうが、W杯の応援ソングにふさわしいのでは?という気がしている。


スポーツマンシップよりも前に考えたいコト

2018-05-18 18:41:57 | スポーツ

日大と関西学院大とのアメリカンフットボールでの試合中に起きた、傷害事件(あえて「傷害事件」と書かせていただく)。
ビデオなどを見ると、いくつか疑問に感じることがある。

一つは、怪我を負わされた選手は、ボールに触っていない、という点。
サッカーやラグビーなどでは、ボールに触っている選手に向かって接触プレーをすることはあるのだが、アメリカンフットボールの場合、ボールに触っていない選手に向かって突進(「タックル」という言葉は、使いたくない)するのが、普通なのだろうか?
ボールに触れていない、ということはゲームとは関係が無い、という状況のように思える。
ゲームと関係が無い選手に怪我をさせるような行為が、ルールとして認められたら、それはスポーツと呼べるのだろうか?
今から20年近く前、Jリーグの試合でフリーキックの場面、敵味方選手が入り混じっている中、対戦相手選手の顔面を肘打ちし、顎を骨折させるという瞬間を見たことがあるが、それ以来の衝撃的だった。
ちなみに肘打ちをした選手には、審判がその後イエローカードが出されたが、肘打ちをされた選手側チームが猛抗議をした。

二つ目は、審判がこのような行為に対して、反則などを取っていない、という点。
アメリカフットボールというスポーツのルールをほとんど知らないので、このような審判の判断が普通なのかもしれないが、危険な行為に対して審判が何もしない、というのはスポーツとしてどうなのだろう?
結局、怪我を負わされた選手が、同じ選手から3回も突進行為を受けることになってしまったのは、審判にも問題があるように感じるのだ。

三つ目は、アメリカンフットボールというスポーツそのものは、選手自身の判断自由がとても少ないスポーツである、という点から考えた時の監督やコーチの、アメリカンフットボールというスポーツに対する考えの問題だ。
アメリカンフットボールというスポーツそのものは、よく知らないということは上述した通りなのだが、実はビジネスという場面では、アメリカンフットボールの組織マネジメントは、よく参考にされてきたという過去がある。
監督以外にも観客席で、ゲームを俯瞰しながら戦況を分析をする、という役割を持っているコーチ(というのだろうか?)がおり、場合によってはその戦況分析によってゲームを大きく動かす、とまで言われていたからだ。
それだけではなく、サッカーやラグビーのように選手一人ひとりの状況判断よりも、そのような戦況分析に基づいたシステマチックなゲーム運びが上手いチームが、強いチームと言われてきたという過去がある。
その「戦況分析とシステマチックな問題解決」という点で、ビジネスにおけるマネジメント発想に応用できる、ということが一時期言われたことがあったのだ。
とすると、選手一人の勝手な判断であのような傷害行為を偶発的に3回も起きるものだろうか?という、疑問がわいてくるのだ。

日大のアメリカンフットボール部(だけではないかもしれないと思うが)は、とても厳しい練習をしていた、という話がある。
もちろん、「名門チーム」なのだから、厳しい練習をしているのは当然だと思うのだが、その「厳しい練習」の中に、日本的な「根性主義」と結びついた「勝利至上主義」があったのではないだろうか?
確かに、試合に勝つ!ということはチームとして明確な目標になるだろうし、試合に勝つことで自信にもつながり、より効果的な練習ができるだろう。
ただ、そのような「根性主義」と、システマチックなマネジメントによって、ゲームを動かしていくと言われているアメリカンフットボールとでは、どこか相容れられないところがあるような気がするのだ。

「スポーツマンシップ」というのは、対戦相手に対して敬意を持つことなのではないだろうか?
アメリカンフットボールというスポーツに愛情も持たず、ただ勝つコトだけを至上命題のように考えていたとすれば、それは「スポーツマンシップ」以前の「スポーツに関わる」という意識の問題のような気がする。


相撲協会も「神事」か「興行」なのか、ハッキリさせた方が良いのでは?

2018-04-05 19:27:42 | スポーツ

既に様々なとこで報道されている、4月4日に行われた京都・舞鶴市での春巡業で起きた「女性が土俵にあがらないでください」アナウンス事件(というべきか?)。
八角理事長は「気が動転してしまって、女性は土俵から降りてください」というアナウンスを若い行司がしてしまった、と弁明しているのようだ。
スポーツ報知:八角理事長が謝罪 倒れた舞鶴市長へ救命措置の女性に土俵から降りるようアナウンス

確かに、相撲そのものは「神事」で土俵に女性が上がることを禁じている。
今回救命措置をされた女性も、そのくらいのことは知っていたと思う。
というのも「春巡業」という、いわゆる「本場所」とは違う小規模な場所に、わざわざ見に行くことを考えれば、それなりの相撲ファンなのでは?と、思われるからだ。
にもかかわらず、女性が救命措置をしようと土俵に上がったのか?と言えば、「救命措置をすることが最優先」と判断したからだと思う。

Huffpostに掲載されている、動画を見てみると倒れた市長さんを取り囲むように、数名の男性が側にいる。
側にいるのだが、茫然自失という感じて何の対応もしているようには見えない。
そのような状況を見て、救命措置をするために女性が土俵に上がってくるのだ。

Huffpost:土俵の女人禁制は「伝統」なのか? 相撲と女性をめぐる問題提議は過去にもあった

大人の男性が寄り集まっているだけで、誰もAEDなどを取りに行かせる(あるいは取りに行く)ような行動が見えないのだ。
その後、AEDらしきものを持った男性(警察関係者?)がくるのだが、その時既に女性が救命措置を始めている。
運営側の動きが、なんとも遅いというか緊急対応ができていないのでは?という印象を受けるのだ。

もう一つは、このような巡業の場合、各会場には医療者がいないのか?という疑問だ。
もちろん巡業だけではなく、本場所もそうだが、力士が怪我をしたり、観戦に来ているお客さんが気分が悪くなったりしたとき、どのように対応をしているのだろう?
しばらく様子を見て、救急車を呼ぶ、ということなのかもしれないが、今回のように一刻も争うような状況の時には、その場で救命措置をする必要があるのでは?
もし、男性医療者がいれば、女性が土俵に上がることは無かったと思う。
別に、相撲協会が医療者を雇えと言っているのではない。
巡業先の救急対応ができる病院から、医師と看護師を派遣してもらうように手配をするだけで、十分だと思う。
もちろん、派遣される医師や看護師には、それなりの日当を支払うなどは必要だとは思うが、その程度の準備は必要だと思うのだ。
何故なら、市民が参加するようなスポーツイベントには必ず「救護班」として、医療者が待機しているのが一般的になっているからだ。

今回の件で、以前大阪府知事だった女性が「大阪場所で、優勝力士に大阪府知事賞を贈りたい」と言っていたことと、同じような報道をしているメディアもあるようだが、まったく違う問題なので、引き合いに出す必要はないと思う。

「相撲」そのものは「神事」として始まったと言われているが、今の「大相撲」にはそのような要素があるのだろうか?
むしろ、興行的要素のほうが多いのでは?
場所前の行われる土俵に神様を迎え入れるなどの神事そのものは残すにしても、「大相撲」そのものは興行として行うほうが、今の実態に合っていると思う。
そして、「神事だから土俵に女性を上げない」というのであれば、巡業場所を含め「男性救護班」を待機させる必要があると思うのだ。