はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

終盤探検隊 part68 第十代徳川将軍家治

2015年12月02日 | しょうぎ
 この局面が初めて現れたのは1761年。
 そしてこれは1775年の将棋。「伊藤寿三-徳川家治戦」。
 ここで3四飛と“よこふ”を取ったらどうなるのか。いや、取らずに2六飛ならどうなるのか。
 徳川家治将軍と伊藤寿三は、この「最新型」を研究していた…。


   [補陀落星人]
 光之助は優しく説きはじめた。
「星が小さいと思うのは間違いだ。ここから見て小さくても、近寄ればとほうもなく大きいのだ」
「でもどうやって星に近寄るの。莫迦莫迦しい」
 お幾はまだ笑い残していった。
「船があるのだ。虚空を飛ぶ船が」
 栗山は驚かなかった。
「その船に乗っていたのだな」
「乗っていた。補陀落(ポータラカ)からここまで、俺はその船で来た。お主らには信じられまいが事実だ」
「いや……」
 栗山はかぶりを振り、同意を求めるように俊策を見た。俊策も頷く。
「どうやら信じなくてはいけないようだ」
 光之介は礼をいうように軽く頭を下げる。
「ひょっとすると、お主らはまだこの世界がどこまでも平らにひろがっていると思っているかも知れんが、ここは丸いのだ。月と同じ形をしている」
「我々はその上に乗っているのか」
 栗山が目を丸くした。                      (『妖星伝』(一)鬼道の巻より)


【棋譜鑑賞 伊藤寿三-徳川家治戦 一七七五年】

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △3二金 ▲7八金 △8五歩
▲2四歩 △同歩 ▲同飛


△8六歩 ▲同歩 △同飛
 ここで8六歩が現代の眼で見るとすぐみえるだろう。
 しかし江戸時代、ここでの“8六歩”を発見するまでに時間がかかった。
 1730年代にこの型の「横歩取り」の棋譜がいくつか残っているのだが、それはこの図で「2三歩」と打つ場合である。「2三歩」に3四飛なら先手横歩取り。しかし「2三歩」に2八飛として、以下、後手が8六歩、同歩、同飛、8七歩、7六飛と、後手が逆に横歩取りする棋譜も残っている。どちらにしても現代の横歩取りとは型が違う。
 “8六歩”を指さないからだ。8六歩、同歩、同飛だと何が待っているかわからず、怖かったのだろう。
 
 ここでの“8六歩”を最初に指したのは、1761年「鳥飼忠七-中島大蔵戦」の中島大蔵という人物である。(この人は強豪だったようだ。また鳥飼忠七はこの数年後に伊藤家の養子になった五代伊藤宗印である)


▲2六飛
 今度は先手が悩む場面になった。3四飛と横歩を取るか。それとも飛車を2六や2八に引くか。
 記録上、この場面で最初に「3四飛」を指したのは、本局の対局者である伊藤寿三である。この半年前の「伊藤寿三-徳川家治戦」の対局で、それに対して後手の家治将軍は8八角成~4五角と「4五角戦法」を指した。史上初の「3四飛」新手と、やはり史上初の「4五角」である。(その棋譜はpart62で紹介している)

 飛車と角をまず使いやすくするのが、将棋の基本である。であるならば、角道を明け、飛車先を伸ばして歩交換をしたこの図というのは、最も理にかなった作戦と思われる。が、振り飛車が中心だった江戸時代には「飛車先の歩を突く」ということが少なかった。そして突いたとしても、相手が飛車を振れば、「相居飛車」にはならない。そういうことでこの「相掛かり系」の将棋は発展が遅かった。
 その「相掛かり」「横歩取り」は、徳川家治の時代1760年~1790年頃に急に発展していくのだが、それに大きくかかわっているのが徳川将軍自身と、この伊藤寿三、そして同じく伊藤家の五代伊藤宗印である。徳川家治将軍は、この二人を相手にたくさん将棋を指した。それは「家治将棋研究会」というようなものであっただろう。

 この図について、家治将軍はおおいに興味を持っていたのだろう。
 実際に3四歩と横歩を取ったら、どうなるのか。また、取らないで2六飛なら、その後はどうなるのか。


△2三歩 ▲8七歩 △8四飛 ▲4八銀 △6二銀 ▲6九玉 △4一玉
▲5六歩 △3五歩
 この将棋では、先手伊藤寿三は「2六飛」を選択した。
 これは「相掛かり」になる。(ちなみに、江戸時代は初手2六歩の将棋はほとんどない)


▲5五歩 △3三桂
 後手家治将軍は3五歩と突いた。これは2四飛や3四飛の「ひねり飛車」をねらう作戦だ。この「ひねり飛車」の構想が最初に現れた将棋は、上でも触れた1761年「五代宗印-中島戦」が最初と思われる。
 寿三は5五歩。 


▲7五歩 △4二銀 ▲7七桂
 将軍は3三桂と跳ねた。徳川家治の将棋はのびのびしている。「一番指したい手を指す」という感じで、気持ちが良い。好奇心のままに、直球勝負である。


△5四歩
 先手寿三も7五歩から7七桂。「相ひねり飛車」模様だ。


▲5四同歩 △同飛 ▲8六飛 △8四歩 ▲7四歩
 将軍は、5四歩。センスの良い手だ。
 そして、さあ、早くも闘いだ。 先手は8六飛をまわった。


△5六歩
 ここで将軍は「5六歩」。これが好手で、どうやら先手はもう、分が悪い。
 先手は序盤で5六歩~5五歩と5筋に「2手」の手間をかけたが、その分だけ他の手が遅れた。その5筋を上手5四歩から逆用されて、こうなってみると先手の手の遅れ(6八銀としていない)のために、先手は受け身になる、


▲6八銀 △4五桂 ▲8四飛 △7一金 ▲5八歩 △2四飛 ▲3九金
 ここでは5五歩と打つところだったかもしれない。(同飛なら、4五桂と跳ねてきた後に2筋に回れないという意味)
 6八銀、4五桂、5八歩で、5筋は受けとめたが、後手2四飛とまわって、3九金に――


△3六歩 ▲同歩 △5五角 ▲2八歩 △同角成
 3六歩、同歩、5五角が冴えた順。2八歩に、同角成。


 もう、どうしようもない。以下、家治将軍の快勝。

 以下の指し手は、次の通り。
▲6五桂 △3九馬 ▲同銀 △2九飛成 ▲1一角成 △3九龍 ▲5九香 △5七歩成
▲同歩 △5八歩 ▲7三歩成 △5九歩成 ▲同銀 △5七桂成 ▲8六角 △7五銀
▲6二と △8六銀 ▲5二と △同玉 ▲5四飛 △5三香 ▲同桂成 △同銀
▲5七飛 △6五桂 ▲4一銀 △同玉 ▲5三飛成 △5七桂打 ▲同龍 △同桂不成
▲6八玉 △6九飛 ▲5七玉 △5九飛成 ▲5八歩 △4八龍左 ▲4六玉 △3七角
▲3五玉 △2四銀 ▲4五玉 △4七龍 まで92手で後手の勝ち

 この将棋は、序盤先手の7七桂(29手目)が悪かった。その手で6八銀なら「互角」の序盤が続いた。(先手5六歩~5五歩がわるかったというわけではない)
 その先手の7七桂をとがめた家治将軍の感覚が光る一局。


【三代宗看・看寿の時代】

 1760年以降、「相掛かり」(横歩取り含む)が発展したと述べたが、その“先触れ”として出現している伊藤看寿の将棋を以下に2局紹介しようと思う。
 看寿――その時代の主役は次の四人だ。
   三代伊藤宗看 七世名人 1705-1761年
   四代大橋宗与(大橋分家) 1709-1764年
   八代大橋宗桂(伊藤宗寿) 1714-1774年
   伊藤看寿  1718-1759年
 時期はバラバラだが、この四人が「八段」以上になった。(八段は名人資格を持つ段位)


【伊藤看寿-八代大橋宗桂(右香落ち) 一七四六年 御城将棋】

 もしかすると、これが「御城将棋最初の相掛かり」ではないか、という棋譜。

 看寿のこの対局の相手の八代大橋宗桂は、伊藤家で生まれ10歳のときに大橋家の養子に行き大橋家8代目当主になった男。伊藤時代は宗寿の名前で、看寿の兄である。この対局時は、兄の宗桂が33歳、弟の看寿は29歳。
 当時の名人は彼らの兄の伊藤宗看だったが、“次期名人”の候補者として、二人はライバルであった。お互いに“家”の未来を背負っていた。

伊藤看寿-八代大橋宗桂(右香落ち) 1746年 御城将棋
 「右香落ち」の将棋である。「右香落ち」は、上手が飛車を振ることはまずない。ということで、下手が飛車を振ることが一般的だったが、この時期から「相居飛車」の将棋も徐々にみられるようになっていた。下手が「居飛車」を選択すれば、ほぼ確実に「相居飛車」の将棋になる。「平手」戦よりも「相居飛車」戦になる確率が大きいのだ。
 そういうこともあって、「相掛かり」の発展に「右香落ち」が大いに関わっているのである。

 初手より、3四歩、9六歩、8四歩、9五歩、8五歩。
 上手は居飛車で指す――だから上手は飛車先の歩を伸ばす。これはふつう。
 下手看寿の指し方が異様である。それでも、ここで9七角か7八金ならまだわかるが――


 なんと、7六歩。
 看寿の作る詰将棋は「華麗で繊細」とよく言われ、そして看寿の指し将棋の手は「豪胆」と言われる。それはこういうところだろう。
 以下は、8六歩、同歩、同飛、7八金、4四歩、2六歩…
 ここで2六歩と飛車先の歩を突いたのである。


 看寿は飛車先の歩を伸ばし、浮き飛車にして飛車を5六へ。状況は下手一歩損である。
 飛成を防ぐ上手の5四歩に、7五歩。飛交換を誘う。大胆不敵な将棋である。お互いに伊藤家と大橋家とを背負っているそういう相手との勝負なのに、まるであそびで指す将棋のようだ。
 上手の八代宗桂は、飛交換に応じた。5六同飛、同歩。そして、5七飛。
 5八金、5六飛成に、6六飛(次の図) 


 こういう手を看寿は用意していた。
 この場面をソフト「激指」で調べると、ここで5五竜や4五竜なら上手が良いようだ。
 八代宗桂は、6六同竜。同角に、8六飛。


 以下進んで、このようになった。ソフト的にはここで7四歩として「+412 先手有利」という。
 看寿の指し手は8二歩成。同金に、7一飛、6二玉、8二竜、同角、2一飛成と進む。(8二歩成に同角だったら、看寿は次にどう指す予定だったのだろうか)


 そしてこうなった。今、6五桂と下手が桂馬を打ったところ。これを上手宗桂は6一桂と受けた。
 これによって形勢は下手良しに傾いた。この場面、桂馬を上手が手に持っているのといないのとで、下手陣への脅威がまったく違うのだ。具体的には上手から5六桂がある。

参考図
 だからその手に代えて、ここは5三桂(図)が最善手だったと「激指」は示している。以下、7四歩、6五桂、同歩、5六桂、7九玉は、「互角」。 5三桂に同桂成は、同玉で、以下5一竜、4四玉、5六桂、3三玉は、上手が良い。 


 本譜は、上手6一桂の後、この図のようになった。
 今、下手看寿が5二歩と指したところ。看寿はここから細やかな寄せを見せる。5二同玉に、3三歩、同金、5一金、6二玉、4一竜。なるほど、こう寄せるのか。
 以下、4八馬、4二竜、7一玉、8三歩まで、上手八代宗桂投了。

 序盤の破天荒な指し方と、最後の繊細な寄せ方のコントラストが印象に残る一局だった。
 そしてたしかにこれは「相掛かり」であった。変則であるが。


【伊藤看寿-四代大橋宗与(右香落ち) 一七四八年】

 四代大橋宗与は先代三代大橋宗与(六世名人)の実子。数え8歳の時から御城将棋に出仕している。
 名人の三代宗看(七世)の次の強者として存在していた。つまり伊藤家の次期名人候補看寿が、乗り越えるべき目標であった。
 例の「魚釣りの歩」で有名な対局もこの相手との対戦であった。その将棋も「右香落ち」だったが、その時は下手看寿が飛車を振ったのであった。

伊藤看寿-四代大橋宗与(右香落ち) 1748年
 看寿30歳、四代宗与39歳。
 この“8四飛”は、宗与の得意戦法だったかもしれない。四代宗与は1733年にも八代宗桂を相手にこの手を指して、しかも勝っている。また父の三代宗与もこれを指している。ということはこれは当時の「大橋分家秘伝の戦法」なのかもしれない。
 そして下手の看寿は、あるいは宗与しか指さない特殊戦法への備えをしてきたのかもしれない。

 伊藤看寿はここで“2六歩”。

 この右香落ちの8四飛戦法に対して、過去の対応は下手振り飛車だったが、看寿は飛車先を突いた。
 8四飛戦法自体が特殊な指し方の上に、“2六歩”も前例のない指し方だった。
 それまでも「右香落ち」戦での「相居飛車」の指し方もあったが、6六歩を止めて雁木の陣形にするか、あるいは角交換して矢倉に組むというような指し方であった。
 “2六歩”が「相掛かり」の時代の先取りの一手である。(ちなみに、「右香落ち」で初手8四歩に2手目2六歩という指し方は、1772年に大橋宗英が初めて指している)
 
 今の視点から見れば、下手の指し方は自然である。
 しかし平手戦でも「相掛かり」そのものが少ない時代だから、上手も2六歩と突かれることはあまり想定していなかっただろう。


 以下、7四飛、2五歩で、この図。
 ここで3二金などなら、“一局の将棋”だったが、なんと四代宗与は過激に7六飛!
 以下、2四歩、同歩、同飛、1四歩、8四飛(次の図)


 これはしかし、上手の指し方が大胆すぎる。早くも、下手優勢だろう。
 もともとこの四代宗与という人は新しい指し方をよく試みる人で、「右香落ち」での「下手角交換振り飛車」などを指している。
 7二銀、8二飛成、7四歩、8五竜、7五飛、8二竜、7三桂、8六角、5五飛、5八玉と進んだ。 


 注目してもらいたいのは、下手の看寿の指したこの“5八玉”だ。
 これがおそらくは歴史上初の「中住まい玉」である。看寿が最初に指したのだ。
 といっても、序盤から戦いになる前に5八玉とする「中住まい」とは違うから微妙だが、それでも5五飛に対する応手は、金上がりも銀上がりもあるし、4八玉も6八玉もある。それらの選択肢の中で「これがいい」と看寿は“5八玉”を選んだわけで、この先鋭な感覚はさすがである。
 後でもう一度このことに触れるが、次に「中住まい玉」が現れるのは1790年のことで、これより40年以上この玉は出現していない。

 図で上手宗与は8八歩。以下、7七桂、3四歩、9三竜、4二銀、7五歩、5四飛、8四竜、8九歩成(次の図)


 ここから7四歩、8八と、7五竜、7八と… 上手が先に銀を取って駒得になった。序盤で8四飛とまわられた時にはもう上手は負けというような局面にも思えたが、さすがの八段である。


 前の図から約20手進んでこうなった。上手は9九角成と香車を取り、その成角を4四馬と引きつけた。
 今、上手が8一香と竜取りに打ち(竜の侵入を防いだ)、下手が9六竜とそれをかわしたところ。
 上手の「駒得」はさらに大きくなっている。後手の「桂」と、先手の「銀香」の交換である。
 ところが形勢は下手が良い。こういうところは対局者になって上手を持ってみたら苦しさがわかるかもしれないが、傍目ではわかりにくいものだ。両対局者は、少し下手が指しやすいことがわかっていただろう。
 上手は歩切れである。そして受けのために得した銀と香を自陣に打っており、これを攻めに使えればよいが、どうもそれは難しそうだ。
 こうなってみると、下手の「中住まい玉」のバランスの良さが引き立っている。

 図から、3三桂、4六桂、5五飛、7七角(次の図)


 上手の打った6四銀や8一香に比べ、この4六桂は3四桂とすぐ攻めに使える。
 7七角以下、2五飛、4四角、同歩、7二成桂、同銀、3四桂、5二角、4五桂、2五歩、同桂、3五銀(次の図)


 2三飛、2四歩、1三飛、9一竜、7一金、6三角成以下、看寿が勝った。

 この将棋は序盤看寿の“2六歩”で優勢を築き、さらに“5八玉”の新感覚の陣形とともに、実は看寿の「丁寧さ」が勝因だと思われる。優勢になった看寿は決して攻めを焦らず、丁寧に丁寧に指している。「元祖空中戦」ともいうような飛車角の派手な動きが目立ったが、終わって全体を眺めてみると、看寿の丁寧さが見どころの一局と感じた。
 看寿の将棋は、派手に見えるが、実はやはり、詰将棋作品と同様に、“繊細”なのではないだろうか。そういう印象をこの2局の看寿の「勝ち方」から受けた。


伊藤看寿-四代大橋宗与(角落ち)1738年 御城将棋
 これは今見てきた将棋の10年前、看寿が21歳の時の「角落ち」での両者の対局の図。
 角落ちには、下手がこういう、3五歩と突いて3六飛と構える「二枚落ち」での「二歩突っ切り戦法」のような指し方もあって、この頃に流行したようだ。これを好んでよく指していたのが若き日の看寿である。
 作戦としては、この戦法は力の強い上手に対しては、ちょっと勝ちづらいかと思われる。


【家治将軍の時代=将棋近代化の時代】

 そして次の時代。登場人物は変わり、新しい物語が展開されていく。

  徳川家治  1760年に徳川家第十代将軍になる  家治将棋研究会メンバー
  八代大橋宗桂 1774年没
  五代伊藤宗印 1764年御城将棋初出勤(37歳)  家治将棋研究会メンバー
  大橋宗順(大橋分家) 1765年御城将棋初出勤(33歳)
  九代大橋宗桂(印寿、八代宗桂の息子) 1955年御城将棋初出勤(12歳) 
  伊藤寿三(看寿の息子)  家治将棋研究会メンバー
  大橋宗英(宗順の息子) 1778年御城将棋初出勤(23歳)
  松田印嘉(後の六代伊藤宗看) 1784年御城将棋初出勤(17歳)


 この「家治時代」の「相掛かり」の進化をざっと並べてみよう。   

五代伊藤宗印-中島大蔵 1761年
 これが新時代の幕開けの一局。
 後手中島大蔵が“8六歩”。 まだだれも(記録上は)指していない新手であった。
 以下、同歩、同飛に、先手鳥飼忠七(後の五代伊藤宗印)は2六飛。そして「相掛かり」戦に。


 その将棋は、先手は7五歩、後手は3五歩と突いて、「ひねり飛車」模様に。これが史上最初の「ひねり飛車」作戦。ただしこの将棋は図のように後手が7四歩とし、以下先手2四歩、同歩、同飛、2三歩、3四飛という戦いになったので、「ひねり飛車」は“構想”段階で終わった。勝負は後手の中島大蔵の勝ち。

中島大蔵-八代大橋宗桂 1763年
 「相掛かり」はまだ流行前。この将棋は先手7六歩から始まって、後手八代大橋宗桂が8四飛と受けたところ。
 これはお互いにこの将棋は飛車先交換ができないままに進むので、今の考えからすると「相掛かり」と言ってよいのかどうか判断にこまるかもしれない。しかし江戸時代の基準で言えば、相居飛車で先手2六歩、後手8四歩と突きあえば「相掛かり」である。つまり矢倉であっても、飛車先歩不換であっても2六歩と突けば「掛かり」なのである。(たぶん)

 この将棋は後手の八代宗桂、8三銀と「浮き飛車棒銀」を見せる。


 そして、5四飛。 


 さらに進んで、ここで「中原囲い」が出現。これはもう戦いが始まっている途中で離れ駒をなくすために5九金寄と指したのであるが。
 それなら、戦いが本格的に始まる前に5九金寄としてはどうか、という発想につながっていったのだろう。
 後手の金も5一金型になっているところにも注目してほしい。
 勝負の結果は八代大橋宗桂の勝ち。八代宗桂はこの時50歳。この年に「八段」(当時の最高段位)になっている。その当時現役ただ一人の八段に対して「平手」で指しているのだから、この中島大蔵という人物の力も相当だったのだろう。

桑原君仲-川崎八十八 1770年
 現代では、「相掛かり」といえば、(横歩取りの戦型と区別するために)初手2六歩と突くもの、というのが常識だが、江戸時代はそうではない。江戸時代、「初手2六歩」で始まる対局はほとんどない。
 我々の調べでは、わずかに4局だけ確認できた。
 その中で一番古い棋譜がこの将棋である。先手桑原君仲が史上初の「初手2六歩」と指した。
 桑原君仲(くわはらくんちゅう)は詰将棋で有名な人物で「大引き」の曲詰(詰め上がると大きな「×」の字になる)などを残している。将棋は九代大橋宗桂の弟子だったという。

宗順-九代大橋宗桂(印寿) 1771年 御城将棋
 御城将棋でついに「相掛かり」が登場した。1771年。
 上で見た1746年の「伊藤看寿-八代大橋宗桂戦」も「相掛かり」ではあったが「右香落ち」だし、変則的な手順だった。
 この将棋は、先手も飛車先の歩を切っていたのだが、後手が2四飛とまわり、2五歩、5四飛となったのである。
 ここから先手は3三角成、同桂、8二角と動き、後手も3六歩、同飛、2八角と角を打ちあう展開になっている。
 先手の大橋分家の五代目当主宗順がこの将棋は勝利している。この宗順は、よくこの九代大橋宗桂に勝っており、それなのに後世ではあまり「強い」とは評価されていない。なぜなのかわからない。

伊藤寿三-徳川家治 1775年
 そして、伊藤寿三(看寿の息子)の3四飛。「横歩取り」の新手。
 現代も大流行している「横歩取り」の出発点になる将棋は、1775年の4月10日、江戸城で指されたこの将棋だった。


 対する後手の「横歩取り4五角」。
 
 徳川家治第十代将軍は、この1775年から1780年にかけて、熱心に将棋を指しており、その棋譜を残している。相手はほとんどは、この伊藤寿三と、五代伊藤宗印である。
 彼らは実力はトップレベルではなかったが、素直に将棋と向き合っていたと感じられる。

九代大橋宗桂-五代伊藤宗印 1778年 御城将棋
 1778年の御城将棋で、ついに「横歩取り3三角戦法」が現れた。九代大橋宗桂の新戦法であった。


 この将棋は後手が6五角と打ち、先手が9六角とそれに応じてこの図のようになった。
 このような手が出現するのも、玉が互いに「居玉」だからである。「中住まい玉」がまだ発見されていない。(看寿が一度指していたが)

 この将棋は先手の五代伊藤宗印が勝ち。

伊藤寿三-毛塚源助 1790年
 「中住まい玉」が現れた。1790年。
 毛塚源助という人物が指した。この人は大橋宗英との香落ち下手での棋譜もいくつか残っている。この毛塚源助、基本的には振り飛車党なのだが、これは「横歩取り3三角戦法」から角交換した変化だ。

細田右仙-大橋柳川 1790年
 同じ1790年。「相掛かり」の「相中住まい玉」である。

相中原囲い 川崎八十八-桑原君仲 1784年
 そしてこれは、「相中原玉」。
 (「中原玉」は1992年に十六世名人中原誠が復活させた囲い。昭和時代には全く指されていなかったので皆この囲いを知らなかった。そのままだったら“廃れた古い囲い”のままだった。)


【参考として】

 
 実は大戦後も、この図での後手“8六歩”の手は、すっかり忘れ去られていた。
 なので「横歩取り」といえば、後手がここで“2三歩”と歩を打って、それに「3四飛」と先手が指す場合――それを意味していた。1950年頃のことだ。
 
 ここで“8六歩”がある、とこの当時の棋士――升田幸三や大山康晴や塚田正夫ら――が気づいたのは、佐瀬勇次の指す将棋を見たからだった。

升田幸三-松田茂役 1952年
 上の図から、8六歩、同歩、同飛、3四飛、8二飛(図)と指すのが、「横歩取り佐瀬流」だった。
 この戦法の価値は、8二飛ではなく、その前の「8六歩、同歩、同飛」の手の発見であった。
 「どうやらこの手もあるようだ」と、彼らは知ったのである。
 1952年にA級順位戦でもこれが何局か現れたのであった。

 江戸時代には指され研究もされていた戦型が、いったんはすっかり忘れ去られ、そしてまた突然によみがえったのであった。
 「3三角戦法」や「4五角戦法」の再登場には、もう少し時間が必要だった。
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