はんどろやノート

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アカシヤ書店とコバケン四間飛車

2014年07月03日 | しょうぎ
 ズラッと並んだ将棋の本。これは神田の「アカシヤ書店」の本棚。許可をもらって撮影した。
 「アカシヤ書店」は、囲碁と将棋の古本の専門店である。


 御茶ノ水駅東口を出て左に行き、しばらく歩くと「神田古本街」に出る。日本一の規模の古本屋街である。
 
 そこに「アカシヤ書店」がある。




 僕はここを訪れるのは2度目で、前回訪れたのはずいぶん前だ。今は時々ネット注文でこの店で本を買っている。

 今回訪れて、初めて「アカシヤ」であることに気が付いた。僕はずっと「アカシア書店」と思い込んでいたのだ。「アカシア」といえば、はちみつが取れるアカシアの木だが、その「アカシアの木」と囲碁将棋と何かつながりがあるのだろうか、などとここへ行く道中に考えていて、到着してその店の名前を見て、「あっ、アカシヤだった!」と気づいたわけだ。 「アカシヤ」は、“明石屋”だろうか。



 これを買った。
 小林健二著『鍛錬千日・勝負一瞬』。 この言葉は、高校野球で有名だった池田高校野球部監督の蔦文也さんの色紙に書かれた文章を小林さんが見て、そこから拝借したものだそうだ。

 小林健二(こばやしけんじ)、1957年生まれ、香川県高松市出身、板谷進門下。


 小林健二さんは、「矢倉」が得意な“オールラウンダー”だった。
 その小林さんがある日、決心した。

 振り飛車党になろう、と。 1990年、すなわち平成2年のことである。



 当時、小林さんが所属する順位戦のクラスは「B1」だった。このクラスには13人の棋士がいて、総当たりで闘い、上位2名がA級に昇級するしくみである。ただしこの1990年度は二上達也が引退したので、参加棋士12名だった。

 小林健二はここから「四間飛車」一本で闘い始める。
 大山康晴と森安秀光の勝局の棋譜をくり返し並べ、「四間飛車で勝つ」イメージを刷り込んだ。練習将棋をたくさん指した。弟弟子の杉本昌隆(当時は奨励会)が振り飛車党だったのでともに研究した。


 小林さんは「四間飛車」でB1順位戦を勝ち続けた。その1990年の順位戦は12月までの成績は7勝1敗。
 年が明けて1月。小林さんはトップの成績で、次の9回戦で勝てばA級への昇級が決定するという状況だった。 その9回戦の相手は、小野修一だった。

小林健二-小野修一 1991年1月
 小林健二の“居飛車穴熊対策”は、このように“5六銀”と早めに出るのが特徴。
 (あとで紹介するが、杉本昌隆の場合は、“7八銀”型で6五歩と角道を開ける戦い方をしていた。)
 5六銀と出て、居飛車側が4四歩とすれば、4五の地点が争点となる。
 先手の小林さんが4七金左と上がっていないのも意味があって、これは、飛車を6九→4九と動かして、4筋からの攻めを狙っている。実戦もその構想通りに進んだ。


 小野修一の3二飛(△3五歩からの歩交換を狙った)がどうもよくなかった。小林ペースとなる。
 ここから、4四歩、7五飛、8二歩、9六歩、9四歩、4八金左、6二角、6三歩、7三角、9七桂、と進んだ。


 シロウトがみても、これは振り飛車好調とはっきりわかる。
 7四歩、同飛、9五歩、7五飛、7四歩、8五飛、9六歩、8二飛成、同角、8三飛、7三角、8一飛成、9七歩成、1五歩。


 以下、先手勝ち。

 こうして、小林健二八段はA級に復帰した。当時32歳。
 あまりに見事な勝ちっぷりなので、「四間飛車の達人」などと呼ばれたりした。

 ちなみに、小林さんは息子に「一二三」と名付けている。これはもちろん加藤一二三の名前を意識して付けたものだが、小林さんの棋士番号が123ということもある。


 小林健二が一念発起して「四間飛車党」になったのは、「居飛車穴熊」を退治する、というのが目的であった。この「居飛車穴熊」がますます幅を利かせてくることになると、将棋全体が面白くなくなるのではないかと、小林さんは危機感を持ったのだ。
 それなら自分が「四間飛車党」になって、「居飛車穴熊」をやっつけてやろう、と。 男だぜ、小林。


 さて、そのように小林さんは著書に書いているのですが、当時、それほど「居飛車穴熊」が流行っていたでしょうか。
 どうも僕にはそのようには思えなかったので、ちょっと調べてみました。調べてみると、やはりそれほど「居飛車穴熊」が多いわけでもないんですよね。1980年代の、振り飛車に対しての「居飛車穴熊」率はざっと見たところ、多めに見ても2割というところです。“穴熊率”は現在よりもずっと少ない。

 ただ、80年代の特徴を言えば、“若手”に振り飛車党がほとんどいなかったということがあります。
 80年代の“若手棋士”といえば、筆頭が谷川浩司で、それに続く棋士がいわゆる「花の55年組」です。高橋道雄、島朗、中村修、南芳一、塚田泰明…、こうした才能のある“若手”の中に、一人も振り飛車党がいないのです。
 それはつまり、これらの80年代の若手は、皮膚感覚で「振り飛車には未来がない」と感じていたのかもしれません。
 振り飛車をよく採用していた“オールラウンダー”の棋士たちもその振り飛車採用率が下がってきていました。中原誠、米長邦雄も、もともとは“オールラウンダー”で、振り飛車も指していたのですが…。
 「振り飛車穴熊」でタイトルを獲った福崎文吾も、居飛車中心となっていきました。

 このように、才能のある若手振り飛車党が、80年代には一人も現れなかった、という事実があるのです。
 ですので、80年代は、振り飛車の棋譜そのものが、それ以前と較べるとずっと少ないのです。それは確かに、「居飛車穴熊への怖れ」というものが根底に横たわっていたかもしれません。
 まだ大山康晴十五世名人がA級で頑張っていたのですが…、トップ棋士の対局から「振り飛車」が消えかけていたのです。

 だから、もしも藤井猛、杉本昌隆、久保利明のような才能があと5年早くプロ棋界に出現していたならば、小林健二さんも振り飛車党に転身することもなかったのかもしれません。

 そんなことを僕は思いました。


有森浩三-杉本昌隆 1988年
 杉本昌隆のまだ奨励会三段時代の新人王戦の棋譜から。
 杉本流の“居飛車穴熊対策”は、この図のように、3二銀型で4五歩と角道を開ける。居飛車がそのままなら「角交換」をする。6六歩と居飛車が角交換を避けて来れば、その場合は2通りある。1つは左銀を4三→4四とする指し方。もう1つの指し方は――


 このように4四飛と浮いて、“立石流”のように戦う。ここから杉本は3四飛型に。
 ただし、これは1988年なので、アマ界でもプロ界でもまだ「立石流」は出現していない。つまりこの指し方は「立石流」出現以前からあったのです。
 ではこれは杉本昌隆の考案だろうか。 いや、それは違います。


大内延介-山口千嶺 1985年
 四間飛車を得意戦法としていた山口千嶺さんが、以前からこの指し方をしていました。杉本は、おそらくはこの山口さんの棋譜から学んで、それを採用したのでしょう。
 山口千嶺(やまぐちちみね)、1937年生まれ、茨城県水戸市出身、飯塚勘一郎門下。
 それにしても、振り飛車党の大内延介さんの居飛車穴熊というのも、なんか不思議な感じですね。
 

 杉本昌隆(すぎもとまさたか)、1968年生まれ、名古屋市出身、板谷進門下。

 杉本昌隆のプロ四段デビューは1990年10月で、21歳の時。(つまり上の対局は杉本が三段の時のもの)

 その半年後の1991年4月に、藤井猛がプロ棋士デビュー。20歳。
 さらに2年後の1993年4月、久保利明が17歳でプロデビューしています。

 彼ら“若い才能”の登場によって、「振り飛車党」もにぎやかになりました。


平藤眞吾-杉本昌隆 1991年
 杉本昌隆は1991年に、すでにこのような将棋を指しています。「藤井システム風」の戦い方ですね。


小林健二-平藤眞吾 1992年
 これは杉本の兄弟子(師匠は板谷進)の小林健二の将棋。
 4八玉のままで、1七桂と右桂を跳ねていく――。 
 これまた、後の「藤井システム」につながっていくアイデアです。
 小林勝ち。


小林健二-浦野真彦 1993年
 小林さんは、さらに新しいアイデアを提供します。この将棋に見られるように、美濃囲いを崩して“3七銀”という指し方も小林さんは実行しています。


 この将棋はこのような陣形に。“下段飛車”というのが、小林流の特徴ですね。
 ここから激しく攻め合って、小林さんが勝ちました。


小林健二-淡路仁茂 1993年
 まだまだあるぞ、小林流。
 やはり“下段飛車”にして、6二玉型のまま、8五歩と仕掛ける。飛車を8一に展開するために、玉は6二のままがよい。
 ただし、この将棋は、小林負け。
 実はこの年(1993年)、小林健二さんは絶不調となり、A級も陥落してしまいます。
 こんな風に面白い指し方をしているのに、それがあまり注目されていないのは、結果が出ていなかったからだと思います。また、小林さんとしても、なぜか勝てなくなって、だからいろいろ試してみた、ということもあっただろうと思います。


 
 
 ところで、この当時は、「居飛車穴熊」以上に、「居飛車左美濃」が、「四間飛車」の強敵として立ちはだっていました。この2つと、さらに「急戦」という手段も居飛車側にはあり、そのすべてに対策をもっていないと四間飛車は指しこなせない、という大変さがありました。 けっして、“敵は居飛車穴熊”という単純なものではなかったのです。
 「藤井システム」というのは、その居飛車側の全ての戦術に対応する指し方をきわめていって、その一つの結果として形が整っていったものです。

 この当時、先手の「居飛車四枚左美濃」で、“こうやって組んでこう仕掛ければ必勝”というような指し方が生まれつつありました。いわば「左美濃必勝システム」です。
 それをバーンとひっくり返して“振り飛車指せる”としたのが、藤井猛の考案した「対左美濃藤井システム」です。これが完成したのが1995年1月。 これによって四間飛車は、一つのヤマを越えたのです。「左美濃」を怖れる必要がなくなった。
 この時期から、「居飛車対四間飛車」の戦いの注目点は、“居飛車穴熊との闘い”に移って行きました。「居飛車穴熊」というのは、居飛車側にとっては、いわば“奥の手”です。居飛車側がその“奥の手”をもったいぶることなしに出して、振り飛車党が知恵と気力を振り絞って全力で立ち向かう、というガチンコ対決の構図です。


久保利明-高橋道雄 1995年10月
 いわゆる「対居飛車穴熊居玉藤井システム」が登場するのは、1995年12月です。
 この久保-高橋戦は、それよりも2か月前の将棋です。
 「居飛車穴熊」に対し、このように、角道を通し、4八玉型のままで攻めていく、ということを久保利明が、藤井猛よりも前に指しています。そして、この“4八玉型のままで攻めていく”は、もっと前に小林健二が指していたことはすでに上で触れた通り。
 久保さんが「藤井システム」を指していたときに、久保は何か藤井のマネばかりをしていると批評するようなそんな意見も聞きましたが、それはまったくの見当違いな意見だったとこれでわかります。「藤井システム」の技術の要素は、たくさんの人々のアイデアの結晶であり、藤井猛が一人でつくったように勘違いしてはいけません。
 久保さんはこの高橋戦の前(長沼洋戦)でも、この4八玉型での仕掛けを実行しています。
 念のためくり返しておきますが、これは(対居飛車穴熊の)「藤井システム」誕生前の将棋です。


佐藤康光-羽生善治 1995年11月 竜王戦3
 上の久保-高橋戦から1カ月後、羽生善治と佐藤康光との「竜王戦」の番勝負で現れたのがこの図の「9三桂」。
 藤井猛は、この羽生さんの指した「9三桂」を見て、藤井システムのヒントを得たと言っています。
 しかし、上で述べた通り、この桂跳ねも、部分的には、小林健二がすでに指していますね。
 “オールラウンダー”である羽生さんは、この頃は6、7局に1局くらいの割合で振り飛車を指していました。


藤井猛-井上慶太 1995年12月
 ついに現れた藤井猛の「居玉型藤井システム」。
 藤井猛は、相手の井上が、「居飛車穴熊」でくると“決め打ち”して、それで「居玉」のまま戦うことになった。これがびっくりするほどうまくいったので、あらためて真面目に「居玉」を評価することになったのです。藤井さんは、この対局までは、対居飛車穴熊に対してはオーソドックスな対応が多かった。銀冠美濃に組んで仕掛けを待つような。
 ちなみに、この対局はB2順位戦の対局で、井上慶太は藤井猛に敗れたが、その他の対戦は全て勝ってB1へ昇級している。井上は翌年も順位戦を昇級し、ついにA級棋士に。

 藤井猛が谷川浩司を撃破して「竜王」になるのは、1998年のこと。


 以上、見てきたように、「居飛車穴熊」に対し、角道を開けて、4五歩(後手なら6五歩)と攻めていく筋を「藤井システム」と呼んで、それを藤井猛が全て開発したように思っている人はけっこう多いと思いますが、それは間違いです。たしかに、この攻め方に「居玉」という要素を付け加えたのは藤井さんです。しかしその藤井猛よりも前に、小林健二、杉本昌隆、久保利明、羽生善治がこの攻め方を開発したということを、押さえておきたいと思い、この記事を書きました。さらに、今回は触れていませんが、80年代には、森安秀光がこういう攻め筋を見せています。
 むしろ遅れてこの分野に参入した藤井猛が、今ではこれらの全てをつくったように思われてしまいがちなのは、藤井さんが四間飛車で「竜王」を獲ったからでしょう。そうしてみると、やはり、「プロは勝つことがすべて」という気がしますね。



 「藤井システム」は、四間飛車の序盤の駒組みをとことん突き詰めて、磨き上げていったものと思います。
 これによって、居飛車のあらゆる戦術に対応できるようにしたのです。

 ところが、そうすると、居飛車側も、“本気になって”その「穴」を探すようになった。もともと居飛車党は人数的に多数派なので、トップ棋士らによって、よってたかって研究されると、その「穴」を探すのにそれほど時間はかからない。「小さな穴」を見つけて、それを勝ちに結びつける道を探す――。
 そう言う意味では、「藤井システム」の誕生は、結果的には、四間飛車の寿命を縮めた、と言えるかもしれない。実際、「藤井システム」登場前よりも、登場後のほうが、はっきり居飛車の穴熊採用率は高くなっていると思います。(居飛車穴熊の得意な渡辺明の影響も大きいように感じます。)
 「藤井システム」の誕生は、四間飛車と居飛車との“最終決戦”の幕開けだったということかもしれません。

 今、その“最終決戦”で敗れて、(昔ながらの角道を止める)四間飛車党はほぼ絶滅という状態になっているようです。

 四間飛車の復活はあるのでしょうか? 第二のコバケンは現れるのでしょうか?
 まったく未来はわかりませんねえ。



 まあしかし、アマの間では普通に指されていくのでしょう。「ひねり飛車」がプロでは見られなくなっても、アマではわりとよく見かけるように。
 ただ、これから将棋を学ぶ子供が、「四間飛車定跡」をまったく知らないという状況が生まれるかもしれません。「藤井システム」がブレイクした頃は「四間飛車」本がたくさん出版されましたが、いまは逆にほとんどないですからね。




 四間飛車ではありませんが、“小林流”では、こんなのもあります。『将棋世界』の付録です。