はんどろやノート

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黒曜石! 岩宿!

2008年05月07日 | はなし
 戦争が終わったとき、相沢忠洋さんは19歳だった。自由になった彼が選んだ職業は、なんと、納豆売りの行商だった。

 「桐生市」は、みどり市(星野富弘美術館がある)と足利市(渡良瀬橋がある)の間にある。
 この桐生の地に魅力を感じていた相沢さんは、この地で納豆の行商を仕事とした。「変わった男だ」「この若さでフロシキを背に行商することもあるまいに…」と、はたからは思われていただろう。しかもこの行商人、妙に古い話を聞きたがる。石ころを持っていたりする。人の歩かない妙な場所を、好んで歩く。それも下を向いて…。
 赤城山からは、上州(群馬県)の名物「からっ風」が吹いてくる…。

 「関東平野」は大昔、海だった。あるいは、湿地帯だった。その「関東平野」の奥座敷がこの赤城山のあたりで、この「かわいた土地」と「ぬれた土地」の境界にむかしの人々が暮らした跡がたくさんある。縄文遺跡である。

 相沢忠洋さんは、そうした遺跡の、土器や石器の「かけら」を拾って集めていた。その当時、考古学では、「日本最古の縄文遺跡はどこか!?」というようなテーマがすすめられていた頃だった。
 桐生の渡良瀬川の側に「稲荷山」という山があって、そこに「赤土の崖」があった。相沢さんは、そこから黒曜石の小さなカケラをいくつも発見していた。だが、土器は全くでてこない。「すると、この黒曜石は、いつの時代のものだろう…?」それが相沢さんの中で深まる謎だった。黒曜石はこのあたりでは産出されない。古代の「狩人」たちが矢じりとして使ったのだ。
 相沢さんは、本を調べてみた。赤土は関東ローム層で、これは火山灰である。やがて相沢さんの中には、とほうもない結論が生まれてきた。「これは、縄文時代よりももっと古い時代の人々の用いた道具なのではないか。」 つまり「旧石器時代」の。「土器」を使う前の人々の…。
 しかし…。
 考古学史上、まだ日本列島では、旧石器時代に人が暮らしていたというハッキリした証拠は発見されていなかったのだった。もし、これが相沢さんの考えどおりだとしたら、それは…。

 相沢さんは、自分の中に湧いてきた考えをおそれながら、「とにかく、完全な形の黒曜石の石器をさがすことだ」と思った。
 そして、その「決定的瞬間」がやってきた! 1949年、初夏。
 

〔 この二年余り、私はただ一つ、この石器を見つけだすために、そして赤土の崖の謎をつかむために、探し求め、歩きつづけてきたのだった。しかも、長いようでもあり短いようでもある。私の手探りの道であった。
 私は泥んこになった手と、その貴重きわまりない石器を洗うために沢田の沼辺へ引き返した。
 子どもたちはまだ遊んでいた。私が沼辺で石を洗っていると、子どもの一人が近寄ってきた。
 「おにいちゃん、石なんか洗ってどうするの」
と話しかけてきた。
 「この石はねえ、大むかしの人が使ってた石なんだよ」
 子どもは黙って、私の洗うしぐさを見守っていた。槍先形の石器には赤土が付着していたが、洗い落とすと、掌の上で輝くようにつや光がして美しくなった。
 「わあ、きれいな石! ガラスみたいだ、ぼくもほしいな」
と子どもは身を乗りだして、沼辺にしゃがんでいる私ににじりよってきた。
 その石器は、長さ三十センチ、幅三センチほどの長菱形で、周辺全体がきれいに加工され、一端は鋭く尖り、一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。
 空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っている。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった。

 このときの感激こそ、私の生涯忘れることのできないものであった。思えば、一片の黒曜石の細石剥片に気をとられてから三年余の赤土の崖がよいの末に、ついにこの感激にめぐりあえたのであった。
 子どもたちはいつのまにか私をとりかこんで、私とその石器を目をかがやかせて見守っていた。みんなでかわるがわる石器を手にし、西にかたむいた太陽の光にすかして見ながら、感激の声をあげるのだった。 〕
 


 何もしらない子どもたちが集まって、相沢さんの栄誉を祝福している。

 これが、相沢忠洋さんの著書『岩宿の発見』に書かれている、岩宿遺跡の発見の瞬間であった。相沢さんが「赤土の崖」と呼んだその場所は、「岩宿(いわじゅく)遺跡」と命名され、これを機に、「日本に旧石器時代が存在する」ということが考古学上認識されることとなった、まさに「大発見」だったのである。(実際にはこの黒曜石のナイフは、どうやら7センチが本当のようだが、この本ではなぜか「三十センチ」になっている。)
 この相沢さんの本『岩宿の発見』は、この発見よりもずっと後(20年後)に書かれたものであるが、たんに考古学上の自慢話などではない、こころふるえる本である。(僕は、読みつつ、泣いた。)
 この本のキーワードは「一家団欒」。
 相沢さんは、学者ではない。ただの、石器好き、土器好き、であった。相沢さんはそれらを拾い、集めて眺め、「むかしの人々の一家団欒はどんなものだったろう」と想像していた。そうすると、こころが安らかになったからだという。相沢さんのこころは、この関東平野の片すみで、縄文時代をもとび超えて、1万年前の人々の「一家団欒」にまで飛んでいったのである。(彼のこころの寂寥は、それほどに大きかったのだ。)
 彼は、そんな赤城山の裾野を歩いて、人々の食事する「一家団欒」の時刻をねらって、納豆を売っていた。 そしてこの本には、また、相沢さんの子どものときの「一家団欒」と、その後の両親の離婚や散り散りになった家族との思いや体験の記憶が記されている。

 1961年、相沢忠洋さんは群馬県から功労賞をもらった。その時にもらった銀杯を脳血栓で倒れ床に臥していた父に見せると、父は「よかったなあ、おまえやみんなに苦労をかけてすまなかった」そう言って銀杯を撫で、よろこんだそうである。(相沢さんの父は、芸人、歌舞伎の囃し方だったそうだ)

 さらに1967年には、岩宿遺跡の発見者として、『吉川英治賞』を受賞することになった。たいへんな栄誉だが、このときには相沢さんの父も母もすでに他界していた。このよろこびを誰に伝えればよいのだろう…。


〔 受賞の日、うれしかるべき私には、なぜかさびしさがいっぱいで、胸がふさがるばかりだった。ただ戸惑うばかりだったのである。
 授賞式の後、はるばる桐生からかけつけてくださった友人を江戸川まで送って、その帰途、私は隅田川の橋上に立った。川面は黒くよどんでいた。
 そのよどみのなかへ、いただいてきた花束のなかから一輪をぬきとって投げこんだ。そして私は鎌倉で別れたまま、いまだに消息不明の末の妹の健在を願った。 〕


 この本を書いたあと、これを読んだ多くの人から手紙をもらい、相沢さんは「ただただ感謝感涙する」ことになったそうである。

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