図B 133手目▲6一飛まで
今、谷川浩司と森内俊之の対局(A級順位戦)が行われている最中です。17、18世名人対決ですね。 千日手模様から、やっと開戦されたところ。
上の図は、1990年12月…つまり、一昨日書いた羽生・谷川竜王戦が行われた頃に指された谷川浩司と真部一男の対局で、A級順位戦である。
いま、真部八段(当時)が、▲6一飛と打ち下ろしたところ。
ここで谷川浩司はどう指したか? (あなたならどう指しますか?)
フツウは△5二銀と指す。 4一の金をただで取らすわけにはいかない。それも王手で。 たいていの人はそう考えるし、僕もそう指すだろう。プロ棋士の考えも同じで、谷川はそう指すものとして検討していたらしい。 △5二銀に▲8一飛成と桂馬を取れば、そこで反撃すればよい、と。
ところが、「光速の谷川浩司」の発想はまったくちがっていた。
では、谷川は図Bで、どう指したのか?
図A 123手目▲2一飛まで
この将棋をもう少し前から、見てみよう。
図Aは、玉頭戦のもみあいの後、先手真部八段が、▲2一飛と飛車を打って王手したところ。この手に対し、2三に合い駒するのは、先手よしになる。それで谷川は△3三玉。真部▲5五角。先手調子がよさそうだ。ただ、攻めが止まると、谷川の方が持駒が多いので、反撃がくる。(プロ的には、たぶん、後手優勢だろうと思われます。)
谷川は、△2六歩▲同玉△2五歩▲同飛成として、△5六馬と活用した。この馬を使わないと勝てない。入玉の可能性をつくりつつ、「さっさと飛車をとれ」と迫った手でもある。
そして真部、▲4四角△同玉と飛車を取り、▲6一飛と打ったのが問題の図Bである。
では解答。
図Bで谷川浩司が指した手は、△4六馬。
△4六馬▲4一飛成△4三桂。(図C)
図C 136手目△4三桂まで
△4六馬は驚きの手だった。先手の真部さんは攻める駒が不足していて駒がほしい。そういうところで、まさかあっさり大事な守りの「金」をとらせてくれるとは、真部さんも思わなかった。
△4六馬と、じわっと寄る…。 ▲4一飛成には△4三桂。
これでなんと、先手玉はもう逃れようがなかった。次の2四歩がきびしい。「これで後手の勝ち」というのである!!
検討のプロ棋士も(もちろん私達も)、だれも考えない発想で、谷川浩司は勝ちを決めたのだった。
どうやっても、後手の勝ち…。
負けを悟って真部一男は、3四竜と突撃して散った。
▲3四竜△同玉▲2五金△3三玉▲2四銀△同馬▲同金△同玉
まで144手で後手(谷川浩司)の勝ち。
投了図 △2四同玉まで
きれいな投了図ですね。
これは1990年度のA級順位戦で、この時、真部一男八段はA級棋士だったのです。 (谷川さんは、名人戦で中原誠に敗れたあと。)
調べてみると、真部一男は、その2年前にB1で好成績を挙げA級に。ところがA級ではあまり勝てず降級。そこでまたがんばってA級に。その期に、この対戦というわけ。そしてこの期の真部さんは1勝8敗でまた降級。これがA級最後の期となりました。
その真部一男八段は、去年亡くなり、死後に九段が贈呈されました。僕は‘真部の「4二角」’の記事を書きましたが、これはずいぶんと読まれたようです。『将棋世界』にあった記事を、自分なりにまとめてみただけの文章ですが。なによりびっくりしたのは、真部さんの死への反響の多さでした。その上にあの、「伝説の4二角」ですからね。
真部一男は、かっこよくて、しかも「色気」があった。あの「色気」はなんだったのか? 将棋界のことを知り始めた高校時代、NHK杯に真部さんが出たときに、翌日だったか、同級生の僕の棋友が、「真部って…かっこいいよなあ」とため息まじりにつぶやいたことを思い出します。
そのように、オーラ全開の若い時、真部さんは大いに期待される星でしたが、こうして振り返ってみると、その期待に添うほど活躍したとはいえません。けれどもやはり、記憶にのこる名棋士だったんですねえ。
こんなふうに好調な谷川浩司(三冠)だったんですが、この後南芳一、高橋道雄に黒星を喫し2位となり、この年度は名人挑戦者にはなれませんでした。挑戦したのは米長邦雄です。
◇A級順位戦 谷川-森内戦は、いまも続いています。午後11時をすぎて、終盤に入りました。
今、谷川浩司と森内俊之の対局(A級順位戦)が行われている最中です。17、18世名人対決ですね。 千日手模様から、やっと開戦されたところ。
上の図は、1990年12月…つまり、一昨日書いた羽生・谷川竜王戦が行われた頃に指された谷川浩司と真部一男の対局で、A級順位戦である。
いま、真部八段(当時)が、▲6一飛と打ち下ろしたところ。
ここで谷川浩司はどう指したか? (あなたならどう指しますか?)
フツウは△5二銀と指す。 4一の金をただで取らすわけにはいかない。それも王手で。 たいていの人はそう考えるし、僕もそう指すだろう。プロ棋士の考えも同じで、谷川はそう指すものとして検討していたらしい。 △5二銀に▲8一飛成と桂馬を取れば、そこで反撃すればよい、と。
ところが、「光速の谷川浩司」の発想はまったくちがっていた。
では、谷川は図Bで、どう指したのか?
図A 123手目▲2一飛まで
この将棋をもう少し前から、見てみよう。
図Aは、玉頭戦のもみあいの後、先手真部八段が、▲2一飛と飛車を打って王手したところ。この手に対し、2三に合い駒するのは、先手よしになる。それで谷川は△3三玉。真部▲5五角。先手調子がよさそうだ。ただ、攻めが止まると、谷川の方が持駒が多いので、反撃がくる。(プロ的には、たぶん、後手優勢だろうと思われます。)
谷川は、△2六歩▲同玉△2五歩▲同飛成として、△5六馬と活用した。この馬を使わないと勝てない。入玉の可能性をつくりつつ、「さっさと飛車をとれ」と迫った手でもある。
そして真部、▲4四角△同玉と飛車を取り、▲6一飛と打ったのが問題の図Bである。
では解答。
図Bで谷川浩司が指した手は、△4六馬。
△4六馬▲4一飛成△4三桂。(図C)
図C 136手目△4三桂まで
△4六馬は驚きの手だった。先手の真部さんは攻める駒が不足していて駒がほしい。そういうところで、まさかあっさり大事な守りの「金」をとらせてくれるとは、真部さんも思わなかった。
△4六馬と、じわっと寄る…。 ▲4一飛成には△4三桂。
これでなんと、先手玉はもう逃れようがなかった。次の2四歩がきびしい。「これで後手の勝ち」というのである!!
検討のプロ棋士も(もちろん私達も)、だれも考えない発想で、谷川浩司は勝ちを決めたのだった。
どうやっても、後手の勝ち…。
負けを悟って真部一男は、3四竜と突撃して散った。
▲3四竜△同玉▲2五金△3三玉▲2四銀△同馬▲同金△同玉
まで144手で後手(谷川浩司)の勝ち。
投了図 △2四同玉まで
きれいな投了図ですね。
これは1990年度のA級順位戦で、この時、真部一男八段はA級棋士だったのです。 (谷川さんは、名人戦で中原誠に敗れたあと。)
調べてみると、真部一男は、その2年前にB1で好成績を挙げA級に。ところがA級ではあまり勝てず降級。そこでまたがんばってA級に。その期に、この対戦というわけ。そしてこの期の真部さんは1勝8敗でまた降級。これがA級最後の期となりました。
その真部一男八段は、去年亡くなり、死後に九段が贈呈されました。僕は‘真部の「4二角」’の記事を書きましたが、これはずいぶんと読まれたようです。『将棋世界』にあった記事を、自分なりにまとめてみただけの文章ですが。なによりびっくりしたのは、真部さんの死への反響の多さでした。その上にあの、「伝説の4二角」ですからね。
真部一男は、かっこよくて、しかも「色気」があった。あの「色気」はなんだったのか? 将棋界のことを知り始めた高校時代、NHK杯に真部さんが出たときに、翌日だったか、同級生の僕の棋友が、「真部って…かっこいいよなあ」とため息まじりにつぶやいたことを思い出します。
そのように、オーラ全開の若い時、真部さんは大いに期待される星でしたが、こうして振り返ってみると、その期待に添うほど活躍したとはいえません。けれどもやはり、記憶にのこる名棋士だったんですねえ。
こんなふうに好調な谷川浩司(三冠)だったんですが、この後南芳一、高橋道雄に黒星を喫し2位となり、この年度は名人挑戦者にはなれませんでした。挑戦したのは米長邦雄です。
◇A級順位戦 谷川-森内戦は、いまも続いています。午後11時をすぎて、終盤に入りました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます