スカイツリーですが、これは浅草雷門の前から撮った写真。雷門からこんなにしっかり全体が見えるとは。
スカイツリーは押上(おしあげ)という場所にあるのですが、浅草からは隅田川を挟んで徒歩20分くらいの距離。浅草から東を見て、隅田川の向こうスカイツリー方面のこの地区を「本所(ほんじょ)」と呼びます。
明治時代の初め頃、相川治三吉という少年がいて、「本所小僧」と呼ばれました。この“小僧”とは、スーパーな少年、凄い少年、というような意味で、本所で生まれた相川治三吉はもの凄い将棋の強い少年として「本所小僧」と呼ばれ、その名が関東の外にさえも轟いていたのです。関根金次郎や坂田三吉と同じ世代の人物で、床屋の息子だったそうな。伊藤宗印十一世名人との角落ち対局の棋譜(相川勝ち)等が残っています。
その棋譜を残して相川治三吉は忽然と消えてしまいます。どこに行ったか、あるいは死んだか、だれも知りません。とにかく、消えたのです。
その本所に、大正になって新たな「本所小僧」が現れた。下駄屋の息子で、めっぽう将棋が強かった。それで近所のおじさんたちはよくこう言った。「よっちゃんは強いなあ。相川の生まれ変わりだ。」
木村義雄のことです。
木村義雄の指した3手目「▲5六歩」について。
何故、「▲5六歩」なのか。
木村さんは初手▲7六歩と角道を開けました。それで坂田さんの「△9四歩」に、▲2六歩はどうなのか。これもあります。ありますけれども、木村さんは「▲5六歩」を選びました。この手の意味、目的について述べたいと思います。
最近僕は「後手5筋位取りvs先手横歩取り」の古い将棋についていくつか調べまして、それでこの「南禅寺の決戦」を改めて見ると、ちょっと何かしらが見えてきました。大正時代から昭和初期にかけて、プロ棋士は「中央」をかなり重要とみています。ですので、先手では「▲5六歩」、後手では「△5四歩」という手の価値が高いと見ています。飛車先の▲2六歩(後手では△8四歩)と同じくらいか、あるいはそれ以上という価値観かと思われます。それで「5筋位取りvs横歩取り」というような戦いが現れるわけです。
特に右の銀に注目して考えると理解しやすい。右銀を居飛車では「5七」に出たいのです。「5七」の地点がもっとも銀の働きがよく、「4六」に攻めに行くこともできるし、「6六」にも行ける。そのままでも守備のかなめになっています。「▲5七銀」これが攻守ともに万能の可能性を持った銀の位置、“理想形”なんです。だから先手は「▲5六歩」と歩を突く。後手も「△5四歩」と突いてやはり右銀を5三へ持ってくることを考えます。(「棒銀」は軽視されていたと思われます。)そうしてお互いに5筋を突き合いという将棋、それが相居飛車の基本で、平手の将棋はほとんど振り飛車はありませんでしたから、矢倉でも相掛かりでもやはり5筋をだいたい突き合います。
それで、もし先手が「▲5五歩」と位(くらい)を取ればどうなります? すると後手は銀の“理想形”である「5三銀」型が作れない――相居飛車で位を取るというのはそういう意味があるのです。自分だけ理想形の「銀」の位置がつくれて、相手はつくれない。それで、「どうだ、わしの優勢じゃ!!」というのが5筋位取りの意味。
さて、そこでこの南禅寺の対局を考えていきます。
木村義雄の▲7六歩に、後手の坂田三吉が仮に2手目△3四歩とした場合を想定しますと、そこで先手が▲5六歩と突いたらどうなります? その場合後手から△8八角成▲同銀△5七角、となって馬をつくられてしまいます。ですから「3手目に▲5六歩は突けない」ということです。
後手の場合になると少し事情が変わりまして、いわゆる「ゴキゲン中飛車」のオープニングの手順を踏めば、5筋の位取りが可能になります。ただし先手に飛車先の歩を交換させるという(それと横歩を取らせる)こととの交換取引として。それが「後手5筋位取りvs先手横歩取り」という昔(大戦前まで)そこそこ流行った戦型になるわけです。
(1948高野山の決戦第三局升田大山戦、1944木村花田戦、1941萩原木村戦をすでに紹介しました。)
それらの当時の“常識”を踏まえた上で、南禅寺の2手目と3手目を鑑賞してみると、これが味わい深い(あるいは激しい)闘いだなあとわかるのです。
▲7六歩に、この対局では坂田は2手目「△9四歩」と指した。
対して木村の「▲5六歩」。
△3四歩 ▲5五歩
▲5六歩と先手が突けば、先ほどの当時の将棋の“常識”からすれば、後手は△5四歩としたいところ。けれどもこの対局の場合、それはやりにくいのではと思います。仮に4手目に後手が△5四歩と指したとします。それで例えば次に先手が5手目▲5八飛としたら、この瞬間、先手は中央への力を増やす手を3手指しており、しかし後手の坂田の方は、まだ1手ということになります。中央での戦いは、すでに先手の優位にあるわけです。中央での戦いとなれば、後手坂田の「9四歩」は完全に“緩手”(ゆるい手)になってしまう。
こうして木村義雄は▲5五歩と5筋の「位(くらい)」奪取にやすやす成功。
つまりですね、木村義雄は、坂田三吉の「△9四歩」を全力で咎めようと考えて、この「▲5六歩」を選んで指したということです。おそらくは坂田が何日も考えて「こう指そう」と決めてきた「△9四歩」に対して、木村は知恵を振り絞って「▲5六歩」と指したのです。これは「坂田さん、その手は緩手ですよ」と言っているわけです。
△4四歩 ▲4八銀 △3二銀 ▲5七銀
そういうことで、実際の指し手は、4手目△3四歩、そして▲5五歩と進みました。先手は中央の位を押さえたのです。坂田の2手目の弱点をついて、木村は▲5六歩から▲5五歩と位を取った。
この木村坂田戦では、先手番の木村が、なんのリスクもなく、5筋の位を押さえたということなんです。そうすることで、「坂田さん、あなたの端歩突き、咎めましたよ」と主張していることになります。
△4三銀 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △2二飛
これです! この図の「5七銀」、これが居飛車の右銀の理想の位置です。このままでも受けに働くし、三種類の前進の手を選べる。そして相手にはそれをさせない。(5三銀型をつくらせない)
「5七」がいいんですね。前進の“可能性”が3つもあり、このままでも守りに働いている。
それで後手坂田三吉はどうしたか。
飛車を振ったのです。
中央の位を取って、木村は「どうだ!」と胸を張った。
そして坂田は「位(くらい)? そんなの振り飛車にすれば関係ないやん」と答えたのです。振り飛車ならば、後手の右銀(または左銀)が「5三」に行けなくてもそれほどの“残念な感じ”はありません。
振り飛車は昔からあります。最古の棋譜というものも戦型はたしか振り飛車(四間飛車)だったと思います。
明治、大正、昭和の初期というこの時代では、大体の棋士はみな、振り飛車を指せました。というのは、大事な将棋の半分以上は「駒落ち」ですので、その中で「香落ち」の場合、上手(強い方)は振り飛車が基本ですから。
しかし、平手の対局となると、これがほとんどが相居飛車でした。平手で振り飛車はおかしい、と思われていたようです。実際に振り飛車を平手でも指している棋士もいたようですが、それはまだ少なかったようです。あの振り飛車の雄、大野源一も振り飛車を平手で常用し始めたのは戦後の事らしいです。(追記:この大野さんの件は実際のところはよくわかりません。)
南禅寺の棋譜に戻りまして、△4四歩から後手坂田三吉は「振り飛車」にしました。
「向かい飛車」です。
僕はこの文を書くにあたり、手の解説として大山康晴(十五世)名人のものを読んでいますが、それにはこうあります。
〔9四歩の手を見て、さらには、5五歩と位を占めて、「作戦勝ち!」と先手は見たと思う。後手は4四歩と突く。当然の手で、この形で居飛車作戦をとるのは面白くない。この局面になれば、私も、4四歩と突くだろう。〕
大山さんは、坂田三吉が飛車を振ったのは、△9四歩を突いてあり、5五の位を押さえられたこの状況では「当然だ」と見ているわけです。僕が上で書いたことをさらっと述べていますね。大山名人とすれば、当たり前のことにすぎないから簡単に述べていますが、でも僕にとっては、“やっと最近理解できるようになったこと”なのですよ。
整理しますと
(1)坂田は2手目△9四歩と端歩を突いた→(2)それで木村は5筋の位を取った→(3)5筋の位を取られると相居飛車はつらいので、坂田は飛車を振った
こういう流れです。
▲4六歩 △3二金 ▲5八金左
序盤の続きを見ていきます。
坂田三吉は、12手目△3五歩とこの位を取り、それから飛車を振りました。△2二飛。向かい飛車です。
こう進んでみて後手陣を見ると、あの9四歩もまったく違和感はありません。9四歩と突いてあるので、振り飛車はその分、玉のスペースが広くなって「意味のある端歩突き」になっています。
20世紀までは、9筋の歩は、先手から突くことが多かった。けれども対居飛車穴熊の「藤井システム」以来、早めの振り飛車の「9四歩」はむしろ見慣れた感覚がありますね、私達には。
ところで、“見慣れた感覚”といえば、向かい飛車で「△3二金」とするこの後手の坂田さんの陣形、これは現代でもよく見ますし、アマチュアではとくによく目にします。僕も時々この「3二金型向かい飛車」を使います。
この攻撃的な向かい飛車、「もしかしたら坂田三吉がオリジナルではないか」と僕は最近思い始めています。よく調べなければはっきりしませんが。
参考図
「坂田三吉の向かい飛車」といえば、序盤早々、角交換して3三金となったこの「坂田流向かい飛車」のことを普通は想起しますけども。(土居市太郎・坂田三吉戦 1919)
そして坂田の「向かい飛車にするわ」という宣言に対して、木村の返事は、「じゃあこう指すさ、▲5八金左。」
〔当時は5八金右が定跡手順となっていて、棋士たちは一様に驚きの声を放った。少年の私も並べてみて、なるほどと、すぐれた将棋感覚に感心したことを記憶している。5八金右では、2四と逆襲され、同歩、同飛で先手が悪い。〕(大山康晴)
さあ、木村義雄がやりました!「名人に定跡なし」。(木村さんが名人になるのは1年後ですけどね。)
木村の「▲5八金左」、これは坂田の「攻める向かい飛車」を全力で迎え撃つ、そのために木村が編み出した手でした。「左の金」、これで攻めにいこうというのです!
この「南禅寺の決戦」(1937年)の主催者が、読売新聞社であることは前回記事で述べました。
1935年に、関根金次郎十三世名人が引退を表明し、そこから実力制で次の名人を決定するためのリーグ戦が当時の八段(九名)の総当たりで二年半をかけて実施されました。木村義雄がこの1937年の時点でトップだったのですが、「名人戦」のスポンサー契約、すなわち主催者は、毎日新聞社だったんですね。
読売とか、朝日とかは、そうすると、ちょっと面白くないわけですよ。「名人戦リーグ」ばかりが注目されることになると。そういうことで、読売新聞社が「どうだ!」とばかり持ってきたのが、“坂田三吉”なんです。坂田は元々ずっと大阪朝日新聞社の嘱託で囲われていたのですが、読売はその坂田三吉を何年もかけて口説いていた。そしてついに、坂田が「指す」と言ったのです。(「南禅寺の決戦」の1年前に坂田は朝日新聞との契約を解除した。)
それで、坂田三吉との対局の話が次期名人候補の木村義雄と花田長太郎のところへ来ました。二人とも、対局したい、と考えました。
ところが周囲は猛反対でした。とりわけ「名人戦」のスポンサーとなった毎日新聞社とすれば、「冗談じゃない、やめてくれ!!」でしょう。そりゃそうです、木村が坂田三吉にもしも敗れたらどうするんですか。66歳の老将に敗れた木村義雄が新名人って言ったって、それでは「名人」の価値が大暴落じゃないですか!
まあ、それが読売新聞社の狙いでもあるわけですね。ですから毎日が反対するのは当然です。同じ理由で、将棋連盟も大反対。木村がそれに従えば丸く収まったのですが…
木村義雄の後日談
「連盟の決議として私に『対局まかりならず』と二度か三度きましたね。勝負だから万が一負ける恐れがあるからね。私が負けたら毎日新聞の名人戦がどこへいってしまうかわからない。なんのために名人戦をしたのか、大新聞の面目がなくなってしまう。だから『まかりならん』の決議文は三度きた。が、これをケッってもしこれをやらせないなら脱会するといった。」
ここまで覚悟を決めて、木村義雄はこの対局、「南禅寺の決戦」に臨んだのです。これに敗れればもう「名人」はあきらめる、そういうつもりです。もし木村が敗れていたら…、どうなっていたのでしょうか? (木村は「名人戦」を棄権すると言い、周囲が説得して留まらせ、坂田三吉翁も含めたリーグ戦を改めて開始、というようなことになったかと想像します。)
そういう「覚悟」の入った木村の、19手目▲5八金左なんですね。木村はこの将棋をこの“左の金”に託したのです。
(サッカーの今朝の試合インテルの長友みたいに、“おまえディフェンダーなのにそこまで行く!!!”的な。)
「南禅寺の決戦4」につづく
スカイツリーは押上(おしあげ)という場所にあるのですが、浅草からは隅田川を挟んで徒歩20分くらいの距離。浅草から東を見て、隅田川の向こうスカイツリー方面のこの地区を「本所(ほんじょ)」と呼びます。
明治時代の初め頃、相川治三吉という少年がいて、「本所小僧」と呼ばれました。この“小僧”とは、スーパーな少年、凄い少年、というような意味で、本所で生まれた相川治三吉はもの凄い将棋の強い少年として「本所小僧」と呼ばれ、その名が関東の外にさえも轟いていたのです。関根金次郎や坂田三吉と同じ世代の人物で、床屋の息子だったそうな。伊藤宗印十一世名人との角落ち対局の棋譜(相川勝ち)等が残っています。
その棋譜を残して相川治三吉は忽然と消えてしまいます。どこに行ったか、あるいは死んだか、だれも知りません。とにかく、消えたのです。
その本所に、大正になって新たな「本所小僧」が現れた。下駄屋の息子で、めっぽう将棋が強かった。それで近所のおじさんたちはよくこう言った。「よっちゃんは強いなあ。相川の生まれ変わりだ。」
木村義雄のことです。
木村義雄の指した3手目「▲5六歩」について。
何故、「▲5六歩」なのか。
木村さんは初手▲7六歩と角道を開けました。それで坂田さんの「△9四歩」に、▲2六歩はどうなのか。これもあります。ありますけれども、木村さんは「▲5六歩」を選びました。この手の意味、目的について述べたいと思います。
最近僕は「後手5筋位取りvs先手横歩取り」の古い将棋についていくつか調べまして、それでこの「南禅寺の決戦」を改めて見ると、ちょっと何かしらが見えてきました。大正時代から昭和初期にかけて、プロ棋士は「中央」をかなり重要とみています。ですので、先手では「▲5六歩」、後手では「△5四歩」という手の価値が高いと見ています。飛車先の▲2六歩(後手では△8四歩)と同じくらいか、あるいはそれ以上という価値観かと思われます。それで「5筋位取りvs横歩取り」というような戦いが現れるわけです。
特に右の銀に注目して考えると理解しやすい。右銀を居飛車では「5七」に出たいのです。「5七」の地点がもっとも銀の働きがよく、「4六」に攻めに行くこともできるし、「6六」にも行ける。そのままでも守備のかなめになっています。「▲5七銀」これが攻守ともに万能の可能性を持った銀の位置、“理想形”なんです。だから先手は「▲5六歩」と歩を突く。後手も「△5四歩」と突いてやはり右銀を5三へ持ってくることを考えます。(「棒銀」は軽視されていたと思われます。)そうしてお互いに5筋を突き合いという将棋、それが相居飛車の基本で、平手の将棋はほとんど振り飛車はありませんでしたから、矢倉でも相掛かりでもやはり5筋をだいたい突き合います。
それで、もし先手が「▲5五歩」と位(くらい)を取ればどうなります? すると後手は銀の“理想形”である「5三銀」型が作れない――相居飛車で位を取るというのはそういう意味があるのです。自分だけ理想形の「銀」の位置がつくれて、相手はつくれない。それで、「どうだ、わしの優勢じゃ!!」というのが5筋位取りの意味。
さて、そこでこの南禅寺の対局を考えていきます。
木村義雄の▲7六歩に、後手の坂田三吉が仮に2手目△3四歩とした場合を想定しますと、そこで先手が▲5六歩と突いたらどうなります? その場合後手から△8八角成▲同銀△5七角、となって馬をつくられてしまいます。ですから「3手目に▲5六歩は突けない」ということです。
後手の場合になると少し事情が変わりまして、いわゆる「ゴキゲン中飛車」のオープニングの手順を踏めば、5筋の位取りが可能になります。ただし先手に飛車先の歩を交換させるという(それと横歩を取らせる)こととの交換取引として。それが「後手5筋位取りvs先手横歩取り」という昔(大戦前まで)そこそこ流行った戦型になるわけです。
(1948高野山の決戦第三局升田大山戦、1944木村花田戦、1941萩原木村戦をすでに紹介しました。)
それらの当時の“常識”を踏まえた上で、南禅寺の2手目と3手目を鑑賞してみると、これが味わい深い(あるいは激しい)闘いだなあとわかるのです。
▲7六歩に、この対局では坂田は2手目「△9四歩」と指した。
対して木村の「▲5六歩」。
△3四歩 ▲5五歩
▲5六歩と先手が突けば、先ほどの当時の将棋の“常識”からすれば、後手は△5四歩としたいところ。けれどもこの対局の場合、それはやりにくいのではと思います。仮に4手目に後手が△5四歩と指したとします。それで例えば次に先手が5手目▲5八飛としたら、この瞬間、先手は中央への力を増やす手を3手指しており、しかし後手の坂田の方は、まだ1手ということになります。中央での戦いは、すでに先手の優位にあるわけです。中央での戦いとなれば、後手坂田の「9四歩」は完全に“緩手”(ゆるい手)になってしまう。
こうして木村義雄は▲5五歩と5筋の「位(くらい)」奪取にやすやす成功。
つまりですね、木村義雄は、坂田三吉の「△9四歩」を全力で咎めようと考えて、この「▲5六歩」を選んで指したということです。おそらくは坂田が何日も考えて「こう指そう」と決めてきた「△9四歩」に対して、木村は知恵を振り絞って「▲5六歩」と指したのです。これは「坂田さん、その手は緩手ですよ」と言っているわけです。
△4四歩 ▲4八銀 △3二銀 ▲5七銀
そういうことで、実際の指し手は、4手目△3四歩、そして▲5五歩と進みました。先手は中央の位を押さえたのです。坂田の2手目の弱点をついて、木村は▲5六歩から▲5五歩と位を取った。
この木村坂田戦では、先手番の木村が、なんのリスクもなく、5筋の位を押さえたということなんです。そうすることで、「坂田さん、あなたの端歩突き、咎めましたよ」と主張していることになります。
△4三銀 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △2二飛
これです! この図の「5七銀」、これが居飛車の右銀の理想の位置です。このままでも受けに働くし、三種類の前進の手を選べる。そして相手にはそれをさせない。(5三銀型をつくらせない)
「5七」がいいんですね。前進の“可能性”が3つもあり、このままでも守りに働いている。
それで後手坂田三吉はどうしたか。
飛車を振ったのです。
中央の位を取って、木村は「どうだ!」と胸を張った。
そして坂田は「位(くらい)? そんなの振り飛車にすれば関係ないやん」と答えたのです。振り飛車ならば、後手の右銀(または左銀)が「5三」に行けなくてもそれほどの“残念な感じ”はありません。
振り飛車は昔からあります。最古の棋譜というものも戦型はたしか振り飛車(四間飛車)だったと思います。
明治、大正、昭和の初期というこの時代では、大体の棋士はみな、振り飛車を指せました。というのは、大事な将棋の半分以上は「駒落ち」ですので、その中で「香落ち」の場合、上手(強い方)は振り飛車が基本ですから。
しかし、平手の対局となると、これがほとんどが相居飛車でした。平手で振り飛車はおかしい、と思われていたようです。実際に振り飛車を平手でも指している棋士もいたようですが、それはまだ少なかったようです。あの振り飛車の雄、大野源一も振り飛車を平手で常用し始めたのは戦後の事らしいです。(追記:この大野さんの件は実際のところはよくわかりません。)
南禅寺の棋譜に戻りまして、△4四歩から後手坂田三吉は「振り飛車」にしました。
「向かい飛車」です。
僕はこの文を書くにあたり、手の解説として大山康晴(十五世)名人のものを読んでいますが、それにはこうあります。
〔9四歩の手を見て、さらには、5五歩と位を占めて、「作戦勝ち!」と先手は見たと思う。後手は4四歩と突く。当然の手で、この形で居飛車作戦をとるのは面白くない。この局面になれば、私も、4四歩と突くだろう。〕
大山さんは、坂田三吉が飛車を振ったのは、△9四歩を突いてあり、5五の位を押さえられたこの状況では「当然だ」と見ているわけです。僕が上で書いたことをさらっと述べていますね。大山名人とすれば、当たり前のことにすぎないから簡単に述べていますが、でも僕にとっては、“やっと最近理解できるようになったこと”なのですよ。
整理しますと
(1)坂田は2手目△9四歩と端歩を突いた→(2)それで木村は5筋の位を取った→(3)5筋の位を取られると相居飛車はつらいので、坂田は飛車を振った
こういう流れです。
▲4六歩 △3二金 ▲5八金左
序盤の続きを見ていきます。
坂田三吉は、12手目△3五歩とこの位を取り、それから飛車を振りました。△2二飛。向かい飛車です。
こう進んでみて後手陣を見ると、あの9四歩もまったく違和感はありません。9四歩と突いてあるので、振り飛車はその分、玉のスペースが広くなって「意味のある端歩突き」になっています。
20世紀までは、9筋の歩は、先手から突くことが多かった。けれども対居飛車穴熊の「藤井システム」以来、早めの振り飛車の「9四歩」はむしろ見慣れた感覚がありますね、私達には。
ところで、“見慣れた感覚”といえば、向かい飛車で「△3二金」とするこの後手の坂田さんの陣形、これは現代でもよく見ますし、アマチュアではとくによく目にします。僕も時々この「3二金型向かい飛車」を使います。
この攻撃的な向かい飛車、「もしかしたら坂田三吉がオリジナルではないか」と僕は最近思い始めています。よく調べなければはっきりしませんが。
参考図
「坂田三吉の向かい飛車」といえば、序盤早々、角交換して3三金となったこの「坂田流向かい飛車」のことを普通は想起しますけども。(土居市太郎・坂田三吉戦 1919)
そして坂田の「向かい飛車にするわ」という宣言に対して、木村の返事は、「じゃあこう指すさ、▲5八金左。」
〔当時は5八金右が定跡手順となっていて、棋士たちは一様に驚きの声を放った。少年の私も並べてみて、なるほどと、すぐれた将棋感覚に感心したことを記憶している。5八金右では、2四と逆襲され、同歩、同飛で先手が悪い。〕(大山康晴)
さあ、木村義雄がやりました!「名人に定跡なし」。(木村さんが名人になるのは1年後ですけどね。)
木村の「▲5八金左」、これは坂田の「攻める向かい飛車」を全力で迎え撃つ、そのために木村が編み出した手でした。「左の金」、これで攻めにいこうというのです!
この「南禅寺の決戦」(1937年)の主催者が、読売新聞社であることは前回記事で述べました。
1935年に、関根金次郎十三世名人が引退を表明し、そこから実力制で次の名人を決定するためのリーグ戦が当時の八段(九名)の総当たりで二年半をかけて実施されました。木村義雄がこの1937年の時点でトップだったのですが、「名人戦」のスポンサー契約、すなわち主催者は、毎日新聞社だったんですね。
読売とか、朝日とかは、そうすると、ちょっと面白くないわけですよ。「名人戦リーグ」ばかりが注目されることになると。そういうことで、読売新聞社が「どうだ!」とばかり持ってきたのが、“坂田三吉”なんです。坂田は元々ずっと大阪朝日新聞社の嘱託で囲われていたのですが、読売はその坂田三吉を何年もかけて口説いていた。そしてついに、坂田が「指す」と言ったのです。(「南禅寺の決戦」の1年前に坂田は朝日新聞との契約を解除した。)
それで、坂田三吉との対局の話が次期名人候補の木村義雄と花田長太郎のところへ来ました。二人とも、対局したい、と考えました。
ところが周囲は猛反対でした。とりわけ「名人戦」のスポンサーとなった毎日新聞社とすれば、「冗談じゃない、やめてくれ!!」でしょう。そりゃそうです、木村が坂田三吉にもしも敗れたらどうするんですか。66歳の老将に敗れた木村義雄が新名人って言ったって、それでは「名人」の価値が大暴落じゃないですか!
まあ、それが読売新聞社の狙いでもあるわけですね。ですから毎日が反対するのは当然です。同じ理由で、将棋連盟も大反対。木村がそれに従えば丸く収まったのですが…
木村義雄の後日談
「連盟の決議として私に『対局まかりならず』と二度か三度きましたね。勝負だから万が一負ける恐れがあるからね。私が負けたら毎日新聞の名人戦がどこへいってしまうかわからない。なんのために名人戦をしたのか、大新聞の面目がなくなってしまう。だから『まかりならん』の決議文は三度きた。が、これをケッってもしこれをやらせないなら脱会するといった。」
ここまで覚悟を決めて、木村義雄はこの対局、「南禅寺の決戦」に臨んだのです。これに敗れればもう「名人」はあきらめる、そういうつもりです。もし木村が敗れていたら…、どうなっていたのでしょうか? (木村は「名人戦」を棄権すると言い、周囲が説得して留まらせ、坂田三吉翁も含めたリーグ戦を改めて開始、というようなことになったかと想像します。)
そういう「覚悟」の入った木村の、19手目▲5八金左なんですね。木村はこの将棋をこの“左の金”に託したのです。
(サッカーの今朝の試合インテルの長友みたいに、“おまえディフェンダーなのにそこまで行く!!!”的な。)
「南禅寺の決戦4」につづく
自分が相川について書いた文章の元が何だったか思い出そうとしていたのですが、結局はっきりしません。2つくらいの資料を見たと記憶にあるのですが。
木村十四世名人の自伝というと、『将棋一代』かと思いますが、私はこのブログ記事を書いた時点ではまだそれを見ていませんでしたが、ブログ記事を書いた数か月後に図書館で目を通しまして、でもその部分には目が留まらなかったです。情報ありがとうございます。
相川治三吉が消えた(亡くなった)のは、20歳か、その少し前くらいでしょうかね。それくらいまで棋譜は残っているようです。内藤流の「横歩取らせ3三角」を指していた棋譜もあったと思います。
死んだにしても、病気だとか、どこかで揉め事に巻き込まれて死んだとか、いろんなうわさがあったようです。