小学2年生のとき、給食の時間に女性のM先生は、本を朗読してくれた。その中にモンゴメリー作『赤毛のアン』があって、面白かったことは覚えていたが、内容は忘れていた。あらためて小説を読んだのは30代後半の時だが、その面白さに感嘆した。登場人物、とくにオトナの性格描写がうまいのだ。
たまたまそのときにTVで映画版『赤毛のアン』をやっていたので観たが、映画版では小説の面白さが半分くらいになっている。どこがちがうかといえば、アンを育てるおじさんマシュウの性格がまるでちがう。映画のおじさんは普通の、やさしいおじさん、になっている。しかし原作はちがう。
僕はアンのシリーズの2作目も読んだが、3作目以降は読んでいない。それはたぶん1作目のおもしろさには敵わないと思ったからだ。なぜか。マシュウがでないから。マシュウは1作目『赤毛のアン』の最後で、心臓発作で死んでしまう。
僕は、『赤毛のアン』は、「アンとマシュウのものがたり」だと思う。その、始まりと終わりを描いた小説、と。
原作では、「マシュウは、マリラとレイチェル夫人のほかは女という女をいっさい恐れていた」とある。マリラはマシュウの妹で一緒に暮らしている。レイチェル夫人は近所のおせっかいおばさんである。無口な彼は、女(子供であろうとおばあさんであろうと)としゃべらないよう生きてきたのである。
そんなマシュウも60歳になり体力も衰えてきて農場の仕事の手伝いをしてくれる「男の子」を孤児院からもらって育てようということになった。それでその男の子をむかえに駅に馬車で行った。しかしそこには「女の子」しかいない。おかしいなあ、と思いマシュウは駅員にたずねた。あの女の子はなぜあそこにいるのかと。駅員は、それは知らない、女の子に聞いてみれば、という。それで仕方なくマシュウは、勇気をふりしぼって(笑)、女の子に話しかける。
そんなふうにしてマシュウとアンは出会った。
アンはマシュウが一目で気に入り喜ぶ。その喜びから言葉が次々とあふれてくる。アンのうれしそうな顔を見ると、男の子が欲しかったんだ、きみはなにかの間違いで来たんだ、とは言えずマシュウはアンを馬車に乗せて家へ帰ることにした。「困ったなあ」と思いながら。
その道中、アンはよろこびの感情を言葉にしてしゃべり続ける。マシュウは、女がニガテなはずの自分が、いつのまにか彼女の話に耳を傾けているのを不思議に思う。
馬車はりんごの白い花が咲いている並木道をすすむ。アンはその道に「歓喜の白路」と名前をつけた。
その後、いろいろあって、アンはマシュウとその妹マリラに育てられることになり、学校へ通うようになる。そこのところはご存知のとうり。だが映画版にはない面白エピソードに、マシュウのアンへのクリスマスプレゼントの話がある。
マシュウはある日気づいた。アンの服装はほかの娘とどこかちがう。つまり地味なのだ。どこがちがうのかよく観察すると、他の娘の服の袖は「ふくらんで」いて華やかだ。よく考えるとアンの服はいつも地味だ。どうやらそれがマリラの考えからくるらしい。
それでマシュウは、クリスマスプレゼントとしてきれいな、ふっくらした袖の服をつくってやろうと考えた。マシュウは女店員のいない店を選んで(女がニガテだから)、入っていった。しかし運わるくその店は新しく女店員を雇ったばかりだった。女店員ハリス嬢がマシュウに聞く「なにをさしあげましょうか」 マシュウ「ええ、そのう、そのう、、、ええ、熊手はありますかな」 こんなふうにしてマシュウは熊手を持って家に帰る。
あとは本を読んでください。だいじょうぶ、マシュウはちゃんと服をプレゼントできました。
りんごの白い花が咲くのは5月、今の時期なんですねー。
たまたまそのときにTVで映画版『赤毛のアン』をやっていたので観たが、映画版では小説の面白さが半分くらいになっている。どこがちがうかといえば、アンを育てるおじさんマシュウの性格がまるでちがう。映画のおじさんは普通の、やさしいおじさん、になっている。しかし原作はちがう。
僕はアンのシリーズの2作目も読んだが、3作目以降は読んでいない。それはたぶん1作目のおもしろさには敵わないと思ったからだ。なぜか。マシュウがでないから。マシュウは1作目『赤毛のアン』の最後で、心臓発作で死んでしまう。
僕は、『赤毛のアン』は、「アンとマシュウのものがたり」だと思う。その、始まりと終わりを描いた小説、と。
原作では、「マシュウは、マリラとレイチェル夫人のほかは女という女をいっさい恐れていた」とある。マリラはマシュウの妹で一緒に暮らしている。レイチェル夫人は近所のおせっかいおばさんである。無口な彼は、女(子供であろうとおばあさんであろうと)としゃべらないよう生きてきたのである。
そんなマシュウも60歳になり体力も衰えてきて農場の仕事の手伝いをしてくれる「男の子」を孤児院からもらって育てようということになった。それでその男の子をむかえに駅に馬車で行った。しかしそこには「女の子」しかいない。おかしいなあ、と思いマシュウは駅員にたずねた。あの女の子はなぜあそこにいるのかと。駅員は、それは知らない、女の子に聞いてみれば、という。それで仕方なくマシュウは、勇気をふりしぼって(笑)、女の子に話しかける。
そんなふうにしてマシュウとアンは出会った。
アンはマシュウが一目で気に入り喜ぶ。その喜びから言葉が次々とあふれてくる。アンのうれしそうな顔を見ると、男の子が欲しかったんだ、きみはなにかの間違いで来たんだ、とは言えずマシュウはアンを馬車に乗せて家へ帰ることにした。「困ったなあ」と思いながら。
その道中、アンはよろこびの感情を言葉にしてしゃべり続ける。マシュウは、女がニガテなはずの自分が、いつのまにか彼女の話に耳を傾けているのを不思議に思う。
馬車はりんごの白い花が咲いている並木道をすすむ。アンはその道に「歓喜の白路」と名前をつけた。
その後、いろいろあって、アンはマシュウとその妹マリラに育てられることになり、学校へ通うようになる。そこのところはご存知のとうり。だが映画版にはない面白エピソードに、マシュウのアンへのクリスマスプレゼントの話がある。
マシュウはある日気づいた。アンの服装はほかの娘とどこかちがう。つまり地味なのだ。どこがちがうのかよく観察すると、他の娘の服の袖は「ふくらんで」いて華やかだ。よく考えるとアンの服はいつも地味だ。どうやらそれがマリラの考えからくるらしい。
それでマシュウは、クリスマスプレゼントとしてきれいな、ふっくらした袖の服をつくってやろうと考えた。マシュウは女店員のいない店を選んで(女がニガテだから)、入っていった。しかし運わるくその店は新しく女店員を雇ったばかりだった。女店員ハリス嬢がマシュウに聞く「なにをさしあげましょうか」 マシュウ「ええ、そのう、そのう、、、ええ、熊手はありますかな」 こんなふうにしてマシュウは熊手を持って家に帰る。
あとは本を読んでください。だいじょうぶ、マシュウはちゃんと服をプレゼントできました。
りんごの白い花が咲くのは5月、今の時期なんですねー。