ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

「指輪物語」の中の「神」

2005年05月30日 | 指輪物語&トールキン
前回書いた「われらが祖父トールキン」の中のマイクル・スワンウィック氏のエッセイの中に書かれていた内容で、「何かもうひとつ大事なことがあったような・・・」と思っていたのですが、後で思い出しました。トールキンの「神」の描き方についてです。
スワンウィック氏は、トールキンはC.S.ルイスが「ナルニア」で書いたような、神の存在について説得するような調子で書くのではなく、あくまでも自分が思ったとおりの世界観を描いただけだ、と書いていて、それが常々私が感じていたことと同じだったので、またまた「そうそう!」と思ってしまったのでした。
スワンウィック氏も書いていますが、ガンダルフの言葉の「この世には指輪を作った力とは別の力が働いている」と言う言葉の、「別の力」が神を表しているのでしょう。
神の存在(らしきもの)が言及されるのはここだけですが、作品中にはこの「別の力」を感じさせる場面がいくつかあります。
特に、モルドールでのフロドとサムの場面に強く感じます。それも、フロドが茫然自失して行き、サムがほとんど一人で頑張らなければならなくなった以降に最も感じるように思います。二人は「なにものか」に見守られているように感じるのですよね。
サムがフロドを助けることができたオークの塔の場面は、偶然が重なる幸運がありますが、それもまたサムが「なにものか」に助けられているように感じます。
絶望したサムの口からなぜか西の国を歌う希望に満ちた歌が出てくること。エアレンディルの光を見て安らぎに満たされてゆっくり眠れたこと。「水と光が欲しい」とガラドリエルに願ったら水も光も与えられたこと。
最後に指輪がゴクリによって葬られたこともまた「別の力」の働きによるものと言えるかもしれません。
「指輪物語」の良いなあと思うところは、この「別の力」を、トールキン自身は「神」として書いたかもしれませんが、けっして押し付けがましくなく、神の偉大さを表現する方法として書いたのでもない、というところです。
実際、「別の力」は、神ではなく単なる「運命」とか、その他のものに解釈することが可能です。私自身、トールキンが熱心なカトリックだと知る前はそういう風に解釈していました。
もし、ここで「神」の存在がはっきりとわかるような書き方、「神」としか解釈できなうような書き方だったら・・・非キリスト教徒なばかりか無宗教な私はかなりひいていたと思います(汗)私が「ナルニア」の一部の表現に拒絶反応を示したように・・・
けれど、「指輪物語」での「別の力」の描かれ方は、それが神を表すものかもしれないと悟った後でも、決して非キリスト教徒の私にも不快な気持ちは起こさせませんでした。
普通は決して人間の世界に介入してくることはない、けれどもどこかで見守っている。そんな「神」ならいても悪くないな、そんな風にすら思えました。
これって、「北風と太陽」ではないけれど(笑)神の存在を声高に説くルイスよりも、他人に押し付けようとはせずに、見えるか見えないか程度にその存在を書いたトールキンの方が異教徒に対して効果的に神の存在を伝えられている、ということになるような気がするのですが。
私は、「別の力」が神であろうが運命であろうが、ゴクリによる指輪棄却につながるその「力」のはたらきには感動したし、とても美しいと思いました。
けれど、指輪が棄てられるのがただ「運命」という偶然によるのでは説得力がない、と感じる人もいるようで、そういう人が、映画でフロドがゴクリに襲い掛かる、という展開を作ったわけですが・・・(汗)
やはり人によって読み取り方は様々なのだな、と思ったりします。
それでも、中にはやはり自分と同じような読み取り方をする人がいるのだな、と、スワンウィック氏のエッセイはそういう意味でもとても嬉しかったですね。
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