最初に出会ったのは、いつだっただろう。
その人は近所に住んでいた。
当時いろんな団体の代表を務めていた私は、近所に住む人から、その人が所属している団体に関係する新聞を購読してほしいと頼まれた。
その人の温厚そうな印象とお世話になった隣人からの勧めもあり、新聞の内容に興味があったわけではないが私は購読を始めた。
それ以来、毎月新聞の集金に来るその人は、子どもさんもなく当時奥さんと二人暮らし。
いつも集金に来るたびに、購入のお礼にと沢山の自家栽培の野菜をもってきてくれた。
15年前に池さんを始めてからは、それまで以上に大量のお野菜をいつも届けてくれ、池さんの胃袋を支え続けてくれた。
池さんものがたりでも紹介したように、平成26年5月「もうひとつの看取り」は、その人の奥さんを見送った時のエピソード。
大切な方を見送ってからも、その人は今までと変わりなくお野菜を持って月に一回集金に来てくれていた。穏やかなその人は、春にはお芋や玉ねぎを、夏にはゴーヤやキュウリを、冬には大きな柔らかい大根を、笑顔と共に届けてくれた。
そうして気がつくと、かれこれ20年近い時間が過ぎていた。
体調が安定しなくなり、車の運転もおぼつかなくなった頃、入浴が億劫になり身の回りのことが行き届かなくなった頃、介護予防という言葉が世間に知られ始めた頃。
その人の生活を心配した周囲の人たちは介護予防のデイサービスなどを勧めたけれど、大正生まれのその人は頑として受け入れず、「でも池内さんの所だったら」と納得してくれて、その人は池さんの利用者になった。
社会的にみると近所の人としてではなく、「池さんの利用者」としてこの場所へ来ることになったのだけれど、その人は今までと同じように、野菜を持ってきてくれる時と同じ顔で池さんに来てくれた。
その人は池さんの利用者にはなったけれど、私とその人との関係は何一つ変わらなかった。
私はそれまでと同じように、その人に接した。
それまでと全く同じように挨拶をし、会話をした。
経営者と利用者、介護者と被介護者ということではなく、隣人として接し続けた。
最初は要支援での利用で、時間が経つと共に、大正生まれのその人は年齢相応に老いていった。
その頃には、野菜を作る体力はなくなっていたけれど、その人は車を運転してスーパーへ行き、購入した野菜を持って、今までと同じようにやってきてくれた。
一度その人に伝えたことがある。
「どうぞ、気兼ねなく手ぶらでお越しくださいね。」と。
けれど次の利用日も、その人はやっぱり袋にいっぱいの野菜を持ってやってきた。
洋服や下着の汚れが目につき始めた頃、ヘルパーの利用を開始してはというケアマネの助言も受け入れずどうにもならない頑固さで独居を続けた人だけれど、ただ池さんで過ごす時には誰よりも穏やかで優しく静かな人だった。
大量の野菜は、いつからかお菓子や果物に変わった。
池さんのデザートには、いつもその人が持ってきてくれたバナナが登場した。
要介護になっても、介護タクシーを利用するようになっても、その人と私の関係は、かつてと同じ隣人としての対等な関係。
心臓や腎臓に大きな疾患を抱えていたので、いつどうなるかわからないほどの状況になっていたが、その人は相変わらずデイの日にはお菓子や果物を持ってやってきた。
大量のお菓子の入ったレジ袋は重たくて、その人は荷物を持つことができなくなっていたが、それでも「玄関の荷物を」と言って送迎の職員に運んでもらうようになってもなお、いつも買い物袋と共にデイにやってきた。
浮腫がひどくなり歩行が困難になった時、それでも、おそらく何日も前に買っていた大根だろうと思われる1本の大根と玉ねぎを持ってきてくれた時、この状態になってもなお隣人として存在し続けるこの老人に私は心を揺さぶられた。
6月半ば心臓の状態も悪く、その日歩くことさえ辛そうで、もし転倒したらこれが最後になるかもしれないと職員に伝えて、どうか無事に次回のデイに来れますようにと皆で見送ったけれど、翌日早朝玄関先で転倒している所を新聞配達の人が見つけ救急搬送されたと連絡が入った。
全身状態が悪かったので入院は長引くに違いないし、独居生活を考えるとおそらく家には帰ることができないだろうと思った。
時期も悪く面会や訪問がまだ禁止されている折、私たちは想いを巡らせてもどうすることもできない現状。
7月16日木曜日午後。
入院してから1ヶ月ほどが経った頃、遠縁にあたる人から今後のことを相談したいと連絡があった。
「全身状態が悪く、点滴による治療に限界があること。点滴を中止すれば看取りの状態に入ると医師に言われたこと。家に帰りたいと本人が希望していること。家は独居でこの状態での在宅生活は難しいだろうということ。本人の希望で池さんなら行くというので、看取り前提での介護をお願いできないだろうか」という内容の話だった。
迷った。
その人にとっての「池さん」とは、常に対等な関係を維持していた場所。
ここでの看取りを本当にその人が受け入れるのだろうか?
その人にとって、どの場所が最もその人らしい場所なのだろう?
池さんで介護されることに、命を預けることを本当に望んでいるのだろうか?
宅老所での看取りを本当に望むのだろうか?
悩んだ。
迷った。
迷ったけれど、私と大ちゃんは(今までここで看取ると決心した人たちと同じように)決心するしかなかった。
その日の夕方、私たちは返事を伝えた。
「もし、病院が治療を中止すると決定したら(積極的な治療はできないと判断したら)宅老所で最期まで看取ります。」
親戚の人たちは安心したようだった。
7月17日、金曜日朝。
病院から電話。
「明日で治療を中止しますので、そちらの受け入れはいかがですか?」と。
前日の午後、初めて事情を聴いたばかりでの翌日の連絡。
ケアマネも私たちも驚きを隠せなかったけれど、とにかく18日土曜日で治療は中止ということは決定したらしい。
それにしても早すぎる。
20日の月曜日にケアマネと家族で、今後のことを具体的にもう一度話し合うよう設定されていたので、とりあえず実際の移動などについては、その話の結果待ちということで私たちは了解しあった。
そして20日の早朝。
その人は亡くなった。
話し合いが行われる日。
治療中止したわずか2日後。
亡くなったことを聞いた時、不思議と悲しくなかった。
悲しみよりも、尊敬の気持ちが湧き上がってきた。
なぜなら、私も大ちゃんも、確信できたからだ。
「病院では患者だった。病気を治療するために患者として生きることは納得しただろう。けれど池さんにくれば、その人は「介護される人」として生きなければならない。介護される人として、看取られる人として、その人は生きたくはなかったのだろうと。その人にとっての池さんという場所と池さんにいる人たちは、対等な隣人として存在し続ける場所と人たちであるべきだったのだと。」
今までも実際は、要介護者と介護事業者として契約に基づいた関係ではあったけれど、その人の心の中には、おそらく介護保険の契約などという関係ではなく、20年前と同じように「池内さんの所」という大切な社会としての感覚を失いたくはなかったのだと、一方的な存在にはなりたくなかったのだろうと。
自らが選びとり、自らが決定した死だと、確信した。
これほど潔い死があるだろうか。
その人らしく、
頑固に、生きて、
その人らしく、
自らの死を選んだ。
大正15年生まれ。
自らの生き方をはっきりと指し示し、自らの生き方を確かに全うした人生に敬服。
大切な一人の人の人生の道のり。
ほかの誰かと同じではなく、それは、紛れもなく、その人の人生に他ならないのだと、尊敬の念を持って改めて思い返す。
そして、最後の時まで、その人の心の中にある池さんのままで存在できたことを、その人にとっての社会と居場所であり続けられたことを、誇りに思いたい。
優しい穏やかな顔と共に、池さんという場所に溢れる気持ちを持ち続けて頂いたことに、頑固だった人柄と共に、そして大切な時に池さんを頼ってくれたその心のありかに、見事な人生の幕引きに、長かったお付き合いの時間と共に、心の引き出しにしまいたいと思う。
池さんのものがたりは、たくさんの人たちによって、今も紡がれ続けている。
もうすぐお盆。
今まで見送った人たちにもう一度会いたいと思う暑い1日。
人と人。
その人にとって大切な人と場所。
うまく言えませんが、私が今携わる中間支援の仕事であっても、その視点を大切にしたいと感じました。
さて、私の報告です。仕事はまずまず元気で続けています。
そして、たまたま7月7日から、売り家に出していた元事業所の建物を夫婦で買い取ることを考え始めました。自宅兼事業所に改修予定です。
6月も売り家を人に見せるために草取りに何回か通って、デッキや畳の部屋で一休みしている間に、考えがスーッと広がりました。
今は今の仕事を大切にしているので、できるだけ焦らず考えていこうと思うとります。
それでは大ちゃんママ、池さんファミリーの皆さん、毎日の厳しい暑さと感染予防が必要な状況のもと、どうぞお元気にお過ごしください!!
きっとそうやってふっと心に込みあがってきた感覚は、間違いなくいい考えだと思いますよ。
進むべき方向へと導かれるような不思議な感覚は、確かに存在すると思ってます。きっと明るい新しい道へとつながると思いますよ。希望へとね。
お身体大切に頑張ってくださいね。