6月のあれこれ、から早や1ヶ月。
いつの間にか、今年も半年が終わり、気がつけば残り半分、そして夏がやってくる。
お山開きを終えた石鎚の山は、静かに夏を待っている。
幼かった頃、夏休みに祖母の家にお泊りに行くと、うちわであおいでくれたことを思い出す。
話をしていても、寝る時も、いつもずっとうちわで風を送ってくれていた。
まさにトトロの中のシーンのように、窓を開けて、蚊帳を張って、うちわをパタパタと、眠るまでパタパタと。
たぶん気温も今ほど高くはなくて、クーラーのある家などほとんどなくて、打ち水をしたり、たらいで行水をしたり、川遊びをしたり、汗をかきながらでも戸外で十分遊ぶことができるほどの暑さだったように思う。
いつからこんなに暑くなったのだろう。
まだ梅雨明けていないのに、焼けつくような日差しと蒸し返すような湿度にうんざりしてしまう。
年をとったせいか、よけいに暑さが身に沁みる。
ちょっとでも涼しいところを選びながら暮らしている60代。
なのに、なのに、デイに来る80代、90代の年寄りたち。
エアコンや扇風機嫌いで、風嫌い。
ちょっとでも風があたると、寒い寒いと騒ぎ出す。
ひざ掛けを首から巻いてみたり、冬のジャンバー着込んでいたり、毛糸のカーディガンを来ていたり、季節感などどこ吹く風。
風が寒いと文句言いながら、幸せそうにウトウトと転寝している姿を見ていると、年寄りの生きている時間は、私たちの生きている時間と違い、ずっとずっとゆっくりと流れているのかもしれないと思ったりする。
同じ時間を生きているとは思えないような気がしてくる。
そんなこんな今日この頃。
毎日いろんなことがある。
いろんなことがあるけれど、踏ん張って、頑張って、笑顔で生きていれば、目の前のいろんな壁も、いつかは通り過ぎてしまっている。
いろんな限界を感じながらも、気がつけばいつのまにか「限界突破」を繰り返し、そうして時間が過ぎてゆく。
きっと、こうして、自分自身の器が大きくなってゆくのだろうと思えるような、ルーティーン化した毎日の繰り返し。
自分の目の前にあるほんの小さな出来事や些細な事柄を見過ごすことなく、大切に心に刻んでいたら、きっと忘れた頃に、ちょっと大きくなった自分に気がつくことになるに違いない。
読解力について 大谷大学教授 冨岡量秀 (本文の一部を紹介します)
最近、子どもたちの読解力の低下が大きな課題となっている。読解力とは文字通り「読み解く力」であり、文章を精読し、自分の考えを深める力と言える。今後ますます求められる力と言えるが、読解力獲得の課題の背景には、文と言葉の定義がきちんと理解できないと、新しい語彙を正確に獲得できなくなっていく問題があることが指摘されている。
さて、子どもの読解力が課題と言われる中、子どもたちの周りにいる大人はどうであろうか。もし、既存の知識や価値観で理解できる内容や、興味のある内容しか読み解けない、あるいは「読み解こう」と試みないのであれば、それは本当の読解力ではない。現代に生きる大人たちの現実には、そんな傾向が強く感じられる。
だからこそ、ビジネス雑誌の特集に「教養」の獲得がさかんに取り上げられ、哲学書や古典などの概要、図解などが求められ、とにかく「わかりやすさ」が追求されている。
そこには「わからない」ことに向き合い、真摯に追求する姿勢が失われている。
「わかりにくいから」「自分に関係ないから」と、自分だけの知識や価値観で理解できる内容、興味のある内容しか読み解けない、読み解こうとしないからである。
そのような大人に囲まれて育つ子どもたちに、読解力が育つのだろうか。
現代はAIの時代と言われ、AIやロボットへの代替可能な職業も数多くある。
読解力を高めるためには、その原動力となる「問いを生み出す力」がなければならないが、「わかりやすさ」だけを追求する現代の大人は、この力を放棄しているのではないだろうか。
手軽に安易に情報を得られる時代。
便利な一面もあるけれど、得る情報は自分の思考の届く範囲でしかないのだと、心に刻んでおかなければならない。
世の中には、自分の興味や自分の思考をはるかに超えた多くの知恵や知識が存在し、それらは歴史を刻む上で、大切な役割を果たしてきたに違いない。
自分自身が全く気がつかないようなところや思いもしなかった事柄の中に、多くの真実が隠されている場合もある。
「わからない」ことを大切に想い、そこから、「問い続ける力」の獲得に力が注げる人間でありたいと思う。
梅雨のさなか、田植えも終わり、青々とした田園の風景に包まれている。
万物に感謝して生きてゆきたい気がする60代。
梅雨の合間をぬって、太陽がでるとセミが鳴き始めた。
自然の偉大さと恵みを身体で感じることができるこの地で生きることを、改めて感謝。