池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

思うこと3

2018-06-15 23:51:45 | デイサービス池さん

梅雨の晴れ間が続きます。風も吹いて心地よい一日でした。ツバメはいなくなりましたが、大頭に新しいネコが顔を見せるようになりました。まだ懐いていないので近寄ると逃げますが、おじいちゃんの残したご飯を勢いよく食べています。白と薄茶色の綺麗なネコです。

さて今夜は「介護保険に思うこと」

新聞記事でもご承知かと思うけれど、国は「介護サービス効果検証」できる仕組みをどうやらつくるつもりらしい。

以下新聞記事より。

厚生労働省はどのような介護サービスが高齢者の自立に効果があるのか、科学的に検証可能な仕組みづくりに乗り出した。リハビリや健康に関する情報を集め、2020年にデータべースの本格運用を開始する。高齢者の状態を改善し、介護にかかる費用を抑制にもつなげたい考えだ。

介護保険制度に基づくサービスの総費用は高齢化が進み、制度開始当初の3倍になり、国は費用の伸びを抑えるため自立支援と重度化防止に力を入れる。
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どのようなケアやリハビリが効果があるのか明確な裏付けがないため、18年度にデータベースの構築を始め、19年度に試行運用を目指す。

具体的には、全国の施設、事業所から高齢者の健康状態や認知機能、食事の摂取量、リハビリの内容など250以上の項目を収集。活動や意欲を測るため「デート・異性との交流」「歌を歌う・カラオケ」といった項目も盛り込む方針だ。

こうしたデータを分析し、例えば脳卒中で左脚がマヒして3メートルしか自力で歩けない場合、どのような食事をしたり、訓練を受ければつえを使って長い距離を歩けるようになるか、などを検証するようにする。

効果が裏付けされたサービスは介護報酬に反映させて普及を後押しするほか、将来的には集めた情報を医療や健康の各種データベースと連携し、ビッグデータとして活用。新たな介護サービスの研究に生かし、医療や介護の効率化を図る。
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そもそも、介護という分野に「サービス」なんていう言葉がついているところから違和感は感じるけれど、今更、介護保険制度に文句を言う気もおこらない。なぜなら、この制度が始まって18年。年々増加する制度の利用者と増加してゆく費用をどう抑えてゆくかという視点でしかこの制度を考えられなくなった国の人たちと国策に、大いなる絶望と不信感を感じているからだ。

高齢者数がピークに近づく2040年、この時までに介護給付費をいかに抑えられるかが国の課題になるらしいが、今年4月の報酬改定では、自立支援や状態改善に取り組む事業者への報酬が手厚くされた。科学的に効果が裏付けされたサービスを行うことで、高齢者がより元気になり、介護費用の伸びも抑えられるという考えらしい。

施設重視から在宅へ、そして地域へと押し付けられた要介護者たちは、元気になることを前提に考えられ、自立を求められ続ける。リハビリの効果が問われ、数値化された費用対効果という概念は、更に自立へと老人を向かわせ、効果の見込めない老人はお断り、報酬を下げられないよう自立の見込みのある人しか受け入れないという現実を生み出してゆく。

介護の現場に「科学的に有効なサービスを提示する」という考え方が通用するのだろうか。効率的なリハビリを重ねると高齢者は年を取らないとでも?

全国では度重なる報酬改定で、閉鎖する事業所は後を絶たない。淘汰され統合された事業所で、データ化された要介護者情報に基づいて、AIが分別し効率化された全国一律のサービスが提供される日も遠くない。医療の現場の標準治療と同様に、標準介護が示される日も遠くない。

そもそも、介護保険制度とは、一体何だろうと素朴な疑問が湧いてくる。

介護保険制度を何のために作ったのか、誰のためにつくったのか、誰が必要としているのか、要介護者は何を必要としているのか・・・

制度と財政は矛盾を含み、施策と現場は乖離し続け、ニーズとサービスは離反してゆく。自立を目指せない要介護者と、お金を持たない年寄りたちは、不安のうちに生きるしかないのだろう。

介護の「主体」は、国でも、制度でも、介護者でも、ましてやAIなどでなく、紛れもなく苦難の時代を生きた、あるいは高度成長を支えた普通の人、要介護者という「人」であるという視点を忘れてならない。

要介護者という「個」が、残された時間を最後まで主体者として生きるために、その時々に必要な支えを、必要なだけ、心を尽くして行いたい、そう思って池さんを続けてきた。井上夫婦に始まり、フミちゃんという在宅にこだわって生きた人や、ここを必要としてくれた人々によって、池さんという場をあるべき姿に作り上げてもらった。

有限会社で介護事業者ではあるけれど、サービス業者だという認識はもっていない。介護保険制度が介護という福祉の分野をサービスに変えてはしまったが、私たちはあくまで人が人として暮らし、最後まで生きる方法だけを想い進んできた。

13年めの夏。

これからどうなるのか、このまま続けていくことができるのか、不安な要素は山のようにある。理想だけでは生きてゆけないことも分かっているし、反対に営利主義に陥ることもできないだろう。自分たちの介護が正しいだとか、こうあるべきという驕りに陥りたくはない。

ただ、介護保険の制度改定に翻弄される身ではありながら、介護を必要とする人たちと、その人を取り巻く家族と共に、心の底から湧き上がるような「深い想い」に裏付けされた信念の場であり続けたい。

人と人が繋がり、人が生活する暮らしを想い、人が生きる意味を想い、人が死ぬことを想い、人の心を想い続けるという信念。

制度や施策や予算ではなく、この揺らぐことのない深い想いこそが仕事という枠を遥かに超えて、池さんという場を確かな場所にしてくれているに違いないと思っている。

介護保険制度の行方がどうであれ、私たちらしく泥臭く肩を寄せ合って生きてゆきたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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