夫の調子が悪く、久しぶりに付き添いで病院へ行った。
診察を受けることもなく、とりあえず検査をと、ありきたりの血液検査と心電図、エコーの検査を受け、診察を待つ。
医師は大学病院から週一度来ている若い先生。
病状を聞くわけでもなく、聴診器をあてるわけでもなく、いきなり診断を告げる。
エコーの画像を説明し、血液検査の結果を長々と説明し、定期の診察と同様の診断を下す。その上、いつでもいい他の検査を受けるように勧められる。
明らかにいつもと違う症状があるにもかかわらず、聞こうともしない。
「いつもの痛みとは明らかに違う」という家族の感覚に耳を貸そうともしない医師に、若干苛立った私は、夫の昨夜からの病状をしつこく訴えた。
「なら、もう一度、違う血液検査をしてみますか?レントゲンもとってみましょう。」と、再び検査を行う。
そして原因が判明した。
入院。やっと治療が開始された。
一日かかって。
もし医師の診断を鵜呑みにしていたら、もし最初の診断で納得していたら、本当の病変に気付かず手遅れになっていたかもしれない。
その時、誰が責任を負うのだろうか。
そう思うと、恐ろしくなる。
医療の知識のない一般社会の人たちは、おそらく医師の診断に疑問を持つことなくその判断を正解として受け入れている。
けれど、常に医師の判断が正しいとは限らない。
かつてヨッシーが、その命が消えかかっている時でさえ不要な検査を繰り返し行われたように、治療という大義の前に、治療するために拘束され全身の筋肉が拘縮し人として生き切ることができなかった湯浪のじいちゃんのように、常に医療サイドの判断が正しいとは限らないということを、私たちは知るべきだと改めて思う。
納得できるまで説明を求め、なぜその判断なのか知る努力を惜しまないでいたい。
命はそれほど軽いものではないはず。
病状も聞かず、身体にも触れず、ほとんど顔を見ることもなく、パソコンの画面を前に、モニターや検査結果だけで安易な診断を下してしまう一部の医療の現場に愕然としつつ、一日を終えた。
医療費が膨らみ、国の財政を圧迫すると言いつつも、患者本位ではない薬と安易な検査漬けの病院という現場の矛盾に今更ながら憤りを覚えた一日。
昔は台風などなかった北の地方の大きな被害に心が痛む夜。
自然の脅威と、人が作った社会の行く末に、心がざわつく風の夜。
地球の未来と現代社会の未来は、どちらもどこかの歯車が狂いつつあるような気の滅入る夜。