愛媛新聞に掲載されている四季録の中の記事。(ワタクシはこの連載が好きで、特にこの人の文章が大好き。いつも欠かさず読んでいるファンなのです。いつかお会いしたいと願っているわけで。)本当は、全文をここに載せたいくらいです。ちょっと長いので、難しいけど一部分だけね。
「患者が最期まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」(出典は「死に直面した状況において希望はどこにあるのか」だそうだ。)
「治るからね」という偽りの励ましは、容態がだんだん悪くなり、死を間近に感じるようになったとき決して希望とはならない。
「死は終わりではない。その先がある」というような、希望を来世に託すということも、科学の一翼を担う医療者が全面的に採用する態度ではなかろう。
「希望を最期まで持つ」とは、現実に自分が生きてきたことを「これでよし」と認めて満足することであり、やがて訪れる死をも前向きに受け入れ、自分に残された時間を積極的に生きることに他ならない。
「自分はこれまで、人の役に立つ仕事をしてこなかった。だからこんな病気になった。」とAさん。
84歳の癌を患うこの人に、「あなたが設計したり作ったりした機会はたくさんの製品を生み出し、多くの人の役に立っていますよ」と言うとニコッとされた。自分の人生を肯定した瞬間だったのではないだろうか。
「立派な最期を見届けさせてください」と言った時、Aさんは「ありがとう。生きる希望ができました」と応えた。
人間は一人では生きていけない。誰かと一緒に歩むのでなければ、新しい一歩(死への旅立ち)を踏み出せない。
医療者の「先行きはなかなか難しいところにあります。でも私たちはあなたと一緒に歩んで行きます」という姿勢こそが患者の希望に繋がるのである。
希望は人と共に最期まで平気でいきるところにある。
ちょっと順序や内容を変えてしまって申し訳ないのだけれど、こんなお医者さんになら最期の時を告知されても、ワタクシは素直に受け入れることができるだろうと思うわけで。
そして、ここで逝った大切な人たちもきっと、「最期まで生きる希望を持ち続け、平気で生き続けたからこそ、希望のある時間を生き、穏やかに死を迎えることができたのではないか」と思うわけで。
本日58歳を通過。
誕生日を祝ってくれる家族や、スタッフに感謝しつつ、
希望のある時間を生き、ワタクシ自身の生きる人生をワタクシ自身が肯定できるように、そして如何なる場合も平気で生きてゆけるように、
日々精進を積み重ねたいと心に誓いながらの・・・夜勤当番。
聞こえてくるのは、寝ボケて大声を張り上げるリンちゃんの声。
寝られんが~。といつものように繰り返す。
そのうち演歌を歌い出すリンちゃん。同じ歌を延々歌い続けるリンちゃん。
精進を誓い、澄み切ったはずの心をかき乱されて、やっぱりどうやら悟りとは無縁の夜勤の夜。
台風が近づいています。
お気をつけて。