復員船の中で 作詞:すず 作曲:橘ドゥビアン&すず 映像:ゆず
終戦記念日に向けての投稿です。北朝鮮から引揚げ船(と、祖母は呼んでいたが、公式には復員船、または復員艦)にようやく乗り込むことが出来、日本へ向けて出港したあとの一場面をフィクション、ノンフィクションの両方を交えて歌詞の中へ詰め込みました。おばあちゃんっ子だった自分は、祖母から引揚げ時の話も聞いています。何度も騙され、一度は船に乗りそこなった話なども…。女性たちにとっては、ロスケと呼んで恐れたロシアの南下が最も怖かったことも。きっと、話せなかったことも沢山あったのだろうと思います。もっと、もっと話を直接、聴いておけば良かった… 映像は、ゆずさん。「繋がる空」のイメージで作成して下さったらしい映像を拝聴し、最初は 年老いた大正か明治生まれの おばあちゃんが若い頃、一度だけ ギターとピアノで合奏をした想い出を懐かしんでいる場面が浮かびました。 これぞ、3つ目の別れのパターン。死別、生き別れ、最後に「たまたま居合わせた一瞬の出会いと別れ」をテーマに全く違う話を考えていましたが、昨夜から詩を書いている内に全く予想しなかった内容となりました。 以前、私が コメント欄で、チャゲアスの曲に励まされてきたと書いた際、 「人は音楽がなければ どうなるんだろうね」、みたいなことを ゆずさんが呟かれ…。 その言葉が妙に心に残っていたので、2番の歌詞に。 こんなご時世に、こんな時に音楽だなんて… いいえ、こんな時だからこそ、音楽を。🎵 復員船で 母国を目の前にしながら、米国主導による検疫で、母国の地を踏めないまま亡くなった方も大勢いたそうです。実際に、祖母が自分に語ってくれた言葉も歌詞に入れました。実際に船内にギターがあったかどうかは、想像でしかないですが、豪華客船を赤十字の輸送船にしたケースもあり、(台湾沖で米国に攻撃され沈没。民間人や軍人の家族2000人以上が亡くなられた。詳しくは浅田次郎さんの実話を元にした小説、『シェエラザード』をご参照下さい。船内では戦時中、音楽も奏でられたそうです) 祖母が実際に祖国の歌を船内で聴いたかどうかは分かりませんが… どのような状況かでも、音楽に生きる希望を見出すことは実際に起こり得る話だと… 最後に、曲は 橘ドゥビアンさん~けんちゃんが 「すずちゃんが作ったことにして出して」 「そんなインチキ出来ない💦」 最初に 橘ドゥビアンさん~けんちゃんにより、鼻歌で作成された原曲に、すずが🔔手を加え足まで加え、(嘘です👣)元がどんな曲だったか、もはや分からなくなってしまうほど、滅茶滅茶にしてしまいました。 きっと、怒っています。 いいえ、優しすぎて彼は、怒れないでしょうが… 作曲は ドゥビアン&リンリンってことで。 作詞は自分。 橘ドゥビアンさんとの共作は、ブログでのみ、昨日、発表した『日が沈む前に~ 夜明けの向こう側~』 に続く、3作目。 前半はピアノの音色を中心にしたため、間奏部分が特に、録画時、カタカタ音を拾ってしまいました。😥 他はクワイア等。ベースはコントラバス。後半はクワイアを外し、バイオリン。 ご協力いただいた、ゆずさんと • 8月15日 終戦記念日に向けて 橘ドゥビアンさん~けんちゃんにお礼を。 • 優しい空#オリジナル曲 、音楽会&すずちゃんコラボ作品 最後に、多くの亡くなられた命に… 合掌。
今日は終戦記念日ですね~
大変な思いでなんとかぎりぎり引揚げされた方
も多いでしょうね~
そのギリギリの場面で歌が果たした役割も
大きいでしょうね~
ギリギリの状況で
つながれた命も多いでしょうね~
あきらめないでよかった。
戦後の歌は希望にあふれてるような感じもします。
今の時代の日本はある意味戦後より
危機的状況かもしれませんね~
今の日本は、戦後より危機的状況かもしれない。
日本のみならず、世界が…🌎規模で…
そんな気が…
戦後の日本は…
必死になって 生きるために体を動かして
働くしかなかった時代。
どれだけ 自分が恵まれた環境にいるか、
終戦記念日だけにとどまらず、日頃から意識しないと…
そんなことを思いながら、詩を書きました。
祖母を思い出して…
深いコメントありがとうございました。
昨夜、殆ど寝てないので、今から寝ます。。。
あとで、訪問しますね。👍
おはようございます。
終戦記念日にありがとうございます。
聞いた後思わず手を合わせました。
私の父も叔父も従軍していました。
小学校6年生までの思い出しかないのですが、戦争体験は全く何も話さないまま亡くなってしまいました。
きっと辛すぎて子供に話せなかったのだと思っています。
戦争で生き残った父は交通事故で、弟の叔父は自死してしまいました。
父は其れより1年前に召集令状。軍隊に入隊北支に赴任。母は東京。
父が東京に帰還したのは終戦記念日より半年以上経てからでした。
復員船の中で何があったか重い口は開かなかったです。
私はお寺の中で夕方になると上級生達が障子を開けて東京の方角を見て「里の秋」等唱歌を朗々と歌うのを聞いていました。呼吸をするのと同じようにメロディーは必然的に不可欠です。
東京に学童引率先生全員が戻れたのは11月3日でした。
「復員船の中で」という言葉は私の家族にとっても大きな影響のあるものです。
以前、すずさんのご祖母と復員船の記事に触れた時にもコメントしたような記憶があるのですが・・・
私たち家族も朝鮮から引揚げ船で帰国したのです。
教員をしていました私の父が朝鮮の日本人学校へ赴任するために私の母、長男、次男、長女と共に戦前に朝鮮へ渡っていたのです。
その後、戦争が始まって私と弟が朝鮮の海州府中町というところで生まれ、戦後にすずさんのご祖母と同じように大変な思いをしながらようやく家族5人が日本へ辿り着いたのですが・・・
その時の話を父母から聞かされ戦争の惨さ、悲惨さなどを子供心に強く感じました。
8月6日、9日、15日の広島平和記念日、長崎原爆の日や終戦記念日には我が家でも心から平和を祈り願う日としています。
さいたま県東松山市の丸木美術館の「原爆の図」も毎年、観に行くようにしていますし、さいたま市北区役所で開催される「原爆絵画展」も2020年、2021年のコロナによる中止以外は毎年行って手を合わせて来るのです。
千恵子選手の実父も戦死していますので我が家では現、岸田政権の核兵器禁止条約への消極的な姿勢や敵基地攻撃能力を持った軍備の増強や軍事費拡大にも違和感どころか強い反対の姿勢で考えているのです。
すずさんの、この心に響き、沁みわたる「復員船の中で」には心底感動しました。
特に『懐かしい祖国の 歌に伴奏つけて・・・』以後のエレクトーンの響きに思わず込み上げるものが・・そして堪らず俯くと腿のあたりに涙が・・・
従軍されていたのですね…ご親族が…
そういう時代だったのですよね…
言葉が出ないです。
辛すぎて離せなかった。
そういう方がどれほどいたのだろうか、と今も考えます。
新たに動画を作ろうか、今、考えているところです。
お辛い体験を話して頂いて、ありがとうございます。
全員が戻れるまで…やはり時間がかかったのですね。
中には日本へ戻って来れなかった人々も…
風化させてはいけない貴重な体験談。
ここに記していただき、心から感謝申し上げます。
そうですよね。
メロディーは不可欠ですよね。
呼吸をするように・・
みのこさんの言葉が、今、改めて、じーんと 心に響きました。
はい、覚えています。
私が祖母のことを過去に書いたことがあるので…
同じ北鮮からの引揚者だったとお聴きして、
共通点がありますね・・と。
お話させて頂きましたよね。
辛いことが 沢山あり…
語れないことがあり…
そんな中、よく祖母は孫に話してくれたと、
こころから感謝しています。
だから、自分も、こうして曲にすることが出来ました。