つれづれの記

日々の生活での印象

富士山を巡ってー田子の浦で一休み

2013年05月30日 23時17分35秒 | 日記

2013年5月30日(木) 富士山を巡ってー田子の浦で一休み 

 

 世界文化遺産への登録が、ほぼ確実となった富士山を巡って、当ブログでも、 

     富士山を巡ってーUTMF           (2013/5/10)

     富士山を巡ってー世界自然遺産として      (2013/5/15)

     富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その1 (2013/5/20)

     富士山を巡ってー忍野八海で寄り道       (2013/5/22)

     富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その2 (2013/5/29) 

を投稿してきた。

 ここで一休みして、歌等に詠まれた富士山と田子の浦について触れたい。

 

 

 富士山に関連する文学作品として、万葉集には、11首の短歌があると言われるが、大半は、相聞歌等のようで、山部赤人が、富士山の眺めに感動して詠んだという、

    田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける

は別格だろうか。

 この歌の「ゆ」が、やや難解だが、これは、万葉当時は、経由を表す意で、田子の浦を通り過ぎて、の意味だと、学校で教わったものだ。

詠んだ人の、大らかで率直な感動が伝わってくる、文字通りの分りやすい歌であろう。

 

 万葉集では、この歌(短歌)の前に、やはり、山部赤人が作った、長歌と呼ぶものがあるようだ。こちらは、

    天地の(五)分れし時ゆ(七)神さびて(五)高く貴き(七)ーーー

で始まり、このような、リズムのある五七五七が4回も出て来て、最後に、五七七で終わる、かなり長いものだ。

 長歌の内容は、天地創造から始まって、最後に、この神聖な富士の山(布士、不尽)を後世に語り継いでいこう、という壮大なものである。

この長歌をうけた反歌として、前出の、有名な短歌が出てくるという訳だ。

 

 富士山に関連した、万葉以降の文学作品では、芭蕉の句などもあるようだが、これらについては省略したい。

  

 山部赤人のこの歌が、やや時代が下がって選ばれた小倉百人一首では

     田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ 

に変わっている。

特に、万葉当時の経由を表す「ゆ」が、所在を表す「に」になって 

      田子の浦ゆ ⇒田子の浦に 

としていて、意味も

     田子の浦を経由して⇒田子の浦に

に変わってしまうのだ。でもここでは、これらの改作の良し悪しに触れる積りは無い。

 

  ここでは、田子の浦の場所について、以下に、少しく触れたい。

  田子の浦の所在位置が、万葉の頃と、現在とでは異なっているようなのだ。いつ頃から地名が変わったのかは未調査だが、少なくとも、小倉百人一首よりは、後のことであろう。

 山部赤人の頃の田子の浦は、富士川の西海岸、現在の蒲原付近(仮に 地点A)であったという。

 この事から、歌の原意は、

 「(山林の)田子の浦をずっと歩いて、やっと見晴しの良い地点に出て見ると、遥かに雪が降り積もっている富士山が望まれた」

となるようだ。(column37

 その頃の田子の浦からは、富士は見えなかったようで、上にある見晴しの良い地点は、現在のどの辺りだったかは不明だが、仮に、地点Xとしよう。

 

 百人一首の場合の、歌の意は、

 「田子の浦に出て見たら、----------------」

と、分りやすい歌になるのだが、当時は、そこからは富士は見えなかったのでは、となる。

 

 そして、現在の田子の浦は、富士川のかなり東側の、富士市にある海岸(仮に 地点B)で、富士山が良く見えるようだ。

このように、場所として、地点A、X、Bの3か所が登場するが、地点Aの旧田子の浦の蒲原辺りからは、富士は見えなかったようで、東海道五十三次の蒲原宿の絵は雪景色である。 

 又、前述の通り、美しい富士が見えた地点Xの位置は、不明であるが、この地点Xは、地点Bと同一である可能性もかなり大きいだろうか。むしろ、同一であると、話は、単純になるのだがーーー。 

 

 富嶽三十六景には、「東海道江尻田子の浦略図」と長ったらしい名で出ているが、江尻田子の浦の場所は、東海道五十三次の吉原宿(現 富士市)の辺りで、この絵は、沖合から富士を描いた、ユニークな構図と言われている。(東海道江尻田子の浦略図|葛飾北斎) 

 

これらの浮世絵が描かれたのは江戸時代だから、田子の浦の場所は、万葉の頃の地点Aではなく、現在と同じ地点Bになるだろうか。

 

 そして、現田子の浦(地点B)からの眺望はどうだろうか。ネット情報だが、現在の富士市の田子の浦港の中に

     「富士と港の見える公園」

があり、その公園の展望台からは富士山が見え、その前景に、近代的な港と富士市の市街があり、雄大な富士とのコントラストには、力強さが感じられるようだ。(田子の浦から見た富士山) 

 

 そして、上記の公園よりもっと海岸線に近い砂浜に、護岸堤防を活用した

     「ふじのくに田子の浦みなと公園」

の建設が進められていて、既に、一部が供用されているという。 そこからは、下図のように、松林を前景として、富士を展望できるとともに、遊び場などもあって、家族で楽しめる公園になるようだ。(ふじのくに田子の浦みなと公園①: やまぶどうの徒然日記

 

 

 又、山部赤人の歌碑は、富士市市内の数か所にあるという。万葉仮名で書かれた本格的な歌碑は、以前、港の奥に在ったものを、この新しい海辺の公園に、最近、移設したようだ。下図の、背の高い右4本の石碑が長歌、左1本が短歌で、ともに万葉仮名である。

そして、いちばん左にある、背の低い碑面が黒い碑に、現代仮名で、正面に長歌、側面に短歌が書かれているようだ。(画像はネットより)

ここでは、この公園の名誉のために、万葉の歌人が詠んだ地点Xは、この地点Bと同一である、としておきたい。

 

                短歌・長歌      短歌             長歌

                (現代仮名)   (万葉仮名)         (万葉仮名)

 

 A、X、B、どの地点にしても、この辺りは、これまで何度も、電車や車で通った筈なのだが、どんな富士の景観だったかは、確かな印象はない。

 今後、機会を作って、歌枕の田子の浦や周辺を訪れてみよう。万葉の歌人を偲び、富士の景観を楽しみながら、現代に生きる富士市の姿も見たいものである。

コメント
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