へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

今自分がここに居ると言う不思議

2008年02月29日 03時57分04秒 | Weblog
多くの人は、「自分が日本人として今住んでいる所にいる」と言うことの不思議を考えた事があるだろうか?。
私は時々考える事があるのだが、そのたびに「自分が今ここに居ると言う事の幸せ」を感じるのである。
こう書くと、いかにも私が幸せなように聞こえるかもしれないが、実は、全く違う視点から考えての話で、仮の話ではあるが、私が北朝鮮に生まれたとしたらどうなっていたであろうか?・・・・。
北朝鮮に限った事ではない、アフリカ、イラク、パキスタン、中国・・・・・・と、考えただけでゾッとする。
「運が良い」「運が悪い」「運も実力のうち」などと言うことが有るのだが、この場合の運とは「運命」の事を言っているのではないだろうが、所詮は運命で決まっているのかもしれない。
私は、一般的に言う所の「神」と言うものの存在は信じない「無神論」なのだが、一般的に言う所の「神」ではない物の存在や、「運命」と言うものは有ると信じている。
地球が存在し、其処に人類がいるということは、広大な宇宙には「人類の想像も及ばない未知の高等生物」がいたとしても不思議ではないだろう。
このように考えてゆくと、「宇宙の果て」って存在するのであろうか?。
様々な説が唱えられているのだが、どの説を採って見ても納得の行く説明は出来ていない。
アインシュタインの「宇宙はビックバンによって出来た」と言う説も、それ以前がどうであったかの説明がなく、私にとっては??????、と言うほか無い。
どれ程科学が進歩したとしても、「宇宙の果て」を見ることは出来ないだろうし、「宇宙には果てがある」と言う人もいるようだが、仮に果てがあったとしてもその外側はどうなっているのだろうか?。
「無限」と言う言葉を∞と言う記号で表現する場合があるが、これは少しおかしいと思うのだが・・・・。
∞と表現すると、「元に戻ってくる」と言うように思う人が出てしまうのだが、宇宙での無限と言う事は、∞と言う記号で表示する事は出来ないと思うのだが・・・・。
そもそも「理論」とは、「目の前で起きた事を説明する言葉」であって、「必ずしも正しいとは限らない」と言うより、間違っている方が多いのではないだろうか?。
理論上は問題がないはずなのに、実際に行うと上手く行かない事があるのは、単に「目の前で起きた事を説明する言葉」だからで、科学の世界で「実証試験」が行われるのはこのためである。
理論に基ずいて実験した所、「全く別な物ができた」などと言う事は「日常茶飯事」である。
と言うわけで、話が少し横道にずれてしまったが「今私がここに居ると言う不思議」は、永久に答えが出ないであろう。
コメント (2)
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