旅について書き綴ってみたい。
イングランド北西部に、チェスター、ランカスター、マンチェスターという町がある。
語尾に共通する「スター」は、夜空にきらめく星ではない。むろん、銀幕の俳優でもない。なんでも要塞や駐屯所の意味らしい。
二千年前のローマ時代、ローマ軍団は交通の要衝にある地に要塞を築き、あるいは駐屯所を置いていた。その痕跡を「スター」が伝えているという。グランチェスターやコルチェスター、ウィンチェスターなどの地名もその類なのだろう。
こうも「スター」が多いと、ウィンチェスター銃をぶっ放すカスター将軍に扮するバード・ランカスターなんてまぜっかえしたくなるが、どれも要塞に縁がありそうに思う。
最初はチェスターの町から
夜、チェスター駅についた。
予約を入れていたクィーンホテルは駅舎のまん前にあった。駅前にあることが魅力で予約をしたのだが、通りを横切って1分とかからない近さは望外だった。
なにしろ、でかい二つのサムソナイトにてこずりながらのかみさんとの二人旅である。そこへきて、外国の初めての町に夜の到着となれば、ねぐらを駅前に求めたくなる。ただし、値が張った。一泊料金が125ポンド。後になって思うと、タクシーの運転手にチップをはずんで安ホテルに案内させたほうがマシだったかもしれない。
チェックイン後、ランカスターに住んでいる旧知のジョンに電話を入れた。明日、彼の家を訪ね、泊めてもらうことになっていて、汽車の到着時刻を知らせる約束だった。ランカスターはチェスターから1時間半ほどの鉄路である。わたしたちは17時23分着の汽車で行く。
そのことを伝えると、ジョンから「家に泊めることができない」という意外な言葉が返ってきた。なんでも、息子のドミニクがチキンポックスに罹ったらしい。そこで、レイルトンというステーションロード2番地のB&Bを予約したという。
日本から電話をかけたほんの一週間前には、さかんに家に泊まれと言っていたから、気が変わって息子を仮病にしたてたのではないかと疑った。だいたいチキンポックスなる病名がわからない。ヤキトリとフライドチキンの食あたりみたいなものか、とへそを曲げたのは、ジョンの家に泊まる楽しみがフイになってガッカリしたせいだ。そのガッカリにはヤド賃の節約がトチ狂ったことも含まれた。
翌朝も晴れわたった。旅行者にとってなによりの贈り物は好天気である。雨乞いの巫女がいたなら追い払いかねない。
ホテルにスーツケースを預けて、チェスターの町を見学することにした。
ガイドブックによれば、このチェスターは「イングランドで最も中世の面影を強く残す町」とある。さらに遡れば「2千年前、ローマ軍団の中でも最強を誇った第20軍団が置かれたところ」という。
城壁にすっぽり囲まれた旧市街地は駅から徒歩15分の距離だ。きっと、中世の面影を損なわないように、ほどよい距離に駅を建てたのだろう。どこかの国ならば、城壁をぶち壊して鉄道を敷設しかねない。御託を並べて、自然の恵みである干潟を葬る国ではあっさりやってのけるだろう。
町はさして大きくない。2時間もあれば散策は尽きる。ただし、チェスター大聖堂とチューダー様式の街並みに多いアンティークショップが時の費えを左右する。
大聖堂の創建は10世紀に遡るとある。まさにミレニアムの時空を超えてきた遺産である。こうした遺産の維持管理に公的助成はないらしい。これまた、どこかの国のように某神社の特殊法人化を目論むようなあざとい考えはないらしい。
維持管理の財源は寄進に頼っている。参観者にも寄付を求められる。相場は2ポンド。その代わり拝観料などというもったいぶった料金は一切ない。
ところで、参観のしおりによれば、大聖堂の公開維持の費用に1分あたり2ポンドかかるとある。となると、わたしたちは荘厳な礼拝堂や美しいステンドグラスに見とれて、維持費用の120ポンド相当も長っちりしてしまった。
骨董店の見て歩きも楽しい。「あれ、珍しいと思わない?」とかみさんはショウウインドウの時計を指した。三角型の懐中時計だった。文字盤は絵柄で、その絵柄も塔やら秤やらスコップやらとへんてこなデザインだ。珍しい代物かもしれないが、こっちはかみさんと違って興味はない。
かみさんは店の人を呼んで値段を訊いた。千ポンドという。ついでに「珍品ですよ」と煽った。わたしはケッと一蹴したが、かみさんは逡巡している。
亭主が後押ししないものだから、かみさんは「アンティークの本で同じものをみた記憶があるんだけど」と決め手になるかもしれない記憶をたぐっていた。が、記憶の糸をたぐれないまま潮時がきた。15時50分発の列車に乗らなければ、ジョンに約束した時刻に間に合わなくなる。
この懐中時計には後日談がある。
かみさんは『私のアンティーク』という雑誌で、あの代物とウリふたつの三角型懐中時計の写真を見つけた。とたんに、甲高い声をあげてのけぞった。
わたしは数年前のバックナンバーから記憶をたぐり寄せた執念に感心したが、写真のキャプションを読んで、やはりのけぞった。「ロレックスのなかでも珍しいフリーメーソンの三角型懐中時計。1927年のもの。150万円」
かみさんもさりながらわたしも大いに悔やんだ。興味がなかったくせに、「奇貨、居くべし」(掘り出し物だ、買っておこう)と決めた呂不韋の逸話を出して、かみさんを責めるありさまだ。
ところで、フリーメーソンは、百科事典によると「1717年にロンドンで始まった中世の石工(メーソン)ギルドを母体とする団体」とある。なるほど、絵柄の秤やスコップは石工に欠かせない道具だったかと合点がいく。塔造りは石工の誇りだろう。これは勝手読みだが。
「何、その骨董屋の名前?」
だれかがチェスターに飛んで行かれては困りますわ。