blogギター小僧の径

ギター小僧の私生活

齋藤家

2006年06月11日 | 想い
遠い親戚が亡くなった。土曜から徹夜で仕事、そして日曜の朝、徹夜のまま会社での役員会に行く予定だったが、葬儀が入ってしまったので、会議をキャンセルし、仮眠を取り、千葉の葬儀場に向かった。

齋藤家は元々千葉の出身なのだ。遡ると藤原定家まで行き着く。『明月記』を読むと定家は関東に遊説に来ている。その時にお手つきにあったのが、我が先祖で、「藤」を名乗ることを許され、「齋藤家」が起きたんだと。こういう話を20歳の時、親父と二人でお邪魔した時、故人に聞いた。この家伝がホントかどうかわからないが、ウチの家系は千葉で大地主だった証拠がいくつか残されている。江戸四大飢饉の一つ「天保の大飢饉」の時、ウチのご先祖様は、地域の人々を助けたという記述があり、実際見に行ったことがあるが、丁重に祭られている墓がある。墓石に刻まれた文字はほとんど読めない感じだったが、戦前に撮った写真には「天保」の文字がはっきり読めた。それからウチだけで、神社を持っている。その神社には元禄の頃からの家系図が残っているのだという。今、ぼくの手元にも天保ぐらいなら家系図がある。明治の頃、大病を患ったお婆さんのために、土地を売ったらしいが、今でも、跡地のゴルフ場のなんかの案内には「齋藤家の土地だった」みたいな記述があるそうだ。

18時の通夜に30分ぐらい遅刻したら、ほとんど終わり間際だった。親父とお袋と親父のすぐ下の弟が来ていた。故人の長男は耳が悪く、手話での挨拶だった。こんなのは初めてだ。お清めの食事の時に聞いたが、故人と奥さんは母親同士が姉妹、つまりは従兄弟同士で結婚したわけなのだが、生まれつき耳が悪いのは、それが原因と噂されていた。20歳の時、奥さんにあったが、恐ろしいまでのマシンガントークで辟易したことを思い出す。今は痴呆が激しく、来れないのだという。いろんな人が親父に寄ってきた。戦前後の東京の話をかなり聞かされた。

途中で抜けて、会社に向かい、仕事。
 

帰ると、全仏オープンの女子ダブルスをやっていた。ビールを呑みながら観た。なにしろ、ダニエラ・ハンチュコワが杉山愛とペアを組んでいるのだ。惜しくも負けたが準優勝。2003年07月03日の日記にも書いたが、ぼくはハンチュコワの大ファンなのだ。シャラポワなんか比べ物にならない。スロバキア出身で1983年生まれの23歳。がんばってね。3時半就寝。
コメント
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