一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『確率的発想法』

2008-04-23 | 乱読日記

以前のエントリで紹介した『使える!確率的思考』の著者の本。
そこで著者は本書について「不確実性下における選択の正しさとはいったい何か」についてより積極的に語ったのが本書だと紹介しています。

本書では確率理論が世の中にある事象を説明しようと発展させてきた不確実性下における意思決定をめぐる確率理論を紹介しています。
後半「選択の正しさ」を語り始めると、徐々に語りの温度が高くなります。
そして最後に著者は富の再配分についても確率論から位置づけられないかというアイデアを語ります。  

・・・筆者は「賭けにとって時制は本質的だ」と考えます。繰り返しになりますが、不確実なできごとへの選好を扱うためには、結果として得られた報酬・報償だけでなく、「事前の過去の時点では、こういう可能性もあった」というできごとを加えて判断する必要があります。いうならば、「そうであったかもしれない世界」を対にして初めて、不確実性への選好が評価できるのです。  

・・・ここから自然に導かれるのは、不確実性下の意思決定では、事前と事後で認識がズレることによって「過誤」が生じることを無視できない、ということです。 
一方、この「過誤」という現象は、不確実性を含まない経済学には存在しない観点なのです。確実性下の経済学では「事前にどういう最適化をするか」が問題であり・・・過誤が生じることはありえないからです。 
しかし、不確実性下の意思決定理論では・・・不確実性とは「時間の未到達」や「知識や経験の不十分さ」、「集団の知識の食い違い」などから生じるのであり、そこではそもそも過誤が前提となっているからです。  

現実の経済を営む人々は、生起した「サプライズ」を体験することで自分の過去の決定に誤りがあったことを認めるのに対し、従来の経済理論では未来の利益を最適化するためのデータ構造を修正するだけであるがそれでいいのか、「人は過去をも最適化したいと思っているし、そうあるべきだ」(この「過去の行動の最適化」とは「そうであったかもしれない世界」に対する責任、「形而上の罪」の意識--自分が現在享受している利益はすべてが事前の最適化の結果によるものではないという「居心地の悪さ」--を解消しようとすることを意味します)という問題提起をします。

富の再配分を「最適でなかった過去の意思決定を最適化するための富の再配分のメカニズム」として確率論的に位置づけられないか、という意欲的な試みです。


時制の制約の問題、自己と他者の問題など、確率論も人間の意思決定のメカニズムに近づこうとするほど哲学に近くなるのかもしれません。




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