一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

歴史は繰り返す (水道の話 その2)

2006-03-24 | よしなしごと

昨日のエントリに引き続き、水道の話です。

今回は近代水道の整備が計画されてから出来上がるまでについて。
「東京都水道歴史館」からちょっと長くなりますが引用します。

 明治21(1888)年8月、東京の各種都市施設を整備するため「東京市区改正委員会」が政府に設けられます。同委員会は、上水改良は現下の急務であるとして、内務省衛生局雇間技師バルトンを主任とする7名の設計委員による改良水道の調査設計に着手します。同年12月には第一報告書が作成されました。
 ほぼ時を同じくして、民間による東京水道会社設立の動きがありました。横浜水道を設計した英国技師パーマーがこの設計に携わっており、設計案を内務省に提出します。
 東京市区改正委員会は、バルトン等の設計案と、パーマーの設計案の比較検討をベルリン市水道部長ヘンリー・ギルに依頼し、さらに来日中のベルギーの水道会社技師長アドルフ・クロースにも意見を求めるなど幅広くかつ慎重に調査を進めました。
 明治23(1890)年3月、バルトン等設計委員は、それまでに示された諸見解を踏まえて第二次報告を作成します。
 その概要は、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場に導き、沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水し、浄水工場に併設された給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水しようとするものでした。
 明治23(1890)年7月、この案は内閣総理大臣の認可を得、東京府知事により告示されますが、明治24(1891)年11月に開設された東京市水道改良事務所の技師・中島鋭治によって再検討され、変更されます。
 その内容は、浄水工場設置場所を淀橋町に、給水工場設置場所を本郷及び芝へと変更し、和田堀、淀橋間に新水路を築造するというものでした。
 こうして東京近代水道創設の青写真は整い、あとは着工を待つのみとなりました。 明治26(1893)年10月22日、淀橋浄水工場建設予定地で、改良水道起工式が盛大に挙行されました。
 しかし、府知事の設計告示(明治23(1890)年7月)から既に3年以上もの年月が経過しており、起工式に至るまでには様々な紆余(うよ)曲折がありました。
 設計告示後の明治23(1890)年9月、市会は水道建設及び関連する道路建設等の費用総額1千万円の市区改正予算を全員一致で可決しました。事業期間は、明治24年度から5年間で、財源はすべて公債でまかなうこととしました。
 当時の東京市の一般財政の規模は50万円程度に過ぎなかったので、5か年継続事業とはいえ1千万円にものぼる市区改正予算は巨額なものでした。
 公債発行に当たって、市の公債が政府の公債と同等の価値を保証されるよう政府に働きかけましたが、思うようにいかず約1年が経過してしまいました。やむを得ず明治24(1891)年10月に、市は政府の許否にかかわらず市公債の募集を開始しました。
 公債発行の遅延で、当初予定した明治24年度の工事開始は見送られましたが、この間、巨額な工事費を投じてまで水道を建設する必要はないとの意見を中心とした工事反対の世論が高まってきました。このため、公債募集を開始したにもかかわらず、着工できない事態となりました。
 こうした事態を打開するため、市会は市区改正経済審査委員を選任し、問題点の調査検討を行うこととしました。同委員は、「水料」収入方針を明確にし、道路事業の財源の一部を水道建設に充て、また公債の一部募集延期、配水工費の分納・助成等を決めるなどして市民の納得を得るよう務めました。
 こうして、明治25(1892)年4月に至り、市会は前年12月に提案された用地買収の案件をようやく可決することができました。
 用地買収は、淀橋に限らず本郷、芝、新水路予定地等施設建設予定の各所で難航しますが、買収完了を待たずに明治25(1892)年9月、淀橋工場仮事務所盛土工事に着手し、12月から本工事が開始されました。
 一方、水道建設に要する鉄管は、総重量4万5千トン余に及ぶ膨大な量であり、当時の国内の鉄管生産体制からみて、多量の鉄管の調達方法は大きな課題でした。外国製品の採用も視野に入れ検討した結果、国産品の採用にふみきり、明治26(1893)年4月、新規に創立された鋳鉄会社と契約を締結しました。
 契約後、鉄管に表示する記号を画数の多い日本文字から簡単なマークに変更したことをめぐって、市参事会と市会は一時混乱しますが、明治26年度に入って施工体制は軌道に乗り、この年の秋、盛大に起工式を開催することができたのです。
  近代水道の第一歩である創設水道の建設は、盛大な起工式も済ませて順調に進むかにみえました。しかし、鉄管の納入をめぐって思わぬ事態に直面します。 東京市はすでに国産品の鉄管を使用することとしていましたが、契約した製造業者の体制が十分に整わず、鉄管の納入が大幅に遅れるという事態になりました。やむをえず明治27(1894)年2月に外国製品も購入することを市会で決議し、ベルギーやオランダの鉄管を購入することとなりました。
 鉄管問題はさらに悪化し、国産品製造業者が東京市の検査で不合格となった鉄管を合格品と偽って納入するという不正事件を引き起こすに至ります。明治28(1895)年10月、この事態が明るみに出て刑事事件となり、府知事の辞職、市会の解散などの政治問題へと発展しました。このため、すでに布設した鉄管を掘り起こして再検査を行うという面倒なこととなり、工事の進ちょくに影響を与えました。
 また、明治27(1894)年8月には日清戦争が勃発したため、資材や労働力の不足、諸物価の高騰等に苦慮し、工事の進行は予定どおりには進みませんでした。 しかし、幾多の障害を克服して、新水路の築造、淀橋浄水工場、本郷・芝給水工場の建設、鉄管布設工事は進められ、明治31年(1898)秋ごろまでには創設水道の主要施設がほぼ完成しました。
 こうして、明治31(1898)年12月1日、淀橋浄水工場から本郷給水工場を経て神田、日本橋方面に初めて近代水道が通水されることとなったのです。

昨日は明治の先人の偉業をたたえたのですが、権力闘争、反対運動、資金調達問題、用地買収問題、汚職、挙句の果てには偽装問題(それに伝染病もありますね)と、まあ、人間(日本人?)のやる事は昔と変わっていない、とつくづく思います(考えようによっては、その意味でも明治の先人達は先進的だったのかもしれませんね)


歴史は繰り返す、ただし二度目は茶番。
     カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール 18 日』

 

コメント (2)
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