一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

明治時代の日本人の努力と先見性(水道の話 その1)

2006-03-23 | よしなしごと

京都の南禅寺の境内の奥に、水路閣と呼ばれる赤レンガ作りの水路橋があります。

 

東山を掘り抜いて琵琶湖の水を京都に送る琵琶湖疎水が流れる水路で、明治23年に竣工しました。
この水路は今でも現役だそうです。


そしてもうひとつ。この前都内某所の道路下の工事現場に潜らせていただく機会がありました。
そこで見たのが、工事の途中に出てきた明治31年の鋳鉄管(直径1,100mm)


(木枠の下、画面中央に大きく写っているのがそれ)

こちらは浄水場と鉄管製の有圧水道管のセットになった近代水道として日本初のもののようです。

東京都水道局のサイト内の「東京都水道歴史館」 によると

文明開化のかけ声とともに、欧米の諸都市を目標とした街づくりが行われました。
 ・・・しかし、地下を流れる水道は依然として江戸時代の神田・玉川上水のままでした。当時は浄水処理がほどこされていない河川水そのものが地下に埋設された石樋(せきひ)・木樋(もくひ)によって市内の上水井戸に配水されていたのです。
 しかも、維新後の混乱で水道を所管する組織が変転し、上水の管理が一時おろそかになってしまいました。
 ・・・十分な補修も行われない木樋は腐朽し、水質は悪化しました。また、上水は自然流下で圧力がないため、火災の消火に威力を発揮することはできませんでした。
 このため、・・・明治7(1874)年、政府は上水の改良の検討を始め、内務省土木寮雇ファン・ドールンに改良意見書や改良設計書を提出させます。
 一方、東京府も明治9(1876)年、東京府水道改正委員を設置して、上水改良の方法や費用を調査し、明治10(1877)年に「府下水道開設之概略」としてまとめ、明治13(1880)年には「東京府水道改正設計書」も作成しました。
 ファン・ドールンや東京府水道改正委員の設計は、いずれも原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというもので、東京近代水道の原形がここにようやく示されたことになります。
 しかし、近代水道の創設には巨額の費用を必要とし、また道路整備など都市計画全体との調整を図ることが必要なため、さらに検討を加えていくこととなりました。
 東京府は、近代水道創設の検討を進める一方、既存の木樋、上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化するなどして、飲料水の安全確保に腐心していました。
 こうしたなかで明治19(1886)年、コレラの猛威が東京を襲いました。それまでにもしばしばコレラの流行はありましたが、この年は死者が1万人近くにも及ぶという事態で、加えて水源である多摩川沿岸でコレラの汚物流出騒ぎも起こり、上水の信頼は大きく揺らぎます。このことが近代水道創設促進に拍車をかけることとなりました。

明治初期には東京でもコレラ騒ぎがあったんですね。

明治期の製鉄技術というと、イギリスに発注した戦艦「金剛」(大正2年竣工)の装甲板には日本製のドリルでは穴があけられなかったと言うような話(参照)が思い出されますが、そういう特殊な技術以外は、明治維新後20~30年で習得し、自前でインフラ整備をすすめていたわけで、明治の日本人の努力と先見性にはいつもながら頭が下がります。


※明治政府の先見性、という点では明治時代に沖縄やその他周辺の島々(竹島など)も日本の領土として着々と宣言し、国際的な承認を得ていたのが今の領土問題につながっているというあたりもそうですね(拙いですが私の以前の関連エントリはこちら

(でも、「いい話」だけで終わらないのが人の世の常ということで、この項つづく)

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