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それでも原発推進論だ   レベル7級の馬鹿「癌直人」

2011年04月15日 15時24分10秒 | 現代日本
 yahooブログ「日本核武装講座」でチェルノブイリ並のレベル7に事故レベルが引き上げられたことをうけて、ブログ主が怒りの記事を書かれました。そのあまりの国益を損なう行為には、菅政権が史上最低最悪の政権だとまともに考えることの出来る人は、誰しも思うことでしょう。チェルノブイリは核爆弾による爆発に相当するような事故です。福島原発は核分裂反応は地震と同時に自動停止しており、冷却に関する問題のみであり、比較にならない天と地の差があります。このレベル引き上げの発表でマイナスの影響はあっても、プラスの影響など考えられません。この最低最悪の内閣を選んだのは、結局マスコミに煽られ、「自民にお灸を据えよう。誰がやっても政治は同じ、だったら一度民主にやらせてみよう、ダメだったら変えればいい。」と考えて民主に投票した国民です。そして一度政権をつかんだ民主は、政権を手放そうとはしません。もういい加減、マスコミの不安を煽り騒ぎ立てて国民の目をひこうとする商業主義に乗せられることは、やめたらどうでしょう。


転載開始




福島第一原子力発電所の事故「レベル7」に 原子力安全・保安院
CNN.co.jp 4月12日(火)11時12分配信
(CNN) 経済産業省の原子力安全・保安院は12日の会見で、福島第一原子力発電所の事故について、事象・事故の深刻さを示す国際原子力事象評価尺度(INES)の暫定評価を「レベル5」から「レベル7」に引き上げたことを発表した。

原子力安全・保安院は3月18日に「レベル5」とする暫定評価を発表していた。レベル7は「深刻な事故」旧ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)と同レベル。



原子力安全・保安院がINES評価尺度の暫定評価をレベル5からレベル7に引き上げました。
マスゴミ供は脅威を煽った方が雑誌や新聞の売り上げ、テレビの視聴率を稼げるので「チェルノブイリ並みだ」と一斉にまくしたてています。
INESの基準は要素131換算で数万テラベクレル相当以上が外部へ放出されたという事で、深刻な事故という位置づけになります。
これは御承知でしょうが過去には1986年のチェルノブイリ原発事故しか例がありません。そのため、「チェルノブイリ並み、チェルノブイリ並み」という言葉だけが独り歩きする可能性があります。
風評被害は深刻さを増すものと思います。残念な事です。

一口にレベル7とは言いますが、単に「漏れ出たレベルが7だよ」と言うだけの話であって、被害の規模とは全く関係がありません。その証拠にチェルノブイリでは28人が亡くなっています(そのうち17人が急性放射線障害)が、福島で亡くなった人は一人も居ません。
健康被害も今のところ無さそうです。作業員が足を汚染水につけて病院に運ばれましたが、とくに問題なさそうに退院しました。
チェルノブイリでは事故の翌日までに129人が病院に担ぎ込まれましたが、福島では放射線障害の疑いで病院に行かされたのはその3人だけでしょう。
チェルノブイリは原子炉そのものが爆発して黒鉛火災が続いたのでして、原子炉は安全に停止している福島とは異なりますね。
レベル7は上限が無いのでその中では天と地ほどに違いがありそうだという事を忘れてはいけません。
重ねて言いますが、レベルが被害規模を示す訳ではありません。


IAEAはチェルノブイリ原発事故と福島の事故はまたく違うとの見方を示しています。

福島第1原発:「チェルノブイリ」に遠く及ばず IAEA


一部抜粋

 【ウィーン樋口直樹】福島第1原発事故の国際評価尺度(INES)がチェルノブイリ原発事故(86年)と同じ「レベル7」に引き上げられたことについて、国際原子力機関(IAEA、本部ウィーン)は12日、福島原発事故の深刻さは史上最悪とされるチェルノブイリ事故に遠く及ばないとの見方を示した。レベルの引き上げに伴う無用の混乱を避ける狙いがあるとみられる。

 IAEAのフローリー事務次長は会見で、チェルノブイリ事故について「原子炉自体が大爆発し、激しい黒鉛火災が続いた。放射性物質が空高く吹き上がり、一帯に飛び散った」と説明。「福島では全ての原子炉が地震で停止し、原子炉圧力容器自体が爆発することはなかった」と両者の違いを強調した。

 同氏はさらに、福島原発からの放射性物質の外部放出量37万テラベクレル(保安院推定)と、チェルノブイリ事故の放出量520万テラベクレルを引き合いに、「両者には大きな違いがある。事故の構造はまったく違う」と強調した。

フランスでも、この様に。↓
福島第1原発:チェルノブイリ級ではない 仏研究所が見解


フランス放射線防護・原子力安全研究所(IRSN)のグルメロン放射線防護局長は12日の記者会見で、国際評価尺度(INES)の暫定評価で最悪の「レベル7」とされた福島第1原発事故について、重大だが旧ソ連のチェルノブイリ原発事故には「匹敵しない」との見解を明らかにした。


日本では産経新聞が良い事を書いている。
「菅内閣は馬鹿じゃねーのか?」と言っているのだが、既に日本国民もアメリカもフランスも支那も韓国もみんなそう思っている。
国民はもう菅直人の言う事など信用しないだろうし、アメリカやフランスは本音では怒り心頭だろうし、支那と半島乞食国家はこの機会に馬鹿内閣につけ込む事を考えている。



http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110413/dst11041303140003-n1.htm

福島レベル7 「最悪」評価はおかしい チェルノブイリとは全く違う
2011.4.13 03:14 (1/3ページ)
 福島第1原子力発電所の事故に対する国際評価尺度(INES)が、急遽(きゅうきょ)「深刻な事故」とされる「レベル7」に引き上げられた。経済産業省の原子力安全・保安院が、内閣府の原子力安全委員会の見解などを踏まえて発表した。暫定評価とはいえ、レベル7の意味は非常に重い。
 INESの基準で最も重いレベルに相当するだけでなく、25年前に起きた史上最悪のチェルノブイリ原発事故とも並ぶからだ。日本政府の発表によって、世界の抱く福島事故の印象は、チェルノブイリ事故と完全に二重写しになって焼き付いてしまう。

 ≪保安院の発表には矛盾≫

 菅直人政権は、レベル7評価の及ぼす影響を理解していないのではないか。事故の実態を国際社会に正しく伝え、誤解を是正していく活動に直ちに取りかからなければならない。
 保安院の発表には矛盾がある。福島事故で放出された放射性物質の量は、チェルノブイリの10分の1に過ぎないと認めているではないか。レベル7の根拠は、2号機が爆発した3月15日ごろの数時間、最大で毎時1万テラベクレル(テラは1兆)の能力を持つ放射性物質が外部に放出されていたと報告されたことである。しかし、今はその1万分の1に減っている。
 経済産業省が事故後1週間で示した暫定評価は「レベル5」であった。それが今の時点で、いきなり7に引き上げられると、誰しも事態の急な悪化を想像してしまう。あるいは、何か深刻な状況を隠しているのではないかと疑心暗鬼にかられかねない。
一時的にレベル7の適合要件を満たしていたからといって、それだけで結論を下すのはいかがなものか。評価を引き上げ、発表を急がないと事故が拡大するという局面だろうか。だが、そういう要素は何一つない。唐突感と驚きを振りまいただけである。
 福島事故とチェルノブイリ事故は重大度が全く違う。チェルノブイリ4号炉は、運転中に暴走して大爆発を起こし、炉心ごと吹き飛んだ。だから外部にばらまかれた放射能の量も汚染面積も比べものにならない。
 福島事故では放射線被曝(ひばく)による死者が皆無であるのに対し、チェルノブイリでは約30人の発電所員らが死亡している。
 福島では、4基の原発から放射性物質が漏れたのに加え、収束に日数を要しているものの最悪の方向には進んでいない。
 国際関係では、東京などに拠点を置く海外企業の日本脱出に拍車がかかる可能性がある。外国からの観光客も日本を避ける。日本からの輸出産品への規制がさらに強まる恐れもある。
 環境問題の打開のため、原発活用に舵を切ろうとしていた諸外国のエネルギー政策に及ぼす影響も一段と深刻なものになる。
 1979年のスリーマイル島事故以来、凍結されていた国内原発の建設再開に着手していたオバマ米政権は、計画の見直しを余儀なくされかねない。
 菅政権は、レベル7への引き上げに際し、世界に波及していく負の衝撃波を検討したのか。国際感覚が問われよう。

≪心配な輸出品への規制≫
 国内へのレベル7ショックも甚大だ。相次ぐ大きな余震だけでも国民の平常心は揺らいでいる。そこに原発事故の深刻化を誤解させかねない発表が追い打ちをかけることになった。
 東電以外の他電力の原発も運転継続が難しくなりつつある。首都圏や東北では、今夏に予想される電力不足の深刻化が心配だ。
 大量の放射性物質を飛散させたチェルノブイリ事故でも、白血病の増加は確認されていない。政府はその科学的事実の周知に力を注ぐべきである。チェルノブイリでの最も深刻な後遺症は、被災者の心的外傷後ストレス障害(PTSD)である。
 日本でもその予防に努めるべきときに、不安を肥大させるだけのレベル引き上げは、不用意の一言に尽きよう。原発周辺住民の退避問題についても、非常時における対外発表手法の改善が望まれる。今回の福島原発事故は、人災と天災の境界線上に位置するものである。日本の原子力発電の安全性回復に向けた努力を丁寧に世界に伝達していきたい。
 事故レベルの確定は、その後でもよかったはずである。



産経新聞の言う通りです。
政府は何故、今、レベル7と発表しなければならなかったのか理解に苦しみます。

今日は別の事を書くつもりだったのですが、ついこっちのレベル7について書くことにしました。


しかし、民主党と菅内閣とは本当にどうしようもない連中だ。
私は戦後最悪内閣は村山内閣と思っていたが、それを遥かに突き抜けて菅内閣がダントツ一位だ。
最早、菅直人とは日本の癌。


癌直人だ!!!





それでも原発推進論だ 1



今回話題になっていない柏崎刈羽発電所は820万キロワットの電力を作り出しています。柏崎刈羽原発は7号機運転を開始した時にカナダの某原発を抜いて世界一の原子力発電所になりました。
地震や津波による影響で一時は3100万キロワットにまで落ち込んだ発電量は、現在4100万キロワットにまで回復しているが、それは主として火力発電所が動き始めたからです。しかしその中にも柏崎刈羽発電所が作りだしている電力があるのです。
幸いにして今は春本番となり気温が上昇して暖房で使う電力があまり求められなくなったので計画停電は6月まで実施しないと東京電力は発表しています。でも計画停電を実施している最中でも我々電力ユーザーは「仕方が無い」と思いつつも、結構戸惑ったりしていたのです。
私は精密金属加工業に勤務していますが、空調機器が動かずに精密測定機が置いてある部屋の温度が変化すると、測定精度に影響が出てしまうので悩んだものです。
アルミを機械加工して、公差が5~1ミクロンなんて仕事をしています。鉄だと1.5ミクロンです。温度変化には気を使います。
実はこれ、○○○○に使う部品です。××××に影響があるので凄く公差厳しいです。
(プレスだけやっていた時代の方が気が楽でしたね。でもプレスじゃ食えませんからw)
こういう仕事だから、計画停電が1日に最大2回あるとなると仕事になりません。
部屋を暖めて、製品を温度に均している時間が過ぎると次の停電になってしまうからです。
日本はこういう精密な仕事で国民を食わせている業種って結構あるんじゃないでしょうか?
これがアルミの精錬となると死活問題でしょうねえ。


今、東電の福島第一原発のトラブルで感情論から原発を廃止せよという意見が多くなっているのは解ります。
しかし代替エネルギーをどうするのか?それは原発と比べて許容できる価格差なのか?という検討を抜きにした議論には賛成できません。



アメリカではスリーマイル島の残った原発二機を運転しています。それが冷静な判断というものでしょう。
そのアメリカも原発へ立ち戻らざるを得なくなっています。
ヨーロッパ、特にドイツでは原発全廃したまでは良かったが、ロスケから買う電力は政治的思惑に左右されて不安定だし、風力や太陽熱も当てにはならないという現実の壁にぶち当たり、原発回帰の政策が取られようとしています。ドイツは代替エネルギーや自然エネルギーの開発を数十年かけて真面目にやって、なおかつモノにならなかったのです。
フランスは電力の八割を原発で賄っていて、安価な電力がフランスの産業の強みになっているばかりか外国へ電力を売ってさえいます。


クリーンな?自然エネルギーから電力を取り出す研究を止めろと言っているのではありません。やったら良いと思っています。将来研究が進んで、それで電力を賄えるようになれば、その時には原発廃止も良いでしょう。
しかし、今の技術水準では日本が必要としている電力に対する原発の割合をそっくり代替する事は無理です。
なぜなら地熱や潮汐を除いては太陽熱の変形でありまして、エネルギー密度的に薄いからです。



水力発電は日本国内ではやり尽くされた観があります。
火力発電もまるっきりクリーンではありません。元々地球温暖化二酸化炭素犯人説を信じていませんので、温暖化を取り上げる心算はありません。しかしメキシコ湾の原油流出事故に見られるように、絶対の安全などこの世には無いのです。
火力が原油に頼っている内は、政治的に不安定な中東諸国の都合に振り回される宿命から逃れられないでしょう。
日本近海に相当量あるという「メタンハイドレード」を実用化でき、商業ベースに乗るようになれば中東産油国に振り回される事は無くなるでしょうが、それまでやっぱり時間がかかるのです。
そういう現実を無視して直ちに原発を全部止めろというのは暴論の類です。


現実的な手段は、原発の安全性を向上させつつ、代替エネルギーを探す他は無さそうです。


今回明らかになったのは、原発が全て危険だというのではありません。
現実に同様な津波に見舞われた女川原発は安全に停止し、原子炉も順調に冷却されています。
福島第二も破綻には至りませんでした。
福島第一は安全に停止しましたが、津波に対する想定が甘かったという事であります。
原発自体に問題があるのではなく、人間の想定に問題があったという事です。


今、計画では60機の原発を新設する事になっています。
(実は120機だったが半減している)
それらを民主党は見直すとか、無傷の福島第一5・6号機まで廃炉にするとかいう議論をしています。
二基で100万キロワットを唯捨てろと言っているのです。
まったくうつろい易い世論とやらに迎合するしか能の無い政治団体(俺は民主を政党とは思っていない)です。

この件に関しては自民党の谷垣総裁の方が冷静です。


いいですか?これは比較の問題なのです。
石炭や石油でも絶対安全ではありません。炭鉱で何人死んだかもう忘れてしまったのでしょうか?
支那の炭鉱では今でも人死にが絶えません。
石油開発でも死人は出ているのです。
メキシコ湾に見る如く環境に負荷を与え続けているのです。
対して、原発で何人死んだのでしょうか?炭坑や石油開発よりは少ないでしょう。
コストとの兼ね合いはどうなのでしょうか?
一キロワット当たりの発電コストはどうなっているのでしょうか?
そういう検討も何もしないで、ただ感情に走って「原発止めろ」などと喚き散らすのは、いい大人のすることではありません。





それでも原発推進論だ 2   と、サヨに担がれる小出先生?



それでも原発推進論だ 1」のまとめをします。


1.経済的な電力


フランスは電力の80%を原子力でまかなっているために、電力コストが安く、そのために強い競争力を得ている。一方他国では一時原子力を廃止したため、電力コストが上がりすぎ、その負担に耐えきれずに、また原子炉を見直すことになった。←ドイツ・アメリカ

2.ウランは入手し易い材料

日本は火力発電のために膨大な量の原油、LPG、石炭を買っている。しかし、価格が不安定であり、しかも近年高騰が続いている。原油は限られた国々に依存しているが、それらの国々は政情も不安定であり、このような化石燃料に頼ることはエネルギー源の確保という国家の根本的な安全にかかわる。ウラン燃料はすべて安定した先進国より購入しており、この心配がない。また近年、日本ではプルサーマル、増殖炉などウラン依存を減らす技術を開発しているし、グラフト重合という技術によって海水からのウランを採取できる目処が立っていて、今以上にウラン価格が上昇すると商業的にペイするようになる。

3.安全

ある研究によると、石油と石炭と原子力を比べた場合、1テラ・ワット・アワー当たり、石油では36人が死に、石炭では161人が死に、原子力では0.04人が死ぬ。今まで最悪の原発事故はチェルノブイリだが、直接死んだのは数十名、あとの健康被害も実のところその因果関係は証明されていない。
さらに現在主流の軽水炉型の原発では、チェルノブイリのような大事故が起こる確率はほぼありえない。

4.日本だけの原発廃止は意味がない。


一例として支那は絶対的なエネルギー不足から強力に原発推進をしている。沿岸部にも数多くあるが、もちろん、民意など関係がないから、日本が原発を廃止しても中国は安い電力を得て、日本に対する脅威となる。
しかも、日本は価格の高い電力を使わざるを得ないとすれば、国際的な競争力を削ぐことになるでしょう。
今までのような暮らしは出来なくなりますが、そういう覚悟があって原発廃止を言っているのでしょうか?
支那の原発が一度事故を起こせば、風下にある日本が最初に被害を受ける。現実に、中国が核実験を行っていたとき、日本は現在の数十倍もの汚染を受けた。1960年代には大気中の放射線量は現在の10000倍であった。

5.確立すべきは廃炉技術


 原子炉の、他とは違う問題は廃炉がやっかいだと言うことだ。しかし、燃料を抜き取り、あとは時間をかけて除洗をすれば、きちんと処理できる。ただし、時間がかかると言うことと、膨大な放射線汚染物質がたまると言うことだ。しかし、これも密閉系で消却し、化学処理をし、ガラスで封入して廃坑などに処理する方法が最も安全とされている(地層処分)。仮にそれらが地震などで壊れても天然ウランの放射線レベルを超える物ではない。
今、東海村では大規模な陽子加速器を作って、核廃棄物に陽子を吸収させ別の物質に作り変える研究が行われています。
これが上手くいけば高レベル放射性廃棄物をそうでないものに変えられるので、こういう研究こそもっと進めるべきです。
 
安全性で言えば、海溝などに沈めても全く影響はない。ただし、国際的にそれは認められてはいないが、実際旧ソ連などは、原潜の廃棄コストがかかるため、日本海などにそのまま廃棄していた。
 

原発は、日本が復興するためにも他に選択の余地がない手段です。10年、20年後、もし代替技術が確立したなら、その時は全廃すればよいだろう。だが、今は出来ない。ほとんど無傷の福島第一原発、5,6号機を廃棄して、合計100万キロワットを捨てるのか。単に一時の感情でそんなことをして良いのか。どうせ、民主党は責任など取らない。


何も私は原発が理想のエネルギー源といっているのではない。だが、現在では、最も安全で低コストのエネルギー源だと言っているのだ。

そもそも、反原発論にはきわめて感情論の側面が大きい。それは原発=核兵器のようなイメージがあるのではないのか。また放射線に対する盲目的な恐怖がそれを増幅させているといえる。
事実、下記の様な動画もある。

福島第一原発事故:再臨界:小出裕章 2011.4.5


見ていくと解るが、原発の話をしている時に原子爆弾の映像が挿入されている。
原発は民生用の電気を作る為の施設である。対して原子爆弾とは物を破壊し人員を殺傷するための道具である。
それを一緒くたにしている事にある種の・・・というか明確な底意を感じるのです。
これを見て原発は大変なものだ、止めるべきだと思う人は、次の様に言われたら肯定するのだろうか?

「通常兵器に使われる火薬は急激な酸化作用(酸素と結び付いて熱を出して膨張する)を用いて人を殺したり物を破壊したりする。酸化作用を用いて熱を取り出すという点では火力発電と同じである。だから火力発電は止めるべきである」

まさか肯定する人はいないだろうと思うが、それと同じ事を冷静では無くなった人々が原発に対して言っているのであります。

そして、熱線による火傷である筈なのに、「外部被曝」というキャプションが入っている。
外部被曝も大量に浴びれば火傷の様な症状を呈するが、あのような部分的な火傷は明確に熱線によるものです。

この動画は恐らくサヨクに連なる連中が、原発の危険性を煽るために作って流しているのでしょう。
でなければ、原発と原爆を混同するが如き映像を作る筈が無いのです。

憐れ小出裕章先生はサヨクに担がれている事にお気づきではありません。
(それとも腐れサヨ???)


もしも、今、一時的な感情に流されて、原発を全て止めたりすれば電力は不足する。
それが復興の足を引っ張る事にならないと誰が言えるか?
復興の原動力は産業の振興や復活である。
電力不足によって復興できない事態になれば、そっちの方が津波を上回るクライシスだとは思わないのか?


もっと冷静になって考えましょう。





「私の日本憲法論」の続きとその他  サイタニさんのブログより転載 

2011年04月15日 03時08分00秒 | 現代日本
yahooブログ「サイタニのブログ」はいつも独特の視点でズバリと遠慮なく書かれていますが、今回も2つの記事を続けて転載したいと思います。菅総理に関する批判は、いろいろありますが、菅総理を日本の総理大臣に選ぶことになった我々国民の責任、あるいはそうした制度の欠陥というものも指摘されています。これは今の憲法から来る欠陥でもあるような気がします。

転載開始



死に急ぐ韓国の超エリートたち猛烈競争社会が生み出した悲劇


ノーベル賞級科学者の輩出を目指したエリート科学大学で知られるKAIST(カイスト=韓国科学技術院=Korea Advanced Institute of Science and Technology)で、今年に入って学生や教授が相次いで自殺するという悲劇が起きている。自殺防止のために転落防止柵を設けたソウルの地下鉄。地下鉄への飛び込み自殺は減ったが漢江への飛び込み自殺は増えている〔AFPBB N...[続きを読む]




■韓国の事を知らない私が批評するのは気がひけるが、テレビで見ていて
気になっていたので一言、超エリートを作ろうとしているようだが、何でもそうだが、超がつくエリートは努力も必要だが資質の問題と思うのである。
長島、王、石川遼、みたいなのは生まれつきの超天才でそれに努力が
あったからだと思うのである。
それともう一つが、韓国の大統領は辞任すると必ず刑務所行きか、自殺するようだが、も韓国人だから能力も無く、これだけ嫌われているのにまだ総理の椅子にしがみついている。
そのようなところが韓国大統領が刑務所行きか自殺かにつながっているのかな、と思うこの頃である。
菅も韓国人DNAが影響しているのであろうかと思うのである。
尚、岡田も小沢も同じ韓国人である。


いつも言うのであるが、日本の国会議員は日本国の繁栄の為に働く人が
なるのが当たり前と思うのであるが、
反日・左翼の日本を崩壊しようと
している
韓国人、外国人が何故国会議員になれるのか?


それも総理大臣に政権の幹事長である。

私は彼らがおかしいのではなく、日本人がおかしいと思うのである。
アメリカは共産思想の人間、直系に一人でもあれば永住権は取れないのである。
自分の家に強盗を入れて、床の間に座らせて強盗に自分の家を
まかせているのと同じである。


本来ならムシロ旗もって国会にデモするのが当たり前と思うが、日本人の
国会議員も国民も何も言わないのである。
震災にあわれた方には申し訳ないが、
やはりこれは日本人に対する天罰である。


話は変わるが今、聞いた話だが、中国人の一アルバイト店員が中国から
放射能による召喚命令で一時帰国していたと聞いたが、一中国人まで
償還命令出すとは?中国と言う国は不気味な国である。それに較べて
わが同胞はノンビリしたものだ。





   連載  「私の日本憲法論」
    日本国憲法の背景となる哲学



現行憲法が生み出した色々の社会不祥事

だから幾ら人間を尊重する憲法であると言っても根本的に人間をセックスから産まれて来たところのそう云う低い次元に於ける唯物論的人間として認めているのでありますから、本当に人間の尊厳と云うものを認めている憲法ではないのであります。

だからセックスの快楽のみが重んじられて、その結果生じたところの胎児は堕胎してもよいという法律がこの憲法を背景に出来ているのであります。更に現憲法には団体争議権と云うものが認められております。大変便利なようでありますけれども結局赤い思想の人達がこの憲法の条項を利用して革命準備演習をするのを停めることが出来ないように作られているのです。


で、毎年の定期闘争の如く、総評議長の命令一下、忽ち日本の大動脈であるところの国鉄(JR)を全部止め得るところの権利を持っている訳なのであります。
で、何千万人の国民の足が奪われて、国民がどんなに迷惑を蒙っても「我々働く者がもっと多く給料を貰いたければ、闘争して国民の足ぐらい止まってもいいじゃないか。「儂のふところさえ肥えればいいのである」という利己的な餓鬼道的な人間の物質的欲望の上に更に欲望を飽くなく追求して闘う煩悩を正しいとして基本人権として肯定しているのが現憲法であります。


これは結局癌細胞が、「儂さえ増殖して肥えれば全体としての肉体が弱って行こうがどうでもいいじゃないか」と言って愈々(いよいよ)増殖して行くようなものであり、そう云う考えが現憲法の奥にあると考えられるのであります。

ところで、全てのものが「心の世界」に始まり、その「心の世界」に在るものが「形の世界」に映って来るという点から言いますと、これから申すことは、皆さんがお聞きになると少し飛躍的だとお考えになるかも知れませんが、戦後癌が日本人の死亡統計の第三位に伸し上がって来て、それで皆が癌の恐怖で震え上がっているのは、「心の世界」に癌細胞のような「自分さえ膨れ上がって増殖したならば国民全体が幾ら迷惑してもいいじゃないか」と言うような政治理念があって、それが日本国全体を蔽っているので、その精神的影響が個人個人の肉体の上に影響を及ぼして来ているのであると思うのであります。


全て心の世界に在るものが形に現われて来るのでありますから。 或るいは交通事故対策というようなことが盛んに唱えられても、ジャリトラックが無暗に積載量以上のジャリを積んで走り回ったり、人を轢(ひ)いて何とも思わないというのも、結局は「自分さえ肥えれば自分の収入さえ増えればよいのである」というような唯物論的考えから来ているのでありまして、現憲法が唯物論的哲学により成り立っているものですから、そのようになってしまっていると思うのであります。

青少年の非行化ということも問題になっておりますが、現憲法には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」というように定められている一方、表現の自由、言論の自由ということが保障されております。戦中或いは戦前においては一寸猥褻な文章が一行でもあるとそこを削除しなければ発売禁止になったのでありましたけれども、近頃の大抵の小説は何処かに赤裸々に女性肉体を露出さして、そして猥褻な行為をするような描写がこと細かに書いてあるが、それを押さえることが出来ない。それを押さえたら憲法違反であるということになるのであります。


即ちそういう猥褻な状態を見たり読んだりすることが個人の幸福であるということであれば、肉体民主主義の憲法でありますからそれを止めることが出来ないという事になっている訳なのであります。又映画におきましても、非常に際どい猥褻なベッドシーンを見せているのが現状です。映倫で検閲してはいるものの、その表現を押さえたら憲法違反になりますから根本的に押さえることが出来ない。公共の福祉に反していけないというので少し生温く押さえているという事なのであります。


ところで近頃の少年は栄養が良くなったので十五歳位でもお父さんよりも余程丈が高いような子供が沢山おります。ですから十八歳以上でないと見られないというような成人映画でも、自由に入って見られる訳なのであります。そして性欲が興奮する。その上、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」と憲法で決められてあるのですから、どうしても日本の少年青年の非行化を止めようと思っても止めることは出来ない。その上そのような非行によって妊娠した子供に対しては責任をもたないで堕胎すればよろしいという法律になっているのは現憲法が肉体民主主義憲法であるからでありまして、


現憲法をこのままに保存して置く限り日本国民の道徳生活というものは益々低下するより仕方がないと思うのであります。




:キリスト教は堕胎を禁止しているところが多いので、一時外国から日本に観光(堕胎目的)でたくさん来て、あの、マザーテレサが羽田に降り立った時、日本の空は水子の涙で覆われているといったぐらい酷かったのであります。今の少子化はその後遺症もあるかもしれません。



M8級、早ければ1か月内に・・・来るか?来ないかは国民次第!



震源域東側でM8級、早ければ1か月内…専門家
 東日本大震災の震源域の東側で、マグニチュード(M)8級の巨大地震が発生する可能性が高いとして、複数の研究機関が分析を進めている。(読売新聞)
[記事全文]


  ■ M8規模の地震が1ヶ月以内に来るようである。
  それは天が日本国民に目を覚ませという警告と思う。
  気づけば来ないが!気づかなければ来るであろう。



  ■ 今日本人は
  自分の家に強盗(反日・左翼韓国人菅・岡田・小沢・反日民主党)
  入って国家崩壊の運営をしているのにそれに疑問をもたない
でいる。
  これを読んでおられる方は同志である皆に知らせて欲しい。









    連載  「私の日本憲法論」
    日本国憲法の背景となる哲学



明治憲法に復元せよ

社会党(現民主党)或いは共産党の人達が現憲法を守る、即ち、護憲派に
廻っておりますのは、決して永遠に現憲法を維持したいというのでない
のは明らかであります。



今の憲法は、革命運動をどんなに推し進めてもそれを止めることが出来ないように作られていて思想の自由、表現の自由及び団体でいくら争議してもよいという団体争議権というものを認めている。だから国民政府を樹立する迄、現憲法を護っておくということは、結局革命準備の為の憲法を保存しておくということになるので運動するのに大変便利である。だから革命が成就するまでそれを保存しておきたいというのであって、彼らは実際に何時までもそれを保存したい、いつまでも象徴としてだけの天皇でも保存したいというような気持は決してないのであります。

社会党の奉ずる社会主義理論から言っても社会主義政権のもとにおいては天皇制は両立しないということになるのであります。ですから結局今の国会の議席が半数以上を社会党或いは共産党その他革新派の政党の人達によって占められるという事になりましたならば、国民の総意によって天皇の地位というものは廃せられてしまい、そして天皇制なき新たなる社会主義憲法がそこに作られるということになる危険を著しく孕んでいるのであります。


革命と云うものは、そんなに大勢の革命の闘士を必要としないのであります。私はソ連の革命の映画を見たことがありますが、ごく僅かの人間が武器を持って蜂起して、それがもとにになって革命が成就している。例えば日本でももし、1970年にこれはもしでありますけれども、或る外国からこの革命を企画する或る団体のメンバーに何千挺かの武器が供給されて、そして革命の闘士が立ち上がって内閣を占領し大臣を軟禁して、放送局、新聞社を占領して「革命政府は樹立された。今迄の政府が革命政府に政権を譲り渡した」と云うことを、新聞、ラジオ、テレビ等によって報道すれば忽ち革命がそこに成就してしまう倶れがある。

特に日本の国では思想的に、今の天皇制に対して反発を感ずるような教育日教組の教育によって行われているのであります。「あの恥ずべき大東亜戦争を起こしたそんな天皇制は無くなる方がいいじゃないか」と云うようなことがもう準備教育として日教組によって行われ、多くの若い層の国民は革命を悦んで素直に受け入れる精神的素地が出来ているのでありますから、僅かな人数が武器を持って蜂起したら自由に革命は成就してしまう倶れがあると私は思うのであります。

その場合に、現憲法では自衛隊と云うものは総理大臣の指揮下にありますから、革命新政府が出来てその総理大臣が出来たら自衛隊は革命軍の指揮下にある軍隊になる訳でありまして非常な危険を孕んでいる。時の政府の支配下にあると云うことになれば、共産党政府になったり社会党政府になったらその支配下に自衛隊は入ってしまいますから、日本を護る軍隊ではなくて革命軍に味方する軍隊になると云う恐れが非常にあると思うのであります。


そう云う場合に、もう東京都内は新政府の出現した中心地なのですから都内の自衛隊はすぐに革命政府の指揮下に入ってしまう。地方の自衛隊の中には天皇制に憧れ、天皇国家に郷愁を持っていて、新政府の革命軍と戦おうと思って上京して来ると致しましても、、私鉄総連の委員長の命令一下、私鉄も止まっているとしますと、徒歩の部隊は間に合わないで僅かに戦車が上京して来るぐらいである。


続く



:今現に総理大臣は反日・左翼韓国人菅であるし政権の幹事長も反日・左翼韓国人岡田である。民主党の中心は元社会党で握られている。中国の新聞社はすでに朝日新聞社の中にあるのである。中国人が召喚命令で中国に帰ってきたと言うのも、日本国内であの長野のオリンピックで中国人が起こした騒動見たいな事を考えているのではと思うのである。

転載終わり


放射線の真実 『似非科学はその真偽の追及を阻止して同意を求める』 カール・セーガン 

2011年04月14日 02時13分54秒 | 現代日本
 yahooブログ「核武装講座」からの転載です。放射線に関しての目からウロコの内容です。この記事は3つの記事をまとめたものです。特にその2では以前紹介した稲先生の低線量率放射線効果と同じく、低線量の被爆は体に良いという統計結果が示されています。その3ではその理由が書かれています。このとおりだとすると、政府の野菜や牛乳の出荷制限、あるいは広い範囲の避難移動は、ほんとうに必要であったのかが問われるところです。


転載開始

その1

1986年のチェルノブイリ原発事故では大規模な放射能汚染が起こった。
それから4年後の日ソ放射線影響研究講演会でソ連医学アカデミー副総裁レオニード・イリインとソ連放射線医学全ソ連科学センター所長のアナトリー・ロマネンコは「住民の将来の健康に配慮して、生涯被曝が35レム(概ね350ミリシーベルト)を越える汚染地域の住民は、きれいな地域に移動させる」と発表したが、誰からも反対意見はなかった。
「放射線障害には閾値がなく、微量な放射線でも危険だ」という考えの学者や医者からもである。
両氏の発表は「生涯で350ミリシーベルト以下の放射線被曝は安全だ」という内容なのだが、誰も反対する根拠を持っていなかった。

放射線被曝にはある一定の閾値があるそうだ。


チェルノブイリ事故ではキエフ市内でパニックが起こった。
妊娠中の女性が被曝によって胎児に奇形が起こると思い込んで中絶に走ったのだ。
ハンガリーに脱出したある女性は、ブタペストで放射能汚染の検診を受けた。甲状腺にGMカウンターを近づけると、針が大きく触れた。そこの先生は、「これくらいなら胎児に影響は無い」と女性に話したが、結局彼女は中絶してしまった。
甲状腺にはヨーソ131が集まるのですが、そこにカウンターを近づければ針が触れるのは当たり前なのです。
しかし、ヨーソは甲状腺に集まるが故に、胎児への影響は少なかったのです。
診察した先生はそれを新聞に発表しようか迷ったそうですが、発表するのは止めました。なぜならそれを載せると読者は「チェルノブイリは怖いのだ」と逆に解釈すると思ったからだそうです。
その先生の判断は正しかったのです。
ハンガリーでは事故から二ヶ月後に生まれた新生児の体重が少なくなる現象がありました。母親が放射線の影響に怯え、ストレスを溜めた結果である。
ハンガリーは新生児の健康に関して優れた管理制度を敷いている。ハンガリーに飛来した放射線量は0.01ラド(10mグレイ)でしかなかったからだ。

ギリシャではチェルノブイリの恐怖に怯えた母親が、中絶したケースが数千あった。全欧州では十万人以上が堕胎したと言われている。

ソ連では事故の後、放射能除去作業に25ラドを限度として軍隊が動員された。その後暫くして病気になった人が「放射線の影響で不治の病になった」と悲観して自殺する人が増えた。



(上記はチェルノブイリの時の風評被害です。野菜や牛乳の不買と違って、こちらは胎児が殺されたり、自殺者が出たりと言う深刻な事態に発展したのです。今一生懸命放射線の脅威を煽っているマスゴミ・似非学者・売らんかな売らんかなの似非ジャーナリストは、堕胎や自殺者が出た時の責任をどう取る心算なのでしょうか?)



チェルノブイリ事故直後、再興の放射能を示した降下物は放射性ヨーソであった。しかしその放射能の強さは八日で半減し、16日で1/4になり、二ヶ月後には殆ど消え去った。
その後の主役は放射性セシウムである。これは30年経たないと放射能が半減しない。
「これに汚染された野菜や肉を食べると、体内が30年間も放射能で汚染される」
これは素人を脅かすのに良く使われる作り話である。
常識として知られているように、飲食物に含まれる元素は体内に取り込まれても、暫くたつと大部分は体外に排出される。セシウムも例外ではない。ハンガリーでの測定結果はチェルノブイリ事故直後に急増し300日後に最高になり、一年後からは漸減した。
死の灰も、必須ミネラルとして毎日摂取しているカリウムも放射能は同じものです。違いがあるとすれば、放射線量です。
これは当たり前だと思うかも知れませんが、次の事実を良く考えてみてください。
政府の通達で食品の放射能が1kgあたり370ベクレル以上の時はその輸入が禁止されています。
ある真面目な業者が1kgあたり37ベクレルの食品は販売しない方針をとった。これは正しい情報を教えないで買い手の艦上に訴える販売方針であり、理性を大事にする社会のルールに反している。
なぜなら、我々の体内には3000ベクレルの放射性カリウムが自然にある事を教えれば、理性のある人は、自然量の数%の放射能含有食品を気にしないと思うからである。


(講談社 ブルーバックス 人はなぜ放射線に弱いか p212~p218の要約)


著者の近藤宗平氏は1922年生まれ、京都大学理学部卒。大阪大学医学部放射線基礎医学教授・近畿大学原子力研究所教授を経て大阪大学名誉教授。物理学から遺伝学・基礎医学に転進し国際的に活躍されています。

近藤先生は
「放射能恐怖症を煽るマスコミの誇大報道のせいというのもあるだろうが、どんな低線量でも有害だという間違った知識が世間一般の常識になっていることをマスコミは誇大に表現している。低線量被曝の実際を解り易く被曝した住民に伝える努力を怠って来た学者に罪がある」
と述べています。
そうかも知れません。
しかし、危ないぞ!もうダメだという恐怖を煽った方が新聞や雑誌が売れ、テレビも視聴率が稼げるので、その為には事実なんかどうでも良いというマスゴミの罪は軽くは無いと思います。

近藤先生はチェルノブイリを取材したジャーナリスト広河隆一やNHKについても触れていますが、取材の意図がどの辺に遭ったかは分からないが(解っているくせにw)、危険地帯に残った人達が生き生きとしているのに感銘を受けたと書いています。

しかしこの番組『埋葬される村々』で、犬HKは冒頭で「広島原爆の800倍の放射能を出した事故」と脅かしをかけています。



これを似非科学と言わずして何と言うのでしょう?


http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20110321-00000004-nnn-soci

出荷規制、21日中に判断~枝野官房長官
日本テレビ系(NNN) 3月21日(月)1時31分配信
 食品衛生法の暫定規制値を超える放射性物質が検出されたホウレンソウなどが見つかった問題で、枝野官房長官は20日、出荷規制するかどうか21日中に判断する考えを明らかにした。

 枝野官房長官「茨城県内の検査でホウレンソウ1件から、福島県において4か所の原乳から暫定規制値を超える数値が検出された。一定地域における摂取制限や、出荷規制が必要か否か明日(21日)中に結論を出したい」

 枝野官房長官は、今回、暫定規制値を超える数値が検出された原乳については「まだ出荷されていない」としている他、いずれも「直ちに健康に影響を及ぼすとは考えられない」として冷静な対応を求めている。

千葉で女の子が死にかけた支那の毒餃子を放置したのに、健康に影響を及ぼさない農産物?
まさか流通を止める事はないでしょうねえ。
政治家のみなさんw



その2

支那の広東省陽江県には、自然放射能が高いところがあります。
こういう地域は世界中に幾つかあって、ブラジルの某海岸などもそうです。この海岸は健康に良いとして多くの人が訪れています。
支那のその地域では、70歳までの生涯被曝線量が平均38レム(380ミリシーベルト)で、その幅は35~52レムです。ソ連の基準を用いると全員避難しなければなりません。
支那の放射線専門家は避難など考えていません。それは支那が知っての通り非人道的一党独裁国家であるのとは無関係です。支那の放射線専門家の調査によって、住民の健康状態は放射線レベルが普通の地区の住民よりも却って良い事が最近解ったからです。

対象地域は以下の地域である。



海南島のちょっと北側、ベトナムとの国境近くですね。対照地域(普通の地域)には私の会社の支那工場があるので、社長に頼んで工場移して貰いましょうかw
南シナ海を南中国海と書かれているのは笑っちゃいますね。

宇宙線を含んだ外部γ線による年間被ばく線量は高放射線地区で0.21ラド。対照地域は0.07ラドです。
線量計を個人ごとにつけて貰って、個人別の被曝線量も測定された。それはかなりの幅を持っているが両地区で重なる事はない。
体内に摂取された自然放射性元素(例えばカリウム40やラドン崩壊産物)による被曝量は、体外γ線による被曝量よりも多い。
一年間に受ける被曝量は高放射線地区で0.55レム、対照地域で0.21レムでした。
調査は両地域に二世代以上住んでいる漢民族系住民を対象に行われました。
両地区から8万人が対象になっています。



もう面倒くさくなったので、以下の計算式で換算してくださいw
1グレイ=100センチグレイ=100ラド
1シーベルト=100センチシーベルト=100レム


この結果には以下の通りです。



この調査によると、高放射線地域の方が対照地区よりも僅かに年間平均癌死亡率が低い。
統計的にこの程度の揺らぎは考えられるとしても、高放射線地域と対照地域では顕著な差は見られなかったという事であります。
これは「低線量被曝は体に何の影響も無い」という証明です。
支那の放射線専門家は追跡調査を続けると言っているそうですから、続報を待ちましょう。


で、「お前は普段から支那の統計など出鱈目だ」と言っていたのではないか?と反論されそうなので、そういう疑り深い方の為に(科学的な方と言い換えても良いw)もう一つデータをだします。
此方は日本のデータです。

此方は長崎原爆に被爆した人とそうでない人との差を、被曝後30年経ってから追跡調査したデータです。
被爆者とは被爆者手帳を持っている人です。被爆者手帳は被曝当時その場にいたか1週間以内に現場に入った人で、二人以上の証人が居て交付されますから、客観性は保証されているでしょう。



50歳までは被曝した人としなかった人に差がありません。
しかし、それを越えると被曝した人の方が寿命が長いという結果が出ているのです。
被曝した人はしなかった人よりも健康に気をつけるので、却って寿命が長くなったのでしょうか?

つぎに以下の様なデータがあります。
1979年にドイツで放射線の『ホルミシス効果』が発表されました。ホルミシス効果とは、放射線が人のホルモンのように作用する効果です。
長崎大学原爆医療センターでは、この効果に着目し、被爆者手帳を持っている人達の間で被曝量が適当に増えると死亡率が減る傾向があるかどうかを調べました。



これを見ると、被爆者の中でも5~100ラドの全死亡数は被曝していない人よりも10%少ない事が解った。
しかし10%という数字は統計的な揺らぎかもしれないので、がん以外の全死因との関係を調べると30%くらい低くなっている。30%という数字は最早揺らぎではない。
そしてこれを癌だけで比較すると、流石に被曝しなかった人よりも多くなるが、注目すベきは、
1~49ラドの低線量を被曝した人は明らかに低かったのです。
これは放射線被曝には閾値がある事の証明であります。
低線量被曝はむしろ体に良いという結果になるかも知れません。
事実、日本にはラドン温泉なる物があり、多くの人が体に良いとして好んで入浴しております。
山陰には三朝温泉、山梨には増富温泉があります。長野県には馬羅尾天狗岩温泉(大町市)という弱放射能泉があり、私もスキー帰りなどに偶に入浴します。
好んで放射線を被曝しているんですけど私は健康です。
大回転なんかやっていられるほど健康ですぜw



ということで、茨城や福島の農産物の放射線なんか問題はないのです。
政府や茨城県は「問題無い」というのならば市場に出すべきです。
「王様は裸だ」と見抜く賢い消費者かどうか解ろうというものです。
私が美味しく頂きます。



http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20110320-00000024-jnn-soci

茨城産ホウレンソウ、出荷自粛で農家困惑
TBS系(JNN) 3月20日(日)12時36分配信
 茨城県によりますと19日、福島県に近い茨城県北部の高萩市や日立市などで収穫されたホウレンソウから最大1万5000ベクレルの放射性ヨウ素が検出されたのに続き、20日、福島県との県境にある北茨城市のホウレンソウから2万4000ベクレルの放射性ヨウ素が検出されました。これは、国が定める暫定規制値(2000ベクレル)の12倍にあたります。また、規制値(500ベクレル)を上回る690ベクレルの放射性セシウムも検出されました。

 茨城県は安全が確認されるまで、県内で収穫された全てのホウレンソウの出荷を自粛するよう、県内の自治体や農協に対し要請しており、高萩市内の農協では20日朝からホウレンソウの販売を取り止めています。

 「人体に影響がないとはいえ、消費者は食べない方向にいくのでは」(JA茨城ひたち 大越 實 代表理事組合長)
 「農家の人は大打撃ですよね。全部の野菜に及ばなければいいのですが」(販売員)

 また、神栖市のピーマンや八千代町のレタスからも規制値の40分の1程度にあたる、ごく微量の放射性ヨウ素が検出されました。

 茨城県の橋本知事は、今回、放射性物質が検出されたホウレンソウについて、仮に1年間、毎日15グラムずつ食べたとしても健康に害はないとしています。(20日13:46)


その3

前回までは放射線被曝には閾値が存在する、そこまでは安全である証拠を書きました。

今回は何故そうなるのかを書きます。



何らかの核種が体内に入り、細胞を被曝させる模式図です。
β線は平均して50万電子ボルトのエネルギーを持っています。β線は250個の細胞をこの様にして被曝させて最後には力尽きて消滅します。
細胞内では電離と言って、暴走する電子によって分子から電子がもぎ取られて正の電気を持つ分子と負の電気を持つ電子に分けられてしまいます。
このようなイベントが細胞内で起こると、その中の水から活性酸素が作られて、それが遺伝子に傷をつけるそうです。
放射線が怖いのは、DNAに傷をつけ、それが癌になったりするからです。

しかし、そのままではあらゆる生物は生きてはいけません。そのために、対抗手段が用意されています。
DNAに傷を受けると修復酵素が働いて、その損傷を高い確率で修復する能力をもっていることはよく知られています。遺伝子の本体をなすDNAは、デオキシリボヌクレオチドの重合体で、リン酸と糖(デオキシリボース)からできた2本の鎖があり、それぞれから塩基(アデニン、グアニン<G>、チミン<T>、シトシン<C>)が突き出して2本の鎖を結びつけ、二重らせん構造をしています。しかも、この4種類の塩基は、かならず「AとT」「CとG」がペアになる仕組みになっています。



DNAの傷は、一本だけ切断される場合、塩基が壊される場合、二本の鎖が切断される場合とありますが、まえ二つは99.99%修復されます。後の一つは難しくて確率90%くらいらしいです。
しかし、そうなっても大丈夫なように、P53たんぱく質という物を予め持っています。
このたんぱく質がDNAの傷を見逃さず、細胞を自爆(アポトーシス)させます。
こうして不良細胞を体から除去するわけです。
微量な放射線被曝(温泉とか健康に影響の出ない範囲の被曝)はこのP53たんぱく質を活性化させるので、放射線被曝には閾値が出来るのだそうです。

その閾値は200~250mSyと言われています。


今回の原発騒動でも、一般の人達には全然問題ないレベルです。
勿論、過度の被曝は細胞の大量死、又は癌化を誘発します。P53たんぱく質も手が回らなくなるのです。

このP53たんぱく質にも弱点があって、近藤宗平先生によると、心配し過ぎなどのストレスが溜まると、正常に働かないばかりか健康な細胞をも自爆させてしまう事があって、病気を作り出す事もあるそうです。
福島の野菜程度で騒ぎまくったり心配したりする人達は、
自らP53たんぱく質の働きを弱めているのです。



近藤宗平先生は、
日本人は世界の常識を超えて放射線を怖がり過ぎている。放射線は微量でも危険だという証拠は無い事を政府は国民に知らせないでいる。
政府の放射線規制の行きすぎの弊害と無駄遣いが少なくないので、正しく放射線に対する理解を広めるように教育をしなければならない。
そうすれば若い世代が日本のエネルギー問題の自主的解決のために貢献しようという気になってくれるものと期待できる。
と述べています。

私もそう思います。
広島や長崎の原爆資料館などは、ひたすら放射線は怖い~怖い~と煽るだけで、真実を伝えていません。
日本を弱体化させ、何時かは隣のアカい国に売り渡し、その節はチョットだけ良い地位を与えられたいと願う、売国サヨクが政府や自治体に入り込んでいるからでしょう。


アカい悪魔に騙されないようにしましょう。



転載終わり


「天罰」と「心の復興」

2011年04月13日 14時34分53秒 | 現代日本

日本の美田

 yahooブログさくらの花びらさんの「日本人よ、誇りを持とう」で、すばらしい記事がありました。私はこの記事を読んで、大変感動しました。日本人として、戦後日本人が失ってきたものを思うたびに時には涙が出そうな気分になる時もありましたが、似たような思いが、この天罰という石原発言をきっかけに述べられていました。また失ったと思ったそうした日本人らしさが、日本人の奥底にはしっかりとDNAとして残っていたということも言っておられます。
 この震災以来、私も今の日本の現状を見ると、この震災が天罰のように感じることがありましたが、天罰という言葉は、被災者の皆さんを傷つけるようで、といっても決して被災者が天罰を受けたとは思わないのですが、何か不謹慎な気がして言えませんでした。しかし、このさくらの花びらさんの記事は、そうした私の中でモヤモヤと整理しきれていない思いを、明快にはっきりと言ってくださったようで、とても共感しました。
 先日、石原都知事の天罰発言がマスコミに非難されていましたが、「正論」誌上でも曾野綾子さんと金美齢さんの対談で、石原都知事の発言は間違っていないと二人がおっしゃっていました。石原都知事は何も被災者=天罰、とはいっていないのであり、天罰に価するのは、今の日本の現状であり、例えば親が死んでも届け出ることもなく、年金を受け取り続けるだの、そういう利己的な行いが多くなった日本人の生き方、またこの民主政権の天皇陛下を蔑ろにする態度や尖閣問題などで示された卑屈な外交姿勢など、そういうものを指していっているのだと思われるからです。天罰という言葉で、いかにも被災者をさして行ったかのように印象操作をするマスコミの姿勢こそ、まさに天罰に価するものの一部ではという気がします。




転載開始

大きな地鳴りとともに、いきなり「ドン!」、と揺れたと思うと、
続けざまに大きく揺れ出して、数十秒、あるいは数分、と揺れが続く。

このような余震といわれる震度5強や6弱の大きな地震が今も続いています。
大きな地震の後はしばらく地面が常に揺られている状態で、
その後も震度4の地震は当たり前のように何度もやってきます。

3月11日からちょうど1ヶ月後の4月11日にも大きな地震がありました。
すかさず携帯で社員の安否を確認しても規制がかけられて繋がりません。
今回の地震で一番不信に思うのは携帯が全く繋がらなくなることです。
これでは緊急の肝心な時に全く役に立たない。

携帯の「緊急地震速報」もびっくりするほど大きく鳴りますがほとんどが地震の方が先にきています。
緊急時には携帯は全く役に立たないのだ。
こういう時にこそきちんと繋がっていれば、きっと多くの命も助けられたのだろうと思います。
ここはぜひ改善してもらいたいところです。
・・・

東京都知事に再選された石原都知事。

初登庁も防災服姿となったことに、
「政府の方は着替えちゃったけど、まだそんな心境じゃない。
原発がラチがあかないのによくまあ、背広でネクタイしてられるねえ」

「パチンコなんてあんまり高尚な遊びと思わないが、電力を消費しているのは滑稽。
社会全体で反省したほうがいいんじゃないか」

統一地方選で惨敗した民主党については
「しようがないでしょうなあ。未熟な人たちの集まりだから。目をそむけたくなるところありますなあ」


さて、その石原都知事、東日本大震災直後に「天罰」発言がありました。

「津波をうまく利用して、我欲を1回洗い落す必要がある。
積年たまった日本人の心のアカをね。
これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々かわいそうですよ・・・」


のちに石原知事は謝罪と撤回をしたこの「天罰」という言葉。
この言葉には非難する国民が多かったのでしょう。
もちろん、家族を失い、家を失い、財産を失い、仕事も失った、
多くの被災者の方たちのことを思えば、そのことをもって天罰と言うのは許されません。

しかし、私はこの言葉を始めに聞いた時にはそうは受け取りませんでした。
これは被災者に対して言った言葉ではなく、
堕落した日本、他国に国を売ろうとする腐敗した政府、
自分勝手で行き過ぎた個人主義・利己主義な国民、
自由や権利ばかり主張して義務を果たそうとしない国民、
死んだ親を放置して自分はのうのうと親の年金を受け取る人たち、
お国のために散華された靖国の英霊たちに感謝の気持ちすらない国の在り方、
食べられるものを平気で捨て、「もったいない」という言葉も使わなくなり、
豊かさが怠け者を生んだような如く、
それらに対して大和の国を築き上げてきた祖先や神々が怒った、のかもしれない。
こういう意味において天罰だと言っていると感じました。
だからこそ都知事は被害に遭われた被災者の方々はかわいそうだと言っているのではないか。

私が思うのは、この「天罰」という言葉を直接にしかとれないほど、
日本人の心は麻痺しているのかと感じたことです。
特に都知事に対しての記者たちの質問も「天罰=被災者」という質問しか出てこない。
何を言わせたいのか?と思うくらいに。
本当に聞いていて情けない。
都知事の言葉の本当の意味するところがわからないのだ。
日本人はそこまで病んでいたのかと思う。

こういうことも含めて、
ここは天罰として日本の国土を破壊して、産業も経済も壊して、
「日本人よ、しっかりせよ。君たちの先人たちの精神、日本の心を取り戻せ」
と言っている気がする。
そして、大きな災害を与えて「今一度出直せ」と言われている気もする。
石原都知事が言わんとするのはこういうことではないか。

震災後、日本人の多くのことが世界でも評価されました。
日本人は素晴らしい国民だ、と。

これは日本人のどこからきていることだろう? かと、
ここを追求した報道も記事も見当たらない。

日本人の内に秘めた精神、心、その自己犠牲。
これは何なんだ?
どこからきてるのだ?
これこそ戦後失ってきたものなのでしょう。

1945年12月の「神道指令」。
この「神道指令」を読めば戦前から変わった戦後日本の在り方がよくわかります。

戦後長い時間をかけて破壊されたはずの日本の精神でしたが、
日本人のDNAまでは変えることは出来なかったのです。

歴史にしろ、靖国にしろ、軍隊にしろ、皇室にしろ、そして日本人の心にしろ、
戦後、日本人は大事なもの、大切なものに目をつぶって、
繁栄や豊かさを優先させて、ついには自分さえよければいい、楽しければいい、と
快楽と堕落と自己中心で恥も外聞もなく、
自分のことしか考えない思いやりも他人の痛みもわからない日本人となってきたのかもしれない。

しかし、今回の大震災で日本人を堕落させてきた在り方を変えて、
本来の日本を戻す機会を与えて頂いたのだ。
私はそう考えたい。

日本の国民性は利己的な個人主義は元来少ないものです。
これこそ戦前に日本が独立を保つことが出来た優位性でありました。

日本人は自分のことを考える前に国家を思い、天皇を思い、恥を知り、
悲しみに耐え、苦しみを忍ぶ国民であった。

そして、日本の神髄は霊的、精神的なものにあります。
精神、胆力、情操、愛情、これらが内奥にあるのです。

明治の憲法学者である穂積八束は
「国体とは何ぞや」と問われて、
「日本人の心、魂、精神」だと答えました。

日本人にとって国を愛することは、
神道に由来する日本人の生き方を愛することであり、
受け継がれてきた日本の心を愛することであり、
これを守り抜くことです。

そして、日本人として一番大切なものは「心」なのです。
平安時代の高僧が読んでいた仏典には「神」と書いて「こころ」と仮名がふってありました。
「神」は「心」なのです。

日本には「天地神明に誓って」という誓いの言葉があります。
日本人が誓う神は自分自身の心なのです。
もし心が正直で正しくあれば、たとえ神を崇拝しなくても神は我々を守るであろう、
神は正直な人間の頭に宿る。
よく、お天道様が見ている、とも言います。
これは日本人であるなら意味を説明しなくとも実感としてわかることでしょう。

戦後日本は「心」の部分を破壊されてきました。
しかし、実際は破壊されていないのです。
東日本大震災のような国難で見せた日本人の姿。
この強靭な大和心を持ち合わせていることに感謝し、誇りに思い、
我々が壊されかけた心を今一度踏ん張って、
本来の日本の心を築いてゆきたいものです。
このような日本の心を取り戻すことも「心の復興」として大切なひとつだと思えるのです。

転載終わり


 それにしても、今回の震災で、日本人の中に、破壊されない大和魂が残っていたのを知ることができたのは、ほんとにこの天災がもたらしたプラスの面です。アメリカの新聞(だったか)にも、「占領政策で、日本人の性格を変えたと思っていたが、日本人を変えることはできなかった。日本人の性格はDNAとしてあるのだということがわかった。」と言葉ははっきり覚えていませんが、こんな意味のことを述べていました。これは、アメリカの占領政策が、日本人の性格を変えようとして行われたということを正直に認めた言葉だと思いました。このアメリカによる傲慢な占領政策が、どれだけ戦後の日本人の魂を破壊し続けたか、それでもいざという時には、日本人の奥に秘められていた大和魂が目覚めてくるということに、この震災が、ある意味日本人全体に対する天罰であると同時に、禊ぎ(みそぎ)であるのかもという気がしてくるのです。


「私の日本憲法論」 サイタニさんのブログより転載 

2011年04月12日 05時01分25秒 | 現代日本
 サイタニのブログからの転載です。サイタニさんが書かれていた、連載 「私の日本憲法論」を、まとめて転載しました。とても面白く、納得する内容なので、紹介します。

転載開始

    連載 「私の日本憲法論」
      日本国憲法の背景となる哲学 

人間は何処に在るか

皆さんのような政治問題、時事問題等について専門家でいらっしゃる方々の前で憲法の話などする柄ではないのでありますが、この間○○先生の時事問題の三部作が出来上がった祝賀の集りに是非とも話してくれと言われまして、日本国の憲法の背景にある哲学はどういうものであるか、何処に誤りがあるか、と云うようなことを話しましたら大変喜ばれまして、今まで憲法の問題を取り上げて来た人と又別の立場から論じている点があるので是非とも○○で話してもらいたいと云う要請がありました。


一応辞退したのでありますけれども、当番団体の誰かが話すことになって
いるので是非話してほしいと云うので、敢えてこの席を汚した次第であります。
 

禅宗の『無門関』という本があります。これには四十八則の公案が載って
いるのであります。ご存知の通り公案というのは悟りに導くところの問題の
提起であります。

この四十八則の公案の中で最も重大な公案が私は二つあると思うのであります。
その一つは第六則の世尊拈華(せそんねんげ)という公案であります。それから
もう一つは第八則の奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)という公案であります。


この奚仲造車の公案には「奚仲造車を造ること一百福、両頭を拈却(ねんきゃく)し、軸を去却して、甚麼辺(なにへん)の事をか明む」と云うことが書かれているのであります。

奚仲というのは支那古代の人でありまして、初めて車を発明した人であると言われているのであります。その奚仲が初めて一百台の車を拵(あつらえ)た。ところがどうしたのかその車の「両頭を拈却し」 即ち両方の頭を拈(ね)じりちぎり、

「軸を去却して」即ち心棒を引き抜いて取り外して、部分品をバラバラ
分解して、そして何か紛失したと見えて捜し廻っているのであります。
それで或る人が「奚仲さん、あなたは何を捜しているのですか」と問うたら、奚仲が答えて言うのに、

「今迄ここに車があったのに何処かへ行ってしまった。
車は何処へ行ったのだろうと思って捜しているのです」
と。
これが公案であります。

果たして車は何処に在るかと云う問題であります。皆さんはその「車」が何処に在ると考えになるでしょうか。部分品を幾ら捜し廻っても「車」は無いのであります。これは公案でありますから単に車の問題ではないのであって、


人間の悟りの問題であります。「車が何処にあるか」と云う問題は言い換えると「人間は何処にあるか」という問題にもなるのであります。



人間は何処にあるか
 

人間をバラバラにして部分となし、腕を此処へ放り出してその腕に対して
「お前サイタニか」と問うても、その腕は返事をしないのであります。腕という部分品にはサイタニはいないのであります。それでは両脚はどうであろうかと、


又両脚を切って其処へ放り出してその両脚に対して「お前サイタニか」と
問うても返事はしないのであります。又胴体を切って其処へ放り出して尋ねて見ても同じ事であります。「いやサイタニは頭で考え目で見て口で喋る、


だからサイタニはあの首から上にいるんであろう」という訳で、この首を切って其処へ差し出して「お前サイタニか」と問うても、もう其処にはサイタニはいないのであります。


部分を幾ら捜し廻っても人間はいないと云うことなのであります。果して人間は何処にあるかと云う問題が奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の公案に含まれている問題であります。


禅宗の寺へ行って弟子にしてもらおうと思って、和尚に面会して「どうぞ弟子にして下さい」とお願い申したら、その寺の老和尚が「お前何処から来た」と言う。
「はい、私は横浜の何処其処の者であります。其処から参りました」と云うような返事でもしたら、「もうお前帰れ!」と云う訳で弟子にしてもらえないと云うことであります。
 

禅宗で「お前何処から来たか」と言うのはそのような横浜とか東京とか云う所から来たか来ないかと云うことを問うているのではないのであります。
「お前の生命とか云うものは何処から来たか」と云う意味なのであります。


それでこの"奚仲造車"の公案は、「車は何処から来たか」という意味なのであります。それでこの"奚仲造車、の公案は、「車は何処から来たか、人間は何処から来たか」「車は何処に在か、人間は何処に在か」と云う問題の提起ですね。


単刀直入に「車は何処に在か」と云う問題に対する解答を致しますと、
それは車を発明して製造した奚仲の心の中にあるのであります。
その心の中にある車は部分ではないのでありまして、車全体なのであります。
心の世界に先ず全体が造られて、その心の世界に在る全体の設計又は構造と云うものが具体化して来るのであります。



理念の人間  

この心の中につくられた原型を哲学的に言いますと「理念」というので
あります。即ち「理念の車」が先ず霊的世界に造られて、それが
天降って来て現象世界に部分品が出来て、その部分品が「理念の車」
の設計通りに集められて「現実の車」が造られると云うことになる
のであります。


ところでこの「現実の車」(肉眼に見える車)は実際に肉眼に見え手で
触れることが出来るから、非常に具体的であって確乎とした存在で
あるように
見えているけれども、実は、「理念の車」の模倣品に過ぎ
ないのであります。「理念の車」のイミテーションであります。
ですからこれは「理念の車の影」と言ってもよいのであります。

吾々の感覚に触れて確乎として在るかの如く見えているところ
現象的存在は、みなこれらは「理念」の投映せる影であって本当に
在るのではない
のです。「理念」のイミテーションであると
考えられるのであります。

本当の車は、心の世界に造られたところの霊的存在、或いは理念的で
ありましてその理念と云うのは、真理と言っても宜しいが、永遠不滅の
存在であります。


「現象の車」は、奚仲が車を発明して以来、何十億台の車が造られて
壊されて又新たに造られたかも知れないけれども、「理念の車」は
壊れることなく永遠不滅なのであります。


「理念の車」と云うのは、真中に心棒があって周囲が円くて回転する
もの、
即ち車の根本設計であります。理念は永遠不滅でありますから、
そのイミテーションであるところ「現象の車」は壊れても、壊れても、
不滅の「理念の車」の真似をして、或いは自動車となりトラックの車
となり電車の車となり汽車の車となり、或いは機械を運転する車
となって無数に影を映して来るのであります。


同様にして、人間についても、「理念の人間」なるものが永遠の存在
あって、吾々が肉眼で見ている処のこの肉体的存在と云うものは、
その影である。
即ち理念のイミテーションなのです。


影でありイミテーションであり模倣品でありますから、確乎とした存在
ではないのであります。ですからこの肉体は、どんなに健康な人でも
皆終いには老衰し病み且つ死ぬ。
影であるから消えてしまう
のであります。


しかし吾々人間の本体、これを我々は「実相」と言っておりますが、
人間の「実相」と云うものは永遠不滅の存在であり、これのみが
本当の実在
であるのであります。



真の日本国家なるもの憲法論 


車の話や人間の話を致しましたが、これは実は「日本国家は何処に在るか」
云う問題の前提として、即ち「日本国家は何処に在るか」 と云う問題を明らかに
する為の準備としてお話申し上げたのであります。


車は、車を発明した人の心の中に在る。それが理念の車であって永遠の存在で
ある。人間は、人間を発明して製造した不可思議なる存在―言い換えると神様―
の心の世界に在る。



これはキリスト教でも聖書の「創世記」に、「神その像(かたち)の如くに人を
創造(つく)り」と書かれているのであります。神の言葉によって造られたところ
の、姿なき神様の完全な姿を現実化したところの完全人間、神様の心の中に
在る
ところの永遠存在の霊的人間、これが本当の人間であります。

ところで日本国家は何処から来たかと云う問題であります。
現実的に言いますならば神武天皇が大和に都を造り給いて、そして
六合兼都(りくごうけんと)・八紘為宇(はっこういう)の詔勅を降ろし給うた

あの時に、日本は建国されたのであります。

しかしながら、もっと遡りますと、日本の建国は古事記或いは日本書記に
書かれております如く、天照大神が「豊葦原千五百秋之瑞穂国は、是れ
吾が子孫の王可き地なり。宣しく爾皇孫就きて治せ、行(くませ)。宝祚の
隆えまさむこと、当に天壌と窮無かるべし」
と詔を以て仰せられたあの時に
始まるのであります。


天照大神の「天」と云うのは天球であります。地球に対する天球ー即ち宇宙の
ことであります。そして「照」と云うのはその宇宙を照らし給うことであります。
天照大神(あまてらすおおみかみ)とは宇宙を照らし給う大神であります。


宇宙の大神の具体的顕現として現われた天照大神様の心の中に、
日本国なるものの根本的設計、即ち「理念の日本国」と云うものが造られまして、
その理念が天降って来て現実化したのが神武天皇の建国であると云うことに
なっているのであります。


天照大神様の天孫降臨の神勅そのものこそ、日本国の根本的設計であり
「理念の日本国」そのものである訳であります。


キリスト教の聖書では「ヨハネ伝に」「太初言あり、言は神と偕にあり、言は
神なりき万の物これによりて成り、成りたる物に一つとして之によらで成り
たるはなし」と書かれているのでありまして、全てのものは言葉によって
出来た
と云うことが書かれているのであります。

天照大神の神勅即ち御言葉によって出来たところ日本国の根本設計は、
理念日本国」の実相そのものであって、これは永遠不滅の存在であります。
現象の日本国は途中で色々変化するにしても、


この天照大神様の神勅にある処の「是れ吾が子孫の王可き地なり」
仰せられたその根本設計が壊れると云うことは有り得ないのであって、
もしこの根本設計が壊れたものが出て来たら、それは日本国ではない
と云うことになる訳なのであります。


それは丁度、車と云うものは、真中に心棒があって周囲が円くて回転する
ものであると云う車の根本設計たる理念が造られたら、現象の車はどんなに
壊れても途中損んでも、又新たにその根本設計に従って、真中に心棒が
あって、周囲が円くて回転するところ姿が出て来ることになるのであります。


日本の国も神武天皇が具体的に建国なさいましてから後に幾変遷があった
に致しましても天照大神様の御意の中に造られた日本国の根本的設計在り方
ー即ち根本的理念と云うものは永遠の存在として壊れないものなのであります。
これが日本国の実相であります。




注:故に共産国にしようと左翼がやっても、日本国家という根本設計は
  変わりませんし、
日本を共産国にしようとしている考えが間違いで
  ある事
がこれによりわかるのであります。



全体が先か部分が先か

ところでこの日本国の実相に反するところの条項が現行の日本国憲法の
第一条に書かれているのであります。


それは「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この
地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
と書かれている箇条であります。

天照大神の神勅には「是れ吾が子孫の王たる可き地なり」と書かれておりまして、
主権が天皇に在ると云うことは、はっきり日本国の根本的在り方ー即ち
「日本国の理念」(霊的原型)として其処に定められているのであります。


ところが現行の日本国憲法に於いては主権は国民に在ると云うことになって
いるのであります。此処に非常に重大な摺り替えが行われているのであります。
それは「部分が先か、全体が先か」と云う問題に繋がって来るのでありますが、


国民と云うのは国家を構成する部分であります。
それなのに「主権の存する国民」というのは部分に主権が在り、部分が
相談をして国家と云う全体を其処に造った
のであると云う唯物論的立場に
立って日本国憲法は書かれているのであります。

そこに根本的な間違いがあるのであります。日本のどんな歴史を見ても、
或いは戦後興って来た新しい歴史家、即ち神話を抹殺する歴史家の歴史の
本を読んでみても、日本の建国が、国民が相談をして「吾々国民がバラバラに
いたら外国から攻めて来た時に防ぐのに都合が悪いから、一つ団結して国家を
造りましょう」と、国民と云う部分が相談をして日本国を造ったと云う記録はない
何処にも無いのであります。


日本国なるものは、天照大神の御意の中にその国の原型即ち日本国の
理念
が造られて、その理念の日本国が天降って来て、その理念の投影と
して具体的な部分が集まり、其処に理念日本国の影なる現象日本国
云うものが現れて来ているのであります。



ですから全体が先でありまして、部分は後から全体の設計に従って集められた
のであり、これが日本国の存在の根本的在り方なのであります。

しかしこれは日本国の存在だけの問題ではないのでありまして、有りと
あらゆるものは先ず心の世界に造られて、
その姿の模倣として現実界の
ものは姿を現わしていると云うことになっているのであります。


この国会の議員会館でも、やはり建築家の心の中に先ず完全に其の全体の
姿が描かれた。
全体が先であります。そしてその建築家の心の中の議員
会館の建物の姿が因になってセメントだとか鉄材であるとか木材であるとか、
いろいろの部分が最初造られた全体の設計の模倣をして現実化して出来た
ものである訳です。

全ての存在は、心の世界に描かれたところの理念的存在が因である。そして
その理念的存在は初めから「全体」として在るのです。ここに「全体が先か、
部分が先か」
と云う問題が起こりますが、


通俗的に言うと「鶏が先か、卵が先か」といわれている問題であります。
鶏がいなかったら卵が出来ないし、卵がなかったら鶏が生まれて来ない
のである。で、永遠に循環的な論議を繰り返して行くことになります。


しかしながら、何も地球上に無かった時代に鶏が生まれて来る場合に卵が
ヒョックリと砂の上にでも出て来て、それから鶏が出て来たと云うようなことは
ないのでありまして、これはやはり、「神」と言ってもいいが、


大自然の「不思議な力」
が先ず最初に心の中に鶏の全体の設計即ち
「理念の鶏」を造った
のであり、そして部分が集まって現実の鶏はでて来た
のであります神様の心の中に描かれたところの鶏の「全体」の完全な姿の
「理念」が天降って来て、現象的な肉体を構成する「部分」が、

その「理念」の根本設計の姿に配列されて、具体的な鶏が出来たと云う
ことになるのであります。

転載終わり