さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
明治に日本が世界の荒波に東洋の一小国として漕ぎだした時代、ロシアの脅威は日本の国の存亡の危機を感じさせずにおれないものでした。対応を誤れば、すぐにも、世界一の陸軍国と言われ、強大な力ですぐにも押しつぶされかねない恐怖が国民全体にあったことでしょう。この記事にある、ニコライ皇太子襲撃事件は、そんなわが国の恐怖が今にも現実化するような重大事件でした。
明治天皇は、日本の国と国民を如何に安泰に守りきるかに大変苦心されて、ロシアの皇太子に誠意を尽くされたようです。それはちょうど昭和天皇が終戦時に我が身を顧みずに終戦の決断をされたのと同じく、明治天皇自らの命にかえてもと思われたにちがいありません。
その後の日露戦争での毎日の御生活の様子の中にも、天皇という御存在が、わが子を守る親のごとくにひたすら身を挺して国と国民を思われ、祈られ、質素で慎ましい生活をなさる方だという事実に涙せずにはおれません。
今から100年前の今日、1912年7月30日、明治天皇が崩御されました。
明治天皇は五ヶ条の御誓文、教育勅語、軍人勅諭など我が国のあり方を示されました。
明治天皇が苦慮したのはやはり国家存亡のロシアの存在でありましょう。
その頃ロシアといえば、当時世界最大最強の軍国と言われていました。北欧からウラルを超え、北アジアを侵略し、これを東西に貫く鉄道で結ぶ大事業に取り掛かっていました。
このシベリア鉄道起工式にロシア皇帝アレキサンダー三世の御名代として皇太子のニコライ二世が出席の途中に日本に立ち寄りました。
軍艦7隻を従え、鹿児島、長崎を経て関西をめぐり、さらに東京から青森に向かいウラジオストックに渡る予定でした。当時の日本は人口3500万人、陸軍6個師、海軍はほとんどないに等しい状態でした。ロシアの軍艦7隻だけでも日本にとっては大脅威でした。
ニコライ皇太子は各地で遠慮のない遊興を重ね、日本側は国賓として最高の礼を尽くしました。
このニコライ皇太子一行については様々な憶測が流れました。
シベリア鉄道の最終点ウラジオストックという名は“東洋征服”という意味であり、この時期清国に対抗して朝鮮半島内にロシア勢力が浸食し始めていました。このような時に軍艦7隻も従え、ニコライ皇太子が鹿児島から青森まで視察するというのですから日本国民には“国難近し”という感じがありました。
明治24年5月11日、ニコライ皇太子の一行は京都の常盤旅館を出発、人力車を連ねて大津市を訪ね琵琶湖の風景を楽しんだ後、京都へ帰途に着きました。この行列は実に人力車40数台、ニコライ皇太子の随員として有栖川宮威仁親王、川上操六、滋賀県知事をはじめ、その行列の長さは200メートルにも及びました。
この長い行列が日章旗と提灯に飾られた中を通過中、警戒中の津田三蔵巡査がニコライ皇太子に挙手の礼をして見送ってから、突然帯剣を抜いて二度斬りつけたのです。
ニコライ皇太子が後頭部を押さえて車から飛び降りると、津田巡査はなおも追って斬ろうとしました。これを見たギリシャ親王殿下が竹のステッキで防ぎ、二人の車夫が津田巡査を引き倒して刀剣を奪い取りました。傷は後頭部に二か所で重傷ではないが深い傷でした。
日本側は驚愕しました。ニコライ皇太子は滋賀県庁に運ばれ、急きょ、京都、大阪から呼び寄せられた日本の一流医師の診療を拒絶して、京都の宿舎に引揚げ、神戸に停泊していたロシア軍艦から駆け付けた医師によってようやく傷口を縫ったのでした。
この事件を奏上すると、陛下(明治天皇)は非常に驚愕されました。
陛下は直ちに北白川宮親王を召され御名代として京都に行くように命じ、そして御前会議を開くと、事件の重大性が益々明らかになり、西郷従道内務大臣、青木周蔵外務大臣を続いて現地に派遣することを決定しました。
その夜、陛下は寝室に入られようともせず、ついに深夜に至って、陛下自ら京都に行幸され、
「国民3500万人に代ってロシア皇太子にお詫びしたい」と仰せ出されたのです。
午前5時、宮城から新橋駅までの沿道にはすでに憂い顔の国民の群れが行幸を待っていました。
国民3500万人に代って、と言われた陛下のお言葉をそのままに国民は等しく日本国の運命と自分たちの命を陛下にお預けするほかなすすべはないと感じていました。
午前6時、陛下の横顔は深く憂いておられました。国民は目頭をぬぐい、顔を両手で埋めて拝む女たちの姿が多くみられました。
陛下は列車内で軽く仮眠されただけで、不眠と心労の中、京都駅に御着になり、そのまま御所に御入りになり、直ちにロシア公使、京都府知事等を召されてニコライ皇太子の容態を聞かれました。
時刻はすでに深夜でありましたが、常盤旅館に宿泊治療中のニコライ皇太子をお見舞いしたい旨を申し入れましたが、先方の侍医の意見で取りやめになりました。日本側から差し向けた橋本軍医総監、スクリッパー博士、高木、池田の両侍医も、先方から辞退され戻ってきました。
日本側の憂いは一層濃くなっていきました。
陛下はその夜、西郷内相、青木外相、土方宮相等を召されて善後策を協議され、寝所に入られたのは午前3時でありました。それからわずか1時間余りの午前4時40分には起床なされていました。陛下も重臣も、一様に不眠と緊張の疲れから目を赤くしておりました。
午前11時、陛下は馬車だけで常盤旅館に行き、ニコライ皇太子を御訪問なされました。
この時、陛下はこう仰せられました。
「殿 下の御来遊に際して私は国家の大賓としてお迎え申し、御通過地の官民も出来る限りの御行為を示したいと思っておりますことは、鹿児島、長崎両県で親しくご 覧になったことと思います。私は殿下の御入京を、しきりにお待ち申しておりましたのに、はからずも一昨日、大津において難に遭われましたことを深く悲しみ ます。ことに、遠く離れておられる御両親のお心配は、いかばかりであろうかと、お察し申しております。暴行者は早速係官に命じて国法によって処罰すること はもちろんですが、その罪は憎みてもなお余りあるものです。私は殿下が自重加養されて1日も早く御快復になることをお祈りします。今、殿下の御容子を拝して少しく安心致しました。御快復後は、東京その他の都において、私の国の風物を広く御遊覧下さいます様希望いたします」
この丁重な御言葉に対してニコライ皇太子は病床から次のように答えられました。
「思いがけない難に遭い、陛下の御来臨を仰ぎ、恐縮に堪えません。この難のために、貴国に対する感情を害することはありません。けれども、私の身体は、只今、本国の両親に伺い中でありますから、その指示を待つほかありません」
陛下はこのお見舞いを済ませて御所に帰られてから、有栖川親王と榎本武揚枢密顧問を速やかにロシア王室に差し向けて、当方の不注意を詫び、皇太子のその後の容態を伝えるように命令されました。
すると間もなく、ニコライ皇太子が常盤旅館を引き払って、神戸港外に停泊中のロシア軍艦に引き上げるとの急報に接したのです。
陛下は「先ほど、お見舞い申した時にはさようなお話は全くなかったに」
陛下は驚かれ、再び御所を出られ、常盤旅館で皇太子の出発するまで約1時間お待ちになり、
その後汽車で神戸まで御同乗になられました。
三宮駅に着くと陛下自ら先導に立たれてニコライ皇太子を弁天浜御用邸にご案内になりました。すでに夕霧があたりに立ちこめた桟橋に、ニコライ皇太子の頭部の白い包帯と、陛下の黒いお姿が心持うつむいて痛々しい限りでありました。
その時、桟橋の上に立ち止まったニコライ皇太子が、ポケットから煙草ケースを取り出すと、陛下はマッチをポケットから出され、火を点じて皇太子の煙草に近づけたのです。
陛下の心遣いのほどを察し、侍立していたお伴の人たちは皆瞼を熱くしたといいます。
ロシア王室は皇太子の安全をはかるため、19日にウラジオストックに帰るように指示しました。
このロシア王室の意向は日本側には通知されなかったため、陛下はじめ、皇太子一行の行動に協議を重ねるばかりでした。
軍艦は19日出港とのことでしたので、日本側は「御用邸に皇太子一行を招待して送別の宴を開きたい」と申し入れましたが、「治療上の理由」で謝絶されました。
その代わりに、ロシア側から「19日に陛下に来艦してほしい」という旨の申出を受けたのです。
この招待の指名は明治天皇、北白川宮、有栖川宮の他侍従長以下数名と政府関係者は青木外相一人でした。この招待を受けるかどうか閣議で大きな問題となりました。
「19日はロシア軍艦の出港の日であり、黒煙を上げている軍艦はそのまま陛下と皇族を人質としてロシアに連れ去るかもしれない」
「人質とまではしなくても艦内でどんな辱めを受け、どんな難題を持ちかけられ、強迫されるか知れない」
各大臣の憂いは皆同じでありました。
「如何なる国難が来ようとも、我々国民は陛下をロシア軍艦に送ってはならぬ」という意見の一致で、陛下に御辞退なさるように奏上しました。すると陛下はこう言いました。
「お断りする理由はない。悦んで御招待に応ずる。私の一身を以て日本国の危急を救い得るならば満足である」
一同、声をのんで沈痛な顔を伏せたままでした。陛下はかえって一同にこう仰りました。
「お前たちが心配するように、ロシアへ連れて行かれたら、その時はお前たちが迎えに来ればよろしい、お断りするのは無礼である」
こうして19日の午前9時、我が国の運命をかけた行幸でありましたが、陛下は御所を御進発されました。沿道には不安顔の国民で埋め尽くされていました。
陛下の御一行をボートでロシア軍艦にお送りした後、神戸埠頭には西郷内相はじめ、高官たちがそのまま立ち並んで陛下の御帰りをお待ちしていました。数千人もの一般国民の拝観者も、沖合に黒煙を上げている7隻の軍艦を見つめたまま2時間が経ちました。
午後2時、艦上の交歓は終わって、陛下は無事埠頭に帰りついた時、西郷内相は感極まって声を出して泣きだしました。これをきっかけに埠頭に「万歳!」の声が起こり、拝観していた国民からもどよめきが上がりました。
こうして7隻のロシア軍艦は西に向かって進発し、陛下は沿道の万歳の声の歓呼に包まれ、午後5時15分に京都御所へお帰りになられたのです。
以上、世にいう「大津事件」の頃の明治大帝と国民の苦悩でありました。
その後、明治大帝はロシアとの戦争だけはお避けになりたかったのですが、あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれる御言葉があります。
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
日露戦争の開戦から終戦までの約2年間、明治天皇はほとんど宮中からお出になられず、
戦地の状況をたとえ深夜であろうが報告するように指示されました。
開戦と同時に明治天皇は戦地の兵士たちを思い、ストーブを取り外されて、いかに冷え込む時でも手あぶりしかお使いになられませんでした。
しぐれして 寒き朝かな 軍人すすむ 山路は 雪やふるらむ
夏にはどんなに暑くても軍服をお脱ぎにならず、団扇も一切お使いにならずに御学問所で休憩もなく政務を執り続けられました。
暑しとも いはれざりけり 戦の場に あけくれたつ 人思へば
日露戦争の戦死者は八万八千余柱にのぼりましたが、明治天皇は戦死者の写真と名簿のすべてに目を通されたといいます。
日露戦争を勝利に導いた東郷元帥も、乃木大将も、黒木大将も、大山大将も、みな「陛下の御威徳によって勝つことが出来た」と述べています。
この戦より御食事がおすすみにならず、8年後に明治大帝は御隠れになるのですが、明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
小さな島国として短期間に世界に君臨することができたのは、明治大帝と国民がひとつになり、さまざまな苦難を乗り越えて日本を守り抜いたからであり、そのことで白人には絶対に敵わないと信じていたアジアの植民地の国々の人々に勇気と希望を与えたのでありました。
明治大帝と先人達が守り抜いた美しい我が国、強き我が国、を取り戻したいと思うのであります。
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」