優生思想シリーズの三回目です。このシリーズは5回と書きましたが、4回で終わりのようです。
アメリカ大陸の文明と先住民が白人によって滅ぼされたことは知っていましたが、ここに書かれたその残虐性は、驚くものでした。原住民を人間とはみなしていないから、これほどのことができたのだという話ですが、日本人からすれば、人の姿をしたものを人間とみなさないことにも驚きますが、たとえホントの動物に対してだとしても、残虐なことはできなかったでしょう。
白人種は、神に似せて作られた人間が他の動物を支配するようにと神から言われたとする旧約聖書を、人間の好き勝手にする権利だと解釈しました。その傲慢な考え方と比べて、日本人は自然のもの、山、川、湖、さらには動物まで、神として祀っています。食物さえ、手を合わせて、いただきますと拝んで食べる日本人です。大量虐殺が、日本人にできるとは思えません。
アニミズムなどと幼稚な低い宗教性であるかのように言われたこともありますが、古来から日本人は命の尊さを深く感じ取っていたのではないでしょうか。
だからこそ、南京大虐殺など、実際の証拠は何も出てこないのは、当たり前のことです。
日本でも歴史上殺し合いの戦いはたしかにありましたが、そうした対等の戦い方と、弱いものを虐殺するのとは違います。
戦後の敗戦国に押し付けられた戦勝国のプロパガンダ的な史観、欧米中心の歴史をきちんと検証し、そこから脱却して、是は是、非は非として、正しく見直すべき時だと思います。
いのちは例外なく尊い。
20世紀初頭にセオドア・ルーズベルト政権は軍部に対し、近い将来に国際戦略で利害が対立するであろうと予想される国々との戦争シミュレーションを立案させた。
これが白人諸国ならまだ許せた。実際、当時の支那の大部分はイギリス、フランス、ドイツ、ロシアが押さえていた。
まず、アメリカはまず自国に太平洋艦隊がないということに気づく。そして、日本が太平洋を渡ってアメリカに攻め込んでくるのではないかと妄想し、すぐに軍艦を作り始めた。また大西洋の艦隊を集結して日本を訪問させ、自国の海軍力を誇示する行動に出た。
もともとはセオドア・ルーズベルトにとっては、このまま太平洋をほおっておくと、ロシアのバルチック艦隊を破った日本艦隊が覇権を握ってしまうと恐れたための威嚇行動であった。アメリカの海軍力を誇示することで、日本を牽制したのだ。
アステカ帝国滅亡(1521年)
コルテスのアステカ帝国征服はヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の武器と勇気と技術の勝利と称賛された。
これが動機となり、ヨーロッパ人の新大陸侵略、略奪の夢を駆り立てることとなった。
1531年、アンデス山中にたくさんの黄金を持つインカ帝国があることを聞きつけたピサロは、180人の手兵と27頭の馬を連れてインカ帝国に向かった。
ピサロはインカ帝国の王を家臣と共に広場へおびき出した。ピサロの従軍司祭の神父は通訳を通してキリスト教への改宗を要求した。それを王が拒否すると、司祭はピサロに王を攻撃するよう促した。司祭はまた、ピサロとその兵たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。
ピサロの合図で歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から現れ、非武装のインディオたちに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握った。
インディオたちの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切っただまし討ちだった。このような白人の残虐非道な手は、5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。
ピサロは王の腹違いの弟にインカの王位を継がせた。その最後のインカ王トゥパク・アマルも結局は捕らえられ、中央広場で斬首された。
司祭は兵士と一緒に先住民の部落に現れ、キリスト教を受け入れろと命令した。それを受け入れないと兵士に殺されたのだ。殺されなかった先住民は家を追われ、鉱山労働者、農奴、荷役動物になることを強制された。
カリブ海で白人は身の毛もよだつ残虐行為を行なった。インディオの母親から乳飲み児を奪い、連れていた腹を空かせた犬に投げ与えたり、インディオの子供の足をつかんで岩に投げつけたり・・・。白人はインディオの女と寝るのを習慣としていた。女が既婚であろうと未婚であろうと関係なかった。
1540年までにカリブ海のインディオは事実上絶滅させられたのである。
中南米の虐殺
少し遅れてブラジルに入植した白人(ポルトガル人)は原住民200万人を虐殺してほぼ死滅させた。
奴隷貿易
日本には、古代から奴隷と言う言葉も奴隷制度などの風習もなかった。日本では、同じ人間を牛馬と同じ感覚で家畜のようにこき使い、商品として売買するなどという非人間的なことはとても考えられなかったのである。
造物主の神は、その代理人としてまず人間を作り、その下に被造物の動物、その下に万物を作られた。人間は神の代理人であるから、動物を家畜として支配し殺し、食べてもよい。奴隷は家畜と同格だから人間のためすべてを捧げるのは当然とする。
推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は400万人が奴隷として売買されたと言われている。概算1500万人だが、1人の黒人を新大陸に連れて行くまでに5人の黒人が船の劣悪な環境により死亡したという推計があるから、アフリカから働き盛りの黒人が数千万人から1億人近くが連れ出されたことになる。
その後、ヨーロッパ列強によってアフリカは分割され植民地支配される。
現在のアフリカの貧困、民族紛争も、すべて白人の勝手な収奪、不合理な民族分割の結果である。
なお、16、17世紀に新大陸から大量の金銀がヨーロッパに略奪された。その過酷な鉱山労働に、インディオと黒人奴隷が酷使された。ヨーロッパにもたらされた金銀は、やがて産業革命からヨーロッパ資本主義の原資となった。
当時のアメリカ人にとって、奴隷の競売は財産作りの重要な手段だった。後の南北戦争のときの南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博したものが多かった。
近代に入ってから、これほど大掛かりに組織的に
奴隷たちの悲惨な実態は、ストウ夫人の
「アンクル・トムの小屋」で世界に知れ渡った。
キリスト教徒の正当戦争の根拠
転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記
■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記 において、大航海時代から始る『優生思想』について、連載されています。前回その2回目を転載したのですが、一回目からすべて転載したいと思いますので、順番が逆になりますが、今回は第一回目です。
第一回目は、元のタイトルは、「尊い命ばかりである。」となっていますが、多くの方の興味を引くために、記事中に取り上げられている市丸利之助中将が敵国大統領であるルーズベルトに宛てて書かれた手紙『ルーズベルトに与うる書』に変えさせていただきました。
これを読むと、日本の戦争が決して侵略戦争ではないことがわかります。またこのシリーズ自体を読むことで、日本の戦いが自衛と同時に欧米植民地主義からアジア解放を目指したのだとわかります。
植民地解放が、単なる偶然の結果論だという人もいますが、日本が明治以降有色人種の一員として、人種差別を無くしたいという念願を持っていたのは事実であり、それ故に、国際連盟で、人種差別撤廃条約を提唱したのであり、その時には叶えられなかったとはいえ、戦争に踏み切る際に一つの大きな目標となったのは当然であり、昭和天皇の開戦の勅にもはっきりと記されているとおりだと思います。
この戦い(ヨーロッパアメリカ諸国のアジア侵略に抵抗する戦争)が終わるに当たって、私はあなたに一言、告げることがあります。
これについてあなたがたは日本の戦争に対し、或いは好戦的で残虐な国民であると、或いは黄色人種の跋扈だとか、或いは軍閥の専断によると言うけれど、これらはとんでもなく的外れの論である。
あなた方の精神的な弱さを悲しく思い、一言書かせていただきます。 あなた方の立ち振る舞いをみると、白人とくにアングロサクソン(イギリス系白人)によって世界の利益を独り占めにしようとし、その野望の為に有色人種を奴隷としてきたではないでしょうか。
好計を弄して有色人種を騙すという、いわゆる悪意のもとの「善政」によってかれらから考える力を奪い、無力にしてきたのです。
近世になって日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種とくに東洋民族としてあなた方の束縛から解放を試みましたが、
ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解が原因で人々が闘争することがいかに悲惨であるか、痛嘆せざるを得ません。
そんな中で、劣等と思われていた有色人種の日本が、日露戦争で白人国のロシアに勝ったことは、欧米の白人達にとっては、脅威であり、黄禍論(イエローペリル)が、ドイツのウィルヘルム2世やアメリカなどで盛んに論じられるようになりました。
② 日本の海軍力を削減させる
③ 日本の兵力を大陸に向けさせ消耗させる
転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記
スポーツマンシップに則り娯楽のために行われる狩猟行為のこと。オーストラリア人による人間のスポーツハンティング。
サフル大陸(オーストラリア大陸)では、1788年(天明8年)よりイギリスによる植民地化がはじまるにつれ、動物のみならず、原住民であるアボリジニ(人間)をスポーツハンティングするようになる。
1803年にはタスマニアへの植民が始まってからは、同じくタスマニア島のアボリジニに対するスポーツハンティングが行われ、さらには、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成され、島を一列で縦断し島民をすべて虐殺した。このようなアボリジニへのスポーツハンティングの背景には、アボリジニを人類以前の類人猿とみなす人種差別的な当時の考え方があった。
なお、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。
白豪主義とアボリジニの悲劇
先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。
●1933年、ナチス・ドイツで「断種法」制定●1948年、日本で「優生保護法」が成立。
■ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチス・ドイツの「T4作戦」
いくつかの国がアメリカに倣って断種法を制定した。カナダのアルバータ州は1928年から1960年まで断種政策を実施し、それによって数千人が不妊化された。
1962年、世界中の遺伝学者がロンドンに招かれた。彼らは、「チバ財団」が主催したシンポジウムヘの出席を要請されたのである。出席者リストには、著名な科学者の名前がずらりと並んでいた。DNA二重螺旋の共同発見者であるフランシス・クリック、ダーウィンの進化論を弁護したトーマス・ハクスリーの孫でユネスコの前事務局長ジュリアン・ハクスリー、アメリカの2人のノーベル賞生物学者ヘルマン・ミューラーとジョシュア・レーダーバーグ、それに世界的に高名なイギリスの生物学者J・B・S・ホールデーンなどである。これらの科学者はシンポジウムで遺伝学研究の将来について論じ合った。
■人間は「生まれ」か「育ち」か
ゴルトンから約150年が経過した今、優生学は、科学的にも現実の政策としても概ね失敗に終わったように見える。多くの場合、優生学は政治的な目的のために利用されてきた。しばしば繰り返される粗末な遺伝的議論が、その背後にある政治的意図を覆い隠すことは困難だった。前出のダニエル・ケブルズによれば、「優生学を問題多いものにしているのは、そこに個人やその家族の権利と作り上げられた抽象概念『人種』 『集団』 『遺伝子プール』などが含まれているためだ」という。「優良白色人種の遺伝的繁栄」を目論む積極的優生思想は今ではせいぜいユートピアとして残っているだけである。「優良白色人種の遺伝的繁栄」は全ての白人の遺伝子的情報の操作を必要とするため、たとえ可能だとしても、厳格な監視を前提とする警察国家でしか実現できそうにない。また、それは何世代にもわたる長期戦略があってこそ、うまくいくのであり、比較的短期間で政権交代がくり返される今の世界で実行可能とは思えない。だが、優生学が個人的に自らの意志によって行なわれるなら、とりわけ遺伝病と闘う上ではうまくいくかもしれない。たとえば、サルジニア島やキプロス島の人々は、長い間サラセミアと呼ばれる重い貧血症候群に苦しんできた。これは赤血球中のヘモグロビンを十分に生み出せない血液の病気である。これらの地域では、結婚相手が病気の因子を持つかどうかを調べるために「婚前診断」が行なわれる。また、出生前診断により胎児が保因者であることがわかった場合には「選択的中絶」も行なわれている。結婚相手が保因者であることがわかると、約5分の1のカップルは結婚をやめる。これらの事例は、将来の優生学の方向性を示すものかもしれない。健康な子を産みたいと望む親の“個人的選択”に基づく優生学的措置は認められると思われる。それには新しい生殖遺伝子技術、たとえば、精子の幹細胞の移植、あるいは精子や卵子の遺伝テストが役立つことになるだろう。この種の個人的優生学についても様々な議論が行なわれている。アメリカの高名な生命倫理学者アーサー・カプランの次の言葉はおおいに参考になるのではなかろうか。「我々は自分たちの子どもを環境要因によって(親の期待する人間になるように)形作ろうとしている。ピアノを習わせたり、ほかにも、あらゆる勉強や稽古ごとをさせたりしている。私は、それが誰かを傷つけるのでないかぎり、そこに遺伝学を利用しても誤りではないと考える」。
●ローマ時代の人々は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊を崖から投げ落とした。
●1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが『民族衛生学の基本指針』を出版した。この本はドイツ優生学の出発点となった。
●1907年、アメリカ、インディアナ州で最初の「断種法」が制定され、その後、約30の州で同様の法律が制定された。
●1912年、ロンドンで「第1回国際優生学会議」が開かれた。
●1913年、アメリカの28の州が異人種間の婚姻を禁止した。
●1921年,1924年、アメリカで「移民法」が制定され、西欧・北欧以外の人々のアメリカヘの移住が著しく制限された。
●1929年、デンマークで「断種法」が制定された。その後1937年までにノルウェー・スウェーデンなどヨーロッパの数ヶ国で同様の法律が制定された。
●1939年、ナチス・ドイツが精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。これにより1941年までに7万人強が殺された。
●1948年、日本で「優生保護法」が成立した。
●1963年、チバ財団のシンポジウムで世界中の生物学者が優生学について議論、高名な科学者たちが優生学を支持する発言を行なった。
●1969年、アメリカのアーサー・ジェンセンが黒人の知能指数は白人より低いが、それは遺伝的な要因によるかもしれないと発表した。
●1979年、アメリカで最初の「精子銀行」が設立された。当初、この銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者のみで、また提供を受けられる女性はIQ140以上に制限された(後に男女とも資格がゆるめられた)。
●1995年、アメリカのリチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが大著『ベル曲線』を出版し、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を打ち切るべきだと提言した。
●1990年代後半、遺伝子科学の爆発的発展により、人間の受精卵の遺伝子を子宮着床前にチェックし、問題のある受精卵を廃棄することが医療分野で始まった。
【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25/5/24]
東西冷戦は、作られた構図だった。米ソが裏で手を結んだデキレースだった。
さらに、朝鮮戦争は実に不思議な戦争で、アメリカが国連軍として朝鮮に出兵したが、それが可能となった背景には、国連決議の時に安保理常任理事国のソ連が拒否権を発動せず、欠席したからである。何故欠席したかといえば、当時のグロムイコ外相が後に回顧録で、スターリンから、欠席するように言われたからだと書いているそうである。つまりスターリンは、アメリカが北朝鮮を叩くことに同意していたということだ。
またその時にマッカーサーが北朝鮮をやっつけるための有効な作戦をいくつか本国に提案したところ、そのすべてが拒否された。そしてその後マッカーサーは解任される。教科書では、その理由が、トルーマン大統領が第3次世界大戦に発展することを恐れたからと説明されているそうだが、アメリカは、北朝鮮を壊滅させたくなかったということである。
例えば、鴨緑江の橋をわたって、中国義勇軍が北朝鮮に入ってくるので、この橋を爆破することを提案した時にも、トルーマンからダメだと言われた。なぜかといえば、イギリスの意向を聞かないといけないからと言ったという。そして、イギリスがダメだと言っているということだった。このイギリスを通して、中国軍にマッカーサーの作戦が筒抜けになっていたということを回顧録に書いている。トルーマンの後ろには、イギリスが作戦を立てているということをマッカーサーは匂わせているという。このイギリスというのは、ロンドンのシティのことであり、金融資本だという。
今日本を襲っている国難とは、グローバリズムであり、今グローバリズムを推進しているのは、アメリカである。ただし、アメリカという国と言うよりは、アメリカのウォール・ストリートであり、国際金融資本である。アメリカのウォール・ストリートであり、ロンドンのシティである。今ユダヤ資本という言い方はしないが、共産主義を起こしたのは、ユダヤ人であり、ロシア革命は、ユダヤ人によって起こされた。国際金融資本がロシア革命を支援したのであり、また中華人民共和国を支援して建国させたのは国際金融資本である。
馬淵元大使がこれらのことを突き詰めたのは、全て公開文書によって読み解いたことである。
この動画の最初の部分を要約すればこうした内容です。馬渕氏が、公開された文書を紹介しながら、意外な事実から必然的にわかってくることを説明されています。なかなか面白いです。このユダヤ資本とか国際資本については、よく言われていますが、これをきちんと公開文書の史料に基き説明されているので、よく理解納得できます。
アメリカの戦略、またそれに合わせて反日運動する中韓、さらにそういう在日外国人をかなり入れているメディアのこと。そして、実はユダヤ人を多く助けた日本国家のことにも話が及びます。
杉原千畝
杉原千畝のことは、十数年前くらいにずいぶん有名になりましたが、当時この人を持ち上げる風潮と同時に、日本の政府は杉原氏のビザ発行に反対だったかのように宣伝されたり、また杉原氏が日本政府によって戦後解任されたかのようなデマが広がっているが全くの捏造である。
戦後は敗戦により、外務官僚の多くが不要になり、多くの人員が整理されたのであり、杉原氏もその一人として退職されたのである。退職金も年金もしっかりともらっておられる。また日本政府がこのビザに反対したということもないのである。ただユダヤ人受け入れの際の条件として、行く先をはっきりすることや、所持品を持っていることとしただけである。しかも日本入国の際には、結局この条件すら無くして全て受け入れたのであり、これは日本政府そのものがユダヤ人を受け入れたのである。
政府が反対しているのにビザを発行するなどということは、本来出来ないことであり、杉原氏以外にも、ビザを発行した人は多くいるのであり、これは、日本政府がOKを出しているから出来たことである。なぜ杉原氏のみを取り上げるのかというと、日本政府を貶めるための嘘を宣伝するためではないか。と言っておられます。
これはたしかにおかしいことで、樋口季一郎と言う軍人で、満州にいた人が、矢張りユダヤ人を多く救って、受け入れているが、これを受け入れるにあたって、当時上官だった東条英機がこの政策に賛成して、日本政府もユダヤ人を救うことに同意して、杉原氏以上に多くのユダヤ人が救われている。当時日本政府は、神武天皇の八紘為宇の精神に習って、人類は皆兄弟であり一つの家族のようにすべきで、人種差別はしないという方針であったからである。
樋口季一郎
いろいろな話に発展していますが、さらに、メディアなどが、日本国家を貶めるために、捏造した歴史ドラマを作成して、しかも「このドラマは歴史に基づいたフィクションです」という断り書きで、責任を巧みに逃れていることが許せないなど、プロパガンダで日本人を洗脳しようとする勢力の話も出てきます。
ぜひ見てみてください。
戦後の子供たちに正しい日本の歴史を学ばせたいという強い思いをもたれた平泉澄先生が、書き残された少年日本史を紹介致します。先生のはしがきを読んで日本の歴史が正しく子供たちに伝わらないことの無念さと、伝えたいという強い思いが、ひしひしと感じられて感動せずにはおれません。
皆さんは日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、その言葉、それは皆幾百年前からの先祖より受けついだものだ。それを正しく受けついだ者が、正しい日本人だ。
從って、正しい日本人となる爲には、日本歴史の眞實を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戰敗れた後の我が國は、占領軍の干渉の爲に、正 しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解除せられた。然し歴史の學問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。從っ て皆さんが、此の少年日本史を讀まれる時、それが一般に行なわれている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう。
皆さんよ、人の貴いのは、それが誠實であるからだ。誠實は一切の徳の根本だ。その誠實を守る爲には、非常な勇氣を必要とするのだ。世の中には、自分の慾の 爲に、事實を正しく視る事の出來ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事實を述べる勇氣のない人も多い。今後の日本を携うべき少年の皆さん、敗戰の 汚辱を拭い去って、光に充ちた日本の再興に當るべき皆さんは、何よりも先ず誠實でなければならぬ。そしてその誠實を一生守り通す勇氣を持たなければなら ぬ。日本の歴史は、さような誠實と勇氣との結晶だ。凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成に與る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體で いえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覺をいだいてはならぬ。
私は今、数え年七十六歳だ。從って本書は、皆さんへの、最初の贈物であって、同時に最後の贈物となるであろう。私は戰で疲れ切った心身に、ようやく残る全力をあげて、一氣に之を書いた。
その原稿一千枚。それを私は歴史的假名遣で書いた。それが正しいと信ずるからだ。然し皆さんは學校で、現代假名遣しか學んでいない。よって時事通信杜は、 皆さんの讀みやすいように現代假名遣に改めたいと希望した。私は他日、日本が正しい日本にかえる時、必ず歴史的假名遣にかえるに違いないと信じつつ、しば らくその申入を容認した。
昭和四十五年秋九月 平泉 澄(ひらいずみ きよし)
01 国家建設
皆さん! 皆さんは、牛若丸を知っていますか? - そうです。五条の橋の上で、武蔵坊弁慶と一騎打の勝負をして、物の見事に之を負かし、一生忠実な家来にしてしまったかの勇敢なる少年です。それでは、その 牛若丸と、鵯越(ひよどりごえ)の嶮しい絶壁を流れ落しに駆け下りて、一の谷の平家の陣を攻め破った源九郎義経と、両人の関係は、どうですか? - これも知っていましたか。そうです。両人は、実は同一人なのです。少年時代には、牛若丸と呼ばれ、大人になって、九郎義経と名乗ったのです。そのけじめ は、何時つけられたか、と云いますと、それは元服の時です。元服と云いますのは、今の成人式に当たります。それまでは、児童であり、少年であったものが、 この元服の日からは、大人として待遇せられ、同時に大人としての責任を負う様になるのです。

それですから、元服の儀式は、厳重に行われました。牛若丸だけは、例外です。これは非常に不運な人でした。生まれたのが平治元年、その年のくれに、父の義 朝はいくさに敗れ、翌年早々殺されてしまったので、牛若丸は母のふところに抱かれたまま、方々逃げ廻ってたあげくにつかまって、鞍馬山に入れられ、修行を していたのが、自分で脱け出して奥州の平泉へ下る途中、近江(今の滋賀県)鏡の宿で、誰も世話してくれる者も無いので自分で元服し、名を九郎義経と改めた のでした。年は十六歳と伝えられますが、それは無論かぞえ年で、満で云えば十五でしょう。
牛若丸の場合は例外として、その他は元服の式は厳重に行われました。例えば八幡太郎義家、これは義経にとっては四代前の先祖に当たります。名高い武将です から、皆さん、知っていましょう。陸奥守に任命せられ、地方の氾濫を鎮定するために赴きました時、勿来の関(今の福島県いわき市勿来町)へかかりますと、 折柄美しく咲きみだれている桜の花が、吹きくる風にサーッと散ってゆく。それを惜しんで義家のよみました歌が、
吹く風を なこその関と 思へども
道もせに散る 山桜かな
と云う、あの有名な一首です。「なこそ」は、漢字をあてれば、「勿来」と書いて、「来てはならない」と云う意味です。「道もせに散る」は、「道も狭く感ぜ られるほど、道一杯に」と云う意味です。弓矢を執っては鬼神の如く恐れられた武将が、散りゆく花を惜しんで、馬上に歌をよむ風流、それは昔から人々の賛美 する所となりました。その義家は、児童の時には、源太と呼ばれていました。それが七歳の時に、石清水八幡宮の神前に於いて元服の式をあげ、よって八幡太郎 義家と名乗るに至ったと云います。
その義家に、弟が二人ありました。一人は義綱、少年時代に何と呼ばれたか分かりませんが、元服しては賀茂二郎義綱と名乗りました。して見ればこの人は、賀 茂の社で元服の式をあげたに違いありません。今一人、末の弟の義光、これは有名です。兄の義家が奥州で苦戦していると聞いて、それに力を添えようとして駆 けつける。その義光に影の如くに附添って来る人がある。それは豊原時秋と云う青年、この人は音楽を家の業としていましたが、父の時元が亡くなった時、子の 時秋まだ幼少であった為に、父から笙の秘曲を授かる事が出来ず、父はそれを源義光に伝えたままで亡くなりました。そこで今義光が合戦の場に赴くのを見て、 跡を慕って追懸けて来たのです。時秋に何も云わず、黙ってついてくる。然し義光には、その心持が分かったので、足柄山(静岡県と神奈川県の境)まで来た時 に馬より下り、人を遠退け、楯二枚を布いて、一枚には自分が座り、一枚には時秋を座らせて、しずかに笙を吹き、秘曲を教えて京都へ帰らせたと云います。勇 敢なる武将ではあるが、同時に芸能にも秀で、人情にも厚い人でした。この義光も、幼名を何と呼ばれたかは分りませんが、元服しては新羅三郎義光と名乗った ので、その元服の式が、近江(滋賀県)の新羅明神(三井寺の北)の神前で行われた事、明らかであります。
鎌倉時代の一般の武士を見てゆきますと、十四、五歳では、まだ何々丸と云い、十六、七歳では、もはや元服して大人の名になっていますから、十五歳前後で成 人の式をあげるのが普通であったろうと思われます。只、人によっては、随分早く元服したので、八幡太郎義家が、七歳で元服した事は、前に述べましたが、北 条時宗も、初めは正寿丸と呼ばれていたのが、七歳で元服して、時宗と名乗ったのでした。何しろ十四歳で幕府の重役となり、十八歳で幕府の代表となって蒙古 との交渉に当たり、二十四歳で外敵をしりぞけ、三十一歳で外国の連合軍百万の大軍を博多湾で皆殺しにした程の英雄でしたから、七歳ですでに大人としての見 識もあり、資格が備わっていたのでしょう。
源義家や、北条時宗は、これは例外として、普通は十五歳前後で元服、即ち成人の式をあげ、それより後は、大人としての待遇を受け、同時に自分は言語にも、 行為にも、完全に責任を負うたのでありました。それまでは、児童であり、少年であるとして、云う事、為す事、大目に見られていたものが、今度は尊敬を受け る一方、責任をもつ様になってきたのでした、即ち元服は、一生の中で大きなけじめをつける重大な時機だったのです。
形の上での元服は、心の上では立志と云う事になります。いよいよ一人前の大人となれば、心が定まり、目標がハッキリしなければなりません。それを「志を立 てる」と云うのです。孔子と云う人を知っていますか。支那の昔の哲人です。キリストよりも、五百年ばかり前に出た人ですが、西洋のキリストや、印度の釈迦 と相並んで、ひろく又長く、人々の心に大きな感銘、深い影響を与えた偉大なる哲人です。その孔子の云われた言葉に、
吾、十有五にして楽に志し、三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。
とあります。十有五は、十五歳です。即ち孔子は、十五歳にして目標を確定し、三十歳の時には足の踏み所がしっかりときまって動揺しなかったと云うのです。
また皆さんは、
男児、志を立てて郷関を出づ、
学若し成らずんば、死すとも還らじ、
骨を埋む、豈ただ墳墓の地のみならんや、
人間、到る処、青山あり
「将に東遊せんとして壁に題す」釈 月 性
【釈月性(1817~1858)
幕末期、長州藩出身の真宗僧侶。海防の必要を積極的に説いたことから海防僧とよばれる。また吉田松陰らとの親交あり。】
と云う有名な詩の、吟詠せられるを、聞いた事があるでしょう。その志学と云い、立志と云うのは、その人一生の目標がきまり、方向が定まった事、つまり生涯が一定の軌道に乗った事に、外ならないのです。
さて個人において、形の上では元服、心の上では立志と云う事を理解しておいて、之を民族に移して考えますと、民族全体の立志、或いは元服と云うべきもの、 それは即ち国家建設、略して云えば建国であります。日本民族の起原は、遠い遠い昔にさかのぼるでしょう。然しそれは云わばテンデンバラバラであって、そこ には意志の統一が無く、共通の責任が無かったでしょう。それが一つの目標の下に団結し、一つの意志によって統一せられ、他の民族に対して責任をもつように なった時、それは即ち国家建設の成しとげられた時でしょう。
日本民族は、混成民族だと云う人があります。そうではありますまい。無論包容力の強い民族ですから、他の民族を受入れ、之と混合する事は、その例はいろい ろありますけれども、その中心となり、主力となっているものは、全く日本独特の性格をもつものであって、その特徴は、混成によって消されていないのです。 すぐれたる学者の、骨格及び血液の研究によって、日本民族は世界において独特のものであり、その分布は揚子江下流の地方から、沖縄群島を経て、九州、四 国、本州、及びそのまわりの島々に及んでいる事が明らかになってきました。その血液型の研究を見ると、周辺のどの民族をどう混合しても、日本民族にはなら ないのです。
日本民族は、その最も本質的なる血液や骨格の上から考えて、独特の民族である事、確かでしょう。然し若しそれが、国家を建設する事が無かったならば、この 民族は一体どうなったでしょうか。それは揚子江下流地方の民族を考えれば、ハッキリ分かるでしょう。たとえ血液型において、或いはまた骨格の上で、日本民 族と同じであるとしたところが、精神的には全く共通するものを見出し得ないでしょう。国家建設によって、民族がその意志を統一せられ、その団結を固くし、 一つの高い目標に向かって、整然と進んでゆくと云う事が、いかに大切であるか、それを皆さんは分かられたでしょう。繰り返して云う、個人においては立志で あり、元服である、民族においてはその立志に当たり、元服に当たるもの、それは国家建設に外ならない。







