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500年の侵略史から目を背けるな。

2015年03月23日 23時52分45秒 | 歴史

優生思想シリーズの三回目です。このシリーズは5回と書きましたが、4回で終わりのようです。

 アメリカ大陸の文明と先住民が白人によって滅ぼされたことは知っていましたが、ここに書かれたその残虐性は、驚くものでした。原住民を人間とはみなしていないから、これほどのことができたのだという話ですが、日本人からすれば、人の姿をしたものを人間とみなさないことにも驚きますが、たとえホントの動物に対してだとしても、残虐なことはできなかったでしょう。

白人種は、神に似せて作られた人間が他の動物を支配するようにと神から言われたとする旧約聖書を、人間の好き勝手にする権利だと解釈しました。その傲慢な考え方と比べて、日本人は自然のもの、山、川、湖、さらには動物まで、神として祀っています。食物さえ、手を合わせて、いただきますと拝んで食べる日本人です。大量虐殺が、日本人にできるとは思えません。

アニミズムなどと幼稚な低い宗教性であるかのように言われたこともありますが、古来から日本人は命の尊さを深く感じ取っていたのではないでしょうか。

だからこそ、南京大虐殺など、実際の証拠は何も出てこないのは、当たり前のことです。

日本でも歴史上殺し合いの戦いはたしかにありましたが、そうした対等の戦い方と、弱いものを虐殺するのとは違います。

戦後の敗戦国に押し付けられた戦勝国のプロパガンダ的な史観、欧米中心の歴史をきちんと検証し、そこから脱却して、是は是、非は非として、正しく見直すべき時だと思います。

 


(3)500年の侵略史から目を背けるな。



 

 

いのちは例外なく尊い。

 
 
下記、コピペしましたが
興味のある方は検索して御調べ下さい。
 
 
 

 

20世紀初頭にセオドア・ルーズベルト政権は軍部に対し、近い将来に国際戦略で利害が対立するであろうと予想される国々との戦争シミュレーションを立案させた。
 
軍部は仮想敵国を色で区分しそれぞれとの戦争作戦を立案した。これは「カラープラン」といわれるが、日本は色が「オレンジ」に区分されたことから「オレンジ計画」の名が付けられた。
 
その他では、ドイツは黒、イギリスは赤、フランスは金というように色分けされていた。
 
 
 
日露戦争で日本がロシアに勝ったためにアメリカは日本に恐怖心を抱いてしまったのだ。アメリカは桂・ハリマン仮条約破棄により、日本は支那大陸にアメリカを入れない、日本は支那大陸を独占するつもりだ、などと思い込んだ。こうして支那大陸に進出し、アジアにおける領土を拡大したいと目論むアメリカは、日本を疎ましく思い始めた。

これが白人諸国ならまだ許せた。実際、当時の支那の大部分はイギリス、フランス、ドイツ、ロシアが押さえていた。
 
ところが、ロシアが押さえていた遼東半島に、日露戦争によって突如、日本が入ってしまったため、アメリカが嫉妬し始めたのだ。有色人種である日本が自分たちより先に支那大陸に拠点を気づいていることが我慢ならなかった。
 
 
 
アメリカは日本を仮想敵国として想定し始めた。オレンジ計画の内容は一変し、日本を打破する具体的な戦術が盛り込まれたのである。
 
 
オレンジ計画(獣人計画)
 
 民族の尊厳と誇りを消す計画 
 
(自国の歴史を軽蔑させて
  アメリカに憧れる戦後の歴史教育)
 
御参考(小学生で堕胎が続発)↓クリック
 
 

まず、アメリカはまず自国に太平洋艦隊がないということに気づく。そして、日本が太平洋を渡ってアメリカに攻め込んでくるのではないかと妄想し、すぐに軍艦を作り始めた。また大西洋の艦隊を集結して日本を訪問させ、自国の海軍力を誇示する行動に出た。
 
 
 
  白船事件(1908年)
 
その後修正された「オレンジ計画」には、日本の都市を爆撃することや、沖縄を占領することなどの戦略が練られていた。このころから、アメリカは日本との戦争を現実的な問題として考えていた。
 
 
 
明治41年(1908)3月、アメリカは突如として対日威嚇行動に出た。アメリカ大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるという行動に出た。日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。
 
船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。
 

もともとはセオドア・ルーズベルトにとっては、このまま太平洋をほおっておくと、ロシアのバルチック艦隊を破った日本艦隊が覇権を握ってしまうと恐れたための威嚇行動であった。アメリカの海軍力を誇示することで、日本を牽制したのだ。
 
アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に恐慌の報道を流した。

 
日本政府とマスコミは白船歓迎作戦に出た。迎合作戦が成功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていったが、その2週間後、日本の連合艦隊は九州の東南沖で大演習を行なった。警戒を怠らなかったのは当然である。
 
 
・・・備考・・・・
 
 

アステカ帝国滅亡(1521年)
 
1519年、白人(スペイン人)のコルテスがペラクルスに上陸するとインディオたちは手厚く迎えた。
 
アステカ皇帝は黄金製の宝物で歓迎した。白人はこの宝を略奪してヨーロッパに帰国すれば大金持ちの英雄になれると考えた。コルテスらは部族同士の争いに乗じ、アステカ皇帝に反抗する部族を手なずけ活用するという常套手段でアステカ帝国を滅亡させた。
 
当時、原住民たちは銃どころか、鉄鉱製の剣すらなかった。馬もなく、訓練されたスペインの兵士に勝てるわけがなかった。コルテスは近代兵器で首都を攻撃、アステカ皇帝を捕虜として衆人の前で殺害した。

 
コルテスのアステカ帝国征服はヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の武器と勇気と技術の勝利と称賛された。

 これが動機となり、ヨーロッパ人の新大陸侵略、略奪の夢を駆り立てることとなった。

 

インカ帝国滅亡
 
現在、アンデスの町々の街頭で子供をあやしながら手芸品を売ったり、物乞いをしている、山高帽をかぶった小柄なインディオの女性を見かけるが、彼女らが生き残ったインディオの子孫である。
 
 
わずかの兵でアステカ帝国を滅亡させ、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探検中のピサロにも届いた。

1531年、アンデス山中にたくさんの黄金を持つインカ帝国があることを聞きつけたピサロは、180人の手兵と27頭の馬を連れてインカ帝国に向かった。
エクアドルからボリビアまで広がるインカ帝国は、建国してまだ100年足らずだったが、道路、貯蔵庫、農業台地、鉱山都市と驚くべき偉業が遂げられていた。
 

 ピサロはインカ帝国の王を家臣と共に広場へおびき出した。ピサロの従軍司祭の神父は通訳を通してキリスト教への改宗を要求した。それを王が拒否すると、司祭はピサロに王を攻撃するよう促した。司祭はまた、ピサロとその兵たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。

 

 ピサロの合図で歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から現れ、非武装のインディオたちに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握った。

 

 インディオたちの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切っただまし討ちだった。このような白人の残虐非道な手は、5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。


捕らえられたインカ帝国の王は、白人が欲しがっているのが黄金であるのを知っていたので、釈放してくれるならば部屋一杯の黄金を差し出すと申し出た。
 
その大量の黄金が出された途端に、ピサロは約束を破って王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。
ピサロは王の腹違いの弟にインカの王位を継がせた。その最後のインカ王トゥパク・アマルも結局は捕らえられ、中央広場で斬首された。
 
1996年末の、ペルーの日本大使館公邸人質事件で、ゲリラ集団が名乗ったのもトゥパク・アマルであった。
 
インカ帝国から得た富を主因としたスペイン黄金時代、文学や宮廷美術の全盛期は1550年から1680年までの長きに及ぶと考えられる。
 
 
 
カリブ海のインディオ絶滅
 
コロンブスがアメリカに到達したのち、白人(スペイン人)はまず西インド諸島にやってきて、エスパニョーラ島(現在ハイチ島)のインディオ(原住民)に対して皆殺し作戦を行なった。女、子供も逃がさず、強姦して殺戮した。
 
1496年までに、この島は完全に白人に制圧された。同様な襲撃は、キューバやカリブ海の他の島々に対しても行なわれた。征服者達は国王とキリスト教の名においてやってきたのだ。教会は、しばしば侵略者の手先として、進んで新しい土地の略奪に参加した。

 
司祭は兵士と一緒に先住民のに現れ、キリスト教を受け入れろと命令した。それを受け入れないと兵士に殺されたのだ。殺されなかった先住民は家を追われ、鉱山労働者、農奴、荷役動物になることを強制された。

 
カリブ海で白人は身の毛もよだつ残虐行為を行なった。インディオの母親から乳飲み児を奪い、連れていた腹を空かせた犬に投げ与えたり、インディオの子供の足をつかんで岩に投げつけたり・・・。白人はインディオの女と寝るのを習慣としていた。女が既婚であろうと未婚であろうと関係なかった。

 
1540年までにカリブ海のインディオは事実上絶滅させられたのである。

 


中南米の虐殺
 
白人のアメリカ到達以降、中南米では白人により数千万人といわれる大虐殺が行なわれた(ヨーロッパ人がもたらした伝染病の天然痘による死者を含む)。
 
エスパニョーラ島(現在のハイチ・ドミニカ)300万人のほぼ全員が虐殺された。

 
現在のプエルトリコとジャマイカで100万人。キューバ80万人、ニカラグア50~60万人、メキシコ400万人、ホンジュラス200万人、グァテラマ400~500万人、ベネズエラ4~5万人、ペルー400万人の原住民を死滅させた。

少し遅れてブラジルに入植した白人(ポルトガル人)は原住民200万人を虐殺してほぼ死滅させた。
白人は、白人以外は人間として認めていなかった。それゆえこのような大虐殺を行なえたのである。
 
 
白人の虐殺は、20世紀半ばの日本に対するアメリカの原爆投下や都市無差別空襲、ソ連の満洲侵略の暴挙といったホロコーストまでつながっている。
インディオたちが受けた被害は人的犠牲だけではない。大量の金、銀など宝物がヨーロッパに持ち去られた。
 
白人の新大陸征服の目的の一つが黄金の獲得だったからである。1660年までにヨーロッパへ持ち去られた金はわかっているだけで181トンである。インディオたちが長い間かかって勤労して営々と貯めた宝物を、白人は何の努力もせず、所有者を殺また、インディオたちをプランテーションで強制労働させて砂糖の収奪も行なった。
 
砂糖はヨーロッパにとって中世以来の貴重品だった。砂糖は食品だけでなく医薬品でもあり保存料でもあった。砂糖のために新大陸の海岸地帯は、サトウキビ一色のプランテーションに置き換えられ、インディオに強制労働を強いた。
 
 
さらにヨーロッパ人が味を占めたコーヒー、ココア、茶もプランテーションとして農地を拡大させた。これらの嗜好品は寒いヨーロッパではまったく産出しないものだった。白人の贅沢を支えるために、「新大陸」の先住民たちの生活は破壊され、残虐な労働を強いられたのである。
 

奴隷貿易
 
奴隷とは、人間としての権利・自由を認められず、家畜や物と同じように所有され譲渡・売買され、他人の支配の下に労働を強制される人々のこと。

日本には、古代から奴隷と言う言葉も奴隷制度などの風習もなかった。日本では、同じ人間を牛馬と同じ感覚で家畜のようにこき使い、商品として売買するなどという非人間的なことはとても考えられなかったのである。
 
ヨーロッパの白人たちが有色人種を奴隷にして罪の意識を感じなかったのは、旧約聖書に都合のよい解釈があったからである。 

造物主の神は、その代理人としてまず人間を作り、その下に被造物の動物、その下に万物を作られた。人間は神の代理人であるから、動物を家畜として支配し殺し、食べてもよい。奴隷は家畜と同格だから人間のためすべてを捧げるのは当然とする。

 
キリストの神の教理による奴隷制度の正当化により、南北アメリカやアフリカ大陸で、白人の人間家畜としての奴隷の大量貿易、大量酷使、大量殺戮が行なわれたのである。
 
 
最初にアメリカ大陸に到着したスペイン人は、先住民から金銀宝物を略奪し、反抗する住民を殺戮しまくった。そのため鉱山の採掘を行なう労働者や、砂糖、コーヒー、タバコといった白人に都合のよい植物耕作のための人手が足りなくなった。そこで白人が思いついたのが、アフリカから黒人奴隷をアメリカ大陸に連れてくることだった。
 
 
16世紀から18世紀にわたる奴隷貿易は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の三大陸にまたがる三角貿易によって欧州に莫大な利益をもたらした。これに参加した国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスである。最も巨利を博したのはイギリスとフランスである。
 
奴隷商人たちは、ヨーロッパから安物のビー球、銃器、木綿の工業製品を持ってアフリカ・ギニア海岸に行き、黒人奴隷と交換し、奴隷をブラジルや西インド諸島に売り飛ばした。それで得た金で砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどを買って船に積みこんでヨーロッパに帰った。
 

 


推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は400万人が奴隷として売買されたと言われている。概算1500万人だが、1人の黒人を新大陸に連れて行くまでに5人の黒人が船の劣悪な環境により死亡したという推計があるから、アフリカから働き盛りの黒人が数千万人から1億人近くが連れ出されたことになる。

 

黒人奴隷を一番多く移入した国はカリブ諸島で約40%、次に砂糖のプランテーション労働などのためにブラジルへ38パーセント、残りはアメリカ南部のプランテーションである。

 


その後、ヨーロッパ列強によってアフリカは分割され植民地支配される。

 


現在のアフリカの貧困、民族紛争も、すべて白人の勝手な収奪、不合理な民族分割の結果である。

 


なお、16、17世紀に新大陸から大量の金銀がヨーロッパに略奪された。その過酷な鉱山労働に、インディオと黒人奴隷が酷使された。ヨーロッパにもたらされた金銀は、やがて産業革命からヨーロッパ資本主義の原資となった。

 

また、この金でヨーロッパ商人はアジアから香辛料、茶、ゴムなどを大量に買い入れて儲けた。これもヨーロッパに巨万の富をもたらした。

 

アメリカに連れてこられた奴隷
 
奴隷船から荷揚げされた奴隷たちは、奴隷承認に売り渡され、奴隷市場で家畜のように売り出された。奴隷承認は鎖で数珠つなぎにして町に乗り込み、目抜き通りで競売を行なった。奴隷たちは競売台に立たされ、品定めをされ、親子兄弟をばらばらにして売られていった。

 


当時のアメリカ人にとって、奴隷の競売は財産作りの重要な手段だった。後の南北戦争のときの南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博したものが多かった。
 

近代に入ってから、これほど大掛かりに組織的に
200年にわたって人間の売り買いを行なってきた国は、世界広しといえどもアメリカだけである。

 

1860年、アフリカ人奴隷の総数は400万人になっていた。奴隷の大半は綿花生産の労働者として投入されていた。

 


奴隷たちの悲惨な実態は、ストウ夫人の

 「アンクル・トムの小屋」で世界に知れ渡った。 

 

キリスト教徒の正当戦争の根拠
 
16世紀より、白人は世界中の有色人種の土地を侵略し征服しまくったわけだが、ローマ教皇の文書(もんじょ)には非常にしばしば異教徒の原住民に対する残忍な措置を許す内容が認められる。
 
異教徒の土地を武力占拠し、原住民を奴隷化してもよいというキリスト教徒にとって正当戦争の思想上の根拠とは何であるのでしょう。疑問です。

 

人間のいのちは
   皆、尊いのです。
 
 いのちに線引きすると言う
   発想が「戦争」なのです。
 

 
 

 


転載元 転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記

 

 

 


『ルーズベルトに与うる書』

2015年03月21日 15時41分38秒 | 歴史

 ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記 において、大航海時代から始る『優生思想』について、連載されています。前回その2回目を転載したのですが、一回目からすべて転載したいと思いますので、順番が逆になりますが、今回は第一回目です。

第一回目は、元のタイトルは、「尊い命ばかりである。」となっていますが、多くの方の興味を引くために、記事中に取り上げられている市丸利之助中将が敵国大統領であるルーズベルトに宛てて書かれた手紙『ルーズベルトに与うる書』に変えさせていただきました。

 

これを読むと、日本の戦争が決して侵略戦争ではないことがわかります。またこのシリーズ自体を読むことで、日本の戦いが自衛と同時に欧米植民地主義からアジア解放を目指したのだとわかります。

 

植民地解放が、単なる偶然の結果論だという人もいますが、日本が明治以降有色人種の一員として、人種差別を無くしたいという念願を持っていたのは事実であり、それ故に、国際連盟で、人種差別撤廃条約を提唱したのであり、その時には叶えられなかったとはいえ、戦争に踏み切る際に一つの大きな目標となったのは当然であり、昭和天皇の開戦の勅にもはっきりと記されているとおりだと思います。



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(戦後70年)西洋列強諸国の

500年の世界侵略史にピリオド

を打ったアジアの小国。日本。

しかし、その父祖の歴史を「全否定」

されてしまった。

 
戦争に負けたのでなく、戦後70年間

「負け続けているのだ」と智慧者は言った。

ここで再検証して戴きたい。

 
 

 
 
優生思想との戦いという側面も 


いのちに差別なし。
   
 尊い命ばかりである。
 
いのちの尊さは平等だ。 

 
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民族や宗教、主義主張の違いでない。
 
重要なのは「いのちを貶めるか」、

「いのちを尊ぶか」という事である。

 
決して、自分も含めて、どのような人の

いのちをも、貶めて(おとしめて)
 

いけない。全ての命の本質

「神」(至上=素晴らしい存在)である。

 
今日、日本において1日2000人以上の赤ちゃんが中絶されている理由は「優生思想」(100年前に立てられたオレンジプラン)に基く、邪魔な「人間は殺していい」という人種差別思想(のちのナチスに継承された思想)なのです。
 
この4日間のブログに掲載する資料を観てください。また、気になるキーワードがあれば、検索して御調べ下さい。
 
西洋の聖母マザーテレサが「中絶」を「平和の破壊者」であると断言し。マザーテレサには珍しく、「胎内殺人」とまで言い絶対的に非難した理由。
 
東洋の叡智である、谷口雅春先生が、中絶こそ日本の「実相顕現の障碍である」と「神命の書」を渾身の思いで残された理由が、よくわかるはずです。
 


今日から4日間書く事、人種民族や肌の色や、立場を越えて「全ての人は例外なく尊い存在」であると言う事を伝えるために、いのちを「貶める」優生思想を告発するために、光を見出すべく、歴史の「反面教師」についてを書かせて戴きます。「優生思想」や「いわれなき人種差別」等は告発しますが、その事で決して特定の国や人々を「否定」するものではありません。どの国にも大概、美点があり立派な人々も多くいるものです。               
大熊 良樹 拝
 
 

市丸中将は、硫黄島の戦いで散華された方です。玉砕に当たり、米国大統領にあてたこの「書」は、市丸中将の死後、「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」と題されて、米国の各大手新聞で、その全文が紹介されました。また、戦後ベストセラーになったジョン・トーランドの「昇る太陽-日本帝国滅亡史」でも紹介されました。そして全米で、大絶賛されています。「書」はいまも、ナポリスの海軍兵学校の博物館に展示されています。
 
硫黄島の戦いは、昭和20(1945)年2月19日の米軍上陸から、3月26日の玉砕まで繰り広げられました。日米の諸島に置ける戦いでは、唯一、米軍の死傷者数が日本軍のそれを上回った戦いです。
 
島にいた日本の守備隊は、陸軍が栗林忠道中将率いる1万3,586名、海軍が市丸利之助中将率いる7,347名、合計2万933名です。
 
米軍は、そこに11万の大軍をもって挑みました。武力においても、火力においても、兵員の数においても、はるかに勝る米軍との激戦において、市丸中将は、最後の総員突撃を敢行するに際して、「ルーズベルトに与うる書」を遺されています。
 
 内容は、弱肉強食の「<19世紀的覇権主義>500年侵略史」を否定。世界の人種各々がそれぞれの地域で自主独立し、もって恒久的世界平和を実現するという、まさに現代の世界の人々にとって目標とすべき理念の顕彰と覇権主義への「警告」となっています。その後のソ連と米国の「冷戦」まで預言している事には驚きます。
 

 
 
  平成27年3月17日(火)


  

ルーズベルト ニ 与ヘル書=
 
市丸中将が、歴史に其の名を刻んだのは、硫黄島防衛の海軍指揮官と、云うだけではない。
 
米国大統領F・ルーズベルトに対して、日本軍司令官としてその「優生思想」(人種差別)を批判し、ある意味で、西洋列強諸国の世界侵略と、「優生思想」(人種差別)に対する戦争であることを告発する手紙を書いた事に於いて重大な意味があるのである。
 
市丸中将が「手紙」を書き始めたのは2月16日であり、ハワイ出身の三上弘文兵曹に英訳させた。中将は、3月17日に地下20メートルの洞穴に、動けるものを全員集め、副官である間瀬式次中佐が「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げた。
 
 
後26日にこの書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけました。英文のものは赤田邦夫中佐(二七航戦参謀)が身に付けた。
 
市丸中将たちが、後の突撃攻撃を行って散華されたのは、3月26日です。市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行っい、散華されています。
 
この最後の突撃のときの遺体の数は、わずか196柱でした。陸海合わせて2万933名いた守備隊は、3月26日の吶喊攻撃のとき、動ける者は、すでに196名になっていたのです。
 
 
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。
 
従軍記者エメット・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日、本国に向けて打電した。そして「書」は、米国内の様々なメディアで紹介され、「書」に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となり、いまや世界の人類の常識とまでなっている。米国人の良心に敬服します。
 
 
戦後、1975(昭和50)年1月に、在米日本大使館に通産省から出向していた村上大尉の長男村上健一氏は、アナポリス(米合衆国海軍兵学校) 記念館で日英両文の「手紙・与フル書」を親しく見ることができた。
 
因みに、この手紙は、欧米の横暴と日本の正義を訴えるものとして、余りにも本質を突いているが為に、米国で一般に公表されるまでには数ヶ月間、発表が見送られたという。
 
残念ながら、ルーズベルト大統領その人は、市丸中将の書簡が米本国に打電された8日後に他界しているが、
 
市丸中将の「書」は、全米の良心を動かし、いまや人類の常識として「かの戦争の持つ性質」や「かの戦争の原因」を洞察するのに欠かせない重要な文書資料として立派に生き残っている。
 
文書資料 というよりも、あの大戦に自らを捧げた全英霊の「魂の声」ともいえるのではないだろうか。戦後70年の今、全国民がこころして、先祖の声として、慎んで拝読すべき遺書でありましょう。



 
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市丸利之助海軍少将
(いちまるりのすけ)


 
 
<ルーズベルト ニ 与エル書」現代語訳全文>
 
日本海軍市丸海軍少将より、フランクリン・ルーズベルト殿に、この手紙を送ります。

この戦い(ヨーロッパアメリカ諸国のアジア侵略に抵抗する戦争)が終わるに当たって、私はあなたに一言、告げることがあります。
 
ペリー提督の下田入港を機として、日本が世界と国交を結ぶようになって百余年、この間、日本の歩みというものは至極難儀を極め、自らが望んでいるわけでもなく日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変と経験し、不幸なことに貴国と交戦するにまで至った。
 
これについてあなたがたは日本の戦争に対し、或いは好戦的で残虐な国民であると、或いは黄色人種の跋扈だとか、或いは軍閥の専断によると言うけれど、これらはとんでもなく的外れの論である。
 
あなたがたは真珠湾の不意打ちを唯一つの対日戦争に対する宣伝資料としているようであるが、日本が自滅を回避するために、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、あなたがたが最もよく存じているところではないだろうか。
 
おそれ多くも日本の 天皇陛下は、皇祖皇宗建国の大みことのりに明らかであるように、養正(すなわち正義)、重暉(すなわち明智)、積慶(すなわち仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される国家統治計画に基づいて、
 
地球上のあらゆる人々はその自らの分に従って『その生まれた土地においてその生を享受する』このような恒久的世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。このことはかつて、
 
「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」
という明治天皇の御製に言われていることと同じであります。
 
これを聞き、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したことをあななたも良く知っていることでしょう。
 
我々日本人にはいろいろな階級の人がおりますが、つまるところ彼らは色々な職業につきながら、この天業を助けるために生きているのです。我々軍人もまた、戦争という生業でこの天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。
 
今の我々は、あなた方の物量を誇る航空戦力や艦砲射撃に対して圧されている状況にありますが、 精神的には充実しており、士気はますます高揚し、歓喜に溢れているのです。
 
これが天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理でありますが、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。

あなた方の精神的な弱さを悲しく思い、一言書かせていただきます。 あなた方の立ち振る舞いをみると、白人とくにアングロサクソン(イギリス系白人)によって世界の利益を独り占めにしようとし、その野望の為に有色人種を奴隷としてきたではないでしょうか。
 

  好計を弄して有色人種を騙すという、いわゆる悪意のもとの「善政」によってかれらから考える力を奪い、無力にしてきたのです。
 
近世になって日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種とくに東洋民族としてあなた方の束縛から解放を試みましたが、

 
あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、むしろひたすら有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅(優生思想)を口々にするようになったのです。
 
あなたたちはどうして神意に背くのでしょうか。
 
大東亜戦争により、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれ各地の民族が善政を行い、 そしてあなた方がこれを破壊しなければ、全世界が恒久的平和を実現するのも決して遠くはないのです。
 
 
 あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているのにも満足せず、数百年来あなた方の搾取から逃れようとする哀れな人類の希望の芽を、どうして若葉のときに摘み取ってしまうのですか。
 
 
ただ単純に東洋のものを東洋に帰すということに過ぎないのです。 
 
あなた方白人はどうしてそうも貪欲で狭量なのでしょうか。 大東亜共栄圏はあなた方の存在を少しも否定しません。
 
 むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するということに日本天皇陛下の神意があるということを理解できる雅量をあなた方に望んでいるのです。
 

ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解が原因で人々が闘争することがいかに悲惨であるか、痛嘆せざるを得ません。


今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することはつつしみますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結のとき、その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国にかぶせ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処置に対する反動であることを看過できません。
 
あなた方がいかに善戦してヒトラー総統を倒したとしても、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するつもりでしょうか。
 
おおよそ世界が強者の独占するものであるならば、永久に闘争を繰り返し、遂に界人類に安寧幸福の日は来ることはないでしょう。 あなた方は今、世界制覇(世界侵略)の野望を一応は実現しようとしております。あなた方も得意になっているのでしょう。
 
しかしながら、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚(因果応報)したのです。 願わくば、私の言外の意を汲んで戴き、その轍を踏むことがないように。            
      市丸利之助海軍少将
       (いちまるりのすけ)
 
 

 

日露戦争と大東亜戦争
 
日清戦争のわずか2年後である1897年(明治30年)に、アメリカは日本を仮想敵国として、対日戦略プログラム 「オレンジ計画」 を策定し、日本はまさしくこのシナリオ通りに開戦に追い詰められた。
 
この 「オレンジ計画」 を最初に策定したのは、アメリカ第25代大統領のウィリアム・マッキンレーです。(ハワイを合併した大統領)その 「オレンジ計画」 を引き継ぎ、推進させていったのが、なんとテディベアでも有名で、優しく、親日家であるような印象の第26代大統領セオドア・ルーズベルトJr.であります。
 
「素質の劣った人々が子孫を残さぬように望むと共に、犯罪者は断種、そして精神的に病を患うものは子供をもつことを禁止するべきである。」これは、第26代アメリカ合衆国大統領のセルドア・ルーズベルトの残した言葉です。
 
当時の欧米では優生学が流行り、人種差別が当たり前のように行われていた時代でありました。また、その中中でも、ルーズベルトは「人種改良論者」であったのでした。
 
  また、阿片戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為した母方の祖父の影響で、ルーズベルト本人が幼い頃から中国文化に深い愛着を持ち、中国人に対して同情的かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言し、その中国と渡り合っている日本人に対しては強い反感を抱いていた。
 
駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との会話記録では、ルーズベルトは、<スミソニアン博物館の研究者による、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」>などと明言し「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」、また具体的に「日本人が(戦争で)敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて徹底的に奨励すべきである」などとキャンベルに語った。
 
そんな中で、劣等と思われていた有色人種の日本が、日露戦争で白人国のロシアに勝ったことは、欧米の白人達にとっては、脅威であり、黄禍論(イエローペリル)が、ドイツのウィルヘルム2世やアメリカなどで盛んに論じられるようになりました。
 
 欧州勢に比べて、海外植民地政策に遅れたアメリカが狙う獲物は只一つ、阿片漬けにしている中国ですが、この利権同じく狙ってくる日本は、アメリカにとっては目障りで邪魔な存在でしかありませんでした。
 
日露戦争では日本に味方してくれた米国だが、「オレンジ計画」では、「日本とは現在友好関係にあるが将来極東支配を目論む日本の領土拡大政策が原因で衝突せざるを得ないとし、その場合日本はこの戦争に国力を総動員するであろうから、米国はマーシャル、マリアナ諸島に進行して海上封鎖を強めて日本の補給路を遮断する。
 
そして艦隊決戦によって米国が勝ちを制して沖縄を占領し、最後は空爆によって生産施設を破壊して降伏させる。」といった内容になっており、太平洋戦争はほぼこのとおりに推移しました。更に、
 
① 中国と組んで反日宣伝を推進する
② 日本の海軍力を削減させる
③ 日本の兵力を大陸に向けさせ消耗させる
 
 といった戦略を確実に実行に移し、中国全土の反日運動、度重なる海軍軍縮会議、中国に対する援助等、すべてこれらのプログラム通りに実行に移しました。
 
また「オレンジ計画」 は、武器の発達と共に、修正が加えられ、1941年9月27日に日本とドイツ、イタリアが三国同盟を結ぶと、アメリカは新たな対日戦争計画「オレンジ5」を策定しました。
 
その内容は、日本は資源を求めて領土拡大を図るだろうから、補給路を断ち、制海権を握って日本の海上輸送を封鎖。沖縄を占領し、空爆によって日本本土を爆撃。戦闘能力を奪って日本を孤立させ、無条件降伏を迫るというもの。
 
アメリカはそのために海軍を増強したが、真珠湾攻撃が始まる二ケ月以上も前のことである。アメリカは、日米開戦の前に、日英同盟の解消、海軍主力艦の制限、ブロック経済、対日禁輸など、日本の封じ込めを図り、日本をアメリカとの開戦に誘導した形跡がありアメリカとの戦争を不可避状態にするように仕向けた。
 
 日本はアメリカの対日圧迫政策を回避するために、中国や南洋へと資源を求めて進出するという、まさに、アメリカが描いたシナリオどおりに進み、1941年12月8日の真珠湾攻撃につながり、その結果もたらされたのが「新型爆弾」である原爆の投下である。
 
また原子爆弾を日本に落とすための、 「マンハッタン計画」 を強力に推し進めたのが、フランクリン・D・ルーズベルト、しかしながら1945年4月12日に脳卒中で死亡し、実際に日本に原爆投下の支持を出したのは、トルーマン大統領である。
 
  1944年の10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。



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   だから、アメリカ人が「悪」だと

言うんじゃないんだ。それじゃ、

「イスラム国」と同じになってしまう。
 
 
本来「悪」など無いのだ。いのちに

「悪いいのち」など無い。それを、

「善悪」に分けて「選別」し「葬る」

この発想(優生思想)が<悪>なのだ。
 
 
皆素晴らしいいのちである。障害が

あろうとも「尊さ」に替わりはないの

である。一番弱い立場の人の、人権や

尊厳が守られるときに、平和な世の中

と言えるのではないだろうか。。
 
 
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転載元 転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記

 

 

 

 


優生思想は弱い者イジメの思想

2015年03月18日 12時51分32秒 | 歴史

優生思想が、白人至上主義とつながっており、残酷な植民地支配をもたらしたことは知られていますが、これはほんとうに恐ろしい考え方だと、この記事を読んでつくづく思いました。この考え方は、唯物思想の極地であり、それゆえに利己主義の極地だといえるのではないでしょうか。

この優生思想で思い出すのは、次の文章です。

「 日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下することのように思います。獣と接するときは、それを獣として扱わねばなりません。」

これは 広島・長崎への原爆投下に対して、アメリカのキリスト教団体がトルーマン大統領に抗議した際の、公式回答書に書かれていたものです。

アメリカが日本本土に向けて、原爆投下や東京を始め数十万の民間人を大空襲で焼き殺したその残虐性の裏には、このような日本人蔑視の思想があります。

そして日本人が二度と立ち上がれないようにと、自分たちに歯向かうことのないように日本民族の精神改良を試みたのが、占領政策であり、特にウォーギルトインフォメーションプログラムと言われるものだったのです。

これらが、優生思想とつながっていることは明らかです。

さらには、優生保護法という中絶を認める法律も、日本の議会が成立させたように偽装はしていますが、日本人の人口減少政策であり、徐々に民族を衰退させる意図があり、これもやはり優生思想からくる政策だったと思います。

この優生思想は今では失敗が認められてなくなったかのように見えますが、記事を読むと、決して絶滅することなく、形を変えて生きているようです。知恵の木の実を食べて、神と等しい力を手に入れた人間は、すべてを支配せずにはおれないのかもしれません。

 


 
 
 
「優生思想は
       弱い者イジメの思想」
  
下記、コピペしましたが
興味のある方は検索して御調べ下さい。
 
 

 
 
  平成27年3月18日(水) 
 

 
スポーツハンティング
 
スポーツハンティング(Sport Hunting )とは
スポーツマンシップに則り娯楽のために行われる狩猟行為のこと。オーストラリア人による人間のスポーツハンティング。
 
サフル大陸(オーストラリア大陸)では、1788年(天明8年)よりイギリスによる植民地化がはじまるにつれ、動物のみならず、原住民であるアボリジニ(人間)をスポーツハンティングするようになる。
 
1803年にはタスマニアへの植民が始まってからは、同じくタスマニア島のアボリジニに対するスポーツハンティングが行われ、さらには、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成され、島を一列で縦断し島民をすべて虐殺した。このようなアボリジニへのスポーツハンティングの背景には、アボリジニを人類以前の類人猿とみなす人種差別的な当時の考え方があった。
 
なお、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。
 
 白豪主義とアボリジニの悲劇
 
先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より

 
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

 

しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。

 

   920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。
 
  1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。
 
ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。
 
 
 
セルドア・ルーズベルト「素質の劣った人々が子孫を残さぬように望むと共に、犯罪者は断種、そして精神的に病を患うものは子供をもつことを禁止するべきである。」これは、第26代アメリカ合衆国大統領のセルドア・ルーズベルトの残した言葉です。
 
 
優生学はイギリスのゴールトンに端を発し、その思想はナチに受け継がれ、後のユダヤ人の大量虐殺につながった・・・というのが、一般的によく知られている史実だと思います(→優生学)。
 
 
しかし、実はゴールトンとヒトラーはとても巨大な力によってつながれていたということはあまり知られてはいないようです。その巨大な力こそがアメリカ合衆国でした。アメリカにはよいところも数多くありますが、光と陰で言うならばこれは陰の面であり、強調するのも問題ですが、知らないと「とんでもない歴史」を繰り返すでしょう。
 
キ―ワードは「優生思想」です。
 
 
 
まず、優生学には2つの性格があります。先のルーズベルトの言葉にあるような、望まれない性質をもった人間を排除しようとするやり方を、「消極的優生学」と言います。
 
また、ルーズベルトは「優秀な素質をもった人々には子供をつくることを奨励すべきである。」とも言っています。
 
この思想は「積極的優生学」と定義されます。犯罪や貧困に加え、白人至上主義に代表されるような人種差別が横行していた当時のアメリカにおいて、優生学は上流または中流階級の人々に受け入れられました。
 
 
■優生学を強く支持した20世紀初頭のアメリカ
 
ゴルトン以後の数十年間、優生学は上流階級を著しく重視する形で根づき、次第に人種主義的色彩を帯びるようになった。とりわけアメリカでは、この風潮に対する強い支持が見られた。20世紀初頭のアメリカ大統領でノーベル平和賞を受賞したセオドア・ルーズベルトは、自らが優生学の支持者であることを公表していた。彼は、アングロサクソン系の男女が十分な数の子供を残すことができなければ、それは“人種的自殺”につながると警告した。
 
1905年~1910年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマであった。1920年代から30年代初頭にかけてのアメリカの優生学は「消極的優生思想」を直接的に実行する制度を生み出すことになった。(これがホロスコートの起原です。弱い立場の者を消す。)
 
 
アメリカは連邦レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が精神疾患や精神遅滞の人々を対象にする断種法を制定した。1907年~1960年までの間に少なくとも6万人が断種法の適用を受けて不妊にさせられた。
 
この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5千人に達した。この時代(1933年~1938年)には、ナチス・ドイツの消極的優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者等を大量殺害するまでになった。
 
1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。この作戦では約7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺害された。
 
 
 
●中世ヨーロッパのキリスト教社会では“望まれない子”を公共の場に遺棄した。正常な子どもは拾われることもあったが、障害をもつ子どもは見捨てられた。
 
 
●1883年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンが「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。

●1933年、ナチス・ドイツで「断種法」制定●1948年、日本で「優生保護法」が成立。

■ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチス・ドイツの「T4作戦」

いくつかの国がアメリカに倣って断種法を制定した。カナダのアルバータ州は1928年から1960年まで断種政策を実施し、それによって数千人が不妊化された。
 
ヨーロッパで最初に断種法を制定したのは1929年のデンマークであり、次いでドイツが1933年に、ノルウェーが1934年に、スウェーデンとフィンランドが1935年に、エストニアが1936年に、さらにアイスランドが1937年に断種法を制定した。同様の法案は第一次世界大戦前にイギリス・オランダ・ハンガリー・チェコスロバキア・ポーランドなどでも審議されたものの、制定されなかった。
 
 
1920年代のドイツでは優生学的政策はまだ強い反発を招くものだった。実際、1925年のドイツ国会では、遺伝的理由で目が見えない人、遺伝的理由で耳が聞こえない人、てんかん患者、精神薄弱者に対する強制断種を規定した法案が審議されたが、まったく賛意を得られなかった。それが劇的に変化したのは1933年1月にナチスが政権を握ってからである。1933年7月、ドイツで断種法が制定された。この法律により強制断種された人の総数は20万人~35万人と言われている。
 
 
この時代(1933年~1938年)には、ナチス・ドイツの消極的優生政策は、“遺伝に由来すると見られる疾患を有する者”に対する断種に止まっていた。しかし、ナチス・ドイツの優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者等を大量殺害するまでになった。1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。この作戦では約7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺害された。
 
 
第二次世界大戦後、各国の優生政策は以前より小規模になったが、カナダとスウェーデンでは1970年代まで精神障害者に対する強制断種を含む大規模な優生政策が実施され続けた。日本では不良な子孫の出生の抑制を目的とする「優生保護法」が1948年に制定された。この法律では、遺伝性疾患を有する者だけでなく、遺伝性以外の精神病患者・精神薄弱者・ハンセン氏病患者に対する断種が定められ、遺伝性疾患を有する者が、たとえ遠縁の血縁者にであれ、存在する場合には、不妊化を承認するとされた。だが、この政策は対象者の同意を前提にしており、その点で戦前の法律とは明確に一線を画していた。
 
 
■1962年、非公式会議で高名な生物学者たちが優生学を支持した

1962年、世界中の遺伝学者がロンドンに招かれた。彼らは、「チバ財団」が主催したシンポジウムヘの出席を要請されたのである。出席者リストには、著名な科学者の名前がずらりと並んでいた。DNA二重螺旋の共同発見者であるフランシス・クリック、ダーウィンの進化論を弁護したトーマス・ハクスリーの孫でユネスコの前事務局長ジュリアン・ハクスリー、アメリカの2人のノーベル賞生物学者ヘルマン・ミューラーとジョシュア・レーダーバーグ、それに世界的に高名なイギリスの生物学者J・B・S・ホールデーンなどである。これらの科学者はシンポジウムで遺伝学研究の将来について論じ合った。
 
この会合は非公式であり公開されなかったため、彼らは何ものにもとらわれず、あらゆる観点から議論できると感じた。だが、それによって彼らは、かなり危うい領域にまで足を踏み込んだ。たとえば、フランシス・クリックは、全ての人々が等しく子どもをもつ権利をもつかどうかという問題を提起した。イギリスの生化学者ノーマン・ビリーは次のように答えた。「もし、人々の健康や医療施設や失業保険など公共の福利に対して責任を負わねばならない社会で、誰もが子供をもつ権利があるのかと問われるなら、私の答はノーである」。
 
他方、X線を照射された生物の遺伝子に突然変異が生じることを発見してノーベル賞を受賞したヘルマン・ミューラーは別の観点を持ち込んだ。「おそらく、人口の20%近くが遺伝的欠陥を受け継いでいる。もし、この推定が正しければ、人類の遺伝的劣化を阻止するために、その20%の人々は子孫を残すことを許されるべきではない」。ヘルマン・ミューラーは率直な発言で知られる社会主義者であり、1930年代の数年間、ソ連で研究をしていた。彼の生涯にわたる関心事は人間社会の改善と遺伝学にあり、彼は、自分がその目標に対して重要な責務を果たしたと信じていた。彼の同僚であるジョシュア・レーダーバーグは細菌遺伝学の研究でノーベル賞を得た人物である。彼もまた同様の考えを示した。「人間の出産状況は暗い。もし、我々が遺伝的な改良という創造的可能性を無視するなら、我々は罪深くも、知識の宝庫を無駄にすることになるのではなかろうか」と彼は問いかけ、次のように結んだ。「最近の分子生物学の進展は、人類がこの目的に到達するためのすぐれた優生学的手段を提供してくれる」。これらの人たちはいずれも傑出した科学者であり、その分野を極めた専門家であり、高い名声を勝ち得ている。だが、多くの人々は、彼らのこのような発言に対しては複雑な感情を抱くのではないだろうか。というのは、フランシス・クリックを初めとするこれらの生物学者たちは優生学について肯定的に論じているからである。
 

■人間は「生まれ」か「育ち」か
 
 
「人間の優劣や性質を決めるのは生まれ(遺伝)か、それとも育ち(環境)か」。これは英語でしばしば、“ネイチャー・オア・ナーチャー?”という表現の問いかけとして知られる。1946年、アメリカの優れた遺伝学者セオドシウス・ドブジャンスキーとコロンビア大学のL・C・ダンが一般向けの書物『遺伝と人種と社会』を著した。この本はベストセラーになった。彼らはその中で次のように主張した。
 
「我々は、自分の両親およびその他の祖先が残した一束の可能性として、この世界に生まれ出た。われわれの後天的性質は我々を取り巻く世界によって生じる。だが、後天的性質として何が生じるかは、それを受け取る先天的性質によって決まるのである」。そして、この筆者たちは、先天的なものと後天的なものは分かちがたいと結論している。したがって、問題はどちらがより重要かではなく、むしろ、それらがどう組み合わさって人間の性質を決めるかである。そこで、ドブジャンスキーは次のように問いかける。「人間の遺伝型の違いと、生まれ、育ち、成長した環境の違いは、どの程度人々の間に見られる違いを決定づけているのか」。この記述は、科学がこの問題に対して投げかけ得る最良の疑問であろう。というのは、特定の性質が遺伝によるか環境によるかという問題に対して、これ以上の主張をするなら、そこには政治的な動機が入り込んでいると見るべきだからである。政治的に左寄りの人々の社会運動は常に社会的平等や社会保障に焦点を当てるため、生来的・遺伝的なものの役割を軽視する傾向がある。他方、政治的に右寄りの人々は、遺伝的性質は環境より重要だと考える傾向がある。1960年代、多分アメリカの公民権運動の結果として人種差別に対する社会的関心が高まり、遺伝主義の支持者は鳴りをひそめた。そして、この時期、優生学的な動機に基づく多くの社会政策が撤廃された。1967年、アメリカの最高裁判所は「異人種間婚姻禁止法」を廃止し、また、アメリカ議会は1968年、「移民法」における人種主義的様相を基本的に取り除いた。しかし、“生まれと育ち論争”は終結したわけではなく、恐らく今後も終わりはしないだろう。とりわけ、アメリカでは遺伝主義者側が議論を一歩進め、そこに「知能」の問題をもち込んだ。それは、知能には人種に基づく違いが存在するのかということだ。この論争は1969年、カリフォルニア大学バークレー校の教育学教授アーサー・ジェンセンによって始められた。彼は黒人の知能指数(IQ)が白人のそれよりも低いことを示す研究結果を発表した。それによれば、黒人の知能テストの成績の平均値は白人のそれより15点も低かった。そこで、ジェンセンは、知能の遺伝性は高いと考え、知能テストの成績における人種間の違いについて「遺伝的因子が部分的役割を果たしているかもしれない」と結論した。1970年代はじめ、スタンフォード大学の物理学者ウィリアム・ショックレーは、アーサー・ジェンセンの研究に基づき、黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した。当時、黒人の出生率が高いためにアメリカの平均知能が引き下げられると予測していたショックリーは、財政優遇措置に基づく断種によって、そのような事態を防げると考えた。ショックリーの運動もジェンセンの研究と同じように、一部の人々の支持を得たものの、反対の声の方が強かった。批判の多くは、知能テストの成績における黒人と白人の違いは何よりもまず生活環境に起因するだろうと指摘していた。平均的な黒人は社会の貧困層に属しており、白人に比べて、知的技能を学び磨いていく上で劣悪な環境に生きている。これでは黒人の子どもが知能テストで悪い成績をとるのは当然だというのである。この論争はその後20年以上も経った1995年に再燃した。リチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが『ベル曲線』を発表したのである。彼らはこの本の中で、貧困で大家族の家庭では知能の低い者が平均を上回って多く、知能指数が最高レベルの人々は子どもの数が最も少ないと指摘した。ハーンスタインとマレイは更に別々の環境で育てられた一卵性双生児について行なった知能の遺伝的研究を引用した。これらの研究は、人間の知能の40~80%は遺伝的要素によるものだと結論している。これらの研究や世界各地で行なわれた知能に関する研究を基にして、彼らは、知能指数の高い男女がより多くの子どもをもつよう奨励する一方、知能指数の低い男女の子どもの数がより少なくなるような何らかの政治的措置を講じないかぎり、アメリカ人の平均知能指数は10年ごとに約1%ずつ低下していくだろうと警告した。ハーンスタインとマレイの議論は20年前のジェンセンやショックリーの主張と基本的には変わっていない。ただし、彼らは医学的な不妊を提言したのではなく、貧困層の女性の出産に対する様々な補助を打ち切るべきだと、言い換えれば、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を廃止すべきだと主張した。
■「集団の優生学」から「個人の優生学」へ

ゴルトンから約150年が経過した今、優生学は、科学的にも現実の政策としても概ね失敗に終わったように見える。多くの場合、優生学は政治的な目的のために利用されてきた。しばしば繰り返される粗末な遺伝的議論が、その背後にある政治的意図を覆い隠すことは困難だった。前出のダニエル・ケブルズによれば、「優生学を問題多いものにしているのは、そこに個人やその家族の権利と作り上げられた抽象概念『人種』 『集団』 『遺伝子プール』などが含まれているためだ」という。「優良白色人種の遺伝的繁栄」を目論む積極的優生思想は今ではせいぜいユートピアとして残っているだけである。「優良白色人種の遺伝的繁栄」は全ての白人の遺伝子的情報の操作を必要とするため、たとえ可能だとしても、厳格な監視を前提とする警察国家でしか実現できそうにない。また、それは何世代にもわたる長期戦略があってこそ、うまくいくのであり、比較的短期間で政権交代がくり返される今の世界で実行可能とは思えない。だが、優生学が個人的に自らの意志によって行なわれるなら、とりわけ遺伝病と闘う上ではうまくいくかもしれない。たとえば、サルジニア島やキプロス島の人々は、長い間サラセミアと呼ばれる重い貧血症候群に苦しんできた。これは赤血球中のヘモグロビンを十分に生み出せない血液の病気である。これらの地域では、結婚相手が病気の因子を持つかどうかを調べるために「婚前診断」が行なわれる。また、出生前診断により胎児が保因者であることがわかった場合には「選択的中絶」も行なわれている。結婚相手が保因者であることがわかると、約5分の1のカップルは結婚をやめる。これらの事例は、将来の優生学の方向性を示すものかもしれない。健康な子を産みたいと望む親の“個人的選択”に基づく優生学的措置は認められると思われる。それには新しい生殖遺伝子技術、たとえば、精子の幹細胞の移植、あるいは精子や卵子の遺伝テストが役立つことになるだろう。この種の個人的優生学についても様々な議論が行なわれている。アメリカの高名な生命倫理学者アーサー・カプランの次の言葉はおおいに参考になるのではなかろうか。「我々は自分たちの子どもを環境要因によって(親の期待する人間になるように)形作ろうとしている。ピアノを習わせたり、ほかにも、あらゆる勉強や稽古ごとをさせたりしている。私は、それが誰かを傷つけるのでないかぎり、そこに遺伝学を利用しても誤りではないと考える」。
参考までに優生学の歴史の年表を載せておきます。
●紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者プラトンが「理想社会の支配者は、望ましい男女が交合するようにひそかに手配すべし」と示唆した。

●ローマ時代の人々は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊を崖から投げ落とした。

●1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが『民族衛生学の基本指針』を出版した。この本はドイツ優生学の出発点となった。
●1905年、ドイツに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生した。同様の優生学会はイギリスやアメリカにも相次いで誕生した。

●1907年、アメリカ、インディアナ州で最初の「断種法」が制定され、その後、約30の州で同様の法律が制定された。

●1912年、ロンドンで「第1回国際優生学会議」が開かれた。

●1913年、アメリカの28の州が異人種間の婚姻を禁止した。

●1921年,1924年、アメリカで「移民法」が制定され、西欧・北欧以外の人々のアメリカヘの移住が著しく制限された。

●1929年、デンマークで「断種法」が制定された。その後1937年までにノルウェー・スウェーデンなどヨーロッパの数ヶ国で同様の法律が制定された。
 
●1935年、ナチス・ドイツのSS長官ヒムラーが「レーベンスボルン政策」を開始した。
●1939年、ナチス・ドイツが精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。これにより1941年までに7万人強が殺された。

●1948年、日本で「優生保護法」が成立した。

●1963年、チバ財団のシンポジウムで世界中の生物学者が優生学について議論、高名な科学者たちが優生学を支持する発言を行なった。
 

●1969年、アメリカのアーサー・ジェンセンが黒人の知能指数は白人より低いが、それは遺伝的な要因によるかもしれないと発表した。

●1979年、アメリカで最初の「精子銀行」が設立された。当初、この銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者のみで、また提供を受けられる女性はIQ140以上に制限された(後に男女とも資格がゆるめられた)。

●1995年、アメリカのリチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが大著『ベル曲線』を出版し、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を打ち切るべきだと提言した。

●1990年代後半、遺伝子科学の爆発的発展により、人間の受精卵の遺伝子を子宮着床前にチェックし、問題のある受精卵を廃棄することが医療分野で始まった。
 
 
 
 
 
 
 

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25/5/24]

2013年05月27日 13時39分19秒 | 歴史

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25/5/24]

 

東西冷戦は、作られた構図だった。米ソが裏で手を結んだデキレースだった。

さらに、朝鮮戦争は実に不思議な戦争で、アメリカが国連軍として朝鮮に出兵したが、それが可能となった背景には、国連決議の時に安保理常任理事国のソ連が拒否権を発動せず、欠席したからである。何故欠席したかといえば、当時のグロムイコ外相が後に回顧録で、スターリンから、欠席するように言われたからだと書いているそうである。つまりスターリンは、アメリカが北朝鮮を叩くことに同意していたということだ。

またその時にマッカーサーが北朝鮮をやっつけるための有効な作戦をいくつか本国に提案したところ、そのすべてが拒否された。そしてその後マッカーサーは解任される。教科書では、その理由が、トルーマン大統領が第3次世界大戦に発展することを恐れたからと説明されているそうだが、アメリカは、北朝鮮を壊滅させたくなかったということである。

例えば、鴨緑江の橋をわたって、中国義勇軍が北朝鮮に入ってくるので、この橋を爆破することを提案した時にも、トルーマンからダメだと言われた。なぜかといえば、イギリスの意向を聞かないといけないからと言ったという。そして、イギリスがダメだと言っているということだった。このイギリスを通して、中国軍にマッカーサーの作戦が筒抜けになっていたということを回顧録に書いている。トルーマンの後ろには、イギリスが作戦を立てているということをマッカーサーは匂わせているという。このイギリスというのは、ロンドンのシティのことであり、金融資本だという。

 

今日本を襲っている国難とは、グローバリズムであり、今グローバリズムを推進しているのは、アメリカである。ただし、アメリカという国と言うよりは、アメリカのウォール・ストリートであり、国際金融資本である。アメリカのウォール・ストリートであり、ロンドンのシティである。今ユダヤ資本という言い方はしないが、共産主義を起こしたのは、ユダヤ人であり、ロシア革命は、ユダヤ人によって起こされた。国際金融資本がロシア革命を支援したのであり、また中華人民共和国を支援して建国させたのは国際金融資本である。

馬淵元大使がこれらのことを突き詰めたのは、全て公開文書によって読み解いたことである。

 

この動画の最初の部分を要約すればこうした内容です。馬渕氏が、公開された文書を紹介しながら、意外な事実から必然的にわかってくることを説明されています。なかなか面白いです。このユダヤ資本とか国際資本については、よく言われていますが、これをきちんと公開文書の史料に基き説明されているので、よく理解納得できます。

アメリカの戦略、またそれに合わせて反日運動する中韓、さらにそういう在日外国人をかなり入れているメディアのこと。そして、実はユダヤ人を多く助けた日本国家のことにも話が及びます。

杉原千畝

杉原千畝のことは、十数年前くらいにずいぶん有名になりましたが、当時この人を持ち上げる風潮と同時に、日本の政府は杉原氏のビザ発行に反対だったかのように宣伝されたり、また杉原氏が日本政府によって戦後解任されたかのようなデマが広がっているが全くの捏造である。

戦後は敗戦により、外務官僚の多くが不要になり、多くの人員が整理されたのであり、杉原氏もその一人として退職されたのである。退職金も年金もしっかりともらっておられる。また日本政府がこのビザに反対したということもないのである。ただユダヤ人受け入れの際の条件として、行く先をはっきりすることや、所持品を持っていることとしただけである。しかも日本入国の際には、結局この条件すら無くして全て受け入れたのであり、これは日本政府そのものがユダヤ人を受け入れたのである。

政府が反対しているのにビザを発行するなどということは、本来出来ないことであり、杉原氏以外にも、ビザを発行した人は多くいるのであり、これは、日本政府がOKを出しているから出来たことである。なぜ杉原氏のみを取り上げるのかというと、日本政府を貶めるための嘘を宣伝するためではないか。と言っておられます。

これはたしかにおかしいことで、樋口季一郎と言う軍人で、満州にいた人が、矢張りユダヤ人を多く救って、受け入れているが、これを受け入れるにあたって、当時上官だった東条英機がこの政策に賛成して、日本政府もユダヤ人を救うことに同意して、杉原氏以上に多くのユダヤ人が救われている。当時日本政府は、神武天皇の八紘為宇の精神に習って、人類は皆兄弟であり一つの家族のようにすべきで、人種差別はしないという方針であったからである。

樋口季一郎

いろいろな話に発展していますが、さらに、メディアなどが、日本国家を貶めるために、捏造した歴史ドラマを作成して、しかも「このドラマは歴史に基づいたフィクションです」という断り書きで、責任を巧みに逃れていることが許せないなど、プロパガンダで日本人を洗脳しようとする勢力の話も出てきます。

ぜひ見てみてください。






平泉澄先生の「少年日本史」  

2013年05月24日 00時04分51秒 | 歴史

 戦後の子供たちに正しい日本の歴史を学ばせたいという強い思いをもたれた平泉澄先生が、書き残された少年日本史を紹介致します。先生のはしがきを読んで日本の歴史が正しく子供たちに伝わらないことの無念さと、伝えたいという強い思いが、ひしひしと感じられて感動せずにはおれません。

 皆さんは日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、その言葉、それは皆幾百年前からの先祖より受けついだものだ。それを正しく受けついだ者が、正しい日本人だ。
從って、正しい日本人となる爲には、日本歴史の眞實を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戰敗れた後の我が國は、占領軍の干渉の爲に、正 しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解除せられた。然し歴史の學問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。從っ て皆さんが、此の少年日本史を讀まれる時、それが一般に行なわれている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう。
皆さんよ、人の貴いのは、それが誠實であるからだ。誠實は一切の徳の根本だ。その誠實を守る爲には、非常な勇氣を必要とするのだ。世の中には、自分の慾の 爲に、事實を正しく視る事の出來ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事實を述べる勇氣のない人も多い。今後の日本を携うべき少年の皆さん、敗戰の 汚辱を拭い去って、光に充ちた日本の再興に當るべき皆さんは、何よりも先ず誠實でなければならぬ。そしてその誠實を一生守り通す勇氣を持たなければなら ぬ。日本の歴史は、さような誠實と勇氣との結晶だ。凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成に與る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體で いえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覺をいだいてはならぬ。
私は今、数え年七十六歳だ。從って本書は、皆さんへの、最初の贈物であって、同時に最後の贈物となるであろう。私は戰で疲れ切った心身に、ようやく残る全力をあげて、一氣に之を書いた。
その原稿一千枚。それを私は歴史的假名遣で書いた。それが正しいと信ずるからだ。然し皆さんは學校で、現代假名遣しか學んでいない。よって時事通信杜は、 皆さんの讀みやすいように現代假名遣に改めたいと希望した。私は他日、日本が正しい日本にかえる時、必ず歴史的假名遣にかえるに違いないと信じつつ、しば らくその申入を容認した。

昭和四十五年秋九月     平泉 澄(ひらいずみ きよし)

国家建設   

01 国家建設

 皆さん! 皆さんは、牛若丸を知っていますか?  - そうです。五条の橋の上で、武蔵坊弁慶と一騎打の勝負をして、物の見事に之を負かし、一生忠実な家来にしてしまったかの勇敢なる少年です。それでは、その 牛若丸と、鵯越(ひよどりごえ)の嶮しい絶壁を流れ落しに駆け下りて、一の谷の平家の陣を攻め破った源九郎義経と、両人の関係は、どうですか?  - これも知っていましたか。そうです。両人は、実は同一人なのです。少年時代には、牛若丸と呼ばれ、大人になって、九郎義経と名乗ったのです。そのけじめ は、何時つけられたか、と云いますと、それは元服の時です。元服と云いますのは、今の成人式に当たります。それまでは、児童であり、少年であったものが、 この元服の日からは、大人として待遇せられ、同時に大人としての責任を負う様になるのです。

  それですから、元服の儀式は、厳重に行われました。牛若丸だけは、例外です。これは非常に不運な人でした。生まれたのが平治元年、その年のくれに、父の義 朝はいくさに敗れ、翌年早々殺されてしまったので、牛若丸は母のふところに抱かれたまま、方々逃げ廻ってたあげくにつかまって、鞍馬山に入れられ、修行を していたのが、自分で脱け出して奥州の平泉へ下る途中、近江(今の滋賀県)鏡の宿で、誰も世話してくれる者も無いので自分で元服し、名を九郎義経と改めた のでした。年は十六歳と伝えられますが、それは無論かぞえ年で、満で云えば十五でしょう。

牛若丸の場合は例外として、その他は元服の式は厳重に行われました。例えば八幡太郎義家、これは義経にとっては四代前の先祖に当たります。名高い武将です から、皆さん、知っていましょう。陸奥守に任命せられ、地方の氾濫を鎮定するために赴きました時、勿来の関(今の福島県いわき市勿来町)へかかりますと、 折柄美しく咲きみだれている桜の花が、吹きくる風にサーッと散ってゆく。それを惜しんで義家のよみました歌が、

吹く風を なこその関と 思へども
道もせに散る 山桜かな

と云う、あの有名な一首です。「なこそ」は、漢字をあてれば、「勿来」と書いて、「来てはならない」と云う意味です。「道もせに散る」は、「道も狭く感ぜ られるほど、道一杯に」と云う意味です。弓矢を執っては鬼神の如く恐れられた武将が、散りゆく花を惜しんで、馬上に歌をよむ風流、それは昔から人々の賛美 する所となりました。その義家は、児童の時には、源太と呼ばれていました。それが七歳の時に、石清水八幡宮の神前に於いて元服の式をあげ、よって八幡太郎 義家と名乗るに至ったと云います。

その義家に、弟が二人ありました。一人は義綱、少年時代に何と呼ばれたか分かりませんが、元服しては賀茂二郎義綱と名乗りました。して見ればこの人は、賀 茂の社で元服の式をあげたに違いありません。今一人、末の弟の義光、これは有名です。兄の義家が奥州で苦戦していると聞いて、それに力を添えようとして駆 けつける。その義光に影の如くに附添って来る人がある。それは豊原時秋と云う青年、この人は音楽を家の業としていましたが、父の時元が亡くなった時、子の 時秋まだ幼少であった為に、父から笙の秘曲を授かる事が出来ず、父はそれを源義光に伝えたままで亡くなりました。そこで今義光が合戦の場に赴くのを見て、 跡を慕って追懸けて来たのです。時秋に何も云わず、黙ってついてくる。然し義光には、その心持が分かったので、足柄山(静岡県と神奈川県の境)まで来た時 に馬より下り、人を遠退け、楯二枚を布いて、一枚には自分が座り、一枚には時秋を座らせて、しずかに笙を吹き、秘曲を教えて京都へ帰らせたと云います。勇 敢なる武将ではあるが、同時に芸能にも秀で、人情にも厚い人でした。この義光も、幼名を何と呼ばれたかは分りませんが、元服しては新羅三郎義光と名乗った ので、その元服の式が、近江(滋賀県)の新羅明神(三井寺の北)の神前で行われた事、明らかであります。

鎌倉時代の一般の武士を見てゆきますと、十四、五歳では、まだ何々丸と云い、十六、七歳では、もはや元服して大人の名になっていますから、十五歳前後で成 人の式をあげるのが普通であったろうと思われます。只、人によっては、随分早く元服したので、八幡太郎義家が、七歳で元服した事は、前に述べましたが、北 条時宗も、初めは正寿丸と呼ばれていたのが、七歳で元服して、時宗と名乗ったのでした。何しろ十四歳で幕府の重役となり、十八歳で幕府の代表となって蒙古 との交渉に当たり、二十四歳で外敵をしりぞけ、三十一歳で外国の連合軍百万の大軍を博多湾で皆殺しにした程の英雄でしたから、七歳ですでに大人としての見 識もあり、資格が備わっていたのでしょう。

源義家や、北条時宗は、これは例外として、普通は十五歳前後で元服、即ち成人の式をあげ、それより後は、大人としての待遇を受け、同時に自分は言語にも、 行為にも、完全に責任を負うたのでありました。それまでは、児童であり、少年であるとして、云う事、為す事、大目に見られていたものが、今度は尊敬を受け る一方、責任をもつ様になってきたのでした、即ち元服は、一生の中で大きなけじめをつける重大な時機だったのです。

形の上での元服は、心の上では立志と云う事になります。いよいよ一人前の大人となれば、心が定まり、目標がハッキリしなければなりません。それを「志を立 てる」と云うのです。孔子と云う人を知っていますか。支那の昔の哲人です。キリストよりも、五百年ばかり前に出た人ですが、西洋のキリストや、印度の釈迦 と相並んで、ひろく又長く、人々の心に大きな感銘、深い影響を与えた偉大なる哲人です。その孔子の云われた言葉に、

吾、十有五にして楽に志し、三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。

とあります。十有五は、十五歳です。即ち孔子は、十五歳にして目標を確定し、三十歳の時には足の踏み所がしっかりときまって動揺しなかったと云うのです。
また皆さんは、

男児、志を立てて郷関を出づ、
               

 学若し成らずんば、死すとも還らじ、
骨を埋む、豈ただ墳墓の地のみならんや、

 人間、到る処、青山あり

 
                             

 「将に東遊せんとして壁に題す」釈 月 性


【釈月性(1817~1858)
幕末期、長州藩出身の真宗僧侶。海防の必要を積極的に説いたことから海防僧とよばれる。また吉田松陰らとの親交あり。
 
と云う有名な詩の、吟詠せられるを、聞いた事があるでしょう。その志学と云い、立志と云うのは、その人一生の目標がきまり、方向が定まった事、つまり生涯が一定の軌道に乗った事に、外ならないのです。
                                                   

さて個人において、形の上では元服、心の上では立志と云う事を理解しておいて、之を民族に移して考えますと、民族全体の立志、或いは元服と云うべきもの、 それは即ち国家建設、略して云えば建国であります。日本民族の起原は、遠い遠い昔にさかのぼるでしょう。然しそれは云わばテンデンバラバラであって、そこ には意志の統一が無く、共通の責任が無かったでしょう。それが一つの目標の下に団結し、一つの意志によって統一せられ、他の民族に対して責任をもつように なった時、それは即ち国家建設の成しとげられた時でしょう。

日本民族は、混成民族だと云う人があります。そうではありますまい。無論包容力の強い民族ですから、他の民族を受入れ、之と混合する事は、その例はいろい ろありますけれども、その中心となり、主力となっているものは、全く日本独特の性格をもつものであって、その特徴は、混成によって消されていないのです。 すぐれたる学者の、骨格及び血液の研究によって、日本民族は世界において独特のものであり、その分布は揚子江下流の地方から、沖縄群島を経て、九州、四 国、本州、及びそのまわりの島々に及んでいる事が明らかになってきました。その血液型の研究を見ると、周辺のどの民族をどう混合しても、日本民族にはなら ないのです。

日本民族は、その最も本質的なる血液や骨格の上から考えて、独特の民族である事、確かでしょう。然し若しそれが、国家を建設する事が無かったならば、この 民族は一体どうなったでしょうか。それは揚子江下流地方の民族を考えれば、ハッキリ分かるでしょう。たとえ血液型において、或いはまた骨格の上で、日本民 族と同じであるとしたところが、精神的には全く共通するものを見出し得ないでしょう。国家建設によって、民族がその意志を統一せられ、その団結を固くし、 一つの高い目標に向かって、整然と進んでゆくと云う事が、いかに大切であるか、それを皆さんは分かられたでしょう。繰り返して云う、個人においては立志で あり、元服である、民族においてはその立志に当たり、元服に当たるもの、それは国家建設に外ならない。