小さな自然、その他いろいろ

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ペリリュー英霊が問う戦後精神/新保祐司

2015年04月08日 14時51分40秒 | 日本人の忘れたもの

 ブログ「よい国のニュース」から、『正論』記事「ペリリュー英霊が問う戦後精神/新保祐司」を読んで、深く共感を覚えました。特に、

>明治から大正にかけて諜報活動に従事した石光真清は有名な手記を書き遺(のこ)したが、その中で明治天皇の崩御に触れて「遠く満洲の涯(はて)に仆(たお)れた人々も、一斉に大地から黒く浮び上って、この偉大なる明治の終焉(しゅうえん)を遙(はる)かに地平線の彼方(かなた)から眺めているかに思われた」と書いた。

 追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。>

の部分で、思わず涙がこみあげました。

敗戦後、それまで国のために戦いなくなられた方々を英霊、勇士と崇めてきた国民が、一斉に手のひらを返したように、軍国主義者とか、侵略戦争の手先のように貶めたり、多少かばったつもりでも、軍国主義の犠牲者でした。

しかし、この犠牲者とか、被害者という言葉は、もしかしたら、軍国主義者という以上に、英霊を貶めているのではないかと、よく思ったものです。

犠牲者とか被害者というと、その人には、何ら罪がない、むしろ本来なら賠償される権利があるだとか、あるいは、なんとかわいそうな、気の毒な人だという同情に値するということだと思います。

これは、祖国を守ろうという意志を持って戦ったことを、何の価値もない行為というふうに、否定し貶めることです。しかも、自分の人生をたとえ時代の影響のもとで生きなければいけなかったとはいえ、そこには、やはり主体的にものごとを受け止め、行動した人々が多くいたはずなのに、それをすべて強制された人生であったかのようにとらえるのは、そうした人々の人生をただ流されて生きた木偶の坊的な人生と捉えることではないでしょうか。

たとえば、硫黄島でなくなった人々は、最後まで自決せずに、肉体的苦痛を耐えて戦い、米軍の本土への空襲を遅らせ、時間を稼いだというはなしです。飲まず食わずの中、玉砕せずに生き延びて戦うことの苦痛に打ち克って、なお戦い続け、戦死された英霊に対して、かわいそうな犠牲者などという傲りは、どこから来るのでしょうか。

それらは、戦後GHQに刷り込まれた自虐史観による日本悪玉論を単純に信じているからであり、その洗脳をなお脱しきれない故であり、それこそ戦後教育に流され続けた犠牲者といわねばならないでしょう。

 


 ペリリュー英霊が問う戦後精神/新保祐司

8日から天皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で戦没者を慰霊される。これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。

 《「海ゆかば」を知らない日本人》

 戦後60年の年には、サイパン島に慰霊の訪問をされた。そのときも、先の戦争を深く回想する契機を与えられたが、サイパン島は、バンザイクリフなどによって玉砕の島として日本人に知られているであろう。戦争の記録映像などでも、よく出て来るからである。

 しかし、そのサイパン島や硫黄島などに比べてペリリュー島の方は、慚愧(ざんき)の至りであるが、戦後生まれの私も、この島の名前を知ったのは、そんなに古いことではない。日本人の多くが、知らなかったのではないか。
そのような島に天皇、皇后両陛下が訪問され、戦没者を慰霊されるということは、戦後70年間、大東亜戦争を深く記憶することを怠りがちであった日本人の精神の姿勢を厳しく問うものである。戦後の日本人が、いかに民族の悲劇を忘れて生きてきたかを叱責されるようにさえ感じる。

 今年1月3日付本紙の「天皇の島から」の連載で、ハッとさせられる話が載っていた。パラオ共和国の94歳になる老女が取り上げられていたが、明快な日本語で「君が代」を歌い上げ、続けて「海ゆかば」を口ずさみ始めたという。歌詞の内容も理解していた。

 この記事を目にしたとき、戦後60年の年に両陛下がサイパン島を訪問されたときのエピソードを思い出した。敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという話である。玉砕の悲劇を回想するとき、島民の心からおのずから「海ゆかば」が湧き出てきたのであろう。それに対して、日本人の方が「海ゆかば」を知らないのである。
《日本が失ったものの大きさ》

 このように「海ゆかば」を通して先の戦争を記憶しているサイパン島の島民やパラオ共和国の老女に比べて、日本列島の島民はどうであるか。私もそうであったが、ペリリュー島を忘れていたではないか。サイパンやパラオの島民はずいぶん貧しいかもしれない。しかし、歴史の悲劇と戦没者を忘れないという精神においてどちらが品格が上であろうか。それを思うと、戦後70年間、日本が経済的発展の代償として失ったものの大きさに改めて気づかされる。

 ペリリュー島については、40年ほども前に産経新聞社の前社長の住田良能氏が、支局時代にとりあげていたことを最近知って感銘を受けた。1978年、本紙の茨城県版に掲載された「ペリリュー島’78」には、「犠牲の大きい戦いであっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後、太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は『制空、制海権を手中にしていた米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである』と述べ、また米軍公刊戦史は『旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』と讃(たた)えた」と書かれていた。
この「旅人よ、日本の国を」は名訳といっていいが、この文章の原型は、紀元前480年のギリシャでのテルモピレーの戦いを讃えた碑文につながっている。テルモピレーの戦いといえば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』初版の跋文(ばつぶん)に、三島由紀夫が「感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである」と絶賛したことを思い出す。

 戦艦大和の激闘が、テルモピレーの戦いの如くであったように、ペリリュー島の激戦も、テルモピレーの戦いであったのである。

 《両陛下の慰霊に合わせ黙祷を》

 この玉砕を悲惨な戦争とか戦没者を戦争の犠牲者とか決して言ってはならない。テルモピレーの戦いのように「祖国」のために戦った勇者に他ならないからである。

 天皇、皇后両陛下が慰霊される時刻には、終戦記念日の正午に国民が黙祷(もくとう)をささげるように、ペリリュー島の戦没者に国民が黙祷するようにしてはどうであろうか。これまでほとんど忘れていたことに対するおわびも兼ねてである。
そして、今年の8月15日の全国戦没者追悼式には、「海ゆかば」を流してはどうか。明治から大正にかけて諜報活動に従事した石光真清は有名な手記を書き遺(のこ)したが、その中で明治天皇の崩御に触れて「遠く満洲の涯(はて)に仆(たお)れた人々も、一斉に大地から黒く浮び上って、この偉大なる明治の終焉(しゅうえん)を遙(はる)かに地平線の彼方(かなた)から眺めているかに思われた」と書いた。

 追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。そして、われわれはその視線に戦後の精神の在り方を厳しく問われることになるのではないか。(しんぽ ゆうじ)

 

 


 「心のノート」は「これはまるで修身教科書だ」 左翼はどうして道徳教育を嫌がるのか。

2013年01月14日 09時46分02秒 | 日本人の忘れたもの

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

私の家には、なぜか戦前の中等学校の教科書が何冊か残っていて、私はその中の修身教科書を手にとって、一体どんな内容だろうかと開いてみたことがありますが、いわゆる左翼のいうように国家に都合のいい人間に洗脳するための教科書というものでは決してないと感じました。

日本や世界の偉人を取り上げながら、いかに自立した精神力の強い人間を育てるか、また他人を思いやる心を育てるか、人間のあらゆる善なる心を育てようかと努めているという印象でした。それは子供の未来への大変深切な思いやりから、また日本の健全な国民を育てるという意図を持って編纂されていました。

多くの国に、この日本の修身教科書が雛形となって似たものが作られたと聞きますが、これはそのまま翻訳して世界中に広めても通用する内容でした。決して日本人が他国を見下すためになどという狭い国家観で書かれているものではありません。

記事中に左翼の主張が乗っていますが、その中に善意を装った人権否定の積み重ねから生み出される家族愛、友情、奉仕、愛国心、他民族や他国を見下す国家的な優越感。じわじわと子どもたちに植え付けていく過ちと書いてありますが、他民族や他国を見下す国家的な優越感で戦争を行ったのは、むしろ白人諸国です。植民地経営の非人道性を見れば明瞭です。

人種差別撤廃を掲げて戦ったのは日本です。歴史上、勝者が歴史を作ると言われ、勝者は善であり、敗者は、いかにも悪であるように歴史が塗り替えられるのが通常です。占領政策で如何に悪逆な国と貶められたか、その真実を見ずに、戦前を悪と思い込んでいては、今の世のいじめや家族崩壊などの社会の悪化は止められません。

ニュースで聞く、いじめの様子は、まるで今の教育現場が、力の強い弱い、立場の強い弱いなどで決まる恰も北朝鮮のような社会主義国の内部のようではないですが、そこには道徳という精神的な教えがなく、弱肉強食の力関係でいじめが発生して、それを止める力が存在しないように思えます。

たしかに過去にもいじめはあったかもしれませんが、このように陰湿だったり、一斉に見て見ぬふりをするしかないような社会は異常です。

心のノートが始まった時に、これが使われたことで、かなりいじめが減ったという事も聞きました。心の問題は、精神的なものの考え方で正すしかないのです。人類が過去から積み重ねて道徳という善と感じるものは、たいてい民族を超えて世界的に普遍な徳目となっているものです。そのようなものを教えることが押し付けということで教えられなかった弊害は、教えられた場合の弊害よりも少ないとは思えません。

戦後廃止された教育勅語をほんとうに読んだことのある人が何人いるでしょうか。教育勅語は悪いと教えられただけで、実際に見てみた人は少ないと思います。ところが実際に見てみると、本当に当たり前のことが書いてあるのです。人間として当たり前のことが、それを悪だとして排斥したきたところに、その当たり前のことが出来ない人間が増えた原因があるように思います。

人間として当たり前のこと、それを押し付けと言わずに素直におしえること、そうしないと、権利ばかり主張するわがままな人間ばかりがのさばるようになるのです。

 

 

 

 

 「心のノート」は「これはまるで修身教科書だ」「これはあぶない」と警戒する。左翼はどうして道徳教育を嫌がるのか。

 

 

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「心のノート」復活 政権ごとに変わる教育 現場当惑
子 どもの心に教育がどこまで踏み込むべきか-。導入時に議論を呼び、民主党政権では中止された道徳副教材「心のノート」の小中学校への全児童・生徒への配布 が、自民党の政権復帰で復活しようとしている。政権交代ごとにコロコロと施策が変わることに「教育現場の声にもっと耳を傾けてほしい」と切実な声が上が る。
 
「心 のノート」は、神戸の連続児童殺傷事件(一九九七年)など深刻な少年事件が相次ぎ、いじめや不登校が社会問題化したことを受け二〇〇二年度から文部科学省 が配布。小学校の低、中、高学年用と中学生用の四種類あり、思いやりや友情の大切さに加え、愛国心なども盛り込まれた。中学生用には「我が国を愛しその発 展を願う」などの記載があり「一定の方向に子どもを誘導することにつながりかねない」との批判も出ていた。民主党政権による事業仕分けで、約三億円の予算 は削減され、一〇年度からは配布を中止。必要に応じ、文科省のホームページからダウンロードして使用するよう改めた。
 
十一日に公表された一三年度予算の概算要求には、全校配布の費用が盛り込まれた。さらに、一三年度中に省内に有識者会議を立ち上げ、改訂版をつくる方針だ。「モ ラルを教えることは大切だが、心のノートが本当に役立つとは思えない。子どもに刷り込もうとする大人の思い上がりではないか。学校で現実に起きていること を題材に、子どもたちに考えさせることが大切だ」。都内の中学の男性教諭(60)は指摘する。「教育が政治の道具に使われる危険を感じる」
(2013.1.12 東京新聞)
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「政権交代ごとにコロコロと施策が変わる」と書く東京新聞ですが、その政権交代を煽ったのはマスコミです。マスコミが反省しない、自覚もない、ことが一番の問題なのです。
そ の上で、日教組から支持された民主党が政権になると教育が大きく変わることは誰もが感じていたことでしょう。日教組と言えばもともと日本を破壊するのが目 的で出来た団体であり、暴力革命ではなく教育で革命を起こそうという輩ですから、日本にとって正しいことをするわけがないのです。
 
民主党政権は教育事業を“国会審議”ではなく“事業仕訳”というやり方で凍結、縮減しました。「心のノート」をはじめ、「伝統・文化活動」、「読書活動」、「食育推進」、さらには日教組が反対する「学力テスト」、「体力テスト」もです。
学力テストは国民の7~8割が必要だと賛成していましたが、民主党政権はサンプル方式と変更したのです。国民の意向より日教組の意向を重視したということです。
また教員の免許更新制度も日教組の猛反対で予算を削減して取りやめしようとしていました。
 
東京新聞に限らず左翼は「心のノート」に批判的です。なぜか?
心のノートに反対する団体の主張を以前記事に書きました。ここで一部抜粋します。
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「心のノート」の真の狙いと5年・10年先の学校の姿を予測したときの恐ろしさを、教職員だけではなく保護者や市民の方々にも知っていただき、事態への警戒と強制反対の共同行動を呼びかけます。
戦前の「国民学校」世代の元教員は口を揃えて「直感した」と言います。
「これはまるで修身教科書だ」「これはあぶない」「しかも極めて巧みで悪質だ」
軍国少女・少年に育て上げられた自分自身の経験から即座に発せられた重みのある言葉です。
 
「日の丸・君が代」を強制したのと同じように「心のノート」の使用とその内容に即した道徳教育を全ての学校と教員に強制しています。
すべての子どもたちに国家が作成した一律の教科書を義務づけることは、争う余地なく「国定教科書」の復活に他なりません。内容も教材も指定した形で道徳教育を上から強制するのはよくありません。
 
「心 のノート」は自由や権利の主張や行使を自ら抑制し、我慢して義務を果たす国民になるように教え込みます。子どもにはどのような権利があり、権利行使がいか に大切であるかに全く触れることなく、「自由は自分勝手と違う」や、「社会の秩序や規律を高めるために」「権利の正しい主張=義務を果たすこと」を教え込 もうとしています。
 
思いやり、感謝、公正・公平、命の尊さなど一般的な徳目を並べ立てることによって消し去られているのは、障害者差別、性差別、民族差別、差別や環境破壊、貧困、戦争などの現実の矛盾です。
一方で「自分で考え、判断し、実行する」人間になることを勧めながら、社会矛盾に目を向け、社会や国家に対する批判的精神を育てることを学校から排除することを狙っています。
善意を装った人権否定の積み重ねから生み出される家族愛、友情、奉仕、愛国心、他民族や他国を見下す国家的な優越感。じわじわと子どもたちに植え付けていく過ちを、二度と許すわけにはいかないのです。
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戦前を直視せずにすべてを”悪”と否定し、被害妄想と反国家の思想がにじみ出ています。
道徳に反対する人たちは、日本が今これほどまでに社会が荒廃し、モラルもルールも守らない連中による事件や事故が多発していることを道徳観の欠如だと思わないのでしょうか。
 
かつて、明治天皇はなぜ「教育勅語」を発したのか。
明 治の初めは西洋のものをどんどん取り入れ、富国強兵に邁進したため、一方では西洋の個人主義的な考えまで入り込み、道徳教育がおろそかにされていたので す。その結果、子供達のモラルなどの荒廃が顕著になって日本の将来を不安に思われ、教育勅語を渙発することになったのです。今の日本と同じような状況では ないでしょうか。
 
「心のノート」を一度ご覧になられた方はご存知でしょうが、道徳教材としては写真や絵が多過ぎる気がします。やはり昔の「修身」の教科書のような文章でしっかり感じて学べる道徳教育こそ今の日本に必要であると思います。
「修身」を読むと改めて戦前の教育レベルの高さを感じるとともに、「修身」の復活こそ日本を取り戻す正しい教材であると思えるのです。
 
今の教育は日本人から自信を失わせ、日本のよさを教えず、愛国心もない国民を育てようとしています。ここに「修身」の一節があります。
 
日本よい国 きよい国。世界に一つの神の国。
日本よい国 つよい国。世界に輝くえらい国。
 
読んだだけでも日本人として心が洗われる気がしませんか。
 
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国難に克つ

2013年01月09日 12時58分35秒 | 日本人の忘れたもの
美味し国からの転載です。


 か つて武藤貞一氏は、主権がバラバラの国民各自にある日本の戦後の体制を、「糸の切れた無数の凧が勝手放題に空中に舞っているようなものである。この状態は 無重力の宇宙に似ている」と形容した。宇宙船で宇宙に行くと、飛行士も、その中で使うあらゆる道具も、水も食物も、フワフワと漂ってあちらこちらに行って しまう。地球の中心へと引っ張る引力のない世界では、すべてのものは安定せずにばらばらになってしまうのである。
 
 
 二年前くらいに、百歳を超えた高齢者の所在が不明であるとか、若い母親が、育児放棄の末に幼い子供をマンションに放置して餓死させたという事件は、現代人がこれほど都 会でひしめき合っているように見えながら、家族や地域のつながりの切れた孤独な個人が、まさに武藤氏の言う糸の切れた凧のように、バラバラに存在している のだということを痛感させられた。

 戦後、日本の家族は核家族になり、更にはその核家族さえ今はいとも簡単に瓦解し てしまう。
「家」という概念がなくなったからである。

 家というのは建物のことではない。祖先と個人の一体感のことである。自分の命が悠久なる幾千万の祖先 の恩恵を受けながら命をつないできて、今ここに自己として集約しているのだという気持ちがないから、いま生きている自分だけのことしか考えない。

 個人の権 利の前には、祖先を無視し、親を無視する。自由に恋愛する権利、自由な性交渉の権利、そこに親が口をはさむ権利はない。なぜなら憲法にはっきり結婚は両性 の合意に基くと規定されているからである。そしてまた合意が壊れれば、解消するのも簡単である。個人の快楽追求の権利は基本的人権として、最大限に憲法で 保障されているのである。

  いま生きている個人の権利だけを優先するのは、国家の運営においても同じである。日本という国を作り上げ、国を守りぬき、ここまで発展させてきた先人への 感謝やその歴史の継承などほとんど顧みることのない政治が続いている。国への求心力を失った国民は、自己の権利をめぐって、国を相手取って訴訟を起こし、 国と国民は対立する概念となった。

  主権者である国民はまた、思想信条の自由を保証され、集会、結社の自由も保証されている。この考え方を多くの人は当然だと思われることであろう。ところ が、アメリカのような自由主義国では、その体制に反逆する共産主義政党を非合法化している。韓国でも同様である。そして共産主義国家は、一党独裁で、かつ てのソ連や、現在の中国も、共産主義に刃向かういかなる勢力も許さず断固として弾圧しているのである。

 つまり今の体制を覆すような思想活動を許していない のである。しかし日本では、思想信条の自由を最大限に認め、その今ある自由を奪うであろう革命、国家転覆を目指す思想活動すら自由であるとされているので ある。

 オーム真理教がサリン事件を起こした時でさえ、破防法は適用されず、いまだにオーム真理教の後継の組織は解散を命ぜられることなく続いている。 

 ま たかつての学生運動が盛んであったときは、全学連はあきらかに革命を目指していた。全学連の指導者たちのバイブルであった『日本革命の根本問題』には、日 本革命は武力革命であると宣言し、その革命の手順が書いてある。第一に自衛隊を内部から麻痺させ、第二に全国主要街道をバリケードで封鎖し、第三に首都東 京で市街戦を展開する。・・・・・・などと書いてある。

 しかしそれにも拘らず、現行憲法で保障された集会、言論、結社、表現の自由を盾にとって、取り締ま ることの方が違憲であるという判決うけるごとき有様なのである。学生が東大の安田講堂を占拠しても、その学生の一人も退学処分を受けることもなく、学問の 自由という名目のもと、大学が要請しなければ警察も大学に踏み込むことすら出来なかった。しかも当時その大学には多くの税金が投じられていたのだ。 

 幸い革命などというものはおこらなかったが、もしそうした暴動が発生した場合は、都道府県知事は自衛隊出動による暴動鎮圧も要請できるようになっているが、当時の美濃部都政では、自衛隊はおろか、警察機動隊の増員にすら真っ向から反対した。

  ここに地方選挙の重要性が顧みられるのである。地方の知事など、革新であろうが保守であろうが、その地方の住民の福利を増進してくれたらそれで良いという 考えで、知事選挙に臨んでいると、国家的な非常事態を生じたとき、革命のような暴動を自衛隊に阻止してもらうことが出来ないかも知れないのだ。むしろ思想 の親和性によってはそれを幇助するような知事がでる可能性すらあるのだ。

 このような国と地方の対立、国と国民の対立、みなバラバラに権利を主張する日本の現状、これが日本国憲法が定めた国民主権の実態なのである。

  古来より日本は、国家の帰趨すべき中心引力として天皇を戴いていたのである。戦後この引力たる天皇を、政治の圏外に追放してしまったから、落ち着いて安定 すべき中心がないのである。もともと一人ひとり意見の違う国民が主権者ということは、頭がいくつもあるヤマタノオロチのように国家の意思がいくつもあると いうことなのである。暫定的に多数決で意志を決めてはいても、その意志は常に移り変わって安定しない。

  明治の帝国憲法は古来よりの日本の歴史と伝統を近代的な憲法の中に美しく融合させた憲法として、当時世界でも絶賛されたという。日本では古来から天皇が国 の重心としての役割を果たしていたため、国家的な危機や変革の時に、国民を一つに帰一させ、国家の内乱や分裂を防いで、外国に侵略されて植民地になること もなく来た。

  国家の統治の大権は常に天皇にあり、幕府も帝国議会や内閣も天皇よりその権限を委託されたのである。一人ひとり考えも本来違う国民が、天皇という中心を持 つことで、日本人は、ひとつの家族のようにまとまってきたのである。歴代の天皇が、常に無私の心で国民を大切にいつくしまれてきたことは、歴史を調べれば それが決して嘘ではないことがわかる。

 だからこそ、どんなに貧窮されても続いてきたのである。日本の天皇は、祈る君主であり、祈りこそ最大の役目であっ た。それが西欧の君主との絶対的な違いであり、西洋の民主主義が、君主から民衆の権利を獲得することで発展した歴史と、日本の歴史との違いを、はっきり認 識すべきなのである。

 西洋と日本との人間観の違い、世界観の違い、自然観の違い、そうしたものがあって、それぞれの歴史があるのである。西洋の歴史を、 そっくり日本の歴史に当てはめて、西洋と同じ用語で、日本の歴史を語ることは、日本の国、日本の歴史の個性を無視し、間違った認識に陥らせることになると 思うのである。 

 

 

 

 
 
 
 
わが国を取巻く状況は肇国以来最悪の状況と言っても過言ではありません。
現代のわが国は第四の国難と言われております。第一の国難は鎌倉時代の元冠の 時、第二の国難は明治維新、第三は大東亜戦争前後。いずれも国家存亡の危機に直面しました。しかしその国難に奇蹟がもたらされ、どの危機も乗り越えること ができたのです。奇蹟は何故もたらされたのでしょうか?。

それは国が一致団結したからです。中心帰一したからです。神仏を重んじ畏くも天皇陛下と皇室を奉じ、そして尊皇の志篤い、見事なリーダーが出現しました。しかし現代、平成の第四の国難はどうでしょう。国や国民は一致団結しているでしょうか?。
帰一とは、別々の事柄が、同一のものに帰着することを言います。
畏くも天皇陛下と皇室をしっかり戴いているでしょうか。この第四の国難はどうやら今迄と違うようです。

果たして奇蹟は起こるでしょうか?。かって「やまと魂」「日本人としての矜持」を持っていたわが民族も戦後六十数年を経て日本人は骨抜きになり、ました。 だから現在(いま)、ただ混迷を深めるばかりで国家は漂流し、右往左往し、いまにも沈没寸前の状況です。即ち亡国の危機なのです。第四の国難は日本とは何 なのかを忘れた危機なのです。かっての国難を切り抜けた優れたリーダーも見当たらず、多くの国民が危機と認識していないことこそ今迄と違うのです。それこ そが大変な危機なのです。

奇蹟が起こる要素がないのが大危機。政治、経済、教育全ての根本にあるものは日本の霊性、感性です。だからわが国の霊性、感性を立て直す作業から始めなけ ればならないのです。それが祈りです。祭祀を中心とした神事です。往古の昔より、わが国は政(まつりごと)は祭り事(まつりごと)と言いました。祭政一致 です。
過去の危機はまだ日本に霊性が生きていたため乗り越えられたのです。
民主党政権は、尊皇の志もなく酷いものでした。
幸いにして現在の安倍首相は尊皇の志篤く、伝統を尊ぶ方です。
何があっても反日勢力より安倍首相を護らねばなりません。
「美しい国 日本」再生、回帰の為にも・・・・





祖国日本を思う心

2013年01月07日 12時13分34秒 | 日本人の忘れたもの

美し国(うましくに)からの転載です。

日本人は古来より、万物に神が宿り、人間もまた神の子孫という自覚をもって、自然万物人間同士が和の心をもって調和する社会をめざしてきました。そしてその和の中心となるべきお方を天皇(すめらみこと)と仰いで、助けあい譲りあう社会を形成してきました。それは神を祀ることを一番に使命とされる無私なる存在である天皇を中心としてきたからです。

チャンネル桜で聞いた話ですが、東日本大震災では、アメリカ軍がトモダチ作戦として、大いに支援をしてくれましたが、その時に、アメリカ軍には海外への災害支援部隊のマニュアルというのがあって、それはこうした大災害の起こった地域は人間の獣性というものがあからさまになることが多く、我先に物を奪う、他人を犠牲にしても自分が生き残ろうとする、そんな傾向が顕著で、そのために支援部隊が襲われたりして、非常に危険を伴う任務となるので、そのための注意事項が詳細に隊員たちの心得として配られていたというのです。

ところが日本に支援に行ってみると、むしろ自分の被害はさて置いても、他を心配し、自分達のところはいいから、「あちらにもっとひどい被害を受けたところがあるからそちらから助けてくれ」とか、現に怪我している人が、「私はいいから、あの人をまず助けてくれ」という人々がほとんどだったというので、アメリカ軍がひどく感動したという話でした。

人間は普段は皆同じように生活していますが、こうした非常時にその本性があらあわれます。日本人はこうした非常時には普段以上に冷静になると言われます。皆が全体のために自分を抑えて行動することが自然にできる国民です。

そのような国民が古来から自然発生的に創りだした国柄が万世一系の天皇を中心とする国柄であり、それは国民性の中に無私で全体のために奉仕したい和の心が、その中心者に無私なる存在を置くのであり、国民自身の中にある人間の尊厳を自覚する心が天孫降臨の神話を生み出し、現御神としての天皇を中心とする国柄を創りだすのであり、これは全く国民性が生み出し創作する国家という一つの芸術なのだと思います。

西洋の支配非支配の考えが強い君主の国柄は、西洋の人々の合理的科学的なものの考え方などからくる国民性による国柄であり、この支配非支配の構図を世界の普遍的な史観として日本に当て嵌めたことが、近代のマルクス主義などの唯物史観であり、これによって、恰も日本の天皇を専制君主のように考えたことで、日本は日本なるものを見失い、日本的な考えや伝統を悪として破壊し続けてきました。特に戦後はアメリカのウォーギルト・インフォーメーション・プログラムの占領政策によって、自虐史観がはびこり、日本の個性としての大切な物が悪として切り捨てられる一方でした。

現代の荒廃が、一体何から来ているかといえば、和の心を失った、権利中心主義、個人中心主義、快楽追求的唯物民主主義の行き過ぎから来ていると言わざるをえません。

 

 

 

祖国日本を思う心

 

ふるさと 合唱

 
 
筆者がいつも悲しく思うことは同じ日本人でありな がら本当に同じ日本人なのかと考えさせられる時です。この国に生まれ、この国の恩恵によって生かされ、守られている人生の現実を思う時、先人たちの血と涙 と汗によって築かれて来た歴史の重さを感じざるを得ません。どれだけ多くの犠牲と苦労の上に私たちは今日があるのでしょう。

その先人の血と涙と汗によって築かれて来た歴史の重さを思う時、先人たちが信じて捧げてきたものへの共感、同化なくして御国の将来は決して無いと言っても 過言ではありません。それを否定し、批判することは先人たちの否定、自らのルーツの否定に他なりません。冒涜(ぼうどく)そのものと言えるでしょう。何 故、同じ日本人でありながら全く異人種の日本人が蔓延る(はびこ)ることになったのでしょうか?

それはGHQの占領、強制政策でした。先ず、公益無私、即天去私、滅私奉公、大家族破 壊、君民一体などの日本人の美徳の破壊にほかなりません。その上に、人権、自由、個人主義、平和、平等と言った欧米流のものを浸透させて行ったのです。そ れにより誤まった、歪んだ人生観が日本全体を支配するようになりました。同胞への愛、社会、御国への感謝、神仏やご先祖への感謝は蔑(ないがし)ろにされ たのです。
新聞は政党に非ず。メディアなのです。メディアの 本義はあくまでも「中間にある媒介物」でなければならないはずです。情報を透明に公正に伝える役目こそが原点です。NHK、朝日新聞などは完全にメディア の域を逸脱し、ある意図と戦略を持って国民の洗脳に近い操作を行っています。本当に同じ日本人なのだろうか。戦後唯物思想教育によって歪んだ人生観を持っ た人間は間違いなく歪んだ国家観を持つに至るのです。
正しい人生観にあるものは人間は物質に非ず、肉体に非ず、霊魂(みたま)そのもの永遠の生命であることが判るのです。その私自身の魂の永遠こそ日本という国の生命、永遠、真実を捉えるのです。正しい人間観こそ正しい国家観へ繋がるのです。
拙ブログでも幾度となく紹介させていただきました が、わが国は世界で唯一、神代の時代から連綿と続く皇統を戴いている国家です。他国にも神話から続く王朝を戴く例がいくつかありましたが、今ではすべて途 絶えています。わが国の皇統とは、まさに日本民族の「連続性の象徴」であり、日本人は歴史の連続性を基に独特の精神性を有するに至った民族なのです。日本 がただ一つの国家だけで固有の文明を形成しているゆえんは、その連続性にこそあるといえるでしょう。
占領軍が日本の国民精神を壊してしまうまでは、祖国のお陰を蒙って生きていることを、皇恩といって感謝し、崇敬しました。
畏くも天皇陛下のお陰で、私たちが毎日生きているのを感謝することを意味していた。
「皇恩」というと、今日の多くの日本人が「民主的で はない」「古い」といって、過去の亡霊のように斥けてしまう風潮があります。東日本大震災後、畏くも天皇皇后両陛下が被災民を真心こめて見舞われた。当時 の菅首相が避難所を訪れて、被災者から「もう帰るの?」と詰められたのと、何と大きく違っていたことか。多くの国民が、天皇陛下あっての御国だと心を打た れた。
今日、日本は125代目の天皇を戴いている。そして、古代から「天皇に 私(わたくし)なし」といわれてきたが、125代のなかで贅ぜいに耽ふけられた天皇陛下は、一人としておいでになりません。
日本 のご歴代の天皇陛下は大規模な天災に見舞われた後に、第45代の聖武天皇が「朕(ちん)の教化に足らざるところがあった」、第51代の平城天皇が「朕の真 心が天に通じず天災を招いたが、この災いについて考えると、責任は朕一人にある」、第56代の清和天皇が「朕の不明を恥じ、恐れるばかり」といって、 詔(みことのり)のなかで自分の不徳を責めている。多くの天皇が災いを自分に帰している詔を発せられた。
畏くも今上陛下におかれましても、常に被災地、被災された方々に思いをよせられておられる。
一般参賀でもその叡慮を賜わりました。
筆者には、政治的発言をなされない陛下が、遅れている被災地の復興、同胞同士の排斥、誹謗中傷を戒め、かっての日本人への回帰を促されている叡慮と感じました。
天皇陛下の存在は有難い。天皇陛下は私心を持たずに、つねに国民のために祈ってきた。 ここにも、日本の美しい国柄が表われているのです。
 
多くの方々が故郷で、実家でお正月を迎えられたことでしょう。
かって日本は大家族主義でした。皆が仲良く同じものを食し祝い、今年が良き年であることを念じ、祈り、正月をともに過ごしました。そこに家族が共にあることを喜んだのです。戦後、家族制度の崩壊で家族が散り散りになりました。
正月や8月のお盆や何かの行事には、「どんなことがあっても生まれ故郷へ」という回帰性を持ち、「故郷を思うこころが、御国の為に」祖国日本を思う心に通じてほしいと筆者は願ってやまないのです。
 
 
 
 

転載元 転載元: 美し国(うましくに)


日本人の忘れたもの・・・慰霊のこころ

2012年07月27日 22時01分30秒 | 日本人の忘れたもの

美し国(うましくに)からの転載です。

戦後、国のためという言葉が死後になって以来、私たちは国のために命を捧げた人びとのことも顧みなくなってしまいました。国家がその国のために命を捧げた人を国をあげて慰霊もしなくなリました。子孫はそんな人のいたことすら知らないままで過ごしています。世界の国々がみな自国の為に命を捧げた先人を敬い、永久に記憶に残そうと毎年セレモニーをおこなう中で、日本のみが戦没者をあえて心にとどめまいと心から消し去ろうとしているかのようです。

こうした子孫の仕打ちを英霊たちはどのような悲しみを持って見ているでしょうか。天皇陛下と一部の遺族だけが心から慰霊の気持ちを持たれているのでしょう。政府は終戦記念日にも、靖国神社に一人の閣僚もお参りしなかったのです。

これは、結局三木首相が私人表明の参拝をしたこと、さらに中曽根首相の時に中国の内政干渉を受けて参拝中止をしたこと、それらが民主党内閣で実を結んだと言えます。国家が英霊たちの慰霊を国をあげて行わなくても良いということにしてしまったのであり、それは英霊への裏切りと言えます。死者との約束を破る、こんなことが許されるのでしょうか。

 

 

 

天皇、皇后両陛下 御尊影「全国戦没者追悼式」 平成23年



今年も67回目の8月15日がやってきます。
筆者も例年姫路・護国神社に参拝、護国の神々を偲び、感謝の誠を捧げています。
日本全国で
戦没者追悼式が行われます。
大東亜戦争を知らない世代が日本の総人口の2/3になり、
戦没者追悼式典に参列される方々も高齢化が進み、戦没者に対する「慰霊のこころ」が年々気薄になっています
靖国神社では、粛々と参拝される遺族の方々の神経を逆撫でするような反日デモが毎年、靖国神社周辺にて行われています。
このような奇怪な行動は世界的に見てもわが国だけではないでしょうか?

平成12年8月12日、
バレンツ海において演習中、ロシア海軍・北方艦隊 の原子力潜水艦「クルスク」が沈没し、 乗員118人全員の死亡が確認されるや、各国政府は一斉に追悼 の意を表明しました。ロシア政府の事故への対応のまずさや情報の 隠匿が国際的に強く批判されましたが、それとはまったく別に 他国の軍人であっても、国家のために一命を捧げた人々に敬意 を表するのは国際常識です。

他国の将兵に対する追悼として感銘深いのは、大東 亜戦争の 緒戦、昭和17年5月31日に日本海軍の特殊潜航艇がはるば るシドニー軍港を攻撃した際のオーストラリア側の対応であす。  潜水艦で運ばれた3隻の潜航艇は、それぞれ2名の乗員が乗 り込み、シドニー港内の軍艦攻撃を図ったが、1隻は途中で防 潜網に引っかかり自爆、もう一隻は軍艦クタバルを撃沈するも、 砲撃を受けて湾外に出た所で沈没。最後の一隻は岸壁に激突し て故障したため、乗員の松尾敬宇大尉と都竹正雄二等兵曹は拳 銃で自決しました。
オーストラリア軍のシドニー地区海軍司令官グールド少将は、 小さな潜航艇で大胆にも軍港内に侵入して攻撃をしかけてきた 日本将兵の志気に感銘を受け、湾内に沈んだ2隻を引き揚げて、 松尾大尉ら4人の軍人を海軍葬の礼で弔いました。
そして次のように讃えています。

「これらの日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も が認めるべきであり、一様に讃えるべきである。このよう に鉄の棺桶に乗って死地に赴くには、最高度の勇気がいる。 これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧 げるオーストラリア人が果たして何人いるのであろうか。」と・・・・
海軍葬の模様はオーストラリア全土にラジオ放送され、松尾大尉ら 4人の棺は日本国旗で覆われ火葬に付された。特殊潜航艇は今 もキャンベラの戦争記念館に保存されています。

同日、マダガスカルのディゴアレス湾に停泊する イギリス海軍艦船に対しても、特殊潜航艇による攻撃が仕掛け られ、戦艦1隻、タンカー1隻が沈められた。これに対しては イギリスの首相チャーチルが、ノーベル文学賞を受けた「第2 次大戦」の中で、「二人の日本海軍軍人は祖国のために献身し、 類いまれなる功績をたてた」と賞賛しています。国同士 が戦い合っていても、祖国のために一命を捧げた英霊への尊敬 と哀悼の意は、人類として共有するまごころなのです。

しかし、日本政府は、
戦没者追悼式典は行われても、護国の神々の御霊に対しては、国を挙げて行なっていません。残念でなりません。
戦争を知らない世代に
慰霊の意味を理解するのは容易ではありません。


パリを訪れた日本人旅行者なら、かならずといって良いほど、ドゴール広場に立つ「凱旋 門」を訪れる。しかし、これがフランス国民にとっては戦歿同胞を追悼する記念碑であり、無名戦士の遺骨が埋葬されている聖なる場所だと知っている人は少な いだろう。第一次大戦に散った無名戦士の遺体が大正9年、パンテオン(万神殿、フランス国家に献身した文武の偉人の埋葬所)から凱旋門の下に移された。無 名戦士の一遺体にすべての戦没者者を代表させているのである。凱旋門とは生還した出征兵士を迎えるだけでなく、生きて母国に帰れなかった戦没者を迎える所 でもあるのであるのです。冗談を言いながら、記念写真をとっている日本人観光客の姿を「心ない」人々だと思っているフランス人もいるかもしれないのです。

 ハワイにある太平洋国立記念墓地では、日本人観光客は戦歿者の墓石を跨いだり紙屑を散らかすから、バスの中から見学してもらうことにしたと言われています。
 
 
 
坪本公一氏




水中慰霊祭


 

大東亜戦争中に沈められた我が国の軍艦や商船を水中撮影 し、そこでの慰霊、遺骨収集を行なっている方がいます。昭和11年生まれの大阪の坪本公一さ んです。(上記画像左)


昭和48年にトラック諸島を訪ねた時、海底に沈ん でいる日 本海軍の沈没艦船を見て、この艦と運命を共にした幾多の将兵 を思うと胸が痛くなった。もう一度本格的に撮りたいと再渡航 の準備をしている時に、テレビで「坪本さん達が今度トラック 諸島で水中慰霊祭をやる」との情報が流され、全国の遺族から 数千通の手紙と山のような供え物が送られてきた。  現地で富士川丸という沈没船の甲板に祭壇を作り、これらの 供え物をお供えして、水中慰霊祭を行った。これがテレビ放送 されて、また大きな反響を呼んだ。  トラック島で主人を亡くされた未亡人からは「海中慰霊祭の 最中にはずっとテレビに向かって手を合わせていました」とい う便りが来た。その終わりの方には娘さんの添え書きで「母を いつの日にか父の終焉の地に連れていきたい、それが私に残さ れた唯一の親孝行だと思います」と書かれてあった。  これに胸を締め付けられた坪本さんは、それからさらにグア ム、サイパン、パラオ諸島、フィリピン、ニューギニアなどを 巡って沈没艦船の写真撮影をし、遺族とともに慰霊祭を催して こられました。

坪本さんは、慰霊祭の体験を次のように語られています。  
皆さん、現地へ向かう途上ではわりとなごやかなんです が、いよいよその海域に到着して慰霊祭に臨むと様子が一 変します。故人の名を泣き叫ぶ方。故人からの最後の手紙 をそっと開き、涙される方。ファィンダーが涙で曇って見 えなかったことが幾度あったことでしょう。  
レイテ海戦に参加した戦艦「扶桑」乗員のある遺族は、 海面をじっと見つめ、「兄貴、来たぞ!」と叫んだ瞬間、 ぽろぽろ涙が海上にこぼれ落ちました。「兄貴、一緒に帰 ろうな」と、レイテ島の石を拾い、それを兄と思って持っ て帰るというんですね。  慰霊祭の後、甲板の縁に駈け寄って「親父」と叫んで海 に飛び込んだ男性もいました。お父さんの顔も知らずに育 った遺児の方でした。真下にお父さんが眠っている。「こ れで俺も親父と一緒になれた」と。
終戦五十年の年には、パラオ諸島で給油艦「石廊」の水中慰霊を七十歳の方と行い、全国で放映された。
それを見ていたのが当時、七十七歳だったある老人。 彼はその日からずっと日本海で泳ぎの練習を続けたという。
沈没から六十年を迎えた一昨年、八十六歳になっていた彼に、水中慰霊祭をやるから来るかと尋ねたら、即座に「行く」という答えが返ってきた。
二人で現地へ向かい「ここ(船上)から花束を投げるか」と言ったが、彼は 「いや、潜ってやらせてくれ。死んでも俺はやる」
と言う。結局水深二十五メートルまで潜り二人で慰霊を行った。船が沈没した当時、老人は部下二十人を率いる上等機関兵だったという。
自分だけが偶然、機関室を離れていたところへ直撃弾が落ち、そこで部下全員の命を失った。
六十年もの間、部下たちを思い続けてきた老人の気持ちは、一体いかほどのものであっただろう


 そういう思いが喉まで出かかって戦後を生きて来た人が たくさんいる。そして報道などで私のことを知って「ア ッ」と思うわけです。故人終焉の地に行って慰霊したいと いう長年の悲願を叶えたいと、ワラをもつかむ思いで私に 連絡して来られるのです。こういう遺族の心に思いを馳せる時、我々の心は自分の事ば かり考えて個我に閉じこもった状態から、他者に向かって開か れた状態になり、他者の苦しみ、悲しみを感じ取れるようにな る。それが慰霊の心である。
戦争の傷跡が姿を消していきつつある現在、 太平洋各地にいまも残る艦船は、
沈没した当時のまま、英霊の遺骨とともに朽ち果てていく運命にある。

しかし今日の日本を考える時、私はこの平和の礎となってくれた英霊たちの存在を思わずにはいられない。

坪本氏の嘆きは、護国の神々の御霊の嘆きであり、瀕死の状況にあるわが国への、わが民族への警鐘でもあるのです。

「海征かば 水漬く屍・・・」
67年の歳月、虚しく波にいたぶられてきたのかと思うと、心が痛み、言葉がありません。
わが民族の護るべき「誇り」の為に、莞爾として散りし御霊に国家は何を以って報わんや・・・・
敢然と散りし御霊に幾多の御霊に、後世の我々は如何に応えん・・・

 

転載元 転載元: 美し国(うましくに)