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優生思想は弱い者イジメの思想

2015年03月18日 12時51分32秒 | 歴史

優生思想が、白人至上主義とつながっており、残酷な植民地支配をもたらしたことは知られていますが、これはほんとうに恐ろしい考え方だと、この記事を読んでつくづく思いました。この考え方は、唯物思想の極地であり、それゆえに利己主義の極地だといえるのではないでしょうか。

この優生思想で思い出すのは、次の文章です。

「 日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下することのように思います。獣と接するときは、それを獣として扱わねばなりません。」

これは 広島・長崎への原爆投下に対して、アメリカのキリスト教団体がトルーマン大統領に抗議した際の、公式回答書に書かれていたものです。

アメリカが日本本土に向けて、原爆投下や東京を始め数十万の民間人を大空襲で焼き殺したその残虐性の裏には、このような日本人蔑視の思想があります。

そして日本人が二度と立ち上がれないようにと、自分たちに歯向かうことのないように日本民族の精神改良を試みたのが、占領政策であり、特にウォーギルトインフォメーションプログラムと言われるものだったのです。

これらが、優生思想とつながっていることは明らかです。

さらには、優生保護法という中絶を認める法律も、日本の議会が成立させたように偽装はしていますが、日本人の人口減少政策であり、徐々に民族を衰退させる意図があり、これもやはり優生思想からくる政策だったと思います。

この優生思想は今では失敗が認められてなくなったかのように見えますが、記事を読むと、決して絶滅することなく、形を変えて生きているようです。知恵の木の実を食べて、神と等しい力を手に入れた人間は、すべてを支配せずにはおれないのかもしれません。

 


 
 
 
「優生思想は
       弱い者イジメの思想」
  
下記、コピペしましたが
興味のある方は検索して御調べ下さい。
 
 

 
 
  平成27年3月18日(水) 
 

 
スポーツハンティング
 
スポーツハンティング(Sport Hunting )とは
スポーツマンシップに則り娯楽のために行われる狩猟行為のこと。オーストラリア人による人間のスポーツハンティング。
 
サフル大陸(オーストラリア大陸)では、1788年(天明8年)よりイギリスによる植民地化がはじまるにつれ、動物のみならず、原住民であるアボリジニ(人間)をスポーツハンティングするようになる。
 
1803年にはタスマニアへの植民が始まってからは、同じくタスマニア島のアボリジニに対するスポーツハンティングが行われ、さらには、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成され、島を一列で縦断し島民をすべて虐殺した。このようなアボリジニへのスポーツハンティングの背景には、アボリジニを人類以前の類人猿とみなす人種差別的な当時の考え方があった。
 
なお、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。
 
 白豪主義とアボリジニの悲劇
 
先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より

 
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

 

しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。

 

   920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。
 
  1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。
 
ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。
 
 
 
セルドア・ルーズベルト「素質の劣った人々が子孫を残さぬように望むと共に、犯罪者は断種、そして精神的に病を患うものは子供をもつことを禁止するべきである。」これは、第26代アメリカ合衆国大統領のセルドア・ルーズベルトの残した言葉です。
 
 
優生学はイギリスのゴールトンに端を発し、その思想はナチに受け継がれ、後のユダヤ人の大量虐殺につながった・・・というのが、一般的によく知られている史実だと思います(→優生学)。
 
 
しかし、実はゴールトンとヒトラーはとても巨大な力によってつながれていたということはあまり知られてはいないようです。その巨大な力こそがアメリカ合衆国でした。アメリカにはよいところも数多くありますが、光と陰で言うならばこれは陰の面であり、強調するのも問題ですが、知らないと「とんでもない歴史」を繰り返すでしょう。
 
キ―ワードは「優生思想」です。
 
 
 
まず、優生学には2つの性格があります。先のルーズベルトの言葉にあるような、望まれない性質をもった人間を排除しようとするやり方を、「消極的優生学」と言います。
 
また、ルーズベルトは「優秀な素質をもった人々には子供をつくることを奨励すべきである。」とも言っています。
 
この思想は「積極的優生学」と定義されます。犯罪や貧困に加え、白人至上主義に代表されるような人種差別が横行していた当時のアメリカにおいて、優生学は上流または中流階級の人々に受け入れられました。
 
 
■優生学を強く支持した20世紀初頭のアメリカ
 
ゴルトン以後の数十年間、優生学は上流階級を著しく重視する形で根づき、次第に人種主義的色彩を帯びるようになった。とりわけアメリカでは、この風潮に対する強い支持が見られた。20世紀初頭のアメリカ大統領でノーベル平和賞を受賞したセオドア・ルーズベルトは、自らが優生学の支持者であることを公表していた。彼は、アングロサクソン系の男女が十分な数の子供を残すことができなければ、それは“人種的自殺”につながると警告した。
 
1905年~1910年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマであった。1920年代から30年代初頭にかけてのアメリカの優生学は「消極的優生思想」を直接的に実行する制度を生み出すことになった。(これがホロスコートの起原です。弱い立場の者を消す。)
 
 
アメリカは連邦レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が精神疾患や精神遅滞の人々を対象にする断種法を制定した。1907年~1960年までの間に少なくとも6万人が断種法の適用を受けて不妊にさせられた。
 
この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5千人に達した。この時代(1933年~1938年)には、ナチス・ドイツの消極的優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者等を大量殺害するまでになった。
 
1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。この作戦では約7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺害された。
 
 
 
●中世ヨーロッパのキリスト教社会では“望まれない子”を公共の場に遺棄した。正常な子どもは拾われることもあったが、障害をもつ子どもは見捨てられた。
 
 
●1883年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンが「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。

●1933年、ナチス・ドイツで「断種法」制定●1948年、日本で「優生保護法」が成立。

■ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチス・ドイツの「T4作戦」

いくつかの国がアメリカに倣って断種法を制定した。カナダのアルバータ州は1928年から1960年まで断種政策を実施し、それによって数千人が不妊化された。
 
ヨーロッパで最初に断種法を制定したのは1929年のデンマークであり、次いでドイツが1933年に、ノルウェーが1934年に、スウェーデンとフィンランドが1935年に、エストニアが1936年に、さらにアイスランドが1937年に断種法を制定した。同様の法案は第一次世界大戦前にイギリス・オランダ・ハンガリー・チェコスロバキア・ポーランドなどでも審議されたものの、制定されなかった。
 
 
1920年代のドイツでは優生学的政策はまだ強い反発を招くものだった。実際、1925年のドイツ国会では、遺伝的理由で目が見えない人、遺伝的理由で耳が聞こえない人、てんかん患者、精神薄弱者に対する強制断種を規定した法案が審議されたが、まったく賛意を得られなかった。それが劇的に変化したのは1933年1月にナチスが政権を握ってからである。1933年7月、ドイツで断種法が制定された。この法律により強制断種された人の総数は20万人~35万人と言われている。
 
 
この時代(1933年~1938年)には、ナチス・ドイツの消極的優生政策は、“遺伝に由来すると見られる疾患を有する者”に対する断種に止まっていた。しかし、ナチス・ドイツの優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者等を大量殺害するまでになった。1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。この作戦では約7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺害された。
 
 
第二次世界大戦後、各国の優生政策は以前より小規模になったが、カナダとスウェーデンでは1970年代まで精神障害者に対する強制断種を含む大規模な優生政策が実施され続けた。日本では不良な子孫の出生の抑制を目的とする「優生保護法」が1948年に制定された。この法律では、遺伝性疾患を有する者だけでなく、遺伝性以外の精神病患者・精神薄弱者・ハンセン氏病患者に対する断種が定められ、遺伝性疾患を有する者が、たとえ遠縁の血縁者にであれ、存在する場合には、不妊化を承認するとされた。だが、この政策は対象者の同意を前提にしており、その点で戦前の法律とは明確に一線を画していた。
 
 
■1962年、非公式会議で高名な生物学者たちが優生学を支持した

1962年、世界中の遺伝学者がロンドンに招かれた。彼らは、「チバ財団」が主催したシンポジウムヘの出席を要請されたのである。出席者リストには、著名な科学者の名前がずらりと並んでいた。DNA二重螺旋の共同発見者であるフランシス・クリック、ダーウィンの進化論を弁護したトーマス・ハクスリーの孫でユネスコの前事務局長ジュリアン・ハクスリー、アメリカの2人のノーベル賞生物学者ヘルマン・ミューラーとジョシュア・レーダーバーグ、それに世界的に高名なイギリスの生物学者J・B・S・ホールデーンなどである。これらの科学者はシンポジウムで遺伝学研究の将来について論じ合った。
 
この会合は非公式であり公開されなかったため、彼らは何ものにもとらわれず、あらゆる観点から議論できると感じた。だが、それによって彼らは、かなり危うい領域にまで足を踏み込んだ。たとえば、フランシス・クリックは、全ての人々が等しく子どもをもつ権利をもつかどうかという問題を提起した。イギリスの生化学者ノーマン・ビリーは次のように答えた。「もし、人々の健康や医療施設や失業保険など公共の福利に対して責任を負わねばならない社会で、誰もが子供をもつ権利があるのかと問われるなら、私の答はノーである」。
 
他方、X線を照射された生物の遺伝子に突然変異が生じることを発見してノーベル賞を受賞したヘルマン・ミューラーは別の観点を持ち込んだ。「おそらく、人口の20%近くが遺伝的欠陥を受け継いでいる。もし、この推定が正しければ、人類の遺伝的劣化を阻止するために、その20%の人々は子孫を残すことを許されるべきではない」。ヘルマン・ミューラーは率直な発言で知られる社会主義者であり、1930年代の数年間、ソ連で研究をしていた。彼の生涯にわたる関心事は人間社会の改善と遺伝学にあり、彼は、自分がその目標に対して重要な責務を果たしたと信じていた。彼の同僚であるジョシュア・レーダーバーグは細菌遺伝学の研究でノーベル賞を得た人物である。彼もまた同様の考えを示した。「人間の出産状況は暗い。もし、我々が遺伝的な改良という創造的可能性を無視するなら、我々は罪深くも、知識の宝庫を無駄にすることになるのではなかろうか」と彼は問いかけ、次のように結んだ。「最近の分子生物学の進展は、人類がこの目的に到達するためのすぐれた優生学的手段を提供してくれる」。これらの人たちはいずれも傑出した科学者であり、その分野を極めた専門家であり、高い名声を勝ち得ている。だが、多くの人々は、彼らのこのような発言に対しては複雑な感情を抱くのではないだろうか。というのは、フランシス・クリックを初めとするこれらの生物学者たちは優生学について肯定的に論じているからである。
 

■人間は「生まれ」か「育ち」か
 
 
「人間の優劣や性質を決めるのは生まれ(遺伝)か、それとも育ち(環境)か」。これは英語でしばしば、“ネイチャー・オア・ナーチャー?”という表現の問いかけとして知られる。1946年、アメリカの優れた遺伝学者セオドシウス・ドブジャンスキーとコロンビア大学のL・C・ダンが一般向けの書物『遺伝と人種と社会』を著した。この本はベストセラーになった。彼らはその中で次のように主張した。
 
「我々は、自分の両親およびその他の祖先が残した一束の可能性として、この世界に生まれ出た。われわれの後天的性質は我々を取り巻く世界によって生じる。だが、後天的性質として何が生じるかは、それを受け取る先天的性質によって決まるのである」。そして、この筆者たちは、先天的なものと後天的なものは分かちがたいと結論している。したがって、問題はどちらがより重要かではなく、むしろ、それらがどう組み合わさって人間の性質を決めるかである。そこで、ドブジャンスキーは次のように問いかける。「人間の遺伝型の違いと、生まれ、育ち、成長した環境の違いは、どの程度人々の間に見られる違いを決定づけているのか」。この記述は、科学がこの問題に対して投げかけ得る最良の疑問であろう。というのは、特定の性質が遺伝によるか環境によるかという問題に対して、これ以上の主張をするなら、そこには政治的な動機が入り込んでいると見るべきだからである。政治的に左寄りの人々の社会運動は常に社会的平等や社会保障に焦点を当てるため、生来的・遺伝的なものの役割を軽視する傾向がある。他方、政治的に右寄りの人々は、遺伝的性質は環境より重要だと考える傾向がある。1960年代、多分アメリカの公民権運動の結果として人種差別に対する社会的関心が高まり、遺伝主義の支持者は鳴りをひそめた。そして、この時期、優生学的な動機に基づく多くの社会政策が撤廃された。1967年、アメリカの最高裁判所は「異人種間婚姻禁止法」を廃止し、また、アメリカ議会は1968年、「移民法」における人種主義的様相を基本的に取り除いた。しかし、“生まれと育ち論争”は終結したわけではなく、恐らく今後も終わりはしないだろう。とりわけ、アメリカでは遺伝主義者側が議論を一歩進め、そこに「知能」の問題をもち込んだ。それは、知能には人種に基づく違いが存在するのかということだ。この論争は1969年、カリフォルニア大学バークレー校の教育学教授アーサー・ジェンセンによって始められた。彼は黒人の知能指数(IQ)が白人のそれよりも低いことを示す研究結果を発表した。それによれば、黒人の知能テストの成績の平均値は白人のそれより15点も低かった。そこで、ジェンセンは、知能の遺伝性は高いと考え、知能テストの成績における人種間の違いについて「遺伝的因子が部分的役割を果たしているかもしれない」と結論した。1970年代はじめ、スタンフォード大学の物理学者ウィリアム・ショックレーは、アーサー・ジェンセンの研究に基づき、黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した。当時、黒人の出生率が高いためにアメリカの平均知能が引き下げられると予測していたショックリーは、財政優遇措置に基づく断種によって、そのような事態を防げると考えた。ショックリーの運動もジェンセンの研究と同じように、一部の人々の支持を得たものの、反対の声の方が強かった。批判の多くは、知能テストの成績における黒人と白人の違いは何よりもまず生活環境に起因するだろうと指摘していた。平均的な黒人は社会の貧困層に属しており、白人に比べて、知的技能を学び磨いていく上で劣悪な環境に生きている。これでは黒人の子どもが知能テストで悪い成績をとるのは当然だというのである。この論争はその後20年以上も経った1995年に再燃した。リチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが『ベル曲線』を発表したのである。彼らはこの本の中で、貧困で大家族の家庭では知能の低い者が平均を上回って多く、知能指数が最高レベルの人々は子どもの数が最も少ないと指摘した。ハーンスタインとマレイは更に別々の環境で育てられた一卵性双生児について行なった知能の遺伝的研究を引用した。これらの研究は、人間の知能の40~80%は遺伝的要素によるものだと結論している。これらの研究や世界各地で行なわれた知能に関する研究を基にして、彼らは、知能指数の高い男女がより多くの子どもをもつよう奨励する一方、知能指数の低い男女の子どもの数がより少なくなるような何らかの政治的措置を講じないかぎり、アメリカ人の平均知能指数は10年ごとに約1%ずつ低下していくだろうと警告した。ハーンスタインとマレイの議論は20年前のジェンセンやショックリーの主張と基本的には変わっていない。ただし、彼らは医学的な不妊を提言したのではなく、貧困層の女性の出産に対する様々な補助を打ち切るべきだと、言い換えれば、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を廃止すべきだと主張した。
■「集団の優生学」から「個人の優生学」へ

ゴルトンから約150年が経過した今、優生学は、科学的にも現実の政策としても概ね失敗に終わったように見える。多くの場合、優生学は政治的な目的のために利用されてきた。しばしば繰り返される粗末な遺伝的議論が、その背後にある政治的意図を覆い隠すことは困難だった。前出のダニエル・ケブルズによれば、「優生学を問題多いものにしているのは、そこに個人やその家族の権利と作り上げられた抽象概念『人種』 『集団』 『遺伝子プール』などが含まれているためだ」という。「優良白色人種の遺伝的繁栄」を目論む積極的優生思想は今ではせいぜいユートピアとして残っているだけである。「優良白色人種の遺伝的繁栄」は全ての白人の遺伝子的情報の操作を必要とするため、たとえ可能だとしても、厳格な監視を前提とする警察国家でしか実現できそうにない。また、それは何世代にもわたる長期戦略があってこそ、うまくいくのであり、比較的短期間で政権交代がくり返される今の世界で実行可能とは思えない。だが、優生学が個人的に自らの意志によって行なわれるなら、とりわけ遺伝病と闘う上ではうまくいくかもしれない。たとえば、サルジニア島やキプロス島の人々は、長い間サラセミアと呼ばれる重い貧血症候群に苦しんできた。これは赤血球中のヘモグロビンを十分に生み出せない血液の病気である。これらの地域では、結婚相手が病気の因子を持つかどうかを調べるために「婚前診断」が行なわれる。また、出生前診断により胎児が保因者であることがわかった場合には「選択的中絶」も行なわれている。結婚相手が保因者であることがわかると、約5分の1のカップルは結婚をやめる。これらの事例は、将来の優生学の方向性を示すものかもしれない。健康な子を産みたいと望む親の“個人的選択”に基づく優生学的措置は認められると思われる。それには新しい生殖遺伝子技術、たとえば、精子の幹細胞の移植、あるいは精子や卵子の遺伝テストが役立つことになるだろう。この種の個人的優生学についても様々な議論が行なわれている。アメリカの高名な生命倫理学者アーサー・カプランの次の言葉はおおいに参考になるのではなかろうか。「我々は自分たちの子どもを環境要因によって(親の期待する人間になるように)形作ろうとしている。ピアノを習わせたり、ほかにも、あらゆる勉強や稽古ごとをさせたりしている。私は、それが誰かを傷つけるのでないかぎり、そこに遺伝学を利用しても誤りではないと考える」。
参考までに優生学の歴史の年表を載せておきます。
●紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者プラトンが「理想社会の支配者は、望ましい男女が交合するようにひそかに手配すべし」と示唆した。

●ローマ時代の人々は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊を崖から投げ落とした。

●1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが『民族衛生学の基本指針』を出版した。この本はドイツ優生学の出発点となった。
●1905年、ドイツに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生した。同様の優生学会はイギリスやアメリカにも相次いで誕生した。

●1907年、アメリカ、インディアナ州で最初の「断種法」が制定され、その後、約30の州で同様の法律が制定された。

●1912年、ロンドンで「第1回国際優生学会議」が開かれた。

●1913年、アメリカの28の州が異人種間の婚姻を禁止した。

●1921年,1924年、アメリカで「移民法」が制定され、西欧・北欧以外の人々のアメリカヘの移住が著しく制限された。

●1929年、デンマークで「断種法」が制定された。その後1937年までにノルウェー・スウェーデンなどヨーロッパの数ヶ国で同様の法律が制定された。
 
●1935年、ナチス・ドイツのSS長官ヒムラーが「レーベンスボルン政策」を開始した。
●1939年、ナチス・ドイツが精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。これにより1941年までに7万人強が殺された。

●1948年、日本で「優生保護法」が成立した。

●1963年、チバ財団のシンポジウムで世界中の生物学者が優生学について議論、高名な科学者たちが優生学を支持する発言を行なった。
 

●1969年、アメリカのアーサー・ジェンセンが黒人の知能指数は白人より低いが、それは遺伝的な要因によるかもしれないと発表した。

●1979年、アメリカで最初の「精子銀行」が設立された。当初、この銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者のみで、また提供を受けられる女性はIQ140以上に制限された(後に男女とも資格がゆるめられた)。

●1995年、アメリカのリチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが大著『ベル曲線』を出版し、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を打ち切るべきだと提言した。

●1990年代後半、遺伝子科学の爆発的発展により、人間の受精卵の遺伝子を子宮着床前にチェックし、問題のある受精卵を廃棄することが医療分野で始まった。
 
 
 
 
 
 
 

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