サイタニのブログからの転載です。
逃げるイザナミノミコト、追いかけるヨモツシコメにイカヅチの軍隊、ここは冒険小説のように、面白いですね。
いろんな物を投げると、それが野ぶどうやタケノコに変わって、それを敵が食べている間に逃げるという発想もおもしろいですよね。普通なら、投げたものが敵にダメージを与えるというのが普通ではないかと思うのです。ところが反対に敵が喜んで、食べている。だからその間に逃げる。逆転の発想ではないでしょうか。
そのせいか、なんか必至で逃げながらも、変に悲壮感がなく、平和な感じがありますよね。
伊耶那岐命(いざなぎのみこと)は、一所懸命に逃げましたが、死神(しにがみ)の
すると野ぶどうのつるがあたり一面におい茂り ー 野ぶどうの実(み)が、
死の国の軍隊は、追いかけるのを忘れて、目の前の野ぶどうの実を食べるのに

追いつかれそうになつた命(みこと)は、こんどは右の髪(かみ)にさしていた
櫛の歯が地面におちると、によきによきとたけのこが生えてきました。
黄泉醜女たちは、そのたけのこを見ると、もう追いかける事はたちまち忘れて
雷神(いかずちのかみ)たちは、たつまきのような速さで追いかけて来て、すぐ
命(みこと)は十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、うしろ手に振りながらこれを
後手(しりえで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを
猶追(なおお)いて
黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時
其の坂本に在(あ)る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて
待ち撃(う)てば
悉(ことごと)に逃(に)げ返(かえ)りき
爾(ここ)に伊耶那岐命(いざなぎのみこと)
其の桃子(もものみ)に告(の)りたまいしく、
葦原中国(あしはらのなかつくに)に有(あ)らゆる宇都志伎青人草
意富加牟豆美命(おおかむずみのみこと)という名を賜いき。
自(みずか)ら追い来ましき。
ここ山りびきいわよもつひらさかひさ
爾(ここ)に千引石(せんびきいわ)を其の黄泉比良坂(よもつひらさか)に
各対(あいむき)き立たして事戸(ことど)を度(わた)す時
伊耶那美命(いざみのみこと)言(もう)したまわく
「愛(うつく)しき我(あ)が汝兄(なせ)の命、かくしたまわば、
汝(みまし)の国の人草(ひとぐさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)を
「愛(うつく)し我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)
汝(みまし)、しかしたまわば
吾(われ)、一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てん」
とのりたまいき。

「あやういところを助けてくれて、本当にありがとう。お前は、今私を助けてくれた
命は大急ぎで、千人もかかって引くほどの大きな岩を引いてきて、道をふさいで

主人公となって発展していくということが説かれているのです。
(水蛭子・淡島・黄泉国のことです)』
最 近少し忙しくて、ちょっと更新がなかなか思うようにできない時があります。数日、そんな感じで、ブログを放置している間に、さくらの花びらさんの記事がど んどん更新されていて、このかたの記事は読むといつも転載せずにおれないような感銘を受ける記事が多いのです。そこでとりあえず、さくらの花びらさんの水曜の記事を転載させて頂きました。
日 本の教科書なのに、日本を激しく悪者にして書いてあるのが日本の歴史教科書です。最近は既に、いろんな検証がなされて、これらの書いてある歴史が捏造であ ることも分かって来ているのです。今の歴史教科書は、占領軍による贖罪意識を植えつけて、二度と白人たちに逆らわないようにという洗脳のための歴史であ り、それをそのまま、占領後も占領軍の意思を引き継いだ共産主義者たちが、その方針を続けているのです。
河 村市長が南京大虐殺はなかったと思うと発言し、マスコミなどから、「何故素直に発言を撤回しない?」などと社説で叩かれ、政府は地方問題だと、名古屋と南 京市の問題であるかに責任逃避しており、経済界からは、日中関係が悪くなって経済に影響が出たら困るなどと言われながらも、信念をもって、発言は撤回し ないとおっしゃったことは、敬意に値すると思います。
鈴木史朗さんも、河村市長と同じ事を言っておられました。鈴木さんのお父さんが、終戦時に親切にしてもらったというのです。
大 体、あの当時の支那は統一された支那の軍隊はいなかったのであり、人種部族も多く、皆が日本を敵視していたわけではないのです。だから国民党の蒋介石 は、督戦といって、同じ支那人を鎖でつないで逃げられないようにして、戦わせるのです。これはアメリカ人などの白人が、現地人を日本兵と戦わせようとする 時に、縛り付けて逃げないようにして、銃を持たせて撃たせたり、背後から逃げようとすると撃ち殺して、前に進んで戦うしかないようにして、戦わせるやり方 です。
ま た、当時蒋介石くらい、支那人民を虐殺した人間はいない、と石原都知事なんかが言っていた気がします。同じ支那人でも、平気で殲滅するのです。それに、占 領した所をあとから来る日本兵が困るように、その街全体を破壊し、焼き討ちしたりして、何も残らないようにする作戦をよくとったといいます。
マスコミはこの南京虐殺に関して、全く検証しようとする姿勢もなく、ないと主張する説の説明すらしません。説明すれば、ない方が信憑性が高いことがわかりますが、真実が明らかになる方が困ると思って、やらないのではとすら思います。



【人の心に灯をともす】http://merumo.ne.jp/00564226.html よりの転載です。一本の名木を愛でるのが本来の花見だそうです。こういう情緒は日本人ならではの感性ですね。桜の花が静かに咲いているのは、華やかさがあるとはいえ、何処かわび、さびに通じるものがあり、花の下に立つ、西行や芭蕉の姿を思い浮かべてしまいます。

『江戸の庶民の朝から晩まで』の中から、心に響く言葉より…
江戸で桜の名所として有名だったのは、上野の寛永寺だ。
この花見の習慣、もともとは「一本桜」といって、一本の桜の名木を楽しむものだった。
江戸には、三十三桜と呼ばれる名木があり、三間もあるような大きな老木が珍重された。
そして、たとえば武家であれば、酒をひょうたんに入れてお供をひとり連れ、その名木の下へ行って花を愛でながら酒を嗜(たしな)む。
町人でも教養のある者は、静かに歌を詠んだりして過ごす…これが本来の花見だったのである。
ところが、天保(1830年)の頃になると、「飲んで食べて騒ぐのが花見ってもんよ」という江戸っ子連中が現われた。
なにしろ、この連中は飲んでおおはしゃぎするのが目的だから、一本桜などには目もくれない。
「いっぺんに咲いていたほうが派手でいいじゃねぇか」というわけで、やがて桜の木がズラリと並んでいる場所が、人気のお花見スポットになっていったのである。
めずらしいところでは、吉原遊郭でも花見をすることができた。
といっても、もともと吉原に桜の木はない。
毎年三月になると、よそから桜の木を移植してきて、わざわざ桜並木をつくったのである。
「昨日まで ない花の咲く 面白さ」と川柳にも詠まれているが、夢を売る吉原ならではの手の込んだ趣向であった。
『江戸の庶民の朝から晩まで』KAWADE夢文庫
毎年この時期になると、「深山(みやま)の桜」の話を思い出す。
深山の桜は山奥にひっそりと咲く一本桜の大木だ。
はじめの頃は、誰も気づかないので、そこまでの道がない。
しかし、何年かたつうち、人々の間で少しずつ知られるようになり、多くの人が通い、その桜木までの道ができる。
さらに年月が過ぎると、道はさらに太くなり、ふもとに家も建ち、店もできる。
深山の桜は、自ら誇ることもしないし、宣伝することもない。
人や店も同じで、その人(店)に本当の魅力があるなら、威張ったり、虚勢をはらずとも、その人(店)にひと目会いたいと国中から人は集まる。
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛禅師)

桜は己を誇らず、ただ咲いて、ただ散っていく。
深山の桜のような、魅力ある人でありたい。
日本の底力さんが、TPPのニュース
【「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」。野田佳彦首相は24日の都内での講演で、TPP交渉参加を検討している日本の立場を、英人気ロックバンドのメンバーに例えて説明、政府の方針に理解を求めた。
首相は「日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない」と強調。その上で「米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない」と述べ、日本の交渉参加への決意を重ねて示した。】
について、「わからない。例えがさっぱりわからない。野田総理、例えというのは自分の言いたいことをわかりやすく相手に伝えるために存在するものだ。それがなんだ。TPPの何に関連して、日本はポール・マッカートニーなんだ。」とおっしゃっていた。
私もそう思います。こんな人に、日本の舵取りを任せていて大丈夫なのでしょうか、すべて官僚任せではないのでしょうか。官僚がきちんと国益を判断できればいいですが、省益や出世、あるいは米国の思惑に媚びることが習慣になっているとかがあれば、日本の国民はいい迷惑です。大体何のために政治家がいるのでしょうか。
今日も消費増税の党内議論の話で閣議決定するとかしないとか言っていました。野田総理は不退転の決意とか言われてますが、きちんと経済がわかって言っているのか、官僚に言わされているのか、いくら言葉だけは勇ましくても、信念の感じられない言葉は、言えばいうほど頼りなく、不安ばかり募りますね。深山の桜とまで行かなくても、せめて、少しくらい実力や魅力が今の政治家に欲しいものです。
国際派日本人養成講座からの転載です。
張作霖爆殺事件は、歴史教科書でも日本軍がやったと習いましたし、当時もそのように考えていたようですが、どうやらソ連が真犯人のようです。
日本人は外国の工作というものに、あまり疑いを持ってなかったというか、国際関係というものに、慣れていない国だったということですね。これは島国で、長年にわたって、内向きでやって行く時代が長かったということからきている、仕方のない特徴なんでしょう。或る意味馬鹿正直な国だったということです。
さらに戦後は、東京裁判の茶番劇と、GHQの公職追放令で、左翼、共産主義者が、国の官民あらゆる分野で、主導権を取ったことで、ソ連中国の工作活動は隠されて、それらすべてが日本軍の仕業にされてきました。日本人は、日本人を悪者とする歴史を作り上げられ教え込まれてきたのです。

■1.「深紅の炎が暁闇を破って」
現代史家の秦郁彦氏は、その光景を次のように描いている。
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ドドッ、ドカーン! ドカーン!
耳をつんざく轟音とともに、深紅の炎が暁闇を破って噴き上げる。破片と火の粉が降り注ぎ、陸橋一帯は黒煙に包まれた。計2百キログラムの黄色火薬が、張作霖の乗る展望車を直撃したのである。
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東京裁判は「1928年の張作霖事件から1945年の終戦までの日本国の戦争犯罪を裁く」としており、その発端とされたのが、この爆殺事件だった。事件の経緯を、育鵬社の中学歴史教科書『新しい日本の歴史』はこう説明している。
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中国では、辛亥革命のあと、軍閥による地方政権が各地に分立していました。孫文の後を継いだ国民党の蒋介石は、南京に国民政府を樹立しました。そして軍の近代化をはかるとともに、中国の統一をめざし、張作霖が率いる北京政府を打倒する戦いを開始しました(北伐)。・・・
国民党軍の北京占領を目前にした張作霖は、日本政府の説得で、満州に引き上げようとしましたが、途中、日本軍によって列車を爆破され死亡しました。
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この記述で理解できないのは、日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、なぜ日本軍が爆殺しなければならなかったのか、という点である。論理がつながっていない。
■2.日本軍の仕業かどうかは未確定
確かに、日本軍の仕業と思わせる証拠はあった。爆破現場から200mほど離れた所にある日本兵の監視所まで、爆弾点火のための電線が残されていたとか、使用されたのが日本軍以外には使っていない高級な黄色火薬であるとか。さらに首謀者とみられる関東軍参謀の河本大作大佐が、以前から張作霖を除くことを主張していたことも傍証とされている。
しかし、列車の屋根は吹き飛んでいるが、架台やレールは無傷であり、列車の天井に爆薬が仕掛けられていた可能性も高い。列車の整備は中国側で行っていたので、日本軍はそこまで手が出せない。
また張作霖を守るために、奉天軍側がその前日に警備の交替を日本側に申し出て、奉天軍兵士50名が警備していたことなど、関東軍の仕業とは言いがたい事実もある。
したがって、前節の歴史教科書のように「日本軍によって列車を爆破され死亡しました」と断言できるほど、史実として確定されているわけではない。
■3.他にも動機を持った容疑者がいる
本稿では、この事件の事実関係よりも、その陰にある興味深いポイントを一つだけ見ておきたい。それは当時も、また現在も、犯行を日本軍の仕業と決めつけて、他国の謀略の可能性を疑う姿勢が少ないことである。
当時の日本政府も軍当局も、関東軍の仕業と信じて、なんとかうやむやに問題を収束させようとしたのだが、イギリスの情報機関は、こうした日本政府の態度を奇異に感じていた。
事件のほぼ一ヶ月後の7月3日、北京駐在公使ランプソンは本国のチェンバレン外相あてに次のような公電を打っている。
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(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも四つの可能性がある。
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それにも関わらず、日本政府の対応は以下のような奇異なものであったと報告されている。
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1929年2月に日本の国会で、この問題についてさんざん質問攻めにあったにもかかわらず、首相も陸相も日本の無実を示す証拠を出さなかったし、無実を主張することもしなかった。
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何事も、まずは自らの襟を正そうとするのは日本人の美徳であるが、陰謀の渦巻く国際社会では、この美徳一本槍では、やっていけない。
■4.張作霖排除は「ソ連にとって魅力的な選択肢」
イギリスの情報機関は独自の状況分析をもとに、決定的な証拠はまだない、としながらも「ソ連が事件を引き起こした可能性には、一定の形跡がある」として、次のような報告をしている。
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a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃(後述)以来、張作霖は長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。・・・
d. ・・・したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。
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張作霖爆殺の動機面から見れば、ソ連がもっとも怪しいというのである。
■5.「ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害」
上述の「在北京ソ連大使館襲撃」の内容を知ると、このイギリス情報機関の分析が腑に落ちる。
1927(昭和2)年3月に蒋介石の北伐軍が南京に入城した際に、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が、外国の領事館や居留地を襲い、日本人や欧米人の死者を出した。
当時の国民政府内には、中国での共産革命を進めるためのコミンテルン(世界共産革命をめざすソ連の支援組織)の勢力が浸透していた。これらの共産分子が、蒋介石と欧米諸国の対立を煽ろうとして、この事件を起こした、と見られている。
この事件の背後にソ連と中国共産党の策謀があるとして、日本や欧米諸国の意を受けて、奉天軍が北京のソ連大使館を捜査し、ロシア人・中国人80名以上を検挙したのが、この「在北京ソ連大使館襲撃」である。
まさに英国情報機関が分析した通り、反ソ反共の張作霖は「ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害」であった。
こうして見れば、「日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、日本軍が爆殺した」などというよりも、ソ連の方が明確な張作霖爆殺動機を持っていた、とする英国情報機関の分析の方が、はるかに説得力がある。
■6.張作霖爆殺後の長男・張学良の鮮やかな方向転換
しかし、後をついだ長男、張学良は、ソ連にとって「扱いにくくない指導者」となったのか。
張学良は6月21日に父親の死亡を公表し、2日後に葬儀を終えると、7月4日には東三省保安総司令となって、満洲の支配を継承した。
ところが、張学良は、父親が敵対してきた蒋介石に対して和平を宣言し、10月には国民政府の委員に就任し、さらに12月29日には居城である奉天城内外に一斉に、国民政府軍の青天白日旗を掲げて、蒋介石に与してしまった。
蒋介石と戦ってきた父親の方針を、わずか半年ほどで正反対に転換したのである。しかも、蒋介石側も、この急激な方針転換をいぶかった形跡もなく、即座に政府内の委員に任命している。
後に公開された蒋介石日記で、前年の1927年7月20日に「張学良も忠誠を伝達し、入党してきた」という記述が発見されている。
張学良は父親の爆殺の10ヶ月ほど前に蒋介石の国民党に忠誠を誓い、爆殺後、自ら実権を握ると、半年で蒋介石に荷担したのだ。
こうして見ると、「張学良が父親を爆殺して、蒋介石と組んだ」という見方も、動機論として説得力がある。
■7.張学良への置き換えの最大の受益者
ソ連と張学良が、日本軍以上に張作霖爆殺の動機を持つ容疑者として浮かび上がってきたが、実は両者は奥でつながっていたようだ。
12月29日に奉天城に翻った青天白日旗に混じって、実に多くの赤旗が掲げられていた、という報告がある。南京事件の後、蒋介石も上海で共産党指導者ら90名あまりを処刑していた。張学良が真に蒋介石に忠誠を誓っていたら、赤旗など上げさせなかったろう。張学良のもとでのみ、共産党勢力が大手を振って歩けたのである。
7年後の1935年末に張学良から中国共産党への入党申請があり、中国共産党はモスクワのコミンテルンにその可否を求めた電文を発信した、という証言がある。
張学良の共産勢力との結びつきを示す極めつけが、1936年12月の西安事件である。当時、蒋介石は中国共産党を崩壊寸前にまで追い詰めていたが、張学良が蒋介石を西安で軟禁し、以後、共産党との協力を約束させた。
この西安事件から日本と蒋介石が戦う羽目になり、さらに日本の敗戦後、蒋介石は、国共内戦に敗れて台湾に逃げ込む。中国が共産勢力の手に落ちたのは、張学良による西安事件があったからだと言って良い。
したがって、張学良を「扱いにくくない指導者」としたことの最大の受益者は、ソ連とその手先だった中国共産党であったと言える。
■8.「ソ連にこの犯罪の責任があり」
張作霖爆殺事件の半年後、英国外務省あてに送られた「張作霖の死に関すメモ」ではこう結論づけている。
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調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起動装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠からみて、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。
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爆殺が実際に行われた現場の証拠を洗ってみれば、日本人の共謀があったのは疑いがない、という。しかし、日本の軍人が関与したからと言って、それが日本軍の仕業だと言うことはできない。
たとえば、朝日新聞記者だった尾崎秀實(ほつみ)は、ソ連の工作員として、世論を誘導して日本を蒋介石との戦争に引きずりこんだのだが、だからと言って、それが朝日新聞の犯行とは言えないのと同じである。
犯罪の首謀者とは、その手先に使われた人間ではなく、自らの動機をもって、その犯罪を計画した人間でなければならない。この意味で、張作霖爆殺事件の首謀者はソ連だと、英国情報機関は判断したのである。
■9.伏せられてきた共産主義の脅威
この英国情報機関の推定が正しいとは、現時点でも断言できないが、少なくともソ連と張学良が日本軍以上に明確な張作霖殺害動機を持っていたことは明らかだろう。
ここで興味深いのは、[1]の著者・加藤康男氏の次の発言である。加藤氏は、河本大佐が張作霖殺害を実行する動機を持っていたことを認めつつも、
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だが同時に、権力を掌握したスターリンも張作霖の殺害を国家的に実行しようと試みていたのは明白だった。
それにもかかわらず日本の国内で、張作霖殺害の動機が論争になったことがほとんどないのはむしろ奇妙な印象を受ける。[1,p148]
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加藤氏は「奇妙な」と言うが、戦後日本を支配してきた左翼的な史観では、ソ連や中国共産党の謀略は伏せられてきたのであり、ここでもその影響が出たと考えれば、これは「当然」だろう。
ソ連や中国共産党の暗躍を隠して、すべてを日本軍の侵略のせいにしようとするから、「日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、日本軍が爆殺した」などという論理の通らない歴史観が出てくる。
1937(昭和12)年の盧溝橋事件から上海事変に至る、日本が日中戦争の泥沼に引きずり込まれる過程でも、ソ連と中国共産党の策謀があったことは、[a]で述べた。
戦前の我が先人たちが直面していた共産主義の脅威の実態を明らかにしなければ、日中戦争の悲劇の真の原因は分からない。それは、我が国が現在も直面している脅威にも気がつかない、ということにつながるだろう。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h14/jog263.html
b. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h18/jog446.html
【人の心に灯をともす】http://merumo.ne.jp/00564226.html からの転載です。
日本人のもてなしの心、これは相手の立場にたって、相手を思いやって、深切を尽くす心です。
日本の工業製品においても、その品質管理の高さは世界的に有名ですが、これも日本人の隅々まで行き届こうとする心の現れです。
この日本人の細やかな気遣い、この特質、やはりちょっと誇らしいですね。この小さい島国の繊細な自然の中で育まれた情感の豊かさから来たものだと思いますが、失いたくない特質です。
もちろん大陸の何事にも大雑把な気にしない度量の広さも、また違った魅力ではありますが、これは日本人には、ないものねだりの特質で(例外はあるでしょうが)、日本人は、日本人の良さをどんどん伸ばして、日本人らしさで個性を磨き、貢献したいものです。
小山薫堂氏の心に響く言葉より…
最近、海外の空港では、セキュリティチェックで靴を脱がせるところが多い。
自分は潔癖症ではないのだが、アレがどうも気になる。
だって、トイレから出た直後の人もいたりするのですよ。
その靴をトレーに載せ、裸足でセキュリティーチェックを受ける。
次の人は雑菌だらけのトレーにカバンを載せることになるし、靴下についた雑菌を持ち帰る人もいるだろう。
しかし、成田空港は違う。
きちんとスリッパが用意され、靴用のトレーも準備されていた。
自分が不快に思うことを、他人に味わってほしくない…
ここに、日本人の「もてなしの心」の原点がある。
日本人のDNAに刻みこまれている「もてなす」という能力は本当に高いと思う。
以前、修善寺の有名な旅館で体験した話。
長い時間書きものをするために、デスクを用意してほしいと頼んだことがある。
すると仲居さんは嫌な顔ひとつ見せず、畳の上に小さな絨毯を敷き、椅子とデスクをセットしてくれた。
感動したのはその先である。
僕がPCを使うことを見越して延長コードと電気スタンド、さらには広辞苑まで用意してくれたのだ。
リクエストにただ応えるのではなく、どこまで先を推測できるかが、もてなしの質につながってくる。
日本人は「もてなす」という才能に間違いなく秀でている。
これがこの国の立派な資源であることを、僕たちはもっと自覚すべきかもしれない。
『DIME 2012№07』(幸せの哲学)小学館
もてなしの心の原点は、人が不快に思うだろうことを、先回りして解決すること。
「もてなし」とは、相手の立場になり切って考えることができる能力のことだ。
だから、何か一つ言われたことでも、相手の立場に立って、三つも四つも先回りして考えておく。
それも、「これをやっておきました」、などと主張することなく、あくまでも、さりげなく、ひっそりとやるからその「もてなし」が光る。
日本人のDNAに刻み込まれた「もてなしの心」。
このよき資質を大事にし、さらにもっと磨いていきたい。







