美し国(うましくに)からの転載です。
美し国(うましくに)でここ最近「日本よ、こんな中国とつきあえるか?」というシリーズで、林 建良氏の著作『台湾人医師の直言』からその内容を紹介しておられます。それを読むと、日本人が認識していない中国人の本性が非常によくわかります。そして台湾こそが、真の友人だということもよくわかります。
今回の東日本大震災の支援の大きさ、日本に対しての思いやりの深さにおいて、台湾がダントツだったことを日本人は決して忘れてはならないと思います。もちろん他の国々の支援もほんとうに有り難いものでしたが、台湾のように、まるで我がことのような対応は、かつては自分たちも日本人だったという思いの深さからくるものにも思えました。深い感動を覚えずにはおれません。
曾ての日「吾が国」と呼びし土地なれば この災害の身に沁みていたし 台湾歌壇から

2.台湾人と中国人の対日観の決定的な違い
●中国人は日本をどう見ているか?
私が日本に来て一番驚いているのは、日本人の中国人観である。日本人からよく「中国人は非常に心が広い寛大な民族で、懐も深くおおらかで、道徳心が高く、信用を大事にする」というような話を聞く。
このような中国人観を聞くたびに驚くとともに、果たして日本人は中国人のことをどこまで知っているのだろうかと疑問に感じざるを得なかった。というのも、 中国人の実態をつぶさに見ざるを得なかった台湾人からすれば、日本人の中国人観とすべてにおいて正反対だったからである。
中国人を知るためには、中国人が日本をどう見ているのかを知ることが一つの大きな手がかりになる。その対日観を比べてみれば、中国人と台湾人の違いもよくわかるはずである。
中国人の対日観はおおよそ次の三つの要素から成り立っている。
(1)日本に対して優越感を抱いている。
(2)日本に対して劣等感を抱いている。
(3)日本に対して被害者意識が強い。
中国は国の名前のとおり、自分たちが世界の中心と考えている国で、中国人は、自分たちこそ四千年の歴史を持ち、中華文化というもっとも優れた文化を持っている国だと考えている。
だから、中国人はよく「日本文化は所詮、中華文化の亜流にすぎない」と言う。日本の漢字にしても中国から伝わってきたものではないかということで、日本に対しては文化的、民族的な優越感を常に抱いている。
このような考え方は国家にも反映され、国際舞台のあらゆる場面において、日本には中国以上の発言権を与えないよう常に企図している。
それを象徴しているのが二〇〇五年四月の反日デモだった。中国は、日本が国連の安全保障理事会のメンバーに加入することは中国の優位性を脅かすものであ り、絶対に容認できないと考えている。自分たちこそが世界の中心であると考える中国は、日本に対しても絶対的優位に立たなければならないと考え、それこそ が対日観の原点なのである。
●常に先を行く日本への劣等感
では、自分たちこそ世界の中心と考えている中国が、なぜ日本に対して劣等感を抱いているのか?
これは、中国は四千年来、周辺諸国を東夷、西戎、南蛮、北狄と分け、征服と朝貢の対象と考え、あらゆる近隣諸国に兵を出して侵略をくり返してきた。例をあげればキリがないが、最近では、一九五〇年のチベット侵略や一九七九年のベトナムへの懲罰戦争がある。
しかし、その長い侵略の歴史のなかで一度たりとも征服できなかったのが、東夷にすぎない日本だった。しかも日本との戦争で勝利したことがなく、一八九四年の日清戦争で負け、大東亜戦争でもほぼ連戦連敗だった。
ところが、中国は第二次世界大戦の戦勝国として国連の安全保障理事会の一員となり、確かに日本より優位に立ったかに見えた。しかし、日本は明治維新という 革命を成功させ、アジアで最初に西洋国家の仲間入りを果たした国であり、大東亜戦争では負けたものの、いち早く経済を復興させて先進国入りし、世界第二位 の経済大国となった国だ。
中国は、日本に対して常に優位に立たなければならないと考えているにもかかわらず、日本は常に先を行く。そこで劣等感を抱かざるを得なくなってしまったのである。中国にとっての日本はまさに「目の上のたんこぶ」なのである。
中国人が日本に対して被害者意識が強いことは、いわゆる「南京大虐殺」のような世紀のウソを捏造してまで被害者意識を増大させていることによく現れている。
これは戦時賠償金を放棄した中国が、何とか別の形で日本から賠償金相当あるいはそれ以上の額面を引き出すためという現実的な要請もあったが、基本的には近現代の歴史に負うところが大きい。劣等感と出どころは同じで、戦争で負けつづけた歴史意識の産物である。
その歴史意識と、日本が隣国でなかったら中国はもっと発展していたはずだという責任転嫁の心理が、被害者意識として結実したものと考えられる。
有り体に言えば、悪いのは加害者(日本)であって、被害者(中国)は悪くない。加害者が被害者に金を出すのは当たり前だと考えること自体、中国の被害者意識であり、弱者の論理なのである。
●反日思想なのに日本に来たがる中国人
このように中国人は、日本に対して優越感と劣等感と被害者意識という矛盾する三つの意識を併せ持っている。
中国には日本を表現する言葉の一つに「小日本」(シャウズーべン)という言葉がある。今でもよく使われているが、「小さい日本」「ちっぽけな日本」「チビの日本」という日本を蔑んだ言葉だ。大中国としての優越感にあふれた言葉である。
それともう一つは「日本鬼子」(ズーべンクエズ)という言葉である。中国人からすれば日本人は「鬼」のような存在ということで、軽蔑よりも恐怖感を表した言葉である。これはまさに優越感と劣等感と被害者意識が混じり合った言葉と言えるだろう。
しかし、ほとんどの中国人は日本人と会ったこともなければ見たこともない。それにもかかわらず、中国より先んじて先進国の仲間入りを果たした日本の存在自 体を許せないと考えるのが中国なのである。だから、中国の反日意識は日中戦争とは関係ないと私は見ている。もし日本が中国より遅れている国であれば、おそ らくなんの問題も起こらなかっただろう。
中国はまわりの国をすべて軽蔑している。しかし、中国のなかに反日思想が蔓延しているという話は聞くが、反露思想や反韓思想あるいは反越思想や反印思想が 蔓延したことがあるとは聞いたことがない。つまり、中国からすれば、このような国々は遅れている国という認識であり、それに比べて日本だけが先進国として 中国の上位にあるということで、中国にとっては許すことができないのである。要は、中国の妬みなのである。
また、中国では「美国」と呼ぶアメリカに対して、国策として「打倒美帝」(米国帝国主義を打倒せよ)という国家による反米政策はあったものの、民間では反 米思想が蔓延したという話もあまり聞いたことがない。これは日本よりも先を行くアメリカなので、嫉妬する対象ともなりえないほどの格差を意識しているから だろう。
では、反日思想を抱く中国人だから日本を大嫌いかというと、決してそうではない。中国人は実利を大切に考える民族である。そこで、日本のような先進国で暮 らせるとなれば、平気で国を捨てて日本にやって来る。法務省の統計によると、日本国籍を取得している外国人でもっとも多いのは「韓国・朝鮮」で、次に多い のが中国人であり、年間、四〇〇〇人以上の中国人が日本に帰化している。その「韓国・朝鮮」とはほとんどが在日の二世や三世のことで、生活の基盤はそもそ も日本にあることを強調しておきたい。
日本に対して最大の反感を抱いているのが中国人であり、日本人になろうと一所懸命なのも中国人なのである。
これに関連して、残留孤児についても触れておきたい。
幼いころ中国に取り残された残留孤児には日本人の血が流れている。外見上は中国人と何ら変わらないものの、ほとんどの残留孤児は母国日本に行きたいと願っている。私自身も残留孤児の家族と付き合いがあり、その思いはよく理解できる。
そして、残留孤児が帰国すると、その家族五、六人が一緒に来日することになる。そのなかには子供の配偶者もいて、それは中国人だ。その中国人が反日思想に どっぷり浸かっていたとしても、ほとんど例外なく日本での永住を希望し、一緒に来日するのである。ここにも、中国人の非常に実利的な本質が現れている。
この残留孤児のなかには書類を偽造して来日している人もいると仄聞する。あってはならないことだが、それもまた実利に重きを置く中国人ならではの発想と言えるだろう。
●靖国問題でわかる台湾と中国の違い
台湾人は中国人ではない。台湾人は五〇年間、日本人と一緒に暮らしてきた民族であり、またその子孫である。中国人より日本人の本当の姿を知っている。
それでは、台湾人と中国人の対日観の違いはどこにあるのか? それは日本の優れた文化や文明を、同じアジアの一員として素直に認められるかどうかということにある。つまり寛容の心があるかないかということである。
台湾人の対日観は、中国人のような屈折したものではなく、日本が台湾の先生であることを素直に認めていることに基づく。そして、日本人の美学や日本文化を謙虚に学ぼうとしているところに特色がある。
その象徴的な人物が李登輝前総統であり、「老台北」こと蔡焜燦氏だ。李前総統は、日本の「わび」や「さび」といった文化や美学、日本に残されているサムラ イ精神、武士道精神を非常に高く評価している。松尾芭蕉の「奥の細道」をたどってみたいという思いも、実際に歩いて日本文化を実感したいからで、このよう な思いは台湾人に共通していると言ってよいだろう。
蔡焜燦氏にしても、その思いは同じで、著書である『台湾人と日本精神』という表題からもそれが見てとれる。そのなかで「われわれ台湾人にとって、また台湾という国家にとって、威風堂々たる日本がアジアのリーダーとなってもらわなければ困るのである」と書き記している。
台湾人はこのようにきわめて高く日本を評価し、尊敬できる民族として日本を位置づけ、日本文化は学ぶべきであると強く意識しているのである。
さらに、台湾人と中国人の違いは、日本人の死生観や心の問題に理解があるかどうかに顕著に現れている。そのよい例が靖国神社に対する考え方だ。
中国は、日本の靖国神社は軍国主義の象徴だと言って非難している。しかし台湾人は、李登輝前総統も靖国神社に参拝したいと表明しているし、蔡焜燦氏をはじめ、戦時中、高座海軍工廠で戦闘機の生産に携わった台湾少年工出身者など多くの台湾人が来日のたびに参拝している。
しかし、同じ台湾人で原住民出身の立法委員(国会議員)である高金素梅が靖国に祀られている台湾出身戦歿者の御霊を台湾に持ち帰ろうとしたり、訴訟を起こ している。これはどういうことかというと、父親が中国人で、母親が台湾原住民の彼女の背後には中国が存在し、彼女自身も台湾にある中国人団体の代表をつと めている。つまり、彼女の行動はまさに中国人の考え方に基づいた行動であり、決して台湾人の考え方ではないということだ。
この高金素梅と靖国問題に関しては後述するが、台湾人と中国人の対日観の決定的な違いは、まさに靖国神社への対応となって現れてきているのである。
日中国交正常化は間違いだった。当時筆者は小学生でしたが、学校の先生が盛んにシナを賞賛していたことを記憶しています。
真の友人「台湾」こそ、わが国に相応しい国家でした。
続く・・・・・
転載元: 美し国(うましくに)
久しぶりにサイタニのブログからの転載です。
三島由紀夫氏の『若きサムライのために』をずっと転写紹介しておられますので、この中から今後一部分を転載させてもらおうと思っています。戦後の日本社会について、三島氏の眼がどのように捉えていたか、なかなか考えさせられ、納得するものがあります。また人間というもの、社会というものを、三島由紀夫という作家がどのような捉え方をしていたかというのもなかなか興味深いですね。
勇者とは 「若きサムライのために」
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
さくらの花びらさんが言っているように、韓国は文書で回答する自信がないのでしょう。捏造の主張は、結局ウソにウソを塗り固めたものですから、うっかり文書などにしたら、それをもとに、事実で反論されて嘘がバレてしまいますからね。結局前代未聞の親書を送り返すという非礼な行為をあえてせざるを得ないということです。
韓国は自分たちの歴史の捏造が、結局自分たちの首を絞め、墓穴を掘る事になっていくのではないでしょうか。日本もさすがに、あまり非常識ないちゃもんや、非礼な行為に、平和ボケも目が覚めるでしょう。
韓国から親書を突っ返された民主党もさすがに、今まで使わなかった不法占拠という言葉を使い始めたそうです。民主政権が誕生してから、何かと韓国へ気を使って、東日本大震災でも菅首相が、わざわざ韓国とシナの支援部隊だけは出迎えたり、朝鮮王室儀軌を、日本が韓国において来ざるを得なかった日本の宝物は返してもらわないのに、一方的に返してしまい、韓国支援であるスワップ協定など、韓国のための政権かというくらいに、韓国へいたれりつくせりでした。それほどやってきて、韓国から親書を突っ返された野田政権は、困惑しているようです。
駐韓国大使もまた韓国へ返してしまうし、ここまで来ても、弱腰が治らないようです。一度自分たちの国が誰に支えられているかを思い知らせたほうが、いいと思うのですが。
大統領府高官は「親書には大統領が竹島を訪問したとあるが、そのような事実はない。大統領は独島を訪問した」と説明。事実関係に「間違い」がある親書に答えられないとの考えを示した。
また、外交的非礼とならないかとの指摘には「非礼となっても原則を曲げる必要があるのか。日本も親書を送る過程で外交儀礼に反する面があった」と述べ、大統領に伝達される前に内容が報じられたことを暗に批判した。
野田首相は17日、大統領の竹島上陸や天皇陛下への謝罪要求発言に遺憾の意を示すとともに、竹島問題の国際司法裁判所提訴の方針を伝える親書を送付。韓国政府は、回答しない、送り返す、反論の書簡を送るの三つの選択肢を検討したが、送り返すべきだとの意見が大多数だったという。
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
魚釣島に上陸した日本人が軽犯罪法違反とはおかしな話です。軽犯罪法違反とは、他人の土地に正当な理由もなく不法に侵入することですが、畑だとか、人の住居の敷地への侵入です。今回はこういう不法侵入とは違い、しっかりとした理由もあり、本来は国がやるべきことを代わりに行い、慰霊祭も行なっているのです。シナ人の場合は即本国に無罪放免しておいて、同じ日本人を逮捕とは、まるで中国様に気兼ねしている属国根性丸出しです。映像で見ると、シナ人は海上保安庁の船に物を投げつけたり、自分たちの船をぶつけてきたり、明らかに公務執行妨害です。これは逮捕して裁判にかけるべき事態であるにもかかわらず、強制送還するのは、中国の顔色を伺って中国に恐れをなして、日本の法を曲げているということです。しかも日本人には軽犯罪法違反を適用するとは、あまりに弱腰というか、これでは尖閣諸島を自国の領土だと主張する根拠を失いかねない態度です。
魚釣島に上陸した10人(正確には上陸は9人)は、シナ人の不法上陸に対して、日本人も上陸して慰霊祭や、島の調査など、自国領土としての活動を行ったという実績を作られ、非常によくやられたと思います。日本側が上陸しての活動を行わなければ、シナに上陸されたという実績を作られる一方です。政府はそのたびに逮捕しては無罪放免するつもりでしょうか。シナを恐れていては、尖閣は守り切れないと思います。



かつて日本は美しかったからの転載です。
日本がポツダム宣言受諾をするにあたっての、日本政府の迷い、有史以来の国体というものを護ろうとする願い、そうしたものを理解せずに、もっと早く終戦の決断ができたはずだとか言うのは、その当時に生きた人々の気持ち、心をあまりにも蔑ろにするものだと思います。これは政府だけでなく、多くの日本国民も同じ考えだったと思います。
戦後に占領軍によって洗脳されて、考え方が変わってしまった現代の思想で、当時を批判し、断罪し、あるいは軽蔑や冷笑で歴史を見る人々は、日本を愛しているとは決して言えません。小林秀雄氏は、本当にその国を愛しているなら、歴史に対しては、あたかも死んだ子の年を数える母親のような気持ちで、その歴史をいとおしむ気持ちになるのだという意味のことを言われていました。当時の人々の気持ちを理解することなく、他人ごととして、歴史を裁く人々は、けっして歴史を継承することはありません。
今回終戦を決断する日本政府の当時の人々の葛藤、苦悩、そして昭和天皇の身に変えても国民を守ると決意された意志の固さ、そうしたものを三連の記事で書かれています。これを読むと、天皇を始め、みな命をかけて決断していることがわかります。国民の中にも終戦が決まったときに、自決した人もいたのです。国民のためならと生命を投げ出す覚悟をされた天皇も、その天皇をお守り出来なかったと感じて自決した人も、当時の日本という国柄は、君民共治、君民同治の君民一体の意識の国でした。
アメリカは、だからこそ、この意識が日本の強さの根源だと知って、この日本人の意識を破壊することに全力を注いだのです。そうして日本人を完全に意識改造しようとしたのが、ウォーギルト・インフォーメーション・プログラムであり、一連の占領政策でした。
昭和天皇の聖断下る
昭和天皇の聖断で戦争は終わった。

昭和20年(1945年)8月9日深夜、御前会議が開かれます。御前会議 は本来儀礼的なもので、天皇陛下は一切発言しません。結論も決まっており、シャンシャンという会議です。ところがこの日の御前会議は前もって開かれた最高 戦争指導会議でも閣議でも結論がでないまま開かれた異例なものでした。実は鈴木首相は事前に昭和天皇に「終戦の論議がどうしても結論の出ませぬ場合には、陛下のお助けをお願いいたします」と了解を得ていました。
東郷外相
「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに・・・ポツダム宣言を受諾すべきである」
阿南陸相
「信頼のおけない米ソに、保障もなく、皇室の運命を任せることは断じてできない。あくまで抗戦してこそ、有利な和平条件も得られる」
梅津参謀長
「陸軍大臣と同意見である。本土決戦の準備は完了している」
■ポツダム宣言受け入れに対して国体護持の一条件のみ提示するとの主張
東郷(外相)、米内(海軍大臣)、平沼(枢密院議長)※1
■国体護持に加え占領は最小限であること、武装解除は自主的に行う、戦争犯罪人の処分は日本側で行う四条件を提示すると主張
阿南(陸相)、梅津(参謀長)、豊田(軍令部総長)
憲法上条約締結については会議で決定した後で枢密院に諮る(はかる)必要があります。状況が切迫しているので、平沼議長を直接参加させていました。これも 鈴木首相の策略であったといわれます。これで三対三です。このまま結論がでずに膠着状態になります。すると鈴木首相がこう述べます。
「意見の対立がある以上、甚だ恐れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮を持って本会議の決定といたしたいと思います」
このとき阿南惟幾陸相は「総理」と小さな声を発したと、同席していた速水久常書記長が述懐しています。
昭和天皇
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である」
「本 土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備もできておらず、又決戦し弾の武装すら不充分にて、これが充実は9月中旬以降となると云う。飛行機の増産 も思うようには行って居らない。いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことができるか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰 等、其等の者は忠義を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御 心持を偲び奉り、自分は涙を飲んで原案に賛成する」
徹底抗戦を主張した阿南惟幾は伝家の宝刀「辞職」を使わなかったばかりか、会議終了後に鈴木首相に「総理、これでは約束が違うではありませんか!(陸軍省と最初にかわした約束は徹底抗戦)」と詰め寄った吉積軍務局長に「吉積っ、もうよいではないか!」と一喝しました。
77歳になる老宰相は17時間にも及んだ会議を乗り越え、「国体護持」の一条件をつけてポツダム宣言を受諾すると決定。中立国スウエーデン、スイスを通じて連合国へ打診しました。その際にはソ連の中立条約違反に異議をつけることを忘れませんでした。
阿南惟幾は陸軍省高級部員を全員集め、「聖断によるポツダム宣言受諾」を報告します。そしてこういいます。
「あえて反対の行動に出ようとする者はまず阿南を斬れ」
※1平沼枢密院議長は態度が不鮮明だったという説もある。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
昭和天皇(昭和7年のもの PD)
昭和天皇の二度目の聖断
聖断は二度あった。

昭和20年(1945年)8月10日、日本国政府は国体護持を条件としたポツダム宣言受け入れを中立国を通じて連合国に発信しました。
「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」
これに対して12日、連合国から回答が届きます。「バーンズ回答」と呼ばれるものです。
これで問題となったのは第二項です。
「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下におかるるものとす」
国体護持の条件回答が明確ではなく、「連合軍最高司令官の制限」の部分で、原文は「subject to」であり、外務省は意図的に「制限」と訳しましたが、これは「従属」「隷属」「服従」を意味しているもので、軍部はこれを正確に把握しており、反発す ることになります。
陸軍強硬派は梅津参謀総長と阿南惟幾陸相クーデター決行を迫りましたが、梅津参謀総長が断固拒否し、阿南陸相も梅津参謀総長に反対しなかったためクーデターは未発に終わりました。
8月13日、最高戦争指導会議で阿南惟幾陸相は国体護持について「再照会」を要求します。「subject to」の議論はエスカレートしていきました。そこで鈴木貫太郎首相は「どうも軍部は、言語解釈を際限なく議論することで、せっかくの和平の機会をひっくり返そうとしているかのように、私には思われます。専門家である外務省の解釈になぜ任せられないのですか」と図星をいい、これで軍部側は怒気に水をかけられたようになりました。しかし、結論は出ませんでした。
陸軍強硬派が暴発しかねず、御前会議も参謀総長と軍令部総長が判を押さねば開くことがでいません。鈴木首相は天皇直々の召集に打ってでます。昭和天皇は即座に同意しました。阿南陸相は総理室へ総理を訪ねていきました。
阿南「総理、御前会議を開くまでもう二日待っていただけませんか。その間に陸軍のほうは何とかします」
鈴木「時期はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうか、あしからず」
阿南陸相の顔に寂しげな影がよぎり、丁寧に敬礼をすると部屋を出ていきました。居合わせた小林軍医が「待てるものなら待ってあげては?」というと、総理は「今をはずしたら、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にも攻め込んでくる」と答えました。軍医は「阿南さん死にますね」というと鈴木首相は「うむ、気の毒だが」と答えました。
8月14日、御前会議は最高戦争指導会議のメンバーだけでなく、閣僚全員を出席させました。阿南陸相と梅津参謀長はポツダム宣言受諾に反対を唱えます。そして昭和天皇はこう述べられます。
「国体についていろいろと危惧あるということであるが、先方の回答文は悪意を持って書かれたものとは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答をそのまま受諾してよろしいと考える」
「国民が玉砕し君国殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、国民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることはわたしとしてはじつに忍び難い」
阿南惟幾陸相は号泣します。その阿南陸相に昭和天皇はこう述べます。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」
こうしてポツダム宣言受諾が正式決定し、中立国を通じて連合国へ正式に申し入れ「戦争終結の詔書」が発布されます。
このときの大御歌
「国柄をただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
この後、昭和天皇は今生の別れを意識して皇太后陛下にお会いになりました。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
まほらまと草子「かえるうぶすな」南出喜久治(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)
日本のいちばん長い日
子供の頃、「日本のいちばん長い日」という映画をテレビで見た記憶があります。白黒でした。

昭和20年(1945年)8月14日、御前会議で聖断が下り、ポ ツダム宣言受諾が決定し、終戦が決定します。終戦と言えば聞こえはいいですが、「敗戦」です。阿南惟幾陸相は青年将校を集め御前会議の報告を行います。徹 底抗戦を信じていた若者たちは愕然とし、「大臣の決心変更の理由をお伺いしたい!」との声に阿南陸相はこう答えます。
「陛下はこの阿南に対し、苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としてもはやこれ以上反対を申し上げることはできない」
「聖断は下ったのである!今はそれに従うばかりである!不服のものは自分の屍を越えてゆけ!」
阿南陸相は深夜近く、鈴木貫太郎首相を訪ねました。
阿南「総理・・・」
鈴木「はい。何ですかな」
阿南「ここへ至るまでに、いろいろな事を申し上げ、総理を煩わせたことをお詫びします」
鈴木「とんでもない。今日まで内閣を支えてくださって、こちらこそ感謝しています」
阿南陸相が陸相を辞任して陸軍が後任を拒否すれば内閣総辞職でした。そして軍政となり本土決戦に向かうところでした。阿南陸相は辞任を拒み通したのです。
阿南「これは貰い物の葉巻です。総理はお好きですから、すってください」
鈴木「ありがとう。何よりの物です。遠慮なく頂戴します」
阿南「では、おやすみなさい」
鈴木「おやすみなさい」
連合国への正式回答の打電は陸軍の妨害によって午後10時過ぎにやっとおこなわれます。そして昭和天皇は皇居、表拝謁の間で終戦の詔勅をNHKラジオ放送用録音盤に録音しました。昭和天皇はご自身の御意志で2回録音されました。
この録音盤を奪取しようと近衛師団の青年将校が師団長を殺害。ニセの師団命令を流し、宮城各門を占拠します。録音の仕事を終わって退下する情報局総裁や技 術員等を逮捕し、皇居警察に封じ込めました。この報を東部軍司令部が聞き、田中静壱大将は単身数名の憲兵を引き連れ、15日夜明けを待ってお濠を迂回し、 大手門、竹橋の街路を通って近衛師団(現在の科学技術館、武道館のあたり)に乗り込み、青年将校の一部を逮捕し、宮中に参入。叛徒を退散せしめました。 (宮城事件)
阿南惟幾は15日4時40分に割腹し、7時10分絶命。
<遺書>
一死以って大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾
神州不滅を確信しつつ
<辞世の句>
大君の 深き恵に 浴みし身は 言いのこすへき 片言もなし
この阿南惟幾陸相の自決は徹底抗戦派を抑える決定打となりましたが、水戸の陸軍で は近衛師団のクーデター失敗が伝わらず、東京上野公園に集結し美術学校を占拠します。しかし、クーデターが失敗したことを知り愕然とします。近衛師団で クーデターを起こし、身柄を拘束されていた石原少佐が説得を買ってでますが、一部の将校が発砲し、石原少佐は死亡。その将校も斬られて死亡。直属の上官は 自決。他の将校も数名、水戸に戻って自決しました。(上野事件)
近衛師団の反乱に昭和天皇はこう仰られました。
「いったい、あの者たちはどういうつもりであろう。この私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」「わたしが出て行こう」「兵を庭に集めるがよい。私がでていってじかに兵に諭(さと)そう」
阿南陸相の自決についてはこう述べられています。
「阿南は阿南の考えがあったのだ。気の毒なことをした」
15日正午、玉音放送が流されました。鈴木首相はその日の午後、辞表を提出しました。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
別冊正論「遥かなる昭和」『皇国護持ヲ念ジツツ本夜自決ス』岡村青
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
添付写真
終戦の日の皇居前(PD)
終戦の詔勅 (玉音放送)








