小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

皇后陛下のご養蚕

2014年02月22日 22時34分48秒 | 天皇、皇室



先日ニュースで、宮内庁が皇后陛下のご養蚕というビデオを作成したという話を聞いて、見てみたいと思っていましたら、日本政策研究センターのホームページで紹介していました。

皇后陛下が、先の香淳皇后から 受け継がれて、毎年行っておられるご養蚕の様子を映したもので、皇后さまがやさしく微笑みながら丁寧に細やかに蚕の世話をされるご様子に、日本の皇室の在り方そのものを垣間見るような静かな感動をおぼえます。

世界の君主のほとんどが、歴史の戦いの中で覇王として君臨している中で、日本の天皇、皇室というものがそうした君主とは違い、常に国民の手本と成るように国民全体の宗家のような存在として、常に率先して行動される君主なのだということを感じました。

天皇陛下は、自ら田植えをなさり、稲を育て、収穫されて、皇祖天照大御神に、新米を捧げられますが、皇后陛下も、自ら蚕を育てられて、働くことの意義、素晴らしさ、尊さ、そして働くということへの感謝の気持を、表しておられるように思えます。

日本政策研究センターの明日への選択の中の記事に次のように書いてあります。

>そこで育てられる品種に「小石丸」がある。養蚕業の衰退とともに皇居でしか生産 されなくなった貴重な品種だが、御養蚕所でも昭和の終わりには一旦、飼育中止が検討されたという。《しかしその時、皇后さまが「日本の純粋種と聞いてお り、繭の形が愛らしく糸が繊細でとても美しい。もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」と仰せられたことで、引き続き飼育 が続けられることになったのです。
この「もうしばらく古いものを残しておきたい」というお言葉にもうかがえるように、皇后さまはやはり歴代の皇后さま方が守ってこられたということを大切に思われていたのではないでしょうか。>

この小石丸という日本の純粋種を皇后陛下が愛おしくお思いになり、育て続けられた結果、その小石丸から取れる絹糸が、正倉院宝物の修復に役立つこととなり、素晴らしい古代織物の再現が可能となりました。

日本が技術大国であったり、職人技を尊び、品質管理が優れているという国民性には、こうした天皇、皇室のそれを尊ぶ姿勢が根底にあるからだと思います。誠 意を込めた仕事の素晴らしさ、それを自ら行動で示される歴代天皇、皇后陛下の伝統が、日本を作っているような気がします。あるいは、そうした国民性がこの ような皇室を生んだとも言えるかもしれません。

まさに神道そのものの世界観であり、日本の自然観、宇宙観、人生観が結実したご皇室の姿に、深い感動を感じました。



皇后陛下のご養蚕
皇后陛下のご養蚕


皇 后陛下は,昭憲皇太后が明治4年にお始めになったご養蚕を香淳皇后からお引き継ぎになりました。皇后陛下は,毎年,春から初夏にかけ,ご公務の合間や休日 に,しばしば,皇居内の紅葉山御養蚕所や桑園にお出ましになり,養蚕の様々な作業に携わっておられます。これらの作業のご様子やお育ての蚕の一品種「小石 丸」の生糸が正倉院宝物の古代裂の復元に役立てられていることなどを映像で紹介します。



 


靖国と戦没者慰霊を忘れない、天皇陛下の大御心

2013年01月25日 23時48分18秒 | 天皇、皇室

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

三木武夫首相の時に、三木は私的参拝ということを言い出し、それが元で、天皇の参拝も私的参拝かどうかという問題として、野党が追求し、果ては憲法違反という事まで言い出す始末となりました。

それによって、宮内庁は、以後天皇の御親拝をやめる決断となり、今に至っています。昭和天皇はさぞ御無念だったと思います。国のためになくなった人々を心より慰霊されておられたのに、靖国に親拝することを止めなくてはならなくなったのですから、非常に靖国のことを気に掛けておられたと思います。A級戦犯が処刑された時にも目を泣きはらしておられたと言いますから、富田メモにあるように、A級戦犯が合祀されたことを怒っておられたとは思えません。

そして、この記事によると、今上陛下も靖国のことを気に掛けて居られ、靖国の宮司に新しく推薦をうけていた南部利昭さんに、直々に「南部さん、靖国神社をお願いします」という言葉をかけられたそうです。それによって、引き受けることをためらって居られた南部さんが、宮司就任を決意なさったそうです。

国のためになくなった人々を決して忘れることなく思っておられる陛下の大御心に、わが子の死を決して忘れない親心を見るような思いがしました。このような天皇陛下がいらっしゃる国に生まれて、国家の危急存亡の時に、国のために命をかける気にもなるだろうと、私はそう感じずにはおれませんでした。

 

 

靖国と戦没者慰霊を忘れない、天皇陛下の大御心

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平成16年、小泉首相の頃、長らく靖国神社の宮司を務められた湯澤貞宮司の後任をどうするか問題になったことがありました。
靖国神社は占領政策で国家管理から宗教法人となったとはいえ、国家のために亡くなられた方々の戦没者追悼の中心であり、その責任者である宮司には、それにふさわしい経歴と人格が求められました。
靖国神社の宮司ともなれば、政治家たちとの付き合いや、内外メディアやシナ・韓国への対応にも迫られ、しかも国家の支援がない中で神社を維持させるのは大変なことでありました。神社界や自衛隊OBなど、広く検討されましたが決まりませんでした。
湯澤宮司が和歌のご指導を頂いていた坊城俊周さんにご相談すると、霞会館理事長の久邇邦昭さんを通じて、南部藩45代当主 南部利昭さんをご推薦いただきました。南部さんは長く民間企業に努めており、当時は定年を迎えていましたが、さすがに靖国神社の宮司は大変な仕事であることはご存知であり、お引き受けするがどうか迷っていました。
平成16年6月5日、「霞会館創立130年記念午餐会」が開かれ、天皇皇后両陛下が行幸啓されました。この時、天皇陛下から「南部さん、靖国神社をお願いします」というお言葉を頂きました。
それから3カ月後、第九代宮司に就任された南部さんは、9月24日に開催された「靖国神社新旧宮司挨拶会」で、「陛下より、『靖国神社をお願いします』とのお言葉を賜った。陛下が『お願いします』と仰せになったからには、これは勅命である。それで宮司就任を決意した」と宮司就任の経緯をお話をされました。
 
今上陛下は、全国の護国神社に対しても地方行幸啓の折りには必ず、各神社の宮司をご宿泊のホテルにお呼びになり、その各都道府県の旧官国弊社とともに幣饌料をご下賜になっています。
終戦50年の平成7年、全国の護国神社52社が8月15日に終戦50年臨時大祭を斎行することとなり、陛下は特別の思し召しを持って幣帛料を宮内庁掌典長から全国護国神社会会長にご下賜になられました。
翌、平成8年、全国の護国神社の宮司がそのお礼に皇居に参内し天皇皇后両陛下に拝謁した際、天皇陛下は全国の護国神社の宮司に対し、次のようにお述べになりました。
 
「先の大戦が終わってすでに50年を経ましたが、その間、それぞれの護国神社の祭祀にたゆまず奉仕され、遺族の心の支えになってきたことを誠にご苦労に思います。どうかくれぐれも体を大切にされ、今後とも遺族を助け、護国神社のお守りをしていくよう願っています」
 
 
終戦50年にあたる平成7年、国会では「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という、村山談話を発表しました。この談話には戦後の復興を担ってきた戦中派や遺族の人たちにとっては大きなショックを受けることになりました。
歴史観の問題には自ら見解を述べるわけにはいかない陛下ではありますが、ことは昭和天皇のことでもあります。政府自ら侵略戦争発言を繰り返し「日本兵は侵略戦争の手先だった」と非難し、遺族たちの気持ちを逆なでする現状に、陛下は心を痛められておられたのかもしれません。政府が謝罪外交をしている最中、両陛下は「慰霊の旅」と称して、広島、長崎、沖縄、東京へと、戦災の激しいところを行幸啓され、戦没者や戦争犠牲者を追悼され、遺族たちを慰められたのです。
 
「今年は戦争が終わって50年という節目の年に当たり,戦争の災禍の最も激しかった長崎,広島,沖縄,東京を訪れ,また,8月15日の戦没者追悼式に臨んで,戦禍に倒れた人々の上を思い,平和を願いました。また,今年は硫黄島やハバロフスクで慰霊祭が行われました。
希望に満ちた人生に乗り出そうとしていた若い人々が戦争により,また,厳しい環境の中で病気により亡くなったことを深く哀惜の念に感じます。今日の日本がこのような犠牲の上に築かれたことを心に銘じ,これからの道を進みたいものと思います」
 
このお言葉は、平成7年の陛下の記者会見でのお言葉です。
同じ年に出された村山談話とは全く違う歴史観を言われていることにお気づきでしょう。ここに陛下の強いお気持ちが伺えるのではないでしょうか。
 
 
 
 
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常に国民とともに平和を祈られ、平和を願っておられた昭和天皇をお偲びする

2013年01月07日 09時14分05秒 | 天皇、皇室

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

今日は一月七日、テレビは今日という日に関して七草粥のことしか言いませんが、この日は昭和天皇が崩御された日です。昭和天皇はお生まれになって、亡くなられるまでほんとに数々の国難の時代を生きられて日本を支え続けられ、日本の復興とともに歩まれ、はげしい時流を乗り切られた天皇です。

まさに天皇とは人生を日本という国に捧げるために生まれてこられる方だと思わずにはおれないお姿を、私達昭和生まれは、目の当たりにした感があります。そして平成における2つの大震災を経て、今上陛下のお姿にやはり、同じ感じを持ちます。

 

 

 

 

常に国民とともに平和を祈られ、平和を願っておられた昭和天皇。1月7日を迎えて昭和天皇をお偲びする。


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1月7日、昭和天皇が崩御された日であります。
大正から昭和と移る当時、世界と日本を取り巻く状況が混沌とする中、全国民の平安と世界の平和を願って「昭和」という元号がつけられました。
平和を祈り、平和への実現のために努め続けてこられたのが昭和天皇のご生涯ではなかったでしょうか。
 
 
国民が忘れてはならない昭和天皇の御製があります。それは昭和21年の正月に発表されたこの御製です。一度口にしてみるとこの御製への思いが心に伝わることでしょう。
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ
昭和天皇の御製はたくさんあっても、このように国民に向かって「かくあれ」という強い要請をされたものはほとんどありません。
敗戦、そして占領。国民が不安と苦難の中、国民に何とかしっかりしてほしい、深い雪に覆われた厳しい状況でも、松は少しも色を変えないように、国民も日本人としての矜持と自信を失わないでほしい、とこの御製で呼びかけたのです。
 
この年は占領軍によって日本解体政策が次々強行されましたが、昭和天皇は翌昭和22年の正月にも、占領政策の嵐にも屈せずに日本人らしく堂々とあって欲しいと、国民にこのような御製で呼びかけました。
潮風の あらきにたふる 浜松の ををしきさまに ならへ人々
敗戦と占領という日本が重大な危機に直面しても、昭和天皇は、国民に望みを捨てず、力強く生きてほしい、と強く訴えかけておられたのです。・・・
 
昭和62年7月頃から昭和天皇は体調を崩されました。そのため宮内庁病院で検査を受けられたところ、十二指腸から小腸にかけて通過障害が発見されました。
侍医長たちが手術をすべきか検討したところ、9月に手術を受けて頂くことになりました。このことを陛下にご裁可頂くために侍医長と侍従長が御前に出ました。
陛下は「そうか」と一言だけ言われて頷かれましたが、「良宮(皇后)にはどうする」とお尋ねになりました。手術と聞いて皇后陛下がショックを受けることを気遣われたのです。侍医長と侍従長が皇后陛下にお話をすることになりました。
 
昭和64年1月7日早朝、昭和天皇が崩御されました。
 
昭和天皇の御称号は迪宮(みちのみや)と命名され、迪宮裕仁親王。
この字には「広く大きな心で国を治め、人類の幸せのために尽くすように」という意味が籠められていたのです。
 
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陛下の祈り(四方拝)

2013年01月02日 21時25分28秒 | 天皇、皇室

美し国(うましくに)からの転載です。

この記事では、四方拝の様子が詳しく書いてあります。下の絵は平安時代の頃の四方拝の様子を書いたものですが、解りやすいように明るい状態に書いてありますが、実際には夜明け前の暗い時間で、夜の闇が青くたなびいて絵の上方に覆っていて、それを表わしてあります。

記事には、四方拝の中で天皇が唱えられる呪文が書いてあり、七つの災厄に対して、それぞれに

過度我身(我が身を過し度せよ

と唱えられるのですが、災いは全て我が身を通して悟りへとみちびかれよ、というような意味らしく、国家国民の災いをすべて我が身を通して無害なものへ清めずには置かないという、強い意志がそのままこの儀式に結実したもののような気がします。

室町時代の皇室が最も貧窮したときでも、御所の壁も破れ、外から御所の明かりの漏れて見える中で、寒風の中、天皇は四方拝を行われました。長い歴史の中で、ずっと続けられてきたこの四方拝は、天皇みずからが行われるもので、代拝はできないことになっている行事です。

天皇陛下のご祭祀は一年を通してたくさんあり、中には非常にお体に負担のかかるものも多いと聞きます。この四方拝は、その中でも重要で、しかもかなりの負担を伴う最たるものなのでしょう。

この伝統を見るだけでも、天皇という存在が、西洋の君主とは全く異なるものだとわかります。

 

 

四方拝(宮内庁書陵部蔵)
 
 
本ブログにご来訪の皆様は、元旦の早朝より、畏くも今上陛下が出御あそばされ、四方拝を行われたことはご存知だと思います。

数ある宮中祭祀の中でも、最も重要な祭祀の一つで、畏くも天皇陛下が御自ら行われることになっています。そのため、御代拝(ごだいはい)が認められません。

御代拝が認められないということは、御不例(ごふれい)(畏くも天皇陛下の体調が優れないこと)などの場合、四方拝は中止となります。

ほかに、畏くも天皇陛下が元服(げんぷく)を迎える前は、御座だけ作られて四方拝は行われず、また日蝕(にっしょく)や、諒闇(りょうあん)(畏くも天皇陛下が喪に服している期間)は行われないことが慣例となっています。

四方拝の起源は明確には分かっていませんが、文献に見える初例は、『日本書紀』に記された、皇極天皇(こうぎょく・てんのう)が雨乞いのために四方拝を行ったのが最初とされています。千四百年前のことです。

元旦四方拝は、平安初期の嵯峨天皇の御代に始まったとみられ、中世、近世にも京都御所の清涼殿東庭で続けられてきた。
上記の画像はその当時を描いたものです。

左上の柱の陰に顔が隠れているのが天皇陛下で、 「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という天皇陛下だけの束帯装束が見えます。

そのすぐ前にいるのが蔵人頭(くろうどのとう)で、「御草鞋(そうが い)」という履き物を差し出しており、その次には近衛中将(このえのちゅうじょう)が御剣を捧げ持っています。

寅の刻(現在の午前4時前後の2時間)といえば図とは違って実際にはまだ暗 いので、四方拝の座まで敷かれた「筵道(えんどう)」を殿上人(てんじょうびと)が紙燭(しそく)という灯りで照らしています。

庭には、漢竹(かわたけ図 の・左側)と呉竹(くれたけ)の間に唐人打毬(とうじんだきゅう)の図を描いた大宋(たいそう)屏風がめぐらされ、中に両面の短畳で三つの座が設けられて います。

図の上の方に見える青い畳は実際には北西側に置かれていることになりますが、まずここで北斗七星を拝します。

次に図の右側、実際には北東側の紫の 褥(にく=しとね)の座で天地四方を拝します。さらに図の下側、実際には南東側の青畳の座で山陵を拝するのです。このほか、張りめぐらされた屏風の中に は、北向きに燈台と机を置き、机にはお香と花が供されてあるのが見えます。

『公事根源(くじこんげん)』という書物には「昔は殿上の侍臣なども四方拝はしけるにや、近頃は内裏・仙洞・摂政・大臣等の外は、さることもなきなり」とありますので、はじめは臣下の人々もそれぞれ自宅で行っていたようです。

四方拝は、明治四十一年に制定された皇室祭祀令(こうしつ・さいしれい)で規定され、戦前までは国家行事として行われていました。

現在も明治時代の作法に準拠して行われています。
現在、四方拝で畏くも天皇陛下が拝される諸神は次の通りです。

神宮(じんぐう)(伊勢神宮)
天神地祇(てんじんちぎ)
神武天皇陵(じんむ・てんのうりょう)
先帝三代の陵(みささぎ)(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
武蔵国一宮(むさしのくに・いちのみや)・氷川神社(ひかわ・じんじゃ)
山城国一宮(やましろのくに・いちのみや)・賀茂神社(かも・じんじゃ)
石清水八幡宮(いわしみず・はちまんぐう)
熱田神宮(あつた・じんぐう)
鹿島神宮(かしま・じんぐう)
香取神宮(かとり・じんぐう)

四方拝は、畏くも天皇陛下お一人がされる特別の祭祀で、その詳細は一般人はおよそ知る必要もないものですが、『内裏儀式(だいり・ぎしき)』や『江家次第(ごうけ・しだい』など、平安時代の儀式書には、四方拝の様子が記されています。

江家次第は、平安時代後期の有職故実(ゆうそくこ じつ)書。著者は大江匡房で全21巻(現存19巻)からなっています。有職故実とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・ 習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究することをいいます。

当時は、知識に通じた者を有識者(ゆうそくしゃ)と呼んだ名残から、現在も深 い学識・見識を持つ人を「有識者(ゆうしきしゃ)」と呼ぶのです。

 
畏くも天皇陛下は大晦日の夜、御湯(みゆ)で玉体(ぎょくたい)(畏くも天皇 陛下の身体)を清められ、黄櫨染御袍で出御され、御座に着座された天皇陛下は、御笏(みしゃく)(「笏」とは、よく神主が手に持つ白木の板)をおとりにな り、北に向かい、新しい年の属星の名字を七回唱えられます。
 
①貪狼星(どんろうせい)(子年)
②巨門星(こもんせい)(丑年、亥年)
③禄存星(ろくそんせい)(寅年、戌年)
④文曲星(ぶんきょく)(卯年、酉年)
⑤廉貞星(れんていせい)(辰年、申年)
⑥武曲星(ぶきょくせい)(巳年、未年)
⑦破軍星(はぐんせい)(午年)
 
再拝(さいはい)(深く拝む動作を二回繰り返すこと)に続けて、呪文が唱えられます。『江家次第』によると、その呪文は次のようなものです。
 
賊冦之中過度我身(賊冦の中、我が身を過し度せよ
毒魔之中過度我身(毒魔の中、我が身を過し度せよ
毒氣之中過度我身(毒氣の中、我が身を過し度せよ
毀厄之中過度我身(毀厄の中、我が身を過し度せよ
五急六害之中過度我身(五急六害の中、我が身を過し度せよ
五兵六舌之中過度我身(五兵六舌の中、我が身を過し度せよ
厭魅之中過度我身(厭魅の中、我が身を過し度せよ
萬病除癒、所欲随心、急急如律令。
 
ここで注意したいのは、原文中の「過度」という言葉です。
学術研究においては、一般に道教の常套句的文言として「守りたまえ」の意味として解釈されてきました。中国語の古代辞書『説文解字』や『経籍餐詁』によると、
「過」とは
・すぎる、わたる、よぎる、あまねく
「度」には
・ここでは、悟らせるを意味します。
 
すなわち、罪障は我が身を通して悟りへ至らしめん、「罪障から私を守ってください」ということではないのです。

この世に起こる罪障をすべて引受けられることを意味します。

陛下の民(臣民)を陛下が身を挺して護ってくださっておられるのです。

臣民は、難事が起こると、安易に限りを尽くして「魔除け」を望みます。しかし、陛下は引受け遊ばされておられるのです。

臣民は安易なほうへ流されます。しかし、陛下は困難をすべて受入れられるのです。
 
罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば
 
大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製です。

御身を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇陛下という存在なのです。

先帝陛下もマッカーサーに対して「我が身はどうなってもかまわぬ。国民を救ってほしい。」と覚悟を示しあそばされました。

臣民が始めた戦争でしたが、最後は臣民を護るため、ご聖断あそばされ、食糧難にあえぐ臣民を救われた。
 

我国には現在、内閣総理大臣はじめ大臣が存在します。かっては国政を預けられた氏族を大臣(おおおみ)と呼びました。

政(まつりごと)は、祭事(まつりごと)と同じ読み方をします。語源は同じ意味になります。すなわち、政と祭事は一体なのです。政は祭事なのですから、政治は祭事、神事であり、ご神示に則って執り行われるのが、本来の姿であり、『祭政一致は』は日本の伝統でした。

しかしながら、現在の政(まつりごと)は神意に則ったものとは程遠い状況です。
また、政(まつりごと)の混迷を現した世相も乱れています。
 
しかし、陛下は一億三千万人の「罪障」を引受けておられるのです。
まつろわぬ民も同じ「赤子」として・・・
 
 

転載元 転載元: 美し国(うましくに)

 


新年を迎えて、我が国柄は世界の中でも日本だけのすばらしい伝統であります。

2013年01月02日 20時56分20秒 | 天皇、皇室

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

日本の天皇が、祭祀という神々への祈りをどれだけ真剣に行われ、日本国家、国民の命運を自分の命を賭して、というか完全に無我無私の境地でひたすらに祈られるということ、その渾身の祈りを使命として生きておられることがわかる記事です。

 

 

 

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新年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
 
今上陛下の年頭のお言葉としてこのように仰せられました。
「皆が被災者に心を寄せつつ、互いに支え合って困難を克服していくよう期待しています」。・・・
 
天皇陛下は元日の日が昇る前に、四方拝と呼ばれる祭祀を野外で行います。
年頭にあたって神々に日本国の安寧と世界の平和を祈られるのです。
 
昭和20年の元日、陛下の四方拝は空襲を恐れて宮中三殿ではなく吹上御苑の御文庫の前庭で行われました。
元日の零時5分にB29が東京上空に侵入して神田や浅草を空襲しました。
その後、敵機が退去し空襲警報が解除されました。
昭和天皇は午前4時に起床され、御文庫の風呂場で潔斎(身を清める)をなされ、午前5時に御文庫を出られましたが、すぐに空襲警報が発せられたため、いったん中に戻られ、皇后陛下とともに地下2階の防空室へ降りられました。
 
この時、陛下は防空室の時計をご覧になられて「いまに夜が明けてしまう」と繰り返し言われていたといいます。どうしても日の出前に四方拝を済ませなければならなかったのです。
B29が江戸川に投弾して火災が起こって夜空の雲を赤く染めました。
空襲警報が解除された5時40分、陛下は軍装のまま御文庫から出られ、宮中三殿から白い屏風や真薦(まこも)、薄帖(うすじょう)が運ばれ、並べられました。気温はマイナス1度。
 
いつもはかがり火が焚かれ、陛下は平安朝から伝わる束帯に黒い冠をかぶられ、屏風の囲いの中に入られるのです。
しかし昭和20年の四方拝は灯火管制のために、黒い覆いを被せた懐中電灯一つで行われたのです。
芝生の地面はデコボコで屏風は安定せずに風が吹く都度、侍従が倒れないように外から支えていました。
 
陛下が屏風に入られると、三尺四方の厚畳の御拝座にあがられ、皇大神宮の方角にく向かれ、立札をされ、座礼をされ、もう一度立たれてお辞儀され、また坐って平伏されます。これを両段再拝といいます。
陛下は右へ廻って北西の方角に両段再拝され、北東、南東でも行われました。四方へ向けて両段再拝されることで、皇大神宮、豊受大神宮、四方の天神地紙(てんしんちぎ)、天皇陵などを拝まれるのです。
陛下が四方拝を無事に終わられるまで敵機来襲がなかったので中断されることはなかったのでした。
 
昭和天皇は80歳を超えられても、四方拝をおつとめになられていました。
歴代の天皇陛下は今日まで連綿として守ってきた四方拝。
天皇陛下は日の出前の野外の暗く寒い中、世界の平和と幸せを祈って祭礼され、皇族方は居間の窓や戸を開け放ち、四方拝が終わられるのを身を慎んで待たれる。
このようなことは世界の中でも日本の他にはないことです。
 
今年も今上陛下は四方拝を行われました。宮内庁によるとご負担軽減を目的として、昨年同様にお住まいの御所で行われたとのことであります。
昨年には心臓手術をなされて間もなく東日本大震災の式典に出られ、今年も国民と世界の平和と幸せのために四方拝を行われた天皇陛下。
我が国柄と伝統に国民が感謝して、心新たに新年を迎えたい。
 
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」