一般社団法人「いのちを守る親の会」京都本部 <公式ブログ>からの転載です。
この現場の様子を聞いて、人間として許せるでしょうか。胎児は一人の生命です。このブログ主の訴えに、賛同された方は、ご協力をお願いします。
(パソコンで赤ちゃんを救える)「赤ちゃんのいのちを救う」御協力を。

お願いします。
(事例)ある対話を御紹介します。
(問い)中絶した胎児は、中絶者本人に見せられるのでしょうか?12週以降は 火葬すると聞いて「驚きました」。
11週までの中絶ですと、胎児を掻き出したり、吸い取ったりして母体から出されるのですか?・・・
テレビの出産シーンで は「元気な男の子ですよ」などといい、見せてくれる映像を見ますが、中絶の場合、胎児は中絶者本人に見せられるのでしょうか?それとも希望しなければ、見 せられる事はないですか?
(答え) 11週までの中絶胎児は、手術に使用した脱脂綿などの「出血のついたゴミ」と一緒に医療廃棄物として処理されます。多くの場合、吸引器具の中に入り込んだりそうはされた衝撃で赤ちゃんの身体は摘出時点でバラバラになっているのでそれを「あえて手術を受けた親に見せる」ようなことはしません。
ですから、そのようなことを言う医者も殆どありません。)

・・・・・ 私はがっかりした。 こりゃ、私がやらなくちゃならない。 とっさにそう思うと、罪悪感が胸に迫った。
そう思っている中に卵胞が見えて来た。 仕方がない。
といって、先生がとびこんできた。

「先生、生まれました」
「おっ。 そうか」
喜びにおどるのだが ・・・・・。
この子はどう見ても八ヶ月に入っている。
その一端を口にくわえると、
先生が私の顔をみながら首を横にふった。
その他の物を吸い出した。
赤ちゃんは楽になったと見えて泣き声が澄み切ってきた。

よけいなことをする奴だ。 はっきりいっている。
先生は何故かそれをしなかった。
赤ちゃんは大きな声を出して泣いているが、
しかし時間の問題である。
従ってそのままにしておくより外は
ないのである ・・・・・
私は赤ちゃんを湯から上げて浴用タオルにくるんだ。
先生は私のすることをじーとみていたが、
そのままほっといたらいいのにといっているのがその顔色からはっきりうかがわれた。

・・・・・〈この後、妊婦の処置を終えて〉
・・・・・
しかし、後、時間の問題だよ」
西岡愛子著 大平書房刊 (昭和39年初版)

(2)このブログのゲスト蘭
このブログと言うのは転載元の


昨日転載した方のもう一つのブログ■社会教育家(生命を守る運動家)和来紘太郎の本名ブログ■大熊良樹から転載です。
<ほんとうの健康とはなにか・・>

「健康とは①身体的・②精神的・
転載終わり
世界保健機関(WHO)の憲章に書かれた「健康」の定義が、「健康とは①身体的・②精神的・③霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」とあることには驚きました。
人間は霊的存在だと認めているということです。そういえば、近年西洋では、西洋文明の行き詰まりから、霊的なものを求めるスピリチュアリズムが起こってきており、更にはそれを東洋に求め、一番に日本に期待しているということを、竹本忠雄氏が書いて居られました。
その日本において、戦後多くの胎児が簡単に抹殺されてきました。経済的理由によって、ほとんど医者の審査のみで、ほぼ自由に制限なく行われてきました。累計では一億を超える胎児が闇から闇に葬り去られたといいます。子宮から切り刻まれて汚物のように掻き出されて捨てられました。多くの胎児は、人間として供養されることもなく、ゴミとして処理されました。
人間が霊的存在であるならば、胎児ももちろんにんげんであり、霊的存在であるはずです。そのような胎児を平気で殺しておいて、今生きている人間だけが幸福であればいいという考え方の社会が、本当の平和社会といえるのでしょうか。親の生活のために幸福のためには、生まれてくる胎児が邪魔だという考え方で、その人は本当に幸福になれるのでしょうか。
以前サイタニさんが、問題児を持つ親には、たいてい、人工妊娠中絶をした経験があるとおっしゃっていましたが、簡単に親の都合で、胎児を殺してしまうような人間観、そこから本当に健全な家庭、健全な社会が生まれるのでしょうか。人間とは何か、人間はどうあるべきか、どう生きるべきかという根本的な問題を疎かにして、胎児を殺して来たことが、今の日本の社会を歪めているのではないでしょうか。
一年間に人工妊娠中絶される胎児は、届出数だけでも22万件くらいあるそうです。実際の数字は、この2倍とも3倍とも、あるいは100万件とも言われています。
胎児を殺すということを、産めない事情があれば仕方がないと考え、当然のように堕胎手術をする人、あるいは勧める人もいます。胎児はまだ人間ではない、まだ人間として出来上がっていないから、生まれる前に処理するのは、別に殺人ということでもないと考える人もいます。
だったら人間はいつから人間なのでしょうか。人間はこの肉体だけの存在であり、魂とか霊魂を信じない人ならば、人間として生まれた時に初めて人間になると考えるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。
戦争に於ける殺人を非難する人でも、人工妊娠中絶はいとも簡単に行う人がいます。しかし胎児も同じ対等の人間だとすれば、これは殺人であり、しかも胎児というもっとも弱い立場にあるものを一方的に殺す行為であり、非常に卑劣な行為と言えます。
どんな事情があろうと、胎児から見れば、その残虐さ卑劣さは、群を抜いています。
最近、この胎児を救おうとして立ち上がられた方のブログを見ました。そのブログを転載したいと思います。
(コピーして)大切な人に伝えてください。(保存版)

先日、理由あって人工妊娠中絶術を施行しました。
胎児が少し大きくなってからの手術でしたので、
肋骨と思われる骨の一部が見えて、背筋が凍りました。
荻野式避妊法を考案された荻野久作先生による、歴史に残る談話
「”オギノ式”乱用者に告ぐ」です。 (産婦人科医:なな)
大工さんは、木の香も新しい家を前にして、胸をふくらませるであろうし、
まだ人間の態をなしていないような赤ん坊が手足をばたつかせて、
それでも勤務先の病院でこの「オギャア」を毎日のように耳にするたびに、
朗らかな気分になる。
おそらくは「生命の誕生」というものが持つ犯しがたい価値に由来するのであろう。
自分が死んでしまうだろうから、
どうしても言っておきたいことがある。
子供とは何であるかを考えるようになってほしい、ということである。
親の誇りと責任に於いてすばらしい子供を生むように夫婦で協力する。

最低の責任すら果たせなかった人間です。
でも、心のどこかでその事実が認められません。
そして辛いお仕事させてしまった先生への申し訳なさ。
死ぬまで消えることはないと思います。
と声をかけてくださいました。
生きていくことはできませんでした。
でも、あのお医者さまの一言が、今も心に残っています。
我が子の命をかえりみて下さった、
なな先生、こんな私ですが、陰ながら応援しております。
経腹エコーガイド下(子宮穿孔の危険が高そうな場合には行います)で中絶手術を行うと、私たちの鉗子から手足をばたつかせて逃げようとする。
手術ではなく分娩と同じ形態をとる「中期中絶」では
生きられないとわかっていても、最初泣きます。
寝付けなくなろうと、一度はみてほしいくらいです。
医療者として、そのたびに何かが
せめて自分の体験を、人に話すこと。
written by 僻地の産科医 / 2007.09.20 21:24


最近、野田聖子議員が堕胎禁止の法律を作れば少子化を防ぐことができるという発言をしたと聞きました。野田議員は、リベラルな思想の持ち主だと思っ ていたので、この発言はちょっと意外でした。
わが国では、堕胎をほとんど無制限に認めている法律があり、以前は優生保護法、今は母体保護法と言う名がついています。この法律を改正しようとして、かつては一部の人々、主に宗教団体が多かったのですが、熱心に運動していました。この問題についてテレビで取り上げていたのを30年前くらいに見たことがありますが、当時これに最も反対するのが、ウーマンリブ運動で女性の権利を叫ぶ人々でした。
彼女らは、産む産まないを決めるのは女の権利であり、産みたくなければ、胎児を堕ろすのは、女性本人の自由であり、たとえそのために人類が絶滅したとしても、その産まない自由の権利は認められなくてはいけないとテレビで叫んでいるのを見たことがあります。
日本では、昔の人は、子供を授かると言いました。うちの菩提寺の浄土宗の法要で説教法話をされていたお坊さんが、今の人は、子供を授かると言わずに、子供が出来たという、そして「できちゃった婚」などといって、子供は自分たちが作ったのだという意識しかないというようなお話をされていました。
自分たちが作ったものだから、胎児を生かすか殺すかは自分たちの権利だと思うのでしょう。
戦後の日本人は、宗教というものを公のあらゆるものから出来るだけ省こうとし、政治、教育など、とにかく宗教色をなくしてきましたが、それはほんとに正しかったのかと思います。もちろん特定の宗教団体的なものは省くのは当然ですが、日本人が生活の中に自然に持っていた宗教的な感覚まで、完全に拭い去ろうとしたのは、行き過ぎだったように思います。ちょっとした宗教的な慣習、たとえば地鎮祭とか、靖国神社参拝などという、民族的な感性に由来するものまで否定して来たのは、間違いだと思います。
アメリカでは現に大統領就任式では、聖書に手をおいて、宣誓します。こうした人間が誓うという厳粛な行事には、宗教が登場しても何もおかしくないと思うのでしょう。
人間が自分の自我以上の存在、村上和雄教授の言われるサムシンググレートというべき存在を認める敬虔な心で、自分及び他者の命の尊厳を感じる気持ちがないと、社会は、人間の自我の欲望のみで動くようになってしまいます。そこには本当の慈しみも、悲しみも、思いやりも、なくなってしまうのではないでしょうか。
子供を自分たちの製造物や、所有物のように考えたりするところから、どうして自分自身の尊厳すら見いだせるでしょうか。この意識のどこから、自殺や殺人を根本的に否定する考え方が生まれてくるでしょうか。子供たちに「生命の大切さ」を教えると言っても、授かった生命を自由に堕胎している社会が、どこにその大切さの根拠を示すことができるのでしょうか。
みどり松のブログからの転載です。
「 堕胎は最大の盗罪である」
谷口 雅春 先生
人間は、神の生命が天降って来て、
そして神の生命の個性的顕現として、
その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、
使命を授かって地上に顕現しているのである。
この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。
唯物論的人間観ではその根拠が失われてしまう。
指紋の同じ人間が一人も居ない、
それと同じ様に、全ての人間は、
神から与えられた使命が異なるのである。
だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、
言い換えると堕胎する ――
人工妊娠中絶するということは、
せっかく神が個性を与えて特殊なる使命を
与えて神の生命が自己実現して来ようとしているのを
中断してしまうことになる。
それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。
その人間の魂は、別の人間を以ては
代用することの出来ない、全然違う個性と使命を
持って生まれて来るのであるから、
彼は絶対価値の生命である。
かけ換えのない、代用品の無い貴い生命であるのを
殺して仕舞うというのは、
神の計画に対する非常なる反逆である
ということになるのであります。
人間の魂は、肉体を殺しても死なないのである。
だから堕胎して胎児を殺しても霊魂は
霊界で生きて居り、個性は存続している。
けれども、彼が地上に天降って出現する筈で
あった時と場所は二度とないのである。
同じ機会というものは再度ない。
若し中絶して霊界へ帰った魂がもう一ぺん
出直して地上に生まれ出て来る時には、
もうその前回とは全然異なる環境であり、
異なる時代であり、異なる場所であるから、
その魂を磨くべきすべての資料が違ってくるのであって、
二度と代用される環境も機会も無いのである。
それ故、彼にとって絶対価値の魂が、
二度とふたたびない時と場所と条件とに
触れるべく出現して絶対的価値ある使命を
果そうとしているのを、それを中断してしまうのが
堕胎なのであるから、これは絶対価値を奪うものであって、
何億何兆円の価値あるものを奪うよりも
尚一層大なる盗罪であると言わねばならないのである。
親殺しの尊属殺人刑が廃止されて
普通の殺人犯と平等に判決されたが、
尊属は大抵、地上で長く使命を果し
て来た人たちが多いが、胎児は、前途に一層多くの、
かけがえのない遂行すべき使命をもっているのであるから、
普通の殺人よりも、もっと彼から奪う事が大であるから
最も大なる犯罪である。
『白鳩』誌(昭和 48年9月号より)








