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天皇陛下ありがとうございます

2015年04月13日 12時01分40秒 | 日本人の誇り

■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記 から転載しました。


天皇皇后両陛下の心をこめた慰霊のお姿に、感動を抑えられません。この記事にあるように、ペリリュー島の戦いで生き残られた杉村武雄さんが、天皇皇后両陛下の慰霊に思わずありがとうございますという思いで手を合わせられたのは、英霊となった戦友たちがどれだけそのことを喜んだかがわかるからだろうと思います。


天皇陛下の慰霊は、まさに日本の国の魂が英霊たちに語りかけ慰めたことになるのでしょう。


杉村さんにとっても、戦友たちの英霊にとっても、気持ちが報われた瞬間であったことでしょう。


 

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天皇陛下ありがとうございます。
 
 
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戦後70年の戦没者慰霊のためパラオを訪問された天皇、皇后両陛下は4月9日、太平洋戦争の激戦地となったペリリュー島で「西太平洋戦没者の碑」に献花して、平和への祈りを捧げられた。
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ペリリュー島では旧日本兵の守備隊1万人がほぼ全滅し、アメリカ兵も千数百人に上る犠牲者を出した。

同島の南端にある「西太平洋戦没者の碑」は、パラオの島々や周辺の海などで亡くなった戦没者を慰霊するため、日本政府が1985年に建てたもの。

この碑は日本の方角に向けられ「さきの大戦において、西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび、平和への思いを込めてこの碑を建立する」と記されている。

戦没者の遺族や、遺骨収集のためパラオを訪れる人たちのほとんどが、この慰霊碑に足を運び、線香や花を供えている。

摂氏30度近い熱帯の暑さの中で、天皇陛下はアイランドフォーマルと呼ばれる開襟シャツの姿。

厚生労働省の村木厚子事務次官の先導で、天皇、皇后両陛下はゆっくりと慰霊碑に進んだ。

両陛下は、パラオでの戦闘に参加した元日本兵や犠牲者の遺族らも見守る中、日本から持参した白い菊の花束を慰霊碑の前に供えた。

石碑の前で深く一礼した後、ペリリュー島の南10kmにあり、やはり旧日本兵がほぼ全滅したアンガウル島にも一礼した。


この後、両陛下はアメリカ軍上陸地点付近にあるアメリカ陸軍の慰霊碑にも供花、今回は、日本の英霊のみでなく、アメリカ軍人、パラオ人で避難された(疎開された)後に餓死された方も含めて「戦争で戦病死された全ての方の慰霊」であるとされている。

その深い誠と愛に国を超えて大きな感動の渦が巻き起こっている。
 
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ぺリリュー島で戦った杉村さんも泣いていた。天皇陛下ありがとうございます。。。といって。。。これは、全ての英霊の魂の声であろう。

 
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日本から運ばれた「白菊」だ。
 天皇陛下からの捧げものである。。

 
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     思わず、合掌する杉村さん。
 
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  天皇陛下ありがとうございます。。
 
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 81歳を超えてなお・・
    慰霊を続ける陛下。


  風邪気味の中を・・・
    どうしても・・と、

  今回の訪問となった。

  強行軍である。
    休憩もなく・・・・

  日本に戻られた。。。

   天皇陛下
    ありがとうございます。

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なんと・・尊い、おかたを
 いただいた 日本は 尊い
    国であることだろうか。


 すべてを 礼拝し尽くされる
  現人神 天皇陛下を頂く
     日の本ゆえに・・・

  天皇国日本は
    神国なのである。。。



    20歳の時に詠んだ和歌

  ひのもと      ひかりの 
  日本の国は太陽
    の国なれば
  た み
 国民は明るく
   人を照らせよ

     大熊良樹


日本の神とは「西洋の神」とは違うのです。日本では「全て」に神を見るのです。すごさ。能力。働き。理念。命。 性質。躍動。個性。

その中でも・・全てを祈る、祭司長。天皇さまは、まさに、神なのです。

われわれ日本人の父であり母であり、
神であり、日本人のお手本でもあるのであります。

その陛下(明治天皇)の示された日本人の徳目「教育勅語」はやがて世界の道徳の「最高峰」として認知される日が来るでしょう。わたしの師である谷口雅春先生もそのことを言い残されています。(最終寄稿は「教育勅語」についてです。)

その事を一番知らないのは
「日本人」でありましょう・・・。

機は熟してきました。
   
 


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転載元 転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記

 

両陛下パラオ御訪問・「ペリリュー島の戦い」とは

2015年04月09日 16時27分09秒 | 日本人の誇り

ペリリュー島の戦いのことは、以前さくらの花びらさんのブログで読んだことがある程度の知識しかなかったのですが、日本政策研究センターの記事を読んで、このペリリュー島の戦いが、後の硫黄島の戦いにつながる本土防衛のための決死の戦いであり、さらには沖縄戦につながっていくことがわかりました。

このペリリュー島、硫黄島陥落後に、米軍が日本本土を無差別爆撃し、東京大空襲では、一夜で10万人の市民が亡くなったと言われています。米軍は住民が逃げられないように、爆撃範囲の外枠を焼夷弾で燃え上がらせて、全滅させるように爆撃したと言われます。東京だけではなく大都市圏は皆そうした空襲を受けました。犠牲の多くは老人や女性や幼い子供だと言われます。それでも、学童疎開など、地方の田舎へ避難した人々も多かったはずです。もしも、ペリリュー島や硫黄島の戦いが米軍の予定のごとくあっという間に終わって、米軍がその時点で日本本土に攻めてきていたら、亡くなった人の数はその数倍になっていたはずです。 

本土に残った人々が米軍の本土攻撃に備えることができるようにと、少しでも時間を稼ぐために自分たちの命のかぎり、まさに死によって動けなくなるまで苦痛に耐えて戦った人々がいたということを、私たちは忘れてはならないでしょう。

本土に残る日本人を守るために、自分たちの命を捧げたのですから、それはまさに、「人その友のために命を捨つる、それより大なる愛はなし」とイエスが言いそして実行したように、彼らの行為はイエスに例えられるべきものだと思います。そんな方々に侵略戦争という汚名を着せ、間違った戦争で心ならずも亡くなったなどという同情の言葉を、まるで自分たちとは異世界の話のように語り、現代という高みの見物席から過去を見て憐れむのは、もういい加減やめにしてほしいと思います。

戦争はたしかに悲惨です。やらないに越したことはありません。しかし避けられない戦争もあるし、生き延びるためには戦わねばならないこともあります。それをイデオロギー的な教条主義で裁いたり、戦勝国のプロパガンダに乗せられて自分たちの先人を愚かな犯罪者のように言うのは、実はこれほど恥ずかしいことはないのだと気付くべきです。

 


 

 天皇皇后両陛下には、戦没者の慰霊などのため、今日明日の2日間パラオ共和国を公式に御訪問になる。先の大戦の激戦地だったペリリュー島では「西太平洋戦没者の碑」で御慰霊になる見込みだという。ここでは、ペリリュー島の戦いについて、振り返っておきたい。

 南太平洋に浮かぶパラオは日本から真南に3200㎞、グアム島の西南、パプアニューギニアとフィリピンの中間に位置し、大小200の島からなる島嶼国家。ペリリュー島はその一つで、南北9㎞、東西3㎞、面積13平方㎞のサンゴ礁の島である。

 大東亜戦争では昭和18年末から19年秋にかけて、日本の絶対国防圏とされた地域が米軍に次々と攻略された。特にサイパン、テニアン、グアムのマリアナ諸島を失ったことは大きな痛手で、米軍はここから日本本土の空襲が可能となった。

 米軍が次の目標としたのが、フィリピン諸島の外廓たるパラオ諸島だった。本土防衛のためにはフィリピン死守が不可欠だが、そのためにはパラオ諸島を敵に渡してはならなかった。なかでも重要視されたのが、最適の飛行場があるペリリュー島だった。

 日本軍はここを死守すべく、歩兵第二連隊長中川州男(なかがわ・くにお)大佐率いる1万余人を布陣。一方、米軍は4倍の4万2千人、小銃8倍、戦車10倍と圧倒的な戦力差で迫り「3日、たぶん2日」で陥落させると豪語していたという。

 ところが、日本軍は昭和19年9月から11月まで、3日どころか70余日間戦い抜き、米軍に死者1684人、戦傷者7160人という甚大な被害を与え、そして玉砕した(日本軍の生還はわずか34人)。この勇戦敢闘が、敵軍を心底から畏怖させたことは次の通りである。

 「ペリリュー島日本守備隊は祖国のために全員忠実に戦死せり」(米軍公刊戦史) 

 「敵は抵抗力の最後の一オンスまでしぼり出し、征服者(米軍)に最大の損害を強要した。ペリリュー戦はそれまでのいかなる戦いとも質を異にし、その後の硫黄島、沖縄戦の類型を示した」(米海兵隊戦記)

 「ペリリューの複雑きわまる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった」(米太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツ)

 さらに、元海兵隊員コードリン・ワグナー氏は平成6年にこう回想している。

 「私は海兵隊の一員としてペリリュー戦に参加した。こんな島なら二日間で落すつもりだった。しかし、一ケ月たっても落ちなかった。日本軍人はよく戦い全員が戦死した。当時戦った勇者に会いたくてもそれができない。皆さんは郷里に帰ったら、アメリカの老軍人が日本軍の勇戦を讃えていたと伝えて欲しい」(『大東亜戦争の秘話』展転社)

 今日ではペリリュー島の戦いは完全に忘れられているが、両陛下の御訪問に合わせ、追悼の機会としたい。


異国にいて想う日本(3) タイ在住のmanaさんの論文転載

2013年08月15日 12時52分39秒 | 日本人の誇り

manaさんの論文の最終章の転載です。

日本は昔から性善説の考え方の国で、罪を犯したものも、被害にあったものも本来は対等の人間であり、罪を犯したあわれを罪人のために悲しみ、また自分にも責任の一端を感じるような、民族でした。そのために、謝るということをある種の宗教的な悔い改めに相当する意味として受け止め、過去の罪を水に流して元の対等な人間関係を取り戻すという考え方をする民族です。日本人は、非常に宗教的な感性をもった民族であり、それ故に「生かされている」という感覚で、自己にも他人にも、人間としての本来の平等性を感じることの出来る人々だと言えます。

しかし外国は、対立の歴史から発展した国々が多く、謝罪は、自他の非を決するものであり、相手から賠償を勝ち取る口実であり、それゆえに対等の人間関係が一転して善と悪の上下関係となってしまうきっかけの出来事となります。

このような世界の中で、戦後日本は、悪の国として、謝罪すればするほど貶められるという悪循環に嵌ってしまいました。

大航海時代から始まった白人のアジア・アフリカ植民地時代を終わらせる可能性を持つものは、当時日本をおいて他にはありませんでした。もし日本が大東亜戦争を戦わなかったならば、有色人種差別は終わることはなく、あるいはもっと長い年月をその終わりのために費やしていたでしょう。

この事実を無視して、日本を侵略国と貶める国々は、自分たちの基盤を貶めているのと同じです。今こそ、日本は、第二次大戦の真の意味をもう一度検証して、日本の戦いを見つめなおして、押し付けられた歴史ではない、自分たちの歴史を取り戻す時です。

日本は敗戦によってさえ、古来よりの皇統を失うこと無く国柄を保ち得た国です。そこには、非常に強い民族の底力が、脈々と波打って続いているのであり、一見末期症状のように情けない姿を見せてはいても、その下に、古い殻を脱皮したあとの新生日本が隠れていると信じています。皇統連綿と続いた天皇の御存在は、扇の要に例えられたり、また、おきあがり小法師の中心に例えられます。無私なる中心を持つ日本国は、その中心に回帰することで、国民もまた無私となって、身を捨てて公に尽くすことで、危機を突破してきました。

私たち日本人がどのような国柄を有し、どのように生きてきた民族であるかを自覚するときに、日本の誇りを取り戻すことが出来るのではないでしょうか。

 

 

転載開始

「戦 争は卑劣だ。が、最も卑劣な行為ではない。それよりも、戦争は無意味だと考える腐敗し、堕落したモラル、愛国心にしがみついていることのほうがもっと卑劣 だ。戦うべき対象もなく、自分の身の安全の方が大切だと考える人間ほど惨めな生き物はない。そういう人間は自分よりも優れた人間の助けによってしか、自分 自身、自由の身になれない、情けない生き物だ」

 

ジョン・スチュアート・ミル

 

 

 

異国にいて想う日本(3)

 

-いつ蘇る日本の誇り-

 

 

 

歴 史を知ることは、決して心躍る楽しいことばかりではありません。綺麗事ばかりでもありません。心ならずも命を賭けた戦いに出なければならないこともあれ ば、隠忍自重で機を待つ辛い日々も見えてきます。時に心を引き裂き、古傷に塩を塗るかもしれません。しかし、それが事実であれば直視しなければなりませ ん。そうした悠久の歴史の中を延々と受け継がれてきた祖先の血が私たちの体の中に流れているのです。歴史を知ることは、自分を知ることでもあるのです。今 の自分は悠久の歴史の中に位置づけられるものであり、これから続く子供たちへの通過点なのです。わたしたちは、日本人として生まれ、いつの日か日本人とし てこの世を去ります。国籍を変えても血を変えることはできないのです。

 

外 国では、その国に生まれたことに誇りを持ち、特に外国人に対しては「誇り」ます。そして、「歴史」は、必ず、「自国」を中心とした歴史であり、故に自国は 常に平和を愛し、降りかかる火の粉を先人たちは血を持って振り払い、独立を守ってきた、と自国の行動は、正しいものであると教えられます。タイでは、ビル マ、ラオス、カンボジアとの争いは数えきれないほどありますが、必ずタイが中心で、タイに正当性があります。故にタイの国民はタイ人であることに誇りを持 つのではないでしょうか。タイ族以外のタイ人であっても、凡そ、タイ人と名乗る限り、タイ人であることを誇り、タイ人であることに喜びを感じることは当然 のこととされています。どの家庭にも国王の御真影が飾られ、更には、国王即位60年に際しては、全国の各家庭に御真影が政府により配布されました。目線よ りも高い場所に御真影を飾り、毎日朝夕にはテレビで国歌が流れ、公式行事では国王賛歌が流れると、自然に国民も王室に対する尊敬の念が根付きます。対し て、君が代を歌うことを拒否し、日の丸掲揚に起立することを拒否する教師を日本人は自らの汗から生まれた税金で養っています。「国柄」を否定する教師に対 して国民が非難の声を上げない国が正常でしょうか。日の丸を平然と踏み躙る人を咎めることもせず、唯々諾々と入国を許しています。それでいいのでしょう か。

 

戦 後、我が国はそれまでの「覇気」を失い、故ない十字架を背負わされ、「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」、「後ろめたさ」を感じながら只管下を向いて脇目 も振らず額に汗して働き、働いてきました。廃墟の中からでも文句一つ言うわけでもなく、律儀にも「賠償金」を各国に払い続けてきました。「謝罪」を求める 国があると、「平身低頭」するように「謝罪」を繰り返してきました。それは、いまだに続いています。我々は永遠に謝罪し続けなければならないのでしょう か。それほどまでに罪深いことをしてきたのでしょうか。アジア諸国は、日本人の血と引き換えに独立を勝ち得たのではなかったのでしょうか。戦争=悪と言う のは日本に対してのみあてはまるのでしょうか。世界のどの国も戦争は権利として保持されているのではなかったでしょうか。それ故にでしょうか。アジア・ア フリカに植民地を持った欧米西洋列国の中で旧植民地に謝罪した国があったでしょうか?香港返還に際して英国は謝罪したでしょうか?マカオ返還に際してポル トガルは謝罪したでしょうか?韓国は、ベトナム戦争時の自国軍の住民に対する残虐行為に現地では謝罪しましたが、後日自国内でそれを撤回しました。

 

「八 紘一宇」のもと、シンガポールを解放した日本軍兵士は、それまでの敵兵であるインド人たちと共に食事をし、オランダ軍を駆逐したインドネシアでは、若者た ちに武器を与えて軍事訓練までしました。そうした「日本の心」がビルマの、インドの、インドネシアの独立戦争となりました。しかも、オランダより膨大な戦 費を要求されたインドネシアの窮状を救ったのは、再起不能なまでに打ちのめされた戦後の日本でした。鉛筆すら自国で作ることが出来ず、米国製を「買わされた」フィリピン人が、かつての日本統治の「台湾」「朝 鮮半島」の経済発展に羨望の目を向けることに、現代の日本人は気付かないのでしょうか。日本が台湾、朝鮮半島に齎した「近代化」に対して、西洋列強はマジ ア・アフリカの植民地に対して自国言語と伝統的統治権力構造の破壊以外の何を残したのでしょうか。彼らが標榜する「自由」「平等」を現地社会に適用したで しょうか。ロシアを撃破した日本の快挙にアジアの先人は自国の独立の夢に希望を見出し、アジア地域での西洋列強を駆逐した日本陸海軍の壮挙、日本軍の進撃 を現地の人々が歓喜して迎えたのは何故でしょうか。大東亜戦争が西洋列強のアジア植民地支配を打破し、植民地を解放した事実をいつ理解するのでしょうか。 タイの王族でもある元首相ククリット・プラモートは,「日本というお母さんは、母体を壊してまでもアジア諸国という子供を産んでくれました、・・・われわ れは12月8日を忘れてはならない」と言っています。日本人は、このククリット元首相の意図とは全く逆の意味で12月8日を捉えます。何故でしょうか。何 故、国の存亡を賭けた対米開戦を決断せざるを得なかったのか、と言う先人の苦悩を考えないのでしょうか。

我々 は、河原の石から生まれたわけでも、木の股から生まれたわけでもなく、連綿と続く歴史の中で生を受け、その血の中に祖先を抱いて、ともに生きています。歴 史・文化とは遺伝子として先祖代々連綿と受け継がれ、体に流れるそうした血の連続であり、民族の根本をなすものです。従って誤った歴史・文化は、そうした 血の連続を断つものです。外国に出た日本人が、いつとはなしに「日本」について考え、学校教育で受けた画一的な日本の歴史に疑問を抱き始めるのは、正にこ うした「先祖の血」の叫びなのかもしれません。「嘘も百篇言えば本当になる」とばかりに、「捏造物語」を吹聴してひたすら「日本=悪」を喧伝する国が傍に あります。外国に出てまで「日本」を誹謗・中傷する日本人もいますが、そんな彼らの外国での生活を守っているのは「菊の御紋の日本国旅券」であることの矛 盾に気付かないのでしょうか。皇室を、日本を非難しながらなぜ彼らは日本国籍を保持し続けるのでしょうか。

 

日 本国内だけであれば「嵐が過ぎるのを待つ」かもしれませんが、外国では「反論」がなければ事実と見做され、徹底的に攻撃され、時に裁判にもなれば、かつて の「その場凌ぎの謝罪」が証拠として採用されます。それは、生活基盤の喪失になり、立ち上がる余裕を与えられません。外国にいれば倒れる前に戦わなければ ならず、戦う為の武器は、銃ではなく、正しい「歴史・文化」であり「日本国に対する愛情」であり「日本人としての誇り」であり、死してもなお「日本人の誇 り」を持って戦い続けることではないでしょうか。

 

「日 本の心」を持って世界に対しながら、「自国」と「外国」は「異なり」、「自国」に勝る国はない、というのが世界の常識であることをしっかりと受け止める必 要があります。その「違い」を認めた上で「対等」に付き合うことが肝要です。他国よりのいわれなき「誹謗・中傷」を無批判に受け入れた時、世界の笑いもの となり、「サンド・バッグ」のように叩かれ続けるでしょう。

 

も しも、「日本=悪」という誤った歴史・文化を幾代にも亘って教え込まれてしまうと、終には民族としての「誇り」は失せ、「この世に存在する資格」すら自ら 捨てることになるでしょう。現下の日本人に必要なことは、文化の基である日本語教育であり、日本語による思考基盤の上に築かれる「日本視点」での「日本の 歴史」を習得し、その日本の歴史に関わるものとして、それぞれの時代のアジア史、世界史を見て行くべきではないでしょうか。アジアの歴史も、世界の歴史も 全て「日本視点」で見なければ、世界の中の日本の歴史を正しく把握することはできません。「自らの歴史=自らの根っ子」を知って初めて外国人に対して「日 本を語る」ことが出来ます。

 

「日 本人の心」は世界の全ての民族に共通するものではないとはいえ、日本が世界に誇る「美」であり「文化」です。「文化」であれば、他国との相違を理由に放棄 することはできない筈です。「文化」の破壊、放棄は自らの存立基盤の破壊・放棄に過ぎないのではないでしょうか。他者に対する「思い遣り」「労わり」が 「無私」であるが故に、それは尊いのです。すべての民族が「人類」という共通項で括られるが故に、「八紘一宇」の考えが自然と生まれてきます。「八紘一 宇」の考えは、いつの日にか「日本の心」として感応する人が出てくるものと思います。アジアの多くの国に今もある「親日」の風潮は、まさに「八紘一宇」の 波及効果ではないでしょうか。日本人が本来持っている「日本の心」に気付き、戦後の日本社会を覆う被虐の闇を払い、誤った歴史観を廃し、先祖代々営々とし て作り上げてきた「本来の日本」に立ち返ることを願ってやみません。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

 

いざ子らよ 戦うなかれ 戦わば 勝つべきものぞ 夢な忘れ

 

東郷茂徳

 

 

 

我ゆくも またこの土に 帰りこむ 国に報ゆる 事の足らねば

東条英機陸軍大将・首相





異国にいて想う日本(2) タイ在住のmanaさんの論文転載

2013年08月11日 15時37分20秒 | 日本人の誇り

manaさんの論文の(2)を転載します。

戦後の自虐史観を洗脳するために、占領軍がどんな情報統制をしたかを、現代の私たちは、きちんと知っておかねばならないと思います。今の日本が陥っている戦後レジームという状態の根因はアメリカ占領軍の日本を二度と立ち上がらせないようにしたいという非常に強い確固とした意志が、国際法に違反し、ポツダム宣言にも違反した占領政策を施行したことにより始まっているのです。

吾々現代人は、占領軍がポツダム宣言にのっとって日本を占領し、占領政策を行ったと思い込んでいます。しかし、ポツダム宣言は、日本国軍隊の無条件降伏ではあっても、日本国自体は有条件降伏であり、これは日本も世界もその認識でした。

ルーズベルト大統領は、カイロ宣言に於いては、日本国を無条件降伏させる意図を明確にしていました。しかし、アメリカのわが国上陸の準備戦ともいうべきフィリピンでの戦闘や硫黄島の戦い、沖縄の戦いにおいて、日本は非常によく勇猛に戦い、米軍の死者は、日本軍の死者を上回るものでした。これによって、アメリカは米軍の人的損害の計り知れない予想から無条件降伏を諦め、有条件降伏という方針に変更せざるをえませんでした。

これによって、日本は政府を喪失したドイツとは異なり、連合国が日本政府に命令することはあっても、自らが日本を支配することはないと考えられていました。これはリスボンのNBC放送の解説員もそうした見解を述べていました。

ところが、戦艦ミズーリで降伏文書に調印したその直後に、日本政府は、マッカーサー司令部から、『日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく。行政、立法、司法のすべての機能は、最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする』『米側に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する。』『米国軍票をを法的通貨とする』という布告を受け取りました。これは完全に軍事植民地として支配するということでした。

この日本を無条件降伏させて支配するというアメリカの執念は、ポツダム宣言違反をしても、国際法違反をしても、日本を二度と立ち上がらせないという強い意志のもとで、占領を行うことになりました。このことを現代の国民はしっかりと知っておく必要があります。

現代教わる歴史が、戦勝国中心の歴史であり、江藤淳氏が、その本のタイトルに付けられた『忘れたことと忘れさせられたこと』にあふれた歴史であり、また日本の多くの美風や良俗が封建的という言葉で貶められて、失わされたことをもう一度、見直し検証して、その真実を見つめる必要があります。

 

転載開始

「… 戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最 後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起す るであろう。…」
軍令部総長・永野修身海軍大将
 
異国にいて想う日本(2)
-誇りを失った日本-
 
外 国に出れば否が応でも「自分が日本人である」ということを思い知らされます。外国に出て我々が外国の風物を知り、興味を持つように、外国人は目の前に現れ た日本人を通じて日本を知ります。外国人が日本人に聞いてくる「日本」の内容は、様々で、その人の知識の深さ、興味の範囲次第です。かつて、まだ旅行者で あった私にチエンマイ郊外のある小学校の校長先生が、日本の発展の原因について教諭に話してほしいと言ってきたことがあります。最近では、民主党が政権を とった時、これにより日本はどう変化するのか、と聞いてきた某大手銀行幹部がいました。「米国との関係は疎くなり、より中国に近付くでしょう」と言う個人 的予想に、その華人銀行家は微笑みを浮かべて頷きました。また、米国映画に親しみ、英語に堪能なある若い医師は、日本人は「恥」を恐れて「切腹」するの か、と外国映画、小説を通じて思い込み、聞いてくる人がいます。「切腹」の文化について話しても、理解できる土壌がない相手では単に、「それだけじゃな い」「切腹とはそんな簡単なものではない」と言うしかありませんでした。時には、「皇室」について聞いてくる人もいれば、日本の仏教、神道、自然、季節の 移ろい、食習慣について聞いてくる人もいます。先の大東亜戦争に関しての話、特に相手が華僑であれば「南京事件」が出るかもしれません。
大切なことは、過去、現在の日本及び日本人について、様々な角度から聞いてくる外国人に対して、自信を持って、自分の言葉でどれほど正しい情報発信が出来るかです。
日 本で生まれ、日本で育ち、日本の教育を受け、日本での生活に馴染んでいる「普通」の日本人、即ち生の現実の日本社会の中で暮らす一般日本人の中で、あらた めて「日本とは」「日本文化について」などと考える人、外国人との問答を想定して予備知識を蓄積しようとする人がどれほどいるでしょうか。「大東亜戦争」 すら「太平洋戦争」と米国式に呼び換えられていることにも気付かず、ありとあらゆる機会を捉えて「侵略戦争」と教え込まれ、日本の近現代史は侵略の歴史、 軍国主義の歴史と教えられてきた「普通の日本人」が外国人に先の大戦について話す時、どうしても「卑屈」になり「自国を貶める」ことにならざるを得ないが 故に沈黙を守らざるを得ない悔しさを感じるのではないでしょうか。時に進んで自らの父祖の行動を辱め、そうした過去を否定した現在を強調したとして、その 人を責めることが出来るでしょうか。学校教育の中で「素直」な生徒であれば尚更に「日本帝国主義」「軍国主義」「台湾、朝鮮に対する植民地的侵略」「支那 人民に対する非人道的野蛮行為」「満州国傀儡国家」を信じているとしても不思議ではありません。そうは理解していても、自らの国を貶めることに対する「後 ろめたさ」故にでしょうか、良識ある日本人は、そうした話題を避けるのではないでしょうか。
こ こに教育の恐ろしさがあります。戦後の日本はGHQの政策により一つの単純な図式で社会が変えられ、縛られ、占領軍など既になく、主権回復後60年が経過 した今も尚、そのGHQの呪縛は日本を縛っています。GHQが植えつけた新たな価値観には一切の例外は認められなかったのです。その価値観とは「日本= 悪」「米国=正義」で、悪は日本軍国主義・日本帝国主義、正義は民主主義とも呼ばれたりしました。これにより、日本は、2600有余年営々と築き上げて来 た民族の「歴史」「文化」は、終戦と同時に否定され、「誇り」と言う言葉すら失ったのです。そして、それに代わって新しい歴史として「日本帝国主義の悪行 の近現代史」が作られ、「日本的価値観」こそが国民の「自由」と「権利」を奪い、国を滅ぼし、国民を死に追いやった、という物語が作られ、戦後教育の場に 於いて繰り返し繰り返し幼い子供に教えられてきました。まさにそれこそが日本を永久に再起させない、という米国政府、GHQの堅い意志でした。
我々 はそこに秘められた彼らの「恐怖」を知るべきなのですが、サンフランシスコ講和条約後、主権を回復した我が国は、現憲法の破棄のみならず、GHQの占領政 策の洗い直しをすべきにも拘らず、経済至上主義、公職追放令後の左翼の社会進出がそれを阻んできました。彼ら戦勝国、左翼を「恐れさせた」ものとは何だっ たのでしょうか。それこそ我が民族の「道徳・倫理感」「死生観」であり、日本人の本源的に持つ「奉公」の概念ではなかったでしょうか。「一旦緩急あれば義 勇公に奉じ」る我が民族が植民地支配の打破、人種差別撤廃の崇高な目標を掲げた先の大戦は、まさにわが民族の「誇り」ではないでしょうか。
我 が国同胞が大陸、半島で受けた苦難の歴史は墨で塗り隠され、度重なる東京無差別大空襲による夥しい数の無垢の民の死は消され、無差別絨毯爆撃による全国各 地に降り注いだ「焼夷弾」の被害を言うことは憚られ、広島、長崎に対する原爆投下すら、日本軍の所為であると、実しやかに囁かれても、どれもが明らかな戦 争犯罪であるにも拘わらず、全てを心の奥深くに仕舞い込み、腫れ物に触るように、固く封印しています。尼港事件、済南事件、通州事件、通化事件、終戦直後 の大陸、半島で受けた悲劇、満州のお町さん、二日市保養所を知る人も固く口を閉じ、存在しない「南京虐殺」の汚名を被せられ、事実に反する「慰安婦」の実 態にすら口を閉ざしています。否、事実如何を考慮する以上に自らの思想的フィルターに判断能力を劣化させた人々は、そうした「妄言」をすら利用して自国を 責めます。そんな一部の人たちの言動に対して、多くの国民は、全てを悠久の時間の中で解決しようとするかのように沈黙を守ります。理由の如何を問わず、日 本国民が日本国を非難・中傷するのであれば、外国の人びとは、それらの虚妄すら「事実」であると判断します。その非を知っていたとしても、それを正すのは 日本の「責務」であり、正さないのであれば、自ら「罪」を認めたと判断されても止むを得ないでしょう。いわゆる「河野談話」「村山談話」の呪縛です。「水 に流す」日本の文化が「謝罪は損害賠償の根拠」という考えの外国の文化と融合し得るでしょうか。「その場凌ぎ」の謝罪を外国は鬼の首を取ったように永遠に 攻撃材料とします。
リ ンチにも等しい「極東軍事裁判」で一方的に日本を断罪した戦勝国が押し付けた「民主主義」が世に蔓延ると、誰もが平等である、と言う悪平等が生まれ、「民 主主義」という名の下で「不敬罪」が廃され、「自由」「平等」「権利」を無批判的に絶対視する風潮の下で「公」が捨て去られ、「私」だけが独り歩きしま す。社会の基礎である「家族」が「個人」に分解されると、「親子」は上下関係として否定され、「尊属殺人罪」が廃されました。「権利」が強調されて「義 務」が悪魔のように唾棄されると、「納税の義務」以上に「福祉を受ける権利」が声高に叫ばれ、「国に尽くす」ことが前近代的として退けられ、「国が国民に 尽くす」ことこそ民主主義だと喧伝され「国に対する要求」のみが世に蔓延りました。「個人」を「国家」の対極に置くようになると、「個人の国家に対する責 務」は捨てられ、「国家の個人への責務」だけが声高に叫ばれます。それは、汗水流して懸命に働く多くの日本人を嘲笑うかの様に「労せず」して「文化的な暮 らし」を求め、手に入れさせます。
満 開の桜の花を愛でる民族は多数いるでしょうが、風に舞い散り落ちる桜の花に「哀れ」を感じ、そこに「美」を感じる民族が日本人以外にどこにいるでしょう か。日本語の正しい使い方、漢字の書き方、読み方、意味を教えるより、英語教育に時間を割くことは、民族の根本である「言語」封殺に繋がります。「特攻」 についての正しい知識無くして「日本人の死生観」は理解できず、「特攻」を単に「外道」と切り捨て「無駄死に」と唾棄すれば、靖国神社は否定され、日本国 の為に散った無数の尊い命は全て無駄死にとなります。そこに流れる大和民族の「倫理観」「死生観」を今こそ思い起こすべきです。「武士道とは死ぬことと見 つけたり」ここに語られている日本人の死生観は、「死を逃れる為に自らの責務を放棄する」ことを戒め、「死をも平然と受け入れてでも尚なすべき責務」があ ることを教えています。それこそ「自らの命より尊い」ものを守る為には「死をも受け入れる」と言う「日本人の倫理観」であり、「死生観」ではないでしょう か。そして、そうした日本人の「美学」「倫理感」「価値観」「死生観」が、日本の近代化を成功させ、廃墟の中から不死鳥の如く国を蘇らせ、巨大な経済力を 持つまでに復興させました。しかし、経済力を誇り、先進技術を誇っても、代わりに自らの足場を失ったことを思い知らされているのが日本の現状ではないで しょうか。戦後の飢えを克服し、アメリカの豊かな生活に憧れ、廃墟の町に生活の息吹を取り戻すことに懸命に働いてきた戦後の60有余年。それらを成し遂げ た今、我々は自らの歴史を忘れ、文化を忘れ、国を忘れていたことに気付かないのでしょうか。忘れていた、と言うことは、正しくないかもしれません。それ は、「国を思い」「誇りを守る」ことを悪と教えられてきたのですから。
と はいえ、どれほど戦後の自虐教育に汚され「日本=悪」と刷り込まれても、わずか70年に満たない時間の中で、2670有余年の歴史を有する民族の精神構造 そのものを根本から覆すことはできません。民族の根っ子である「文化」はそれほど弱いものではありません。しかし、決して残る時間が十分にある分けでもあ りません。海外で暮らす人たちの中で、日本にいた頃には意識しなかった「日本」を意識し、無関心であった政治に関心を持つようになるのは、こうした現地の 人たちとの交流の中で、自らの中に生まれる疑念を解こうとする自然発生的な努力故ではないでしょうか。体の中に流れる先祖代々受け継がれてきた日本人とし ての「血」は、先祖の名誉を汚すことを喜びません。「教育」で得た「知識」と「血の叫び」の葛藤の中で自らの出自を尋ねることになります。
 
自分たちの祖父母・両親は、許すことのできない悪逆非道の極悪人でしょうか?
 
沖 縄渡嘉敷村守備の赤松隊長は、自らが集団自決を促す軍命令を発した、とすることで渡嘉敷村の村民たちが遺族補償を受けることが出来るなら、と軍命令などな く、むしろ村民の後方への避難を督励したにも拘らず、自ら汚名を被り、渡嘉敷島民の為に「集団自決の軍命令の存在を認める」文章に署名しました。また、太 田少将は、民間無線が不通であることを知り、代わって軍規違反の軍用通信施設を使用して業務報告し、その最後に「沖縄県民かく戦えり」と県民の協力に心よ り感謝し、「県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」と文書を結んでいます。そして、その通り、今も沖縄には「特別の高配」が続いています。我々 は、先人たちの残したこうした「日本の心」を知らされないまま「首を垂れて」日々平々凡々と過ごしています。「外からの非難」には、事の有無、是非は別に して「謝罪」し、自らが受けた「屈辱」は「水に流し」「蓋をして隠し」「歴史から抹消して」きた戦後の日本人です。日清戦争の勝利の喜びも束の間、三国干 渉という「屈辱」を「臥薪嘗胆」で耐えた明治の先人は、遂にロシアを倒すことが出来たのです。卑屈になった現代の日本国民は、失った「誇り」をいつ「誇 り」を取り戻すのでしょうか。
 
現身は とはの平和の 人柱 七たび生まれ 国に報いむ
木村兵太郎陸軍大将
 

とこしへに わが国護る 神々の 御あとしたひて われは逝くなり

板垣征四郎陸軍大将・陸軍大臣



 

 


異国にいて想う日本(1)   タイ在住のmanaさんの論文転載

2013年08月08日 23時54分53秒 | 日本人の誇り
私の尊敬するブログの先輩チエンマイの原風景manaさんが論文を書かれてブログで発表されています。長年タイに住まわれており、日本人としての愛国心と歴史への豊富な知識を持って常に記事を発信しておられました。最近は体調不良とのことでブログを長く休まれていたので、心配していましたが、この力強い論文を見てほんとに嬉しく思いました。少し長いですが、日本人として、同じ同胞国民に、言いたいことが尽くされている気がします。以下三部になる論文をすべて転載します。

日本人がどれだけ戦争中であっても、武士道を発揮して、敵に対してさえも、礼儀と思いやりを持って戦ったか、日本人が生き方に美学を持っていたことは、その生死の境に立つときにこそはっきりとそれが示されます。戦後の残虐非道の日本軍と教えられる歴史教育では隠されている真実やさまざまな美談を、日本人はもっと知らなくてはなりません。戦争賛美につながるという口実で、日本軍の良い話はすべて隠し、連合国側の悪い話をすべて隠したGHQの情報統制、『War Guilt Information Program(日本罪悪宣伝計画)』によって歴史は戦勝国の手で、作り変えられたことを知らねばなりません。



転載開始

本 年の初め、某ボランティア・グループより「外国から見た日本」と言う題での寄稿文を依頼されました。悩んだ末、期限前の数日間に一気に書き上げましたが、 次第に心の叫び、怒りが噴出し、ボランティア・グループとは全く関係のないものとなりました。当然怒りの返送とともに掲載不可の連絡を予想していました が、予想に反して受け入れられ、全文を機関誌に掲載され、配布先からも大変好評である、と言うお褒めの言葉まで頂き赤面しています。
以下の文章は、その投稿文に加筆した文章です。
ブログ世界から離れて久しいにも拘らず、今もご訪問頂いている皆様に、無事をお伝えする為にもと、甘い認識、生半可・浅薄な知識とのご批判を覚悟でここに掲載します。
 
異国にいて想う日本(1)
-日本人の心-
 
外 国に住んでいると、嫌でも「自分」が周りと異なっていることに気付かされます。その違いこそが「文化の違い」であり、「自分が日本人である」ことの証なの ですが、同時に「日本」について余りにも知らな過ぎる自分に気付き、愕然としたものです。

父母に育てられ、兄弟姉妹・親類縁者に支えられた自分がいて、家 族・親戚ができ、その家族・親戚は助け合いの地域社会の中で共通の文化・伝統・祭礼を受け継ぎ、育みながら悠久の歴史を形成してきました。

こうして形成さ れた、日本語という共通言語を有する無数の地域社会が自然発生的に各地に現れました。そうした自然発生的社会の集合体としての「国」となる為の「求心力」 「価値観」「権威」の源として皇室がある社会。

只管臣民の安寧を皇祖皇宗に祈り続けられる天皇陛下と、支える皇族、補佐する行政府・官吏、そして、日々の 平安に何の疑いも抱かず自然を怖れ、且つ敬い、八百万の神々を祀りながら、自らに与えられた勤めに全身全霊を持って懸命に取り組み、黙々と責務に励み、家 族の幸せの為に汗を流しながらも「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」る責任感ある民、これが日本国であり、日本人である。今、私はそう思っています。
 
日 本人を父母として日本で生まれ、育ち、誰もがそうするようにごく自然に幼稚園、小学校、中学校、高校と、何の疑念をも抱くこともなく、日本の教育機関で学 んできた日本人は、方言という違いはあっても、どこの地方に行こうとも同じ日本語で話し、同じ食文化、同じ生活様式に出会います。

「同質」「同一民族」と いうことすら意識することなく、わずかな「表面上の違い」を「文化の違い」と感じ、旅行を楽しみます。しかし、その「違い」とは、風景であり、方言であ り、地元の特産品を使った食材、味付けと言う料理の細部の微妙な違いに過ぎないのかもしれません。

同じ日本人でありながらも顔形が違い、性格も異なり、趣 味も味の好みも一致しない場合が多々あるのと同じ様に、それは全て「日本」という大きな器の中の小さな「差異」であって、「文化の違い=価値観の違い」で はない筈です。

「大同小異」であり、その違いの中に地方の独自性を見出すとしても、「『みんな同じ』の中での微かな違い」であるが故に、地域を超えても 「阿吽の呼吸」が生まれ、「腹芸」が発達し、互いに無言の内に相手の気持ちを慮る「配慮」が生まれ、時にその「配慮」は他者に対する心からの「思い遣り」 「労わり」「気遣い」として現れます。

同質社会故の相手に対する警戒心の欠落は、その社会に於いてのみ無害であることにすら気付きません。同質社会、同一 言語・文化故の「以心伝心」から来る安心感、「相身互い」の共助意識、こうした「日本人の心」は、単に日本人に対してのみ発揮されるものでもないようで す。

今は使われなくなった言葉で表せば『八紘一宇』となるのでしょうか。日露戦争を避けられない状況が生まれた時、明治大帝は
 
四方の海 みな同朋と思う世に など波風の立ち騒ぐらん
 
と その御心の苦しみを御製に託されました。同じく先帝陛下も又、対米開戦の是非を決する御前会議において、明治大帝のこの御製を詠んで御心をお示しになられ たといわれます。

日本人と他国人を区別しない「世界の人々はみな同朋」である、と言う考えから出てくる日本人の「思い遣り」に外国人は時には奇異と映りな がらも「日本人の心からの親切」に「安らぎ」を感じるのでしょう。初めて日本を訪れた外国人の多くが日本の虜になるのは、この「日本人の心」故ではないで しょうか。

一昨年の東北大震災時、生死の境を彷徨う被災者が、わずかな支援の物資を受け取る為に「整然」と「列」をなして受け取り、棚から落下したスー パーの商品を盗む人より、そんな中でもレジで支払いをする日本人を目に、どれほど多くの外国人が「日本人の心」に驚愕しながらも心打たれたでしょうか。

そ して、迫りくる自らの死を自覚しながらもなお、自らの「職務」を果たそうと、マイクを握りしめ、人々に避難勧告を繰り返した若い女性の姿は、日本人の心を すら揺さ振りました。

外国人は、自分たちの社会では考えられないそうした「日本人の心」に驚嘆します。しかしながら、日本人にとっては、そうした外国人の 「驚愕」こそが「奇異」に感じられました。

自らの命よりも大切なものの為に敢然と死に立ち向かう「勇気」は彼女一人ではなく、多くの人が同じような「日本 の心」で尊い命を捧げました。10数年前にも、空自の熟練パイロットは、降下し続ける操縦不能になった練習機の操縦桿を握りしめ、自らの生存を諦め、民家 への墜落を避けることだけを考え、緊急脱出したのは、生存不可能な100mにもたない高度においてでした。その結果、民間人の死傷者はなく、犠牲者は二名 のパイロットだけでした。

「人の命は地球よりも重い」が故に、「公」の為に自らの命を惜しまない「義勇」は、特攻烈士のみならず、戦後のあさま山荘人質事 件における機動隊員の雄姿にも見られます。義勇は、困っている人を助け、自分の物でない物をわが物としない日本人の「道徳心」共々、社会全体に染み渡る 「文化」として日本人の「血肉」となって民族を形成してきました。

あ の終戦直後の混乱期においても日本人は決して暴動を起こしてまで自己の欲求を満たすことがありませんでした。こうした日本人の「道徳心」は、時には「武士 道」とも呼ばれることがあります。

日清戦争より前、親善使節として来日したトルコ海軍艦艇がその帰途和歌山県沖で大時化にあって沈没しました。多数の死 者、行方不明者を出しましたが、遭難事故を知った地元串本の漁民は、総力を挙げて救出作業に励み、豊かではない自らの食料を分け、濡れた衣服に代わって着 替えの衣服を提供し、田中虎次郎は遭難者遺族の為の義捐金を集めてトルコに寄付しました。

明治大帝は、海軍艦艇の出動を命じ、遭難救助者70名近くが無事 トルコに帰りました。何らの見返りも求めない「親身」の救出・救援と明治大帝の「大御心」に対し、トルコは、はるか後年イラン・イラク戦争でイランに取り 残された日本人救出を断ったJALに代わり、救援機を飛ばし、自国民を陸路帰国させてまで、日本人200名余を空路救出しました。

当時の駐日大使は「エル トゥールル号の借りを返しただけ」として決して恩を売ることはありませんでした。百年前の「日本の心」が遥かな後年日本国にも見捨てられた海外同胞を救っ たのです。

第一次世界大戦時には、ドイツ人捕虜収容所となった徳島の坂東収容所における住民の捕虜に対する温かい対応と交流が今も語り伝えられています。 そして、そこでドイツ軍兵士より送られた「第九」合唱は、今ではクリスマスを表す代名詞のように日本全国に広がっています。

第一次大戦後の戦後世界秩序構 築の為の国際連盟創設準備会議において「人種平等」を世界に先駆けて人類史上初めて訴えたのは日本代表牧野伸顕であり、それを潰したのは米国であり、英国 でした。

大東亜戦争においては、ジャワ沖で撃沈された英国軍艦乗組員を戦闘中にも拘らず全力で救出作業に当たり、乗組員の倍もの敵兵を収容した駆逐艦「い かずち」艦長工藤俊作少佐は、その「義挙」を誰に誇ることもなく世を去りました。

また、ナチス・ドイツの魔手からユダヤ民族殲滅の危機を打破する為、任地 を離れる車上でも査証を発給し続け、6、000余名の命を救い、ユダヤ人社会から「恩人」として今も語り継がれる当時のリトアニア駐在領事杉原知畝は、今 では日本人でも知る人が多いでしょう。

そうした彼の行動を支える方針作成に尽力し、「ユダヤ民族施策要綱」「ユダヤ人対策要綱」作成に奔走し、ユダヤ人を 保護し、ユダヤ民族に安住の地を与えるべきだと奔走した大日本帝国軍人がいます。

陸軍少将樋口季一郎、陸軍大佐安江仙弘は、満州国外交部に対して極寒のソ 連から満州に流れてくるユダヤ人に対して門戸を開放させ、ユダヤ人の満州流入に対するドイツの強硬な抗議を跳ね返したのは、時の関東軍参謀長東条英機中将 と言われています。

「五族協和」の理想郷を目指して建国された満州国は、それまでの匪賊の横暴もなく、治安が維持された平安な日々の中で多数の支那人、朝 鮮人が流入して来ました。

また、米軍との死闘を前にパラオ島民の安全を守る為、心を鬼にして島民代表を「罵倒」して島から追い出したのは日本軍司令官中川 州男大佐でした。為に住民に犠牲者が出ることがなく、戦後、島に帰ってきた島民は、大佐の「思い遣り」を知りました。

パラオ共和国は、こうした日本軍人の 「武士道」「思い遣り」「労わり」に対する感謝の気持ちを込めて、国旗作成に際して日の丸に似せてデザインしました。

それよりはるか前、風土病蔓延り、文 明から遠く離れていた台湾の衛生状態を改善した日本は、更に不可能と思われていた農業開発を可能ならしめる為に巨大ダムを建設しました。そのダム建設に心 血を注いだ日本人技師八田與一は今も台湾で語り継がれ、像が残っています。

また、反日と言われる朝鮮半島にあっても、教育制度を整えた日本は、民族教育と してハングルでの教育を初め、社会インフラを整備し、巨大ダムは電力を供給して近代産業の勃興を可能にしました。張り巡らされた鉄道網は物資の移動を盛ん にし、戦後は、そうした膨大な資産の全てを朝鮮に残してきました。

戦後ソ連軍によって抑留された日本軍兵士のうち、ウズベキスタンに連れて行かれた永田行 夫陸軍大尉率いる450人が建設した「ナヴォイ劇場」は、煉瓦造りのビザンチン様式ですが、地震にも耐え、今もそれは同国一美しいとされています。

また、 西岡京治はその生涯をブータン王国の農業開発に捧げました。今も残る台湾、朝鮮半島、満州における日本統治を示す近代的建物・・・
我々 日本人は、自らの「日本の心」「思い遣り」「労わり」を決して「吹聴」することなく、「当然」のこととして粛々と「務め」を果たしてきました。

先人が残し た「日本の心」「日本の誇り」は、戦後日本社会の中で忘れ去られ、教育現場から消し去られ、「命」は紙ほどの重さもなくなり、全身に流れる血の中の「日本 人としての誇り」は、誰にも顧みられず、近代のアジア解放の歴史はなかったかのように時間の中に埋もれ、近代日本の歴史を否定する風潮の中で見捨てられた ままでいいのでしょうか。    
 
 
天かけり 昇り行くらん 魂は 君が代千代に 護るなるべし
土居原賢二陸軍大将
 
天地も 人もうらみず ひとすじに 無畏を念じて 安らけく逝く
松井石根陸軍大将
 


次回に続く