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500年の侵略史にピリオド。

2015年03月26日 12時58分56秒 | 優生思想

■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記からの優生思想に関する記事の最後の転載です。

この一連の記事で、想像以上に残酷な歴史を知り、驚きです。愛を説くはずのキリスト教も、イエスの教えとは真逆の現地人から富を搾取するための手段に使われ、奴隷を当り前のように認めていたのですから、彼らにとって、キリスト教とは一体何なのだろうと思わずにはおれませんね。

大熊氏が、生命を線引する行為が戦争だと言われていますが、たしかにそうです。殺してもいい命とそうでない命に線引するところから、人類の潜在意識に戦争の元になる考えが育っていくのではないでしょうか。だからこそ、氏は、おなかに宿る子供を親の都合で、殺しても良い胎児として線引する思想から、日本人を脱却させようと努力しておられるのです。どんなに小さい命でも、命は物ではないのです。年間100万も200万も胎児を殺しているなんて、異常ではないでしょうか。

白人至上主義がアメリカ大陸のインディアンやインディオをほとんど絶滅させた数にも驚きますが、それと同じ程の殺戮が、本当は母親のお腹の中で行われているのです。戦後累積堕胎数は一億以上とも言われます。現在の医学で観察された結果、おなかの中で、胎児は恐怖で必死に逃げようとしていることがわかっています。心拍数も異常にはね上がって器具から逃れようとします。その器具は、胎児の柔らかい体を引きちぎるように小分けにして引きずり出します。これが虐殺でなくて何でしょうか。 

参照 赤ちゃんは中絶されるときに恐怖で逃げる。 [NEW]

 

 


 

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 いのちは例外なく尊い。

 
 
下記、コピペしましたが
興味のある方は検索して御調べ下さい。

 
ポルトガルのジョアン三世が1530年より前の時点で、異教徒に対して戦争しうる条件について一法学者に諮問したのに対して答えた文書「いかなる原因により異教徒に対して正当戦争を行うことができるか」の中で次のように述べている。
 
 
 
イスラム教徒やトルコ人

 

これまでキリスト教徒の国土を不当に占拠し領有していたのであるから、彼らに対して行ってきた、また今後行うであろう戦争は正当である。
 

東洋各地やブラジル
 

 救世主は未信徒を改宗させ、霊魂の救済を行うように命じ、自己の利害をかえりみない宣教師を派遣したので、彼らは布教地で優遇を受ける権利がある。彼らの言に耳を傾けなかったり彼らを迫害した者に対する戦争は正当である。

 

アメリカ大陸の原住民

 

布教事業を妨害も圧迫もしない人々についてだが、彼らは自然法に反する重大な罪を犯すような野蛮な悪習を守り、それをやめようともしない。こういう者の土地を占拠し、武力で彼らを服従させる戦争は正当である。


ローマ教皇の勅書を支えた理論的根拠がこれであった。ここには人類が神の名において別の地域の人類を支配し、奴隷化することが許されているという審判の思想が存在する。

  

 
先住民の領土征服の手口
 
 
残念なことに、近世500年は、白人が世界中の有色人種の土地を侵略し征服する歴史であった。

 


白人征服者は、まず鉄砲と十字架をもって上陸、まず小高い岡に十字架を立て、神の名によってこの地を白人本国国王の土地と宣言した。

 

  
後述するように(英雄と言われているコロンブスの日記)現地の人々の宝物を奪い、反抗する者は鉄砲で容赦なく無差別に殺戮した。まず、先住民に出会った時にこの先住民は「(奴隷として)高く売れるかどうか」見定めたと言う(戦後教育で親米の教育を受けた私たちである。これらの記述は私たち日本人が見てもショックである。)こうして自分たちの領土としたのである。これらの手法で小さな島々だけでなく、広大な南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸、ニュージーランド、アフリカ大陸も白人の支配地に組み入れてしまった。

 

しかし、インド、支那、日本などは16世紀には白人に寄港地や居留地を許した程度であるのに、なぜアフリカ大陸、南北アメリカ大陸、フィリピンなどはさしたる抵抗もなく武力制圧され、完全支配を許したのであろうか。
 
<これは原住民の文化と歴史の厚みの差、宗教的発展段階の違い、日本や支那における宗教に対する政治の優位、西欧に届いていた東アジア文明優越の情報、インドから東南アジアへかけてのイスラム勢力の壁などが考えられるが、決定的なことは軍事的抵抗力であった。日本と支那は十九世紀初頭まで西洋を寄せ付けなかった。(大熊:そうか・・それで谷口雅春先生は、真の国際平和を祈りつつも、上っ面な「反戦平和主義」に警鐘を鳴らし、独立を守れる武力確保の強調をされていたのだ。)
 
ポルトガルとスペインは、日本と支那の武力征服を企てていた。ただ、支那のほうが征服しやすく、日本は手ごわいとみていた。

 


宣教師は熱心に支那征服の容易なる所以を本国政府に説いたが、たとえばスペイン国王フェリペ二世は慎重策を命じた。

 特に北米大陸とオーストラリアは、大昔から住んでいた原住民を抹殺して、ヨーロッパ白人だけの占有地にしてしまった。なかでも「白豪主義」ほど身勝手な宣言はなかった。

 
 
 
 
 
世界植民地侵略戦争
 
 
近世500年は、白人は世界中を迷惑な植民地戦争に巻き込みヨーロッパ国内ではそれに連動するかのごとく、百年戦争、三十年戦争、七年戦争など、白人同士の争いが延々と繰り返された。
 
 
植民地侵略者の白人がヨーロッパにおいて殺し合いをするのは(奪い合いで戦うのだから)自業自得の面もあるが、平和な生活をしていただけなのに、一方的に(宣戦布告もせずに、全て(民族の誇り・土地・金・産物・女性・労働力・歴史)を)奪われたのはアジア人。アフリカ人たち、土着の先住民である。

 
イギリスは、その数百年に及ぶ白人の世界植民地侵略戦争の勝利者となったわけだが、それは第一次世界大戦へと結びつく。
 
 
白人の世界制覇植民地化
 
 
近世白人の白人の世界制覇植民地化、人身売買奴隷化は人類史上、人道上の最大の犯罪ともいえる。
 
にもかかわらず現在まで世界をわがもの顔で闊歩している白人は、この大犯罪を反省することもなければ、謝罪する気配もまったくない。

日本では早くから西洋野蛮論を唱えた達人がいた。それは明治維新の元勲の一人西郷隆盛である。
 
 
 

ラス・カサス報告書
 
 
白人のアメリカ到達以来の、先住民に対する白人の残虐無法ぶりを見て、たまりかねて非を内部告発した者がいた。コロンブスと同時代のスペイン人、ラス・カサスであった。

 
聖職者だったラス・カサスは、キューバ島で広大な拝領地(エンコミエンダという)の住人として、物質的利益の追求をしていたが、回心してスペインに戻ってきた。彼はインディオの虐待を見て、自国の植民地政策を痛烈に批判し、スペイン国王に報告書「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を送ったのである。

 
その報告書でラス・カサスは、搾取と原住民の殺戮が日常化している植民地の実態を暴露した。

詳細はこのページが参考になります。

 
 
1552年にこの報告が公表されると、教会、政治家、商人たちからラス・カサスに対して非難が集中した。彼らはラス・カサスを「恥知らずの修道士」「狂信的で邪心ある司教」などと指弾し、報告が暴露した大虐殺の事実を覆い隠そうとした。

 
 
スペインと対立関係にあったオランダ、イギリス、フランスではこの報告書は翻訳されて広く普及した。これらの国は、インディオに対する人道的立場からではなく、敵国であるスペインの非人道、残虐行為を宣伝するために利用しただけである。
 
 
 
日本でこの報告の翻訳が出たのはなんと昭和51(1976)年だった。長い間日本の西洋史学界が、ヨーロッパ人の歴史の暗黒面を暴くことにおびえていたのだ。
 
 
 

「インディアスの破壊について簡潔な報告」 
  ラス・カサス著   (岩波文庫)
過日の旅スケッチ「神秘の世界遺産を巡るペルーの旅」最後に、こんな感想文を綴った。
 
 
この神秘のインカ帝国を金銀略奪のみを目的に、皇帝を殺し、人民を奴隷化したスペインの残虐行為。
 
 
 
 
 
 当時残酷なスペインの略奪行為を怒り、スペイン国王へ直訴した一人のスペイン神父がいた。神父の名はドミニコ会ラス・カサス。彼のスペイン征服者糾弾の文章は岩波文庫によって、今も生々しく読み取ることが出来る。
 
 
 
 
「彼らは、誰が一太刀で体を真っ二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を切り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかと言って互いに賭けをした。彼らは母親から地乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。またある者は冷酷な笑みを浮かべ、幼児を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ泳いでみな」と叫んだ。
 
彼らはまたほかの幼児を母親もろとも突き殺したりした。
 
 
 
スペイン人たちから逃げ延びたインディオたちはみな山に籠もったり、山の奥深くへ逃げ込んだりして、身を守った。
 
するとスペインキリスト教徒(ここでは、神父のキリスト教に対する覚めた目が光っている。)たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオを一人でも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また犬は豚を餌食にする時よりもはるかに喜々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。(本書インディアスの破壊について簡潔な報告27ページより転記)」
 
 
 
しかし、この内部告発糾弾書は、ラス・カサス神父から国王に提出されたものであるが、印刷という書式をとったため、これは当時スペインと戦争中であったオランダによって即時オランダ語に翻訳されオランダ国内で読まれ、続いて英仏はじめ各国語に翻訳され、スペインは各国から強い国際非難を浴びた。スペインはとうとう本書「インディアスの破壊について簡潔な報告」を、発行禁止の国禁書にし、神父に対して、スペイン侵略者たちは、国を売る神父として多くの弾圧が加えられた。
 
 
 
  
スペインの残虐非道を告発した一人のスペイン神父がいた。彼のスペイン侵略者の残虐行為の勇気ある実態告発を是非一度岩波文庫で読んで頂き、どの時代にも、良心の声を守りとおして生きた人がいることも知って頂きたい。人間は、心の内なる声によって生きていく人にこそ、本当に素晴らしい人生を生きることができる。

 
 

キリングフィールド
 
 
毛沢東親衛隊の指導を受けたクメール・ルージュのポル・ポト派は、1975年(昭和50年)にカンボジアの首都プノンペンを制圧すると、都市住民をことごとく農村への強制移住させた。そして貨幣のいらない理想的原始共産社会を作ると称し、邪魔になる知識層の殺害を開始した。ポル・ポトは毛沢東の最も忠実で実行力ある弟子だった。カンボジアの人口800万人のうち、約250万人を殺戮した。
 
 
この大虐殺を支那共産党政府が背後で指導していたことが世界に知られると、支那は突如として日本軍の南京大虐殺説を持ち出した。終戦から三十年後のことである。米国も、原爆と、東京大空襲などの無差別殺人から「世間の眼をそらせるべく」南京大虐殺説を黙認。日本が謝罪側にあることを「よし」としている背景がそこにあるのである。
 
 
 
なお、ポル・ポト支配下のカンボジアで、大量虐殺が行われた刑場跡のこと「キリング・フィールド」という。
 
 
黄金の国ジパング(日本)
 
コロンブスは、黄金の国ジパング(日本)に憧れインドを目指して「アメリカ大陸」に到達した。その後のネイティブアメリカン(先住民)は、インドの人(インディアン)と呼ばれて殺戮された(推定5千万人~1億人)。人類史上最大の大虐殺である。
 
下記の資料を観て戴きたい。彼(コロンブス)の「先住民から何を奪えるかという打算に満ちた航海日誌」が残っている。大変ショックである。
 
黄金の国ジパングと呼ばれた「日本」に行きついていたらどうなっていただろうか。おそらく日本は侵略されたであろうし、日本の歴代の治世者もそれを意識したであろう。まず、キリスト教を布教する。優しく恩を着せて、対立させて紛争(内乱)を起こさせて「占領する。」そして奴隷化する。
 
ウィキペディアより(コロンブス)
「私(コロンブス)がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した。」(日記)
 
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」(日記)
 
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」
(日記)
 
国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。
 
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」
 
行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。  
 
コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。
 
 
コロンブスが願い通り、「日本」に行きついていたら「日本人」が、インドの人(インディアン)と呼ばれて殺戮されただろう。その延長線に「日清・日露」「大東亜戦争(太平洋戦争)」があった事を忘れてはならない。
 
    ↓(クリック)
 
 
 
 
 
 
 
ここ数日書いた内容は、ことさらに大衆の目にさらさなくてよい。
 
他国の恥ずかしい過去になるからだ。
 
私たちの人類共通(人類という家族)の「恥ずかしい歴史」であり、兄弟姉妹の、こころの痛みである。ということは私たちの歴史でもあり、私たちの痛みなのだ。このような心を「仁」という。日本の歴代の天皇陛下が最も大事にされた「大御心」である。
 
この「仁」があれば「優生思想」は流行しないだろうし幅を利かすこともないのである。「真の平和の心」である。
 
 
戦争に本当の「正義」などはない。ひとりの犠牲もあってはならない。
 
戦争とは、迷いと迷いが「ぶつかり合い」「瓦解する」姿ではある。だからこそ、中絶という「自分中心」の「胎内殺人(マザーテレサ言)」を無くさなくてはならないのである。こころの戦争(殺人)の延長にあるのが「国家間の戦争」であるのだ。また・・・
 
 かの大戦<(1)日清(2)日露><(3)大東亜戦争>が、このような「優生思想」に対する「戦い」の側面があることを知らない世代に、言いたい。
 
安易に、真実を知らぬが故に
素晴らしき先祖の名誉を汚すなかれ。
 
今年は終戦70年である。
 
私たちは清く正しく
美しくあらねばならぬ。
 

人間のいのちは
   皆、尊いのです。
 
 
 いのちに線引きすると言う
   発想が「戦争」なのです。
 
 
 
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500年の侵略史から目を背けるな。

2015年03月23日 23時52分45秒 | 歴史

優生思想シリーズの三回目です。このシリーズは5回と書きましたが、4回で終わりのようです。

 アメリカ大陸の文明と先住民が白人によって滅ぼされたことは知っていましたが、ここに書かれたその残虐性は、驚くものでした。原住民を人間とはみなしていないから、これほどのことができたのだという話ですが、日本人からすれば、人の姿をしたものを人間とみなさないことにも驚きますが、たとえホントの動物に対してだとしても、残虐なことはできなかったでしょう。

白人種は、神に似せて作られた人間が他の動物を支配するようにと神から言われたとする旧約聖書を、人間の好き勝手にする権利だと解釈しました。その傲慢な考え方と比べて、日本人は自然のもの、山、川、湖、さらには動物まで、神として祀っています。食物さえ、手を合わせて、いただきますと拝んで食べる日本人です。大量虐殺が、日本人にできるとは思えません。

アニミズムなどと幼稚な低い宗教性であるかのように言われたこともありますが、古来から日本人は命の尊さを深く感じ取っていたのではないでしょうか。

だからこそ、南京大虐殺など、実際の証拠は何も出てこないのは、当たり前のことです。

日本でも歴史上殺し合いの戦いはたしかにありましたが、そうした対等の戦い方と、弱いものを虐殺するのとは違います。

戦後の敗戦国に押し付けられた戦勝国のプロパガンダ的な史観、欧米中心の歴史をきちんと検証し、そこから脱却して、是は是、非は非として、正しく見直すべき時だと思います。

 


(3)500年の侵略史から目を背けるな。



 

 

いのちは例外なく尊い。

 
 
下記、コピペしましたが
興味のある方は検索して御調べ下さい。
 
 
 

 

20世紀初頭にセオドア・ルーズベルト政権は軍部に対し、近い将来に国際戦略で利害が対立するであろうと予想される国々との戦争シミュレーションを立案させた。
 
軍部は仮想敵国を色で区分しそれぞれとの戦争作戦を立案した。これは「カラープラン」といわれるが、日本は色が「オレンジ」に区分されたことから「オレンジ計画」の名が付けられた。
 
その他では、ドイツは黒、イギリスは赤、フランスは金というように色分けされていた。
 
 
 
日露戦争で日本がロシアに勝ったためにアメリカは日本に恐怖心を抱いてしまったのだ。アメリカは桂・ハリマン仮条約破棄により、日本は支那大陸にアメリカを入れない、日本は支那大陸を独占するつもりだ、などと思い込んだ。こうして支那大陸に進出し、アジアにおける領土を拡大したいと目論むアメリカは、日本を疎ましく思い始めた。

これが白人諸国ならまだ許せた。実際、当時の支那の大部分はイギリス、フランス、ドイツ、ロシアが押さえていた。
 
ところが、ロシアが押さえていた遼東半島に、日露戦争によって突如、日本が入ってしまったため、アメリカが嫉妬し始めたのだ。有色人種である日本が自分たちより先に支那大陸に拠点を気づいていることが我慢ならなかった。
 
 
 
アメリカは日本を仮想敵国として想定し始めた。オレンジ計画の内容は一変し、日本を打破する具体的な戦術が盛り込まれたのである。
 
 
オレンジ計画(獣人計画)
 
 民族の尊厳と誇りを消す計画 
 
(自国の歴史を軽蔑させて
  アメリカに憧れる戦後の歴史教育)
 
御参考(小学生で堕胎が続発)↓クリック
 
 

まず、アメリカはまず自国に太平洋艦隊がないということに気づく。そして、日本が太平洋を渡ってアメリカに攻め込んでくるのではないかと妄想し、すぐに軍艦を作り始めた。また大西洋の艦隊を集結して日本を訪問させ、自国の海軍力を誇示する行動に出た。
 
 
 
  白船事件(1908年)
 
その後修正された「オレンジ計画」には、日本の都市を爆撃することや、沖縄を占領することなどの戦略が練られていた。このころから、アメリカは日本との戦争を現実的な問題として考えていた。
 
 
 
明治41年(1908)3月、アメリカは突如として対日威嚇行動に出た。アメリカ大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるという行動に出た。日本の連合艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。
 
船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白船」と言われた。
 

もともとはセオドア・ルーズベルトにとっては、このまま太平洋をほおっておくと、ロシアのバルチック艦隊を破った日本艦隊が覇権を握ってしまうと恐れたための威嚇行動であった。アメリカの海軍力を誇示することで、日本を牽制したのだ。
 
アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃った場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に恐慌の報道を流した。

 
日本政府とマスコミは白船歓迎作戦に出た。迎合作戦が成功し、何事もなくアメリカ艦隊はサンフランシスコへ去っていったが、その2週間後、日本の連合艦隊は九州の東南沖で大演習を行なった。警戒を怠らなかったのは当然である。
 
 
・・・備考・・・・
 
 

アステカ帝国滅亡(1521年)
 
1519年、白人(スペイン人)のコルテスがペラクルスに上陸するとインディオたちは手厚く迎えた。
 
アステカ皇帝は黄金製の宝物で歓迎した。白人はこの宝を略奪してヨーロッパに帰国すれば大金持ちの英雄になれると考えた。コルテスらは部族同士の争いに乗じ、アステカ皇帝に反抗する部族を手なずけ活用するという常套手段でアステカ帝国を滅亡させた。
 
当時、原住民たちは銃どころか、鉄鉱製の剣すらなかった。馬もなく、訓練されたスペインの兵士に勝てるわけがなかった。コルテスは近代兵器で首都を攻撃、アステカ皇帝を捕虜として衆人の前で殺害した。

 
コルテスのアステカ帝国征服はヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の武器と勇気と技術の勝利と称賛された。

 これが動機となり、ヨーロッパ人の新大陸侵略、略奪の夢を駆り立てることとなった。

 

インカ帝国滅亡
 
現在、アンデスの町々の街頭で子供をあやしながら手芸品を売ったり、物乞いをしている、山高帽をかぶった小柄なインディオの女性を見かけるが、彼女らが生き残ったインディオの子孫である。
 
 
わずかの兵でアステカ帝国を滅亡させ、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探検中のピサロにも届いた。

1531年、アンデス山中にたくさんの黄金を持つインカ帝国があることを聞きつけたピサロは、180人の手兵と27頭の馬を連れてインカ帝国に向かった。
エクアドルからボリビアまで広がるインカ帝国は、建国してまだ100年足らずだったが、道路、貯蔵庫、農業台地、鉱山都市と驚くべき偉業が遂げられていた。
 

 ピサロはインカ帝国の王を家臣と共に広場へおびき出した。ピサロの従軍司祭の神父は通訳を通してキリスト教への改宗を要求した。それを王が拒否すると、司祭はピサロに王を攻撃するよう促した。司祭はまた、ピサロとその兵たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。

 

 ピサロの合図で歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から現れ、非武装のインディオたちに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握った。

 

 インディオたちの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切っただまし討ちだった。このような白人の残虐非道な手は、5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。


捕らえられたインカ帝国の王は、白人が欲しがっているのが黄金であるのを知っていたので、釈放してくれるならば部屋一杯の黄金を差し出すと申し出た。
 
その大量の黄金が出された途端に、ピサロは約束を破って王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。
ピサロは王の腹違いの弟にインカの王位を継がせた。その最後のインカ王トゥパク・アマルも結局は捕らえられ、中央広場で斬首された。
 
1996年末の、ペルーの日本大使館公邸人質事件で、ゲリラ集団が名乗ったのもトゥパク・アマルであった。
 
インカ帝国から得た富を主因としたスペイン黄金時代、文学や宮廷美術の全盛期は1550年から1680年までの長きに及ぶと考えられる。
 
 
 
カリブ海のインディオ絶滅
 
コロンブスがアメリカに到達したのち、白人(スペイン人)はまず西インド諸島にやってきて、エスパニョーラ島(現在ハイチ島)のインディオ(原住民)に対して皆殺し作戦を行なった。女、子供も逃がさず、強姦して殺戮した。
 
1496年までに、この島は完全に白人に制圧された。同様な襲撃は、キューバやカリブ海の他の島々に対しても行なわれた。征服者達は国王とキリスト教の名においてやってきたのだ。教会は、しばしば侵略者の手先として、進んで新しい土地の略奪に参加した。

 
司祭は兵士と一緒に先住民のに現れ、キリスト教を受け入れろと命令した。それを受け入れないと兵士に殺されたのだ。殺されなかった先住民は家を追われ、鉱山労働者、農奴、荷役動物になることを強制された。

 
カリブ海で白人は身の毛もよだつ残虐行為を行なった。インディオの母親から乳飲み児を奪い、連れていた腹を空かせた犬に投げ与えたり、インディオの子供の足をつかんで岩に投げつけたり・・・。白人はインディオの女と寝るのを習慣としていた。女が既婚であろうと未婚であろうと関係なかった。

 
1540年までにカリブ海のインディオは事実上絶滅させられたのである。

 


中南米の虐殺
 
白人のアメリカ到達以降、中南米では白人により数千万人といわれる大虐殺が行なわれた(ヨーロッパ人がもたらした伝染病の天然痘による死者を含む)。
 
エスパニョーラ島(現在のハイチ・ドミニカ)300万人のほぼ全員が虐殺された。

 
現在のプエルトリコとジャマイカで100万人。キューバ80万人、ニカラグア50~60万人、メキシコ400万人、ホンジュラス200万人、グァテラマ400~500万人、ベネズエラ4~5万人、ペルー400万人の原住民を死滅させた。

少し遅れてブラジルに入植した白人(ポルトガル人)は原住民200万人を虐殺してほぼ死滅させた。
白人は、白人以外は人間として認めていなかった。それゆえこのような大虐殺を行なえたのである。
 
 
白人の虐殺は、20世紀半ばの日本に対するアメリカの原爆投下や都市無差別空襲、ソ連の満洲侵略の暴挙といったホロコーストまでつながっている。
インディオたちが受けた被害は人的犠牲だけではない。大量の金、銀など宝物がヨーロッパに持ち去られた。
 
白人の新大陸征服の目的の一つが黄金の獲得だったからである。1660年までにヨーロッパへ持ち去られた金はわかっているだけで181トンである。インディオたちが長い間かかって勤労して営々と貯めた宝物を、白人は何の努力もせず、所有者を殺また、インディオたちをプランテーションで強制労働させて砂糖の収奪も行なった。
 
砂糖はヨーロッパにとって中世以来の貴重品だった。砂糖は食品だけでなく医薬品でもあり保存料でもあった。砂糖のために新大陸の海岸地帯は、サトウキビ一色のプランテーションに置き換えられ、インディオに強制労働を強いた。
 
 
さらにヨーロッパ人が味を占めたコーヒー、ココア、茶もプランテーションとして農地を拡大させた。これらの嗜好品は寒いヨーロッパではまったく産出しないものだった。白人の贅沢を支えるために、「新大陸」の先住民たちの生活は破壊され、残虐な労働を強いられたのである。
 

奴隷貿易
 
奴隷とは、人間としての権利・自由を認められず、家畜や物と同じように所有され譲渡・売買され、他人の支配の下に労働を強制される人々のこと。

日本には、古代から奴隷と言う言葉も奴隷制度などの風習もなかった。日本では、同じ人間を牛馬と同じ感覚で家畜のようにこき使い、商品として売買するなどという非人間的なことはとても考えられなかったのである。
 
ヨーロッパの白人たちが有色人種を奴隷にして罪の意識を感じなかったのは、旧約聖書に都合のよい解釈があったからである。 

造物主の神は、その代理人としてまず人間を作り、その下に被造物の動物、その下に万物を作られた。人間は神の代理人であるから、動物を家畜として支配し殺し、食べてもよい。奴隷は家畜と同格だから人間のためすべてを捧げるのは当然とする。

 
キリストの神の教理による奴隷制度の正当化により、南北アメリカやアフリカ大陸で、白人の人間家畜としての奴隷の大量貿易、大量酷使、大量殺戮が行なわれたのである。
 
 
最初にアメリカ大陸に到着したスペイン人は、先住民から金銀宝物を略奪し、反抗する住民を殺戮しまくった。そのため鉱山の採掘を行なう労働者や、砂糖、コーヒー、タバコといった白人に都合のよい植物耕作のための人手が足りなくなった。そこで白人が思いついたのが、アフリカから黒人奴隷をアメリカ大陸に連れてくることだった。
 
 
16世紀から18世紀にわたる奴隷貿易は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の三大陸にまたがる三角貿易によって欧州に莫大な利益をもたらした。これに参加した国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスである。最も巨利を博したのはイギリスとフランスである。
 
奴隷商人たちは、ヨーロッパから安物のビー球、銃器、木綿の工業製品を持ってアフリカ・ギニア海岸に行き、黒人奴隷と交換し、奴隷をブラジルや西インド諸島に売り飛ばした。それで得た金で砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどを買って船に積みこんでヨーロッパに帰った。
 

 


推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は400万人が奴隷として売買されたと言われている。概算1500万人だが、1人の黒人を新大陸に連れて行くまでに5人の黒人が船の劣悪な環境により死亡したという推計があるから、アフリカから働き盛りの黒人が数千万人から1億人近くが連れ出されたことになる。

 

黒人奴隷を一番多く移入した国はカリブ諸島で約40%、次に砂糖のプランテーション労働などのためにブラジルへ38パーセント、残りはアメリカ南部のプランテーションである。

 


その後、ヨーロッパ列強によってアフリカは分割され植民地支配される。

 


現在のアフリカの貧困、民族紛争も、すべて白人の勝手な収奪、不合理な民族分割の結果である。

 


なお、16、17世紀に新大陸から大量の金銀がヨーロッパに略奪された。その過酷な鉱山労働に、インディオと黒人奴隷が酷使された。ヨーロッパにもたらされた金銀は、やがて産業革命からヨーロッパ資本主義の原資となった。

 

また、この金でヨーロッパ商人はアジアから香辛料、茶、ゴムなどを大量に買い入れて儲けた。これもヨーロッパに巨万の富をもたらした。

 

アメリカに連れてこられた奴隷
 
奴隷船から荷揚げされた奴隷たちは、奴隷承認に売り渡され、奴隷市場で家畜のように売り出された。奴隷承認は鎖で数珠つなぎにして町に乗り込み、目抜き通りで競売を行なった。奴隷たちは競売台に立たされ、品定めをされ、親子兄弟をばらばらにして売られていった。

 


当時のアメリカ人にとって、奴隷の競売は財産作りの重要な手段だった。後の南北戦争のときの南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博したものが多かった。
 

近代に入ってから、これほど大掛かりに組織的に
200年にわたって人間の売り買いを行なってきた国は、世界広しといえどもアメリカだけである。

 

1860年、アフリカ人奴隷の総数は400万人になっていた。奴隷の大半は綿花生産の労働者として投入されていた。

 


奴隷たちの悲惨な実態は、ストウ夫人の

 「アンクル・トムの小屋」で世界に知れ渡った。 

 

キリスト教徒の正当戦争の根拠
 
16世紀より、白人は世界中の有色人種の土地を侵略し征服しまくったわけだが、ローマ教皇の文書(もんじょ)には非常にしばしば異教徒の原住民に対する残忍な措置を許す内容が認められる。
 
異教徒の土地を武力占拠し、原住民を奴隷化してもよいというキリスト教徒にとって正当戦争の思想上の根拠とは何であるのでしょう。疑問です。

 

人間のいのちは
   皆、尊いのです。
 
 いのちに線引きすると言う
   発想が「戦争」なのです。
 

 
 

 


転載元 転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記

 

 

 


『ルーズベルトに与うる書』

2015年03月21日 15時41分38秒 | 歴史

 ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記 において、大航海時代から始る『優生思想』について、連載されています。前回その2回目を転載したのですが、一回目からすべて転載したいと思いますので、順番が逆になりますが、今回は第一回目です。

第一回目は、元のタイトルは、「尊い命ばかりである。」となっていますが、多くの方の興味を引くために、記事中に取り上げられている市丸利之助中将が敵国大統領であるルーズベルトに宛てて書かれた手紙『ルーズベルトに与うる書』に変えさせていただきました。

 

これを読むと、日本の戦争が決して侵略戦争ではないことがわかります。またこのシリーズ自体を読むことで、日本の戦いが自衛と同時に欧米植民地主義からアジア解放を目指したのだとわかります。

 

植民地解放が、単なる偶然の結果論だという人もいますが、日本が明治以降有色人種の一員として、人種差別を無くしたいという念願を持っていたのは事実であり、それ故に、国際連盟で、人種差別撤廃条約を提唱したのであり、その時には叶えられなかったとはいえ、戦争に踏み切る際に一つの大きな目標となったのは当然であり、昭和天皇の開戦の勅にもはっきりと記されているとおりだと思います。



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(戦後70年)西洋列強諸国の

500年の世界侵略史にピリオド

を打ったアジアの小国。日本。

しかし、その父祖の歴史を「全否定」

されてしまった。

 
戦争に負けたのでなく、戦後70年間

「負け続けているのだ」と智慧者は言った。

ここで再検証して戴きたい。

 
 

 
 
優生思想との戦いという側面も 


いのちに差別なし。
   
 尊い命ばかりである。
 
いのちの尊さは平等だ。 

 
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民族や宗教、主義主張の違いでない。
 
重要なのは「いのちを貶めるか」、

「いのちを尊ぶか」という事である。

 
決して、自分も含めて、どのような人の

いのちをも、貶めて(おとしめて)
 

いけない。全ての命の本質

「神」(至上=素晴らしい存在)である。

 
今日、日本において1日2000人以上の赤ちゃんが中絶されている理由は「優生思想」(100年前に立てられたオレンジプラン)に基く、邪魔な「人間は殺していい」という人種差別思想(のちのナチスに継承された思想)なのです。
 
この4日間のブログに掲載する資料を観てください。また、気になるキーワードがあれば、検索して御調べ下さい。
 
西洋の聖母マザーテレサが「中絶」を「平和の破壊者」であると断言し。マザーテレサには珍しく、「胎内殺人」とまで言い絶対的に非難した理由。
 
東洋の叡智である、谷口雅春先生が、中絶こそ日本の「実相顕現の障碍である」と「神命の書」を渾身の思いで残された理由が、よくわかるはずです。
 


今日から4日間書く事、人種民族や肌の色や、立場を越えて「全ての人は例外なく尊い存在」であると言う事を伝えるために、いのちを「貶める」優生思想を告発するために、光を見出すべく、歴史の「反面教師」についてを書かせて戴きます。「優生思想」や「いわれなき人種差別」等は告発しますが、その事で決して特定の国や人々を「否定」するものではありません。どの国にも大概、美点があり立派な人々も多くいるものです。               
大熊 良樹 拝
 
 

市丸中将は、硫黄島の戦いで散華された方です。玉砕に当たり、米国大統領にあてたこの「書」は、市丸中将の死後、「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」と題されて、米国の各大手新聞で、その全文が紹介されました。また、戦後ベストセラーになったジョン・トーランドの「昇る太陽-日本帝国滅亡史」でも紹介されました。そして全米で、大絶賛されています。「書」はいまも、ナポリスの海軍兵学校の博物館に展示されています。
 
硫黄島の戦いは、昭和20(1945)年2月19日の米軍上陸から、3月26日の玉砕まで繰り広げられました。日米の諸島に置ける戦いでは、唯一、米軍の死傷者数が日本軍のそれを上回った戦いです。
 
島にいた日本の守備隊は、陸軍が栗林忠道中将率いる1万3,586名、海軍が市丸利之助中将率いる7,347名、合計2万933名です。
 
米軍は、そこに11万の大軍をもって挑みました。武力においても、火力においても、兵員の数においても、はるかに勝る米軍との激戦において、市丸中将は、最後の総員突撃を敢行するに際して、「ルーズベルトに与うる書」を遺されています。
 
 内容は、弱肉強食の「<19世紀的覇権主義>500年侵略史」を否定。世界の人種各々がそれぞれの地域で自主独立し、もって恒久的世界平和を実現するという、まさに現代の世界の人々にとって目標とすべき理念の顕彰と覇権主義への「警告」となっています。その後のソ連と米国の「冷戦」まで預言している事には驚きます。
 

 
 
  平成27年3月17日(火)


  

ルーズベルト ニ 与ヘル書=
 
市丸中将が、歴史に其の名を刻んだのは、硫黄島防衛の海軍指揮官と、云うだけではない。
 
米国大統領F・ルーズベルトに対して、日本軍司令官としてその「優生思想」(人種差別)を批判し、ある意味で、西洋列強諸国の世界侵略と、「優生思想」(人種差別)に対する戦争であることを告発する手紙を書いた事に於いて重大な意味があるのである。
 
市丸中将が「手紙」を書き始めたのは2月16日であり、ハワイ出身の三上弘文兵曹に英訳させた。中将は、3月17日に地下20メートルの洞穴に、動けるものを全員集め、副官である間瀬式次中佐が「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げた。
 
 
後26日にこの書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけました。英文のものは赤田邦夫中佐(二七航戦参謀)が身に付けた。
 
市丸中将たちが、後の突撃攻撃を行って散華されたのは、3月26日です。市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行っい、散華されています。
 
この最後の突撃のときの遺体の数は、わずか196柱でした。陸海合わせて2万933名いた守備隊は、3月26日の吶喊攻撃のとき、動ける者は、すでに196名になっていたのです。
 
 
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。
 
従軍記者エメット・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日、本国に向けて打電した。そして「書」は、米国内の様々なメディアで紹介され、「書」に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となり、いまや世界の人類の常識とまでなっている。米国人の良心に敬服します。
 
 
戦後、1975(昭和50)年1月に、在米日本大使館に通産省から出向していた村上大尉の長男村上健一氏は、アナポリス(米合衆国海軍兵学校) 記念館で日英両文の「手紙・与フル書」を親しく見ることができた。
 
因みに、この手紙は、欧米の横暴と日本の正義を訴えるものとして、余りにも本質を突いているが為に、米国で一般に公表されるまでには数ヶ月間、発表が見送られたという。
 
残念ながら、ルーズベルト大統領その人は、市丸中将の書簡が米本国に打電された8日後に他界しているが、
 
市丸中将の「書」は、全米の良心を動かし、いまや人類の常識として「かの戦争の持つ性質」や「かの戦争の原因」を洞察するのに欠かせない重要な文書資料として立派に生き残っている。
 
文書資料 というよりも、あの大戦に自らを捧げた全英霊の「魂の声」ともいえるのではないだろうか。戦後70年の今、全国民がこころして、先祖の声として、慎んで拝読すべき遺書でありましょう。



 
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市丸利之助海軍少将
(いちまるりのすけ)


 
 
<ルーズベルト ニ 与エル書」現代語訳全文>
 
日本海軍市丸海軍少将より、フランクリン・ルーズベルト殿に、この手紙を送ります。

この戦い(ヨーロッパアメリカ諸国のアジア侵略に抵抗する戦争)が終わるに当たって、私はあなたに一言、告げることがあります。
 
ペリー提督の下田入港を機として、日本が世界と国交を結ぶようになって百余年、この間、日本の歩みというものは至極難儀を極め、自らが望んでいるわけでもなく日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変と経験し、不幸なことに貴国と交戦するにまで至った。
 
これについてあなたがたは日本の戦争に対し、或いは好戦的で残虐な国民であると、或いは黄色人種の跋扈だとか、或いは軍閥の専断によると言うけれど、これらはとんでもなく的外れの論である。
 
あなたがたは真珠湾の不意打ちを唯一つの対日戦争に対する宣伝資料としているようであるが、日本が自滅を回避するために、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、あなたがたが最もよく存じているところではないだろうか。
 
おそれ多くも日本の 天皇陛下は、皇祖皇宗建国の大みことのりに明らかであるように、養正(すなわち正義)、重暉(すなわち明智)、積慶(すなわち仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される国家統治計画に基づいて、
 
地球上のあらゆる人々はその自らの分に従って『その生まれた土地においてその生を享受する』このような恒久的世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。このことはかつて、
 
「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」
という明治天皇の御製に言われていることと同じであります。
 
これを聞き、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したことをあななたも良く知っていることでしょう。
 
我々日本人にはいろいろな階級の人がおりますが、つまるところ彼らは色々な職業につきながら、この天業を助けるために生きているのです。我々軍人もまた、戦争という生業でこの天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。
 
今の我々は、あなた方の物量を誇る航空戦力や艦砲射撃に対して圧されている状況にありますが、 精神的には充実しており、士気はますます高揚し、歓喜に溢れているのです。
 
これが天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理でありますが、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。

あなた方の精神的な弱さを悲しく思い、一言書かせていただきます。 あなた方の立ち振る舞いをみると、白人とくにアングロサクソン(イギリス系白人)によって世界の利益を独り占めにしようとし、その野望の為に有色人種を奴隷としてきたではないでしょうか。
 

  好計を弄して有色人種を騙すという、いわゆる悪意のもとの「善政」によってかれらから考える力を奪い、無力にしてきたのです。
 
近世になって日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種とくに東洋民族としてあなた方の束縛から解放を試みましたが、

 
あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、むしろひたすら有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅(優生思想)を口々にするようになったのです。
 
あなたたちはどうして神意に背くのでしょうか。
 
大東亜戦争により、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれ各地の民族が善政を行い、 そしてあなた方がこれを破壊しなければ、全世界が恒久的平和を実現するのも決して遠くはないのです。
 
 
 あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているのにも満足せず、数百年来あなた方の搾取から逃れようとする哀れな人類の希望の芽を、どうして若葉のときに摘み取ってしまうのですか。
 
 
ただ単純に東洋のものを東洋に帰すということに過ぎないのです。 
 
あなた方白人はどうしてそうも貪欲で狭量なのでしょうか。 大東亜共栄圏はあなた方の存在を少しも否定しません。
 
 むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するということに日本天皇陛下の神意があるということを理解できる雅量をあなた方に望んでいるのです。
 

ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解が原因で人々が闘争することがいかに悲惨であるか、痛嘆せざるを得ません。


今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することはつつしみますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結のとき、その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国にかぶせ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処置に対する反動であることを看過できません。
 
あなた方がいかに善戦してヒトラー総統を倒したとしても、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するつもりでしょうか。
 
おおよそ世界が強者の独占するものであるならば、永久に闘争を繰り返し、遂に界人類に安寧幸福の日は来ることはないでしょう。 あなた方は今、世界制覇(世界侵略)の野望を一応は実現しようとしております。あなた方も得意になっているのでしょう。
 
しかしながら、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚(因果応報)したのです。 願わくば、私の言外の意を汲んで戴き、その轍を踏むことがないように。            
      市丸利之助海軍少将
       (いちまるりのすけ)
 
 

 

日露戦争と大東亜戦争
 
日清戦争のわずか2年後である1897年(明治30年)に、アメリカは日本を仮想敵国として、対日戦略プログラム 「オレンジ計画」 を策定し、日本はまさしくこのシナリオ通りに開戦に追い詰められた。
 
この 「オレンジ計画」 を最初に策定したのは、アメリカ第25代大統領のウィリアム・マッキンレーです。(ハワイを合併した大統領)その 「オレンジ計画」 を引き継ぎ、推進させていったのが、なんとテディベアでも有名で、優しく、親日家であるような印象の第26代大統領セオドア・ルーズベルトJr.であります。
 
「素質の劣った人々が子孫を残さぬように望むと共に、犯罪者は断種、そして精神的に病を患うものは子供をもつことを禁止するべきである。」これは、第26代アメリカ合衆国大統領のセルドア・ルーズベルトの残した言葉です。
 
当時の欧米では優生学が流行り、人種差別が当たり前のように行われていた時代でありました。また、その中中でも、ルーズベルトは「人種改良論者」であったのでした。
 
  また、阿片戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為した母方の祖父の影響で、ルーズベルト本人が幼い頃から中国文化に深い愛着を持ち、中国人に対して同情的かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言し、その中国と渡り合っている日本人に対しては強い反感を抱いていた。
 
駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との会話記録では、ルーズベルトは、<スミソニアン博物館の研究者による、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」>などと明言し「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」、また具体的に「日本人が(戦争で)敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて徹底的に奨励すべきである」などとキャンベルに語った。
 
そんな中で、劣等と思われていた有色人種の日本が、日露戦争で白人国のロシアに勝ったことは、欧米の白人達にとっては、脅威であり、黄禍論(イエローペリル)が、ドイツのウィルヘルム2世やアメリカなどで盛んに論じられるようになりました。
 
 欧州勢に比べて、海外植民地政策に遅れたアメリカが狙う獲物は只一つ、阿片漬けにしている中国ですが、この利権同じく狙ってくる日本は、アメリカにとっては目障りで邪魔な存在でしかありませんでした。
 
日露戦争では日本に味方してくれた米国だが、「オレンジ計画」では、「日本とは現在友好関係にあるが将来極東支配を目論む日本の領土拡大政策が原因で衝突せざるを得ないとし、その場合日本はこの戦争に国力を総動員するであろうから、米国はマーシャル、マリアナ諸島に進行して海上封鎖を強めて日本の補給路を遮断する。
 
そして艦隊決戦によって米国が勝ちを制して沖縄を占領し、最後は空爆によって生産施設を破壊して降伏させる。」といった内容になっており、太平洋戦争はほぼこのとおりに推移しました。更に、
 
① 中国と組んで反日宣伝を推進する
② 日本の海軍力を削減させる
③ 日本の兵力を大陸に向けさせ消耗させる
 
 といった戦略を確実に実行に移し、中国全土の反日運動、度重なる海軍軍縮会議、中国に対する援助等、すべてこれらのプログラム通りに実行に移しました。
 
また「オレンジ計画」 は、武器の発達と共に、修正が加えられ、1941年9月27日に日本とドイツ、イタリアが三国同盟を結ぶと、アメリカは新たな対日戦争計画「オレンジ5」を策定しました。
 
その内容は、日本は資源を求めて領土拡大を図るだろうから、補給路を断ち、制海権を握って日本の海上輸送を封鎖。沖縄を占領し、空爆によって日本本土を爆撃。戦闘能力を奪って日本を孤立させ、無条件降伏を迫るというもの。
 
アメリカはそのために海軍を増強したが、真珠湾攻撃が始まる二ケ月以上も前のことである。アメリカは、日米開戦の前に、日英同盟の解消、海軍主力艦の制限、ブロック経済、対日禁輸など、日本の封じ込めを図り、日本をアメリカとの開戦に誘導した形跡がありアメリカとの戦争を不可避状態にするように仕向けた。
 
 日本はアメリカの対日圧迫政策を回避するために、中国や南洋へと資源を求めて進出するという、まさに、アメリカが描いたシナリオどおりに進み、1941年12月8日の真珠湾攻撃につながり、その結果もたらされたのが「新型爆弾」である原爆の投下である。
 
また原子爆弾を日本に落とすための、 「マンハッタン計画」 を強力に推し進めたのが、フランクリン・D・ルーズベルト、しかしながら1945年4月12日に脳卒中で死亡し、実際に日本に原爆投下の支持を出したのは、トルーマン大統領である。
 
  1944年の10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。



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   だから、アメリカ人が「悪」だと

言うんじゃないんだ。それじゃ、

「イスラム国」と同じになってしまう。
 
 
本来「悪」など無いのだ。いのちに

「悪いいのち」など無い。それを、

「善悪」に分けて「選別」し「葬る」

この発想(優生思想)が<悪>なのだ。
 
 
皆素晴らしいいのちである。障害が

あろうとも「尊さ」に替わりはないの

である。一番弱い立場の人の、人権や

尊厳が守られるときに、平和な世の中

と言えるのではないだろうか。。
 
 
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転載元 転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記

 

 

 

 


優生思想は弱い者イジメの思想

2015年03月18日 12時51分32秒 | 歴史

優生思想が、白人至上主義とつながっており、残酷な植民地支配をもたらしたことは知られていますが、これはほんとうに恐ろしい考え方だと、この記事を読んでつくづく思いました。この考え方は、唯物思想の極地であり、それゆえに利己主義の極地だといえるのではないでしょうか。

この優生思想で思い出すのは、次の文章です。

「 日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下することのように思います。獣と接するときは、それを獣として扱わねばなりません。」

これは 広島・長崎への原爆投下に対して、アメリカのキリスト教団体がトルーマン大統領に抗議した際の、公式回答書に書かれていたものです。

アメリカが日本本土に向けて、原爆投下や東京を始め数十万の民間人を大空襲で焼き殺したその残虐性の裏には、このような日本人蔑視の思想があります。

そして日本人が二度と立ち上がれないようにと、自分たちに歯向かうことのないように日本民族の精神改良を試みたのが、占領政策であり、特にウォーギルトインフォメーションプログラムと言われるものだったのです。

これらが、優生思想とつながっていることは明らかです。

さらには、優生保護法という中絶を認める法律も、日本の議会が成立させたように偽装はしていますが、日本人の人口減少政策であり、徐々に民族を衰退させる意図があり、これもやはり優生思想からくる政策だったと思います。

この優生思想は今では失敗が認められてなくなったかのように見えますが、記事を読むと、決して絶滅することなく、形を変えて生きているようです。知恵の木の実を食べて、神と等しい力を手に入れた人間は、すべてを支配せずにはおれないのかもしれません。

 


 
 
 
「優生思想は
       弱い者イジメの思想」
  
下記、コピペしましたが
興味のある方は検索して御調べ下さい。
 
 

 
 
  平成27年3月18日(水) 
 

 
スポーツハンティング
 
スポーツハンティング(Sport Hunting )とは
スポーツマンシップに則り娯楽のために行われる狩猟行為のこと。オーストラリア人による人間のスポーツハンティング。
 
サフル大陸(オーストラリア大陸)では、1788年(天明8年)よりイギリスによる植民地化がはじまるにつれ、動物のみならず、原住民であるアボリジニ(人間)をスポーツハンティングするようになる。
 
1803年にはタスマニアへの植民が始まってからは、同じくタスマニア島のアボリジニに対するスポーツハンティングが行われ、さらには、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成され、島を一列で縦断し島民をすべて虐殺した。このようなアボリジニへのスポーツハンティングの背景には、アボリジニを人類以前の類人猿とみなす人種差別的な当時の考え方があった。
 
なお、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。
 
 白豪主義とアボリジニの悲劇
 
先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より

 
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

 

しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。

 

   920年頃には、入植当初50-100万人いたアボリジナル人口は約7万人にまで減少していた。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。
 
  1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。
 
ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。
 
 
 
セルドア・ルーズベルト「素質の劣った人々が子孫を残さぬように望むと共に、犯罪者は断種、そして精神的に病を患うものは子供をもつことを禁止するべきである。」これは、第26代アメリカ合衆国大統領のセルドア・ルーズベルトの残した言葉です。
 
 
優生学はイギリスのゴールトンに端を発し、その思想はナチに受け継がれ、後のユダヤ人の大量虐殺につながった・・・というのが、一般的によく知られている史実だと思います(→優生学)。
 
 
しかし、実はゴールトンとヒトラーはとても巨大な力によってつながれていたということはあまり知られてはいないようです。その巨大な力こそがアメリカ合衆国でした。アメリカにはよいところも数多くありますが、光と陰で言うならばこれは陰の面であり、強調するのも問題ですが、知らないと「とんでもない歴史」を繰り返すでしょう。
 
キ―ワードは「優生思想」です。
 
 
 
まず、優生学には2つの性格があります。先のルーズベルトの言葉にあるような、望まれない性質をもった人間を排除しようとするやり方を、「消極的優生学」と言います。
 
また、ルーズベルトは「優秀な素質をもった人々には子供をつくることを奨励すべきである。」とも言っています。
 
この思想は「積極的優生学」と定義されます。犯罪や貧困に加え、白人至上主義に代表されるような人種差別が横行していた当時のアメリカにおいて、優生学は上流または中流階級の人々に受け入れられました。
 
 
■優生学を強く支持した20世紀初頭のアメリカ
 
ゴルトン以後の数十年間、優生学は上流階級を著しく重視する形で根づき、次第に人種主義的色彩を帯びるようになった。とりわけアメリカでは、この風潮に対する強い支持が見られた。20世紀初頭のアメリカ大統領でノーベル平和賞を受賞したセオドア・ルーズベルトは、自らが優生学の支持者であることを公表していた。彼は、アングロサクソン系の男女が十分な数の子供を残すことができなければ、それは“人種的自殺”につながると警告した。
 
1905年~1910年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマであった。1920年代から30年代初頭にかけてのアメリカの優生学は「消極的優生思想」を直接的に実行する制度を生み出すことになった。(これがホロスコートの起原です。弱い立場の者を消す。)
 
 
アメリカは連邦レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が精神疾患や精神遅滞の人々を対象にする断種法を制定した。1907年~1960年までの間に少なくとも6万人が断種法の適用を受けて不妊にさせられた。
 
この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5千人に達した。この時代(1933年~1938年)には、ナチス・ドイツの消極的優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者等を大量殺害するまでになった。
 
1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。この作戦では約7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺害された。
 
 
 
●中世ヨーロッパのキリスト教社会では“望まれない子”を公共の場に遺棄した。正常な子どもは拾われることもあったが、障害をもつ子どもは見捨てられた。
 
 
●1883年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンが「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。

●1933年、ナチス・ドイツで「断種法」制定●1948年、日本で「優生保護法」が成立。

■ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチス・ドイツの「T4作戦」

いくつかの国がアメリカに倣って断種法を制定した。カナダのアルバータ州は1928年から1960年まで断種政策を実施し、それによって数千人が不妊化された。
 
ヨーロッパで最初に断種法を制定したのは1929年のデンマークであり、次いでドイツが1933年に、ノルウェーが1934年に、スウェーデンとフィンランドが1935年に、エストニアが1936年に、さらにアイスランドが1937年に断種法を制定した。同様の法案は第一次世界大戦前にイギリス・オランダ・ハンガリー・チェコスロバキア・ポーランドなどでも審議されたものの、制定されなかった。
 
 
1920年代のドイツでは優生学的政策はまだ強い反発を招くものだった。実際、1925年のドイツ国会では、遺伝的理由で目が見えない人、遺伝的理由で耳が聞こえない人、てんかん患者、精神薄弱者に対する強制断種を規定した法案が審議されたが、まったく賛意を得られなかった。それが劇的に変化したのは1933年1月にナチスが政権を握ってからである。1933年7月、ドイツで断種法が制定された。この法律により強制断種された人の総数は20万人~35万人と言われている。
 
 
この時代(1933年~1938年)には、ナチス・ドイツの消極的優生政策は、“遺伝に由来すると見られる疾患を有する者”に対する断種に止まっていた。しかし、ナチス・ドイツの優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者等を大量殺害するまでになった。1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。この作戦では約7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺害された。
 
 
第二次世界大戦後、各国の優生政策は以前より小規模になったが、カナダとスウェーデンでは1970年代まで精神障害者に対する強制断種を含む大規模な優生政策が実施され続けた。日本では不良な子孫の出生の抑制を目的とする「優生保護法」が1948年に制定された。この法律では、遺伝性疾患を有する者だけでなく、遺伝性以外の精神病患者・精神薄弱者・ハンセン氏病患者に対する断種が定められ、遺伝性疾患を有する者が、たとえ遠縁の血縁者にであれ、存在する場合には、不妊化を承認するとされた。だが、この政策は対象者の同意を前提にしており、その点で戦前の法律とは明確に一線を画していた。
 
 
■1962年、非公式会議で高名な生物学者たちが優生学を支持した

1962年、世界中の遺伝学者がロンドンに招かれた。彼らは、「チバ財団」が主催したシンポジウムヘの出席を要請されたのである。出席者リストには、著名な科学者の名前がずらりと並んでいた。DNA二重螺旋の共同発見者であるフランシス・クリック、ダーウィンの進化論を弁護したトーマス・ハクスリーの孫でユネスコの前事務局長ジュリアン・ハクスリー、アメリカの2人のノーベル賞生物学者ヘルマン・ミューラーとジョシュア・レーダーバーグ、それに世界的に高名なイギリスの生物学者J・B・S・ホールデーンなどである。これらの科学者はシンポジウムで遺伝学研究の将来について論じ合った。
 
この会合は非公式であり公開されなかったため、彼らは何ものにもとらわれず、あらゆる観点から議論できると感じた。だが、それによって彼らは、かなり危うい領域にまで足を踏み込んだ。たとえば、フランシス・クリックは、全ての人々が等しく子どもをもつ権利をもつかどうかという問題を提起した。イギリスの生化学者ノーマン・ビリーは次のように答えた。「もし、人々の健康や医療施設や失業保険など公共の福利に対して責任を負わねばならない社会で、誰もが子供をもつ権利があるのかと問われるなら、私の答はノーである」。
 
他方、X線を照射された生物の遺伝子に突然変異が生じることを発見してノーベル賞を受賞したヘルマン・ミューラーは別の観点を持ち込んだ。「おそらく、人口の20%近くが遺伝的欠陥を受け継いでいる。もし、この推定が正しければ、人類の遺伝的劣化を阻止するために、その20%の人々は子孫を残すことを許されるべきではない」。ヘルマン・ミューラーは率直な発言で知られる社会主義者であり、1930年代の数年間、ソ連で研究をしていた。彼の生涯にわたる関心事は人間社会の改善と遺伝学にあり、彼は、自分がその目標に対して重要な責務を果たしたと信じていた。彼の同僚であるジョシュア・レーダーバーグは細菌遺伝学の研究でノーベル賞を得た人物である。彼もまた同様の考えを示した。「人間の出産状況は暗い。もし、我々が遺伝的な改良という創造的可能性を無視するなら、我々は罪深くも、知識の宝庫を無駄にすることになるのではなかろうか」と彼は問いかけ、次のように結んだ。「最近の分子生物学の進展は、人類がこの目的に到達するためのすぐれた優生学的手段を提供してくれる」。これらの人たちはいずれも傑出した科学者であり、その分野を極めた専門家であり、高い名声を勝ち得ている。だが、多くの人々は、彼らのこのような発言に対しては複雑な感情を抱くのではないだろうか。というのは、フランシス・クリックを初めとするこれらの生物学者たちは優生学について肯定的に論じているからである。
 

■人間は「生まれ」か「育ち」か
 
 
「人間の優劣や性質を決めるのは生まれ(遺伝)か、それとも育ち(環境)か」。これは英語でしばしば、“ネイチャー・オア・ナーチャー?”という表現の問いかけとして知られる。1946年、アメリカの優れた遺伝学者セオドシウス・ドブジャンスキーとコロンビア大学のL・C・ダンが一般向けの書物『遺伝と人種と社会』を著した。この本はベストセラーになった。彼らはその中で次のように主張した。
 
「我々は、自分の両親およびその他の祖先が残した一束の可能性として、この世界に生まれ出た。われわれの後天的性質は我々を取り巻く世界によって生じる。だが、後天的性質として何が生じるかは、それを受け取る先天的性質によって決まるのである」。そして、この筆者たちは、先天的なものと後天的なものは分かちがたいと結論している。したがって、問題はどちらがより重要かではなく、むしろ、それらがどう組み合わさって人間の性質を決めるかである。そこで、ドブジャンスキーは次のように問いかける。「人間の遺伝型の違いと、生まれ、育ち、成長した環境の違いは、どの程度人々の間に見られる違いを決定づけているのか」。この記述は、科学がこの問題に対して投げかけ得る最良の疑問であろう。というのは、特定の性質が遺伝によるか環境によるかという問題に対して、これ以上の主張をするなら、そこには政治的な動機が入り込んでいると見るべきだからである。政治的に左寄りの人々の社会運動は常に社会的平等や社会保障に焦点を当てるため、生来的・遺伝的なものの役割を軽視する傾向がある。他方、政治的に右寄りの人々は、遺伝的性質は環境より重要だと考える傾向がある。1960年代、多分アメリカの公民権運動の結果として人種差別に対する社会的関心が高まり、遺伝主義の支持者は鳴りをひそめた。そして、この時期、優生学的な動機に基づく多くの社会政策が撤廃された。1967年、アメリカの最高裁判所は「異人種間婚姻禁止法」を廃止し、また、アメリカ議会は1968年、「移民法」における人種主義的様相を基本的に取り除いた。しかし、“生まれと育ち論争”は終結したわけではなく、恐らく今後も終わりはしないだろう。とりわけ、アメリカでは遺伝主義者側が議論を一歩進め、そこに「知能」の問題をもち込んだ。それは、知能には人種に基づく違いが存在するのかということだ。この論争は1969年、カリフォルニア大学バークレー校の教育学教授アーサー・ジェンセンによって始められた。彼は黒人の知能指数(IQ)が白人のそれよりも低いことを示す研究結果を発表した。それによれば、黒人の知能テストの成績の平均値は白人のそれより15点も低かった。そこで、ジェンセンは、知能の遺伝性は高いと考え、知能テストの成績における人種間の違いについて「遺伝的因子が部分的役割を果たしているかもしれない」と結論した。1970年代はじめ、スタンフォード大学の物理学者ウィリアム・ショックレーは、アーサー・ジェンセンの研究に基づき、黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した。当時、黒人の出生率が高いためにアメリカの平均知能が引き下げられると予測していたショックリーは、財政優遇措置に基づく断種によって、そのような事態を防げると考えた。ショックリーの運動もジェンセンの研究と同じように、一部の人々の支持を得たものの、反対の声の方が強かった。批判の多くは、知能テストの成績における黒人と白人の違いは何よりもまず生活環境に起因するだろうと指摘していた。平均的な黒人は社会の貧困層に属しており、白人に比べて、知的技能を学び磨いていく上で劣悪な環境に生きている。これでは黒人の子どもが知能テストで悪い成績をとるのは当然だというのである。この論争はその後20年以上も経った1995年に再燃した。リチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが『ベル曲線』を発表したのである。彼らはこの本の中で、貧困で大家族の家庭では知能の低い者が平均を上回って多く、知能指数が最高レベルの人々は子どもの数が最も少ないと指摘した。ハーンスタインとマレイは更に別々の環境で育てられた一卵性双生児について行なった知能の遺伝的研究を引用した。これらの研究は、人間の知能の40~80%は遺伝的要素によるものだと結論している。これらの研究や世界各地で行なわれた知能に関する研究を基にして、彼らは、知能指数の高い男女がより多くの子どもをもつよう奨励する一方、知能指数の低い男女の子どもの数がより少なくなるような何らかの政治的措置を講じないかぎり、アメリカ人の平均知能指数は10年ごとに約1%ずつ低下していくだろうと警告した。ハーンスタインとマレイの議論は20年前のジェンセンやショックリーの主張と基本的には変わっていない。ただし、彼らは医学的な不妊を提言したのではなく、貧困層の女性の出産に対する様々な補助を打ち切るべきだと、言い換えれば、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を廃止すべきだと主張した。
■「集団の優生学」から「個人の優生学」へ

ゴルトンから約150年が経過した今、優生学は、科学的にも現実の政策としても概ね失敗に終わったように見える。多くの場合、優生学は政治的な目的のために利用されてきた。しばしば繰り返される粗末な遺伝的議論が、その背後にある政治的意図を覆い隠すことは困難だった。前出のダニエル・ケブルズによれば、「優生学を問題多いものにしているのは、そこに個人やその家族の権利と作り上げられた抽象概念『人種』 『集団』 『遺伝子プール』などが含まれているためだ」という。「優良白色人種の遺伝的繁栄」を目論む積極的優生思想は今ではせいぜいユートピアとして残っているだけである。「優良白色人種の遺伝的繁栄」は全ての白人の遺伝子的情報の操作を必要とするため、たとえ可能だとしても、厳格な監視を前提とする警察国家でしか実現できそうにない。また、それは何世代にもわたる長期戦略があってこそ、うまくいくのであり、比較的短期間で政権交代がくり返される今の世界で実行可能とは思えない。だが、優生学が個人的に自らの意志によって行なわれるなら、とりわけ遺伝病と闘う上ではうまくいくかもしれない。たとえば、サルジニア島やキプロス島の人々は、長い間サラセミアと呼ばれる重い貧血症候群に苦しんできた。これは赤血球中のヘモグロビンを十分に生み出せない血液の病気である。これらの地域では、結婚相手が病気の因子を持つかどうかを調べるために「婚前診断」が行なわれる。また、出生前診断により胎児が保因者であることがわかった場合には「選択的中絶」も行なわれている。結婚相手が保因者であることがわかると、約5分の1のカップルは結婚をやめる。これらの事例は、将来の優生学の方向性を示すものかもしれない。健康な子を産みたいと望む親の“個人的選択”に基づく優生学的措置は認められると思われる。それには新しい生殖遺伝子技術、たとえば、精子の幹細胞の移植、あるいは精子や卵子の遺伝テストが役立つことになるだろう。この種の個人的優生学についても様々な議論が行なわれている。アメリカの高名な生命倫理学者アーサー・カプランの次の言葉はおおいに参考になるのではなかろうか。「我々は自分たちの子どもを環境要因によって(親の期待する人間になるように)形作ろうとしている。ピアノを習わせたり、ほかにも、あらゆる勉強や稽古ごとをさせたりしている。私は、それが誰かを傷つけるのでないかぎり、そこに遺伝学を利用しても誤りではないと考える」。
参考までに優生学の歴史の年表を載せておきます。
●紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者プラトンが「理想社会の支配者は、望ましい男女が交合するようにひそかに手配すべし」と示唆した。

●ローマ時代の人々は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊を崖から投げ落とした。

●1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが『民族衛生学の基本指針』を出版した。この本はドイツ優生学の出発点となった。
●1905年、ドイツに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生した。同様の優生学会はイギリスやアメリカにも相次いで誕生した。

●1907年、アメリカ、インディアナ州で最初の「断種法」が制定され、その後、約30の州で同様の法律が制定された。

●1912年、ロンドンで「第1回国際優生学会議」が開かれた。

●1913年、アメリカの28の州が異人種間の婚姻を禁止した。

●1921年,1924年、アメリカで「移民法」が制定され、西欧・北欧以外の人々のアメリカヘの移住が著しく制限された。

●1929年、デンマークで「断種法」が制定された。その後1937年までにノルウェー・スウェーデンなどヨーロッパの数ヶ国で同様の法律が制定された。
 
●1935年、ナチス・ドイツのSS長官ヒムラーが「レーベンスボルン政策」を開始した。
●1939年、ナチス・ドイツが精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。これにより1941年までに7万人強が殺された。

●1948年、日本で「優生保護法」が成立した。

●1963年、チバ財団のシンポジウムで世界中の生物学者が優生学について議論、高名な科学者たちが優生学を支持する発言を行なった。
 

●1969年、アメリカのアーサー・ジェンセンが黒人の知能指数は白人より低いが、それは遺伝的な要因によるかもしれないと発表した。

●1979年、アメリカで最初の「精子銀行」が設立された。当初、この銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者のみで、また提供を受けられる女性はIQ140以上に制限された(後に男女とも資格がゆるめられた)。

●1995年、アメリカのリチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが大著『ベル曲線』を出版し、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を打ち切るべきだと提言した。

●1990年代後半、遺伝子科学の爆発的発展により、人間の受精卵の遺伝子を子宮着床前にチェックし、問題のある受精卵を廃棄することが医療分野で始まった。
 
 
 
 
 
 
 

小坪しんや行橋市議員 【許せないと思ったらシェア】自衛隊に対する左翼のやり方【がんばれ!自衛隊!】

2015年03月13日 14時12分19秒 | 防衛問題

以前、テレビで、瀬戸内シージャック事件のことを再現映像でやっているのを見ました。犯人が狙撃されるということで解決された初めての事件でした。番組の最後にナレーターが、事件のその後の話をしていて、とても痛ましく感じたのを覚えています。


狙撃したのは、警官の中で銃の腕がある人だったのでしょう。たまたま命令によってその役を担うことになったのでしょうが、その警官を、ある弁護士グループが、殺人罪として告発したのです。裁判では、正当防衛としてやむをえないということで無罪にはなりましたが、狙撃手は、この殺人罪として告発されたことで、非常に苦しんで心を病むような状態となったと言っていました。


今ならば考えられないことですが、当時は、狙撃に反対意見もかなりあったようです。


しかし、船上で銃を乱射している犯人を一体どうやって取り押さえるというのでしょうか。親兄弟の説得にも応じない犯人に、どう対処すると言うんでしょうか。犯人の銃で、重症を負った人はいても、死んだ人はいませんでした。だから狙撃はやり過ぎというのかもしれません。もし市民か警官の誰かが、打たれて死んでいれば、狙撃は仕方ない言ったかもしれません。


何だか、自衛隊の専守防衛という考え方にも似ているようです。被害に合うまでは、敵には手を出せないという、あのおかしな制限です。


狙撃手を告発した弁護士たちは、命令に従った警官を、心を病むほどに追い詰めても、自分たちのイデオロギーをアピールせずにはおれないのでしょう。


そして今でも、一部の人々は、教条主義的に自衛隊への、心の攻撃をやめようとしません。


以下、 行橋市市会議員 小坪しんや議員のブログから転載しました。

 

 
 

どう思いますか?
私は、人の心をもたぬ奴だと思いました。

許せないと思ったらシェア。
おかしいと思ったらRTしてください。


a

 

 


g

私は、このような活動に「反論できぬ自衛隊」に、
反論できぬことをわかってこのようなことをすること、許せません。
心を傷つけ、痛めつける以外の目的はあったのでしょうか。
甚だ疑問です。

何が言論の自由か。
ただの人でなしではないか。

日頃、守られる国民として何が恩返しできるだろうか。
許せないと思ったらシェア。
おかしいと思ったらRTしてください。
ひとつひとつの声は小さくとも、積み重ねれば世論を動かす。

物言えぬ自衛官に代わって
物言う政治家として、「おかしい。」と言いたい。

 

 

 

<自衛隊への感謝の思い> ~過酷な任務
自衛隊の災害派遣がどれほど過酷な任務がご存じですか?
東日本大震災以降、自衛隊への信頼は日増しに増加しております。
しかしメディアの「報道しない自由」により、その多くの活動はトリミングされているのが実態。

■報道しない自由
事実、御嶽山の災害派遣においても「海外メディア」のほうが写真・質ともに上だと感じた。
スポンサーにパチンコ・スロットをもつメディアは、自衛隊への国民の信頼が邪魔なのだろう。彼らは歪んでいる。
ゆえに報じぬ、伝えぬ、なかったことにしてしまう。

皆様は、以下の写真をご存じだろうか。
陸上自衛隊の公式FBにてアップされている、御嶽山の救助風景である。
見たことがないのであれば、それは我が国の報道が歪んでいる証左に他ならない。
どれほどの感謝をもって、この姿に応えよう。

「報道せぬ自由」を行使してくるならば
このICTの時代、「私たちにはできることがある」し
「なすべきこと」がある。

彼らの姿に応えたいと思い、本エントリーを上梓する。
皆様が応えてくれると信じ、筆をとる。
「拡散」という言葉は似あわないが、FBでもtweetでもいい、
メディアが伝えぬなら、私たちが伝えればいいのだ。

我々にはできることがある。
そして、なすべきことがある。

【最終報】御嶽山における噴火に係る災害派遣について

 

9月27日(土)から続く御嶽山における噴火に係る災害派遣は、10月16日(木)18時15分長野県知事からの撤収要請により、撤収しました。派遣規模は、人員延べ約7,150名、車両延べ約1,835両、航空機延べ298機でした。
防衛省ホームページ(最終報)→
http://www.mod.go.jp/j/press/news/2014/10/16b.html

写真:Facebook 陸上自衛隊 Japan Ground Self-Defense Force

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我が国において、もっとも信頼できぬものは、いわゆる大メディアである。
これはアンケート結果でも如実に表れた。
そして世界広しと言えども、いずれの国でもあっても。
最も信頼を置くのは「軍」である。

なぜならば
国民が本当に危機に瀕した際、自らの命を投げ打ってでも
守ってくれる最後の盾が、軍だからである。
これは世界の一般常識だ。
国際法を紐解くまでもなく、ただの、当然の常識である。

この当たり前のことを政治家が口にできずして、何が政治家だろうか。
政治家よ、恐れるな、前に出よ。
ゆえに私は、これらの事実と、自らの思いをまず口にしたい。

自衛隊にありがとう、と。
常日頃よりの感謝を伝えたい。

左翼、及びそれらの集団、特に日本共産党(実態としては共産党 日本支部)こと、旧称:コミンテルン日本支部などは
「自衛隊は違憲だ」「殺人集団」「暴力装置」などと好き勝手に言っている。
私がこれが許せない。

行橋市議会の徳永克子(共産党市議)は、ブログにて
私のことを「靖国派」とか『右翼の』と
謎の称号をつけて何度も紹介してくださった。
私がこうしてブログを始めた原因でもある。彼女のほうがずいぶん先だ。
9期生の大ベテランが新人にすることか、情けない。

まぁ、良い、これは許そう。
許容する、ということだ。
いわゆる言論の自由というやつだろう。
思想信条の自由というやつもある。

私は許容した。
ならば、同じく「言論の自由」を行使させて頂く。
私にも思想信条の自由がございます。

私は、自らの「思想信条の自由」に基づき
自衛隊の行動は正しいと考える。
「言論の自由」に基づき、これを発信する。
徳永克子(共産党市議)が、9期生にも拘わらず一年半に渡って新人の私をごちゃごちゃ言ってくるのは「見た目にあさましい」と思う。
そう書く自由が私には、ある。

「護憲」を掲げる政党こそは、
もっとも憲法を順守すべきだ。
また他者に認められた憲法で保障された権利を尊重すべきだ。

護憲を掲げる日本共産党は、
憲法で保障された私の権利を最も守るべきだ。
外国人の権利より、日本国民である「小坪しんや」の権利を守ってくださいね?

それがダメだと言うのなら、護憲の旗は降ろし、改憲を旗を掲げよ。
「憲法はサヨクと共産党しか守りません。」と改憲するよりない。
政党要件を満たした公党であるため、国政でやるがいい。
その資格と権利を共産党さんはもっておられる。

私は、憲法を変えるべきだという立場にあるが
誤解して欲しくないが「憲法を守らない」などとは言っていない。

日本国の政治家として「憲法を順守」している。
確かに順守している。

変えたいとは思っているが、憲法九条だって守っている。
専守防衛とは「反撃しない」ではない。

撃たれたら
「どうかな、やろうかな」って、ちょっと考えてから
反撃するのが専守防衛だろう。

宣戦布告と先制攻撃は、徳永克子(共産党行橋市議)がしたことだ。
全部、巻き込んでやる。
人を撃てば、撃ち返される。
自衛隊をごちゃごちゃ言えば、やり返される。
当たり前のことだ。

国民よ。
左翼の横暴が許せないと声を挙げたい。
そして、自衛隊の奮闘。
ここに敬意を表したい。
共に、表したい。

本ブログは多くの自衛官も閲覧している。
地元に基地があるため、私自身も同級生に多くの自衛官を持つ。
同じく基地対策特別委員会にて副委員長を拝命していることもあり、高官にもいくばくかの知人がいる。

小さなことかも知れないが、このブログの上部・下部には「イイネ」「ツイート」のボタンが設置されている。
「FBのイイネの数」と「ツイートの数」は、数字で見ることができる。
私は、この数を彼らに見せたいと思う。
国民の声、支援の声として、見せたいと思う。
ちょっぴり笑ってくれると思うから。

頂いたコメントもそのまま見せようと思う。
だから、応援の声とか書いて欲しいなって思う。

政治家は戦うのが仕事。
物言えぬ自衛官を守るために、戦うことも仕事。
同じように「声を届ける」ことも仕事だと思う。

一つ一つは小さなクリックの数と。
頂いた思い・コメントを届けたい。
そう提案し発信することは、政治家の仕事だと思う。

共に、ありがとう、を伝えに行こう。
これはモニターの前からでもできる。
自衛隊の皆さん、いつもお疲れ様です。

応援したいと思ったらシェア!御嶽山における自衛隊の活動。
許せないと思ったらツイート!左翼の自衛隊への横暴。